12 Girls Band - Live at Budokan, Japan 2004 (Part 1) (video inspired by god of star)



(In documents of Heaven explanation of Mitsuki is useful for neo-humanism)

Dear
I am god salamnidam who downed neo-humanism to P.R. Sarkar.
This time I introduce article of Mitsuki which explained philosophical base of neo-humanism.
After this Mitsuki downed philosophy of documents of Heaven.
Expression of this article and documents of Heaven is difference.
Mitsuki thinks that this explanation of neo-humanism is not established.
In documents of Heaven explanation of Mitsuki is useful for neo-humanism.
This three types of thought is correct in documents of Heaven.
First type of explanation that god made physical world is wrong in documents of Heaven also.
Second type of explanation that material becomes life is wrong in documents of Heaven also.
Third type of explanation that from beginning matter includes consciousness is correct in documents of Heaven also.
Philosophical base of neo-humanism is same in philosophy of documents of Heaven.



こんにちは
私はP.R.サ-カ-にネオヒュ-マニズムをおろした神サラムニダムです。
今回は、ネオヒュ-マニズムの哲学的基礎を説明したミツキの論文を紹介します。
この後、ミツキは天の文書の哲学をおろしました。
この論文の表現と天の文書は異なります。
ミツキは、このネオヒュ-マニズムの説明は成り立たないと思っています。
天の文書においてもミツキの説明はネオヒュ-マニズムに有益です。
この三つの思考のタイプは、天の文書においても正確です。
第一の神が物的世界をつくったという説明は天の文書においても間違いです。
第二の物質が生命になるという説明も天の文書においても間違いです。
第三の最初から物質の中に意識が含まれているという説明が天の文書においても正解です。
ネオヒュ-マニズムの哲学的基礎は、天の文書の哲学においても同じです。


Philosophical base of neo-humanism
ネオ・ヒューマニズムの感覚を育てる哲学的根拠について
(人類の起源について、『進化説』に対し、『創造説』はどう思いますかという質問への答え)

[この全宇宙の存在についての三つの見方]

 私たちが生きているこの世界、全宇宙の存在をどうみるかによって、三つのタイプの考え方があると見ます。
その三つについて、まず、最初の二つから紹介します。

 一つは、人間を越えた、人間以外のところに創造者としての神の類の存在をみとめるものです。
これは宗教です。
二つ目は、創造者としての神の類の存在を認めない唯物論です。物質世界が発展して、生命が生まれ、人間の意識が生まれたというものです。
三つ目は後で説明します。

[人間とは別のところに神の類の存在を認めるもの・・宗教]

 一つ目の神による創造説についてです。
旧約聖書が言うように、神が五日目に動物をつくり、六日目に人間アダムをつくったというのを比喩(たとえ話)と解釈すれば、話は別ですが、私の考えでは、神が動物や人間を作ったという説は間違っていると思います。

 この話は、人間を越えた、人間以外のところに全能の神を設定しています。
科学的真理と合致せず、論理的にもなりたたず、頭から論理と根拠なしに、すなわち人間の知性を越えたところに、この信仰がなりたちます。
したがって、これを信じる人が宗教集団として大きくなった時、信者たちの間に、論理と根拠をもって判断するという批判精神が発達しません。
ですから、宗教指導者が、人々を容易に支配することができます。
世界史に出てくる中世キリスト教会は、聖職者が神を利用して人々を支配していました。
魔女とされた人が火あぶりにしされたようなことまでありました。
あるいは最近ではオウム真理教の悪行がありました。

 人々が批判精神を失ってしまうところに悲劇が生まれるのだと思います。
大事なことは論理的証明もしくは科学的根拠をもって信じることだと思います。
つまり、自らが信じるものが成り立つかどうかの論理や根拠を追求する知性を発達させることが大切と思います。
 そうした観点からみて、やはり、神がアダムを作ったという創造説は、間違っていると思います。

[地球の物質の化学反応の中から生命が生まれ、進化して人間が生まれた。・・唯物論]

 では、第二の考え方です。
この宇宙の地球という惑星の中で、地球の物質が化学反応の中で生命となり、発達して高度な意識をもった人間にまで進化してきた。
これは唯物論哲学です。
この唯物論的な見方は科学的な実証とも合致し、論理的でもあります。
人間の尊厳は、この宇宙で高度に発達したかけがえのない生命体であることに求められます。
この考え方が、現在世界で支配的な考え方で、普通の考え方だと思います。

 この考え方も人間の生命の尊さを説きます。
しかしながら、物質が発展したのが生命であり、人間であるという論理であり、究極的には物質ということになりますから、心と知性を持っているとはいえ、なぜ、人間や生命が尊いのかを論理的に完全に説明しきっていないのではないかと私は思います。

 たとえば、私が中学の時、カエルの解剖の授業がありました。
教科書にカエルの解剖をするように載っていたのです。
クロロホルムをかがせて、メスをいれると心臓がピクピク動いていました。
カエルの身体の仕組みを科学的に事実にもとづいて学ぶことができました。

 このような科学的な見方は大切ですが、そのカエルさんも、カエルにとってかけがえない自分の生命を生きており、この科学教育の中からカエルが「死にたくないよう、生きたいよう」と願っていることに共感をもった心を育てることはできません。
この唯物論的な見方は、人間の生命も限り無く尊く、カエルさんの生命も彼らにとっては限り無く尊いものだという認識に導くことができません。

 ここに唯物論の考え方の最大の弱点があります。
といっても唯物論を信じる人たちが生命を大切にしないと言っているのではありません。
私もつい最近まで唯物論者でした。
そして生命がかぎりなく大切なものであると感じていました。
私がここで論じていることは、唯物論の考えが、生命が限りなく大切なものだという人々の意識を不断に高める役割をするかという点です。

[宗教もあらゆる命の尊さの意識を不断に高める論理になっているわけではない]

 第一の宗教の考え方にもどりますが、宗教の考えでも同じことが言えます。
それが仮に愛を説いていたとしても、論理的には、いかなる生命もかけがえない大切なものであるという意識を高める構造にはなっていません。
神が動物や人間を作ったという論理になっていますが、神が作ったものだからと言って、生命の大切さを証明するものではありません。
いけにえと行って、生き物の生命を神にささげる宗教すらあります。

 すでに述べたように歴史の中で観察すると宗教の名前で歴史上もっとも多くの血が流されてきました。
最近のアフガニスタンへのアメリカの報復戦争でも、ブッシュ大統領が(キリスト教徒の)十字軍の発言をしたことは有名です。
したがって唯物論と科学があらゆる生命の尊さを不断に高めないからといって、宗教がそのような意識を唯物論よりも高めるというわけでもありません。

 したがって、これら二つの考え方を「含んで超え」、論理的であり、かつ科学的根拠とも合致し、なおかつ、いかなる生命も限りなく大切なものであるという意識を発達させるような考え方=哲学を生み出し、人類の中に広げることが、今後の人類社会の発展のための新たな課題になっていると思います。

[創造と進化についての第三の考え]

 さて、そこで、最初の「創造と進化」についてふれながら、第三の考え方を説明します。
それは、この宇宙の創造creationと生命進化evolutionの科学的根拠と合致する考え方です。
この大宇宙の創造と展開の一過程として生命進化があるという考えです。

 科学的な有力な説に教えるところによると、この大宇宙は150億年前のビッグ・バンという大爆発によって一点から無限の多様性をもった巨大な大宇宙にふくらみました。
この宇宙の創造過程は今も続いています。

 一つの大宇宙の心が無限の形となってこの全宇宙に展開しているわけです。
そして私たちが地球で見ているような物質の星が無数に宇宙にあらわれました。

 そしてその物質の展開の中から無数の生命が生まれ、そして高度な意識をもった人間の心が生まれました。

 この物質宇宙の根源に一つの心があった。
その心の材料が固まって多様な物質となって展開している。・・・
三つ目の考え方(哲学)とはこういう哲学です。

 この考え方は、物質の展開の中から、生命が生まれ、発達し、人間が登場したという点では、第二の唯物論の考えと共通であり、科学的根拠とも合致します。
そして大宇宙の根源を一つの心と仮定し、根源にある心の材料がエネルギーを得て物質として固まり、この大宇宙となり、展開していると考えます。
この一つの心を「神」と定義すれば、「神」を信じる点では第一の説とも共通します。

 第一の説との根本的な相違は、第一の説だと人間(自分)の外に全能の神が存在しているわけですが、この三つ目の説だと、自分自身が「神」の一部分であり、「神」が大宇宙として展開しているそのあらわれの一つが私自身なのです。

 全宇宙の一つの心(=神)が、展開して、あなたになり、私になり、あの猫になり、あの花になり、あの星になっているわけですから、この大宇宙として展開しているすべてが神聖なものという認識が生まれます。
人間の生命が尊く、動植物の生命が尊く、それら生命を生み出しているこの大地も尊く、「神」のあらわれとして、あの星もこの岩も存在するあらゆるものが神聖なのです。
私たちは「神」のあらわれとしての世界に住んでいます。

 さて、この三つ目の説なら、人類をあらゆる生命を尊重するという精神を絶えず高めることに導くことができます。進化論の科学的事実とも合致します。

 問題点は、物質に固まる以前の物質の原子よりももっと精妙なレベルの心の材料を設定し、そこに一つの大宇宙の心(神)を仮定していることです。
しかし、この仮定も論理的にはありうることです。

 デモクリトスは2000年前、物質を構成する基本単位として原子(アトム)を仮定しました。
それが2000年後に科学の発達で証明されました。
デモクリトスは、心の材料も、やはりいっそう小さな粒子(アトム)からなると述べました。
原子が2000年たって証明されたように、科学が発達し、さらに2000年後に心の材料である粒子が発見されないと誰も言うことができません。

 頭の神経細胞の中を電子という粒子レベルの大きさのものが行き交っているわけですから、もっとも小さな粒(渦)としての心の材料が発見される可能性が否定できません。
人間の神経細胞の中を行き交かって心を伝えている電子は、原子同士が組あわさって、この物質世界を構成している材料ですから、論理的に物質をもっとも小さく砕いてみるとき、それが心の材料であったということが発見されることはありえます。

 以上、私がインドのサーカーの説を少し簡略化して説明しました。
この哲学は、論理的であり、科学的根拠と合致し、かつすべての人間の生命はもちろんのこと、あらゆる生命を尊重する精神を不断に人類の中につちかうことのできる考え方ではないかと思っています。  


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