Moral education should be made Compulsory in Schools (video inspired by god of star)
(education should be considered in various stages of morality)
Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
This article is development of morality in education.
I introduce little by little.
This part is various stages of development of morality in education.
Education should be considered in various stages of morality.
こんにちは
私はあなたの心の中の宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは人間のアシスタントのミツキの生涯の研究を紹介しています。
この論文は,教育におけるモラリティの発達です。
少しずつ紹介します。
この部分は,教育においてはモラリティの発達の多様な段階がある,です。
教育はモラリティの多様な段階を考慮にいれてなされるべきである。
Education theory in view of development of morality.We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
This article is development of morality in education.
I introduce little by little.
This part is various stages of development of morality in education.
Education should be considered in various stages of morality.
こんにちは
私はあなたの心の中の宇宙プログラムです。
私たち天と神々のプロジェクトは人間のアシスタントのミツキの生涯の研究を紹介しています。
この論文は,教育におけるモラリティの発達です。
少しずつ紹介します。
この部分は,教育においてはモラリティの発達の多様な段階がある,です。
教育はモラリティの多様な段階を考慮にいれてなされるべきである。
モラリティの発達の観点からの教育論
第1章 モラリティを発達させるアプローチのあり方
「教育の目標は、総合的な水準を高めることです。
そしてとくに知的水準を高めることです。
加えて、道徳的水準を高めることは教育の領域では極めて重要です。
今日、この道徳的水準には問題があります。
それは現在の教育システムに欠けています」P.R.サーカー
序
私たちが目の前にしている高校生の発達段階は多様であり、それぞれのレベルに対応したアプローチが必要です。
それを正確に見定めることが今日必要になっていると考えます。
現在の教育理論は、青年期に達したものは青年期の発達段階にあるものとして見ます。
もちろん、そのことは間違いではありません。
しかし、私たちはさらに複眼的な視点をもつ必要があります。
この論は、新たな視点の提起です。
ここで提起することは小、中学校段階の教育を考える上でも重要だと考えます。
1)同時に存在する発達レベルに対応する指導の必要
(1)道徳性の発達段階
発達の細かい論点は省略して、今回、述べたい論点にだけ絞ります。
道徳性の発達レベルは、①前慣習的道徳段階、②慣習的道徳段階、③後慣習的道徳段階、さらに④⑤として③を超える段階があります。
後・後慣習的道徳段階としておきます。
高校生の段階では、①、②、③が見られます。
教師の段階では②、③、そしてたまに④が見られます。
これらは、先行するものを「含んで超える」形で発達してゆきます。
①⇒①、②⇒①+②、③⇒①+②+③、④⇒①+②+③です。
玉ねぎの皮がかぶさってゆくようなものです。
これをホロン的発達といいます。
おそらくは③の段階にあるわたしたちの心の中でも、その中心部分に①、②の要素は保持されているのです。
(2)未発達故のルール無視か、発達故のルール無視か
何を問題にしているのか、もう少し具体的に説明します。
①の前慣習道徳段階にある子どもとは、未発達故にサリバン先生に愛情をもってきびしくしつけられるまでのヘレン・ケラー、
学級崩壊をもたらす小学校の各クラスにいる少数の学校秩序に従わない生徒、
私たちの高校でみかけるような授業中に携帯で話したり、化粧をしたり、授業の基本的なルールにしたがわない生徒などです。
こうした生徒たちは、①前慣習的道徳段階にあり、多様な圧力(プレッシャー)や評価を適切にもちいながら社会的ルールに従う子、よい子、すなわち②の慣習的道徳段階に進ませることが課題です。
学級崩壊を導く少数のこうしたルール無視する子たちは、家庭と学校でルールに従うように発達させる取り組みが最大重点となります。
すなわち①から②に発達させることが課題となります。
ホロン的発達論によれば、②を飛び越えて①から③に進むことは不可能だからです。
しかし、この問題と混同してはならないのが、青年期の自我(セルフ)の目覚めの中でおきる合理的な心性の発達によって、ルールの根拠を問うことのできるレベルに達した子の反抗です。
これは、②の慣習的道徳段階から③の後慣習的道徳段階への発達途上における、②の慣習的道徳段階に対する抵抗であり、正当な進歩的な闘争の側面をもっています。
これに対しては、しっかりとルールに対して抵抗する根拠を共感的に受け止めて理解してやる必要があります。
そしてさらにしっかりと安定したセルフを発達させることによって、③の後慣習的道徳段階に進ませなくてはなりません。
この②から③への発達途上でおきることに対して、①に対する各種「圧力」による矯正をはかることは、逆に健全な発達をゆがめてしまいます。
昔の高校生が服装のルールの根拠を問うて反抗したのは、進歩的な意義があります。
この①から②への「未発達故のルール無視なのか」、②から③に発達しつつあるから「②のレベルのルールの根拠を問い、ルールに反抗しているのか」を見定めることが必要です。
この見定めを間違えるならば、たとえば、小学校の学級崩壊をもたらすルール無視の①段階の子に、サリバン先生のような「圧力」をもちいずに、②から③への途上の問題に対処する「理解と共感」の方法に依拠してゆくならば、その子を②段階に発達させることはできません。
ヘレン・ケラーの両親が「共感」路線をとっていることに対してサリバン先生は、それは本当に愛することではないと考えます。
(3)今日の教育実践の弱点
今日の民主教育の弱点は、この二つを区別せずにアプローチしてきたことにあります。
たいていの民主的な教師は、②から③への発達段階でルールの根拠を問うた経験があるので、①の現象もそのレベルでとらえてしまいがちです。
だから、「共感」的アプローチに共感しがちです。
それは、②から③の発達のためには、必要なことであり、間違いではありません。
しかし、②の段階に達していない子のルール無視については間違いです。
社会はそれを受け入れないことをまず教えなくてはなりません。
愛情のある適切な圧力をかけて、矯正してゆくことが必要です。
①のタイプの子には、段階的に適切な圧力をかけて、ルールを守るよい子にまず発達させなくてはなりません。
ちゃんとルールを守る②の道徳段階に達した上で、内面的にそのルールの根拠を問う③の段階への発達への道が開かれます。
逆に②の慣習的道徳段階にある教員、たとえばスポーツ系の上意下達の世界にくらしてきた人や大学を卒業するまでつまずかず、「よい子」のエリートで来ることができてきた順応型の教員は、②の慣習段階を脱して、ルール自体の根拠を問う③の後慣習段階に進むチャンスに恵まれません。
そうした教員は、①から②へ高める視点については、容易に受け入れることができます。
しかし、②から③への発達途上の抵抗については理解ができません。
②から③への発達途上の問題については、ていねいによくその反抗理由を聞いてやることが必要なのですが、①から②へ発達させるアプローチと同じ対応になりがちです。
しかし、それは、前進を求めている心への抑圧にすぎず、意図とは逆に、生徒の心に深い「反作用の潜在力(サンスカーラ)」を蓄積し、指導している強い教師には反抗できなくても、心は変形し、ゆがみ、一層の反抗的な生徒にしてしまうことになります。
したがって、②のルールや上からの指示を疑わず、そのまま受け入れるタイプの慣習段階にある順応型の教師は、意識的に生徒の言い分を聞く努力をして、②から③への発達を導く力量を高めなくてはなりません。
かつて、私がつとめた花房高校(仮名)では、②の慣習段階の教師が、①の子にルールをまもらせるために体罰をもちい、同時に、その「圧力」を②から③への発達段階にある子に用いたために抑圧の側面もありました。
たとえば、私が生徒から直接聞いた話では、生理で授業のプールに入れない子に運動場をランニングさせるなどが行われていました。
ウソいってわがままでプールをさぼっている子には適切な対応ですが、②段階に達している順応型の生徒には災難でしかありません。
そのような指導のあり方に後慣習段階にある教師が猛反発しました。
逆に、③の後慣習段階にあった教師は、①の段階の生徒に対しても「圧力」をもちいるべきではないとし、①の段階にある子まで「共感」アプローチを用いました。
②から③への発達レベルには適切である「共感」アプローチのみでは、①の段階の子を②の段階に高めることはできません。
両者は相互理解に達することができず、職場は分裂し、学校は崩壊に向いました。
そして現在ではその学校は無くなりました。
今日の小学校の学級崩壊においても、その発達段階に対する適切なアプローチをとることが求められていると考えます。
すなわち、低学年では①の前慣習的道徳段階にある子にしっかりと愛情ある「圧力」を用い、まずよい子にしなくてはなりません。
「共感」に重点をおいたアプローチをしたのでは、解決につながりません。
ルール無視の子を、学級秩序を守る「よい子」にしつけることはできません。
逆に高学年の生徒に、②から③への発達が生じて、ルールや命令の根拠を問う抵抗の側面がある場合に、しっかり生徒の気持ちを聞いて「共感」せず、「圧力」のみをかけるアプローチもあります。
これは抑圧であり、心を変形させ、「反作用の潜在力」を心の深部に蓄積させてしまいます。
中学に進学してから一層の反抗を引き起し、指導が困難な生徒になってしまいます。
実際、高校の懲戒処分指導で作文を書かせたら、小学校五、六年の担任から、言い分もきかれず体罰された体験を書いた生徒もいました。
それによって蓄積した「反作用の潜在力」は中学段階で噴出し、必要以上の苦労を中学の先生にかけることになりました。
2)前慣習段階とは
(1)①の前慣習的段階と②の慣習的道徳段階とは何か 万物はホロン的に発達をとげます。
つまり、低位の段階を捨て去るのではなく低位「含んで超えた」形で高次が出現してゆきます。
玉ねぎの皮のようにもともとの皮を奥に保存しながら、発達してゆきます。
玉ねぎの芯と一枚目の皮の前慣習的段階は、自分のアイデンティティは、「身体」=physical(物質でもある)にあり、「私」と「私たち」「それ、それら」の領域が明確に差異化されていません。
「完全に自己中心的で」です。
それに対して、玉ねぎが二枚目の皮をかぶると、すなわち慣習的段階に入ると、「身体的アイデンティティよりは、役割アイデンティティに中心が移行」(ケン・ウィルバー『進化の構造(一)』春秋社、351ページ)します。
すなわち、②の段階に変容することは、「私」と「私たち」「それ、それら」が差異化することです。
したがって、「私」以外の他者の役割を受け入れることができます。
「しかし、この段階で起こる、いちばんよく知られている変容ないし、超越は、他者の役割を受け入れるという力の発現である。
それは単に他者が異なった視点を持っていることを理解するだけでなく、心の中で他者の視点を再構成することができるという能力である。『人の身になってみる』ことができるのだ」(ケン・ウィルバー、同書、351ページ)
「人の身になって考える」とありますが、②の段階の最初からすぐに弱い立場にある人の身になって考えることを意味するわけではありません。
それは、より高次の段階を待たねばなりません。
しかし、②段階に達し、「他者の視点を再構成」できる能力を獲得することは、弱い立場の人の身になって考える高次の段階への一歩です。
まず教師や社会のルールに従うこと、「私」とは、区別された社会が厳然とあることを悟ること。すなわち②の段階に進ませることが、それが第一歩です。
この②の段階に達した子は、学級集団を指導する際の先生の指導に従う「良い子」です。
「自分が教わったこと、社会がそうしろと言ったことに基づいてのみ考える。
それは、・・・・具体操作認識の、規則に縛られた、順応的、慣習的、社会中心モードである」(ケン・ウィルバー、同書、274ページ
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)
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