Om tare tuttare ture soha, BELLISIMO DE DEVA PREMAL (video inspired by god of star)



(Mitsuki pursued what philosophy leads to raise level of human being)

Dear
I am god salamnidam who downed neo-humanism to P.R. Sarkar.
Mitsuki wrote philosophical base of neo-humanism.
This is very important to understand neo-humanism.
Mitsuki thinks that there is wrong expression in this stage because of not knowing non-presence world.
For example stuff of mind is belong to non-presence world.
So stuff of mind is not found by scientific method.
As Mitsuki thinks that stuff of mind cannot be observed by scientific method.
But this discourse is very important as whole.
Mitsuki pursued what philosophy leads to raise level of human being.
This mind of pursuing is very important.


こんにちは
私はP.R.サ-カ-にネオ・ヒュ-マニズムをおろした神サラムニダムです。
ミツキはネオ・ヒュ-マニズムの哲学的に基礎を書きました。
これはネオ・ヒュ-マニズムを理解するためにたいへん重要です。
ミツキはこの段階では非顕在世界を知らなかったために間違った表現があると考えています。
たとえば、心の材料は非顕在世界に属しています。
だから心の材料は科学的な方法では見つかることはありません。
ミツキが考えるように非顕在世界は科学的な方法によっては観察できません。
しかし、この論文は、全体としてきわめて重要です。
ミツキはどんな哲学が人間のレベルを高めることに導くかを追求しました。
この探求の心はたいへん重要なのです。


Philosophical base of neo-humanism
ネオ・ヒューマニズムの感覚を育てる哲学的根拠について
(人類の起源について、『進化説』に対し、『創造説』はどう思いますかという質問への答え)

[この全宇宙の存在についての三つの見方]

 私たちが生きているこの世界、全宇宙の存在をどうみるかによって、三つのタイプの考え方があると見ます。
その三つについて、まず、最初の二つから紹介します。

 一つは、人間を越えた、人間以外のところに創造者としての神の類の存在をみとめるものです。
これは宗教です。
二つ目は、創造者としての神の類の存在を認めない唯物論です。物質世界が発展して、生命が生まれ、人間の意識が生まれたというものです。
三つ目は後で説明します。

[人間とは別のところに神の類の存在を認めるもの・・宗教]

 一つ目の神による創造説についてです。
旧約聖書が言うように、神が五日目に動物をつくり、六日目に人間アダムをつくったというのを比喩(たとえ話)と解釈すれば、話は別ですが、私の考えでは、神が動物や人間を作ったという説は間違っていると思います。

 この話は、人間を越えた、人間以外のところに全能の神を設定しています。
科学的真理と合致せず、論理的にもなりたたず、頭から論理と根拠なしに、すなわち人間の知性を越えたところに、この信仰がなりたちます。
したがって、これを信じる人が宗教集団として大きくなった時、信者たちの間に、論理と根拠をもって判断するという批判精神が発達しません。
ですから、宗教指導者が、人々を容易に支配することができます。
世界史に出てくる中世キリスト教会は、聖職者が神を利用して人々を支配していました。
魔女とされた人が火あぶりにしされたようなことまでありました。
あるいは最近ではオウム真理教の悪行がありました。

 人々が批判精神を失ってしまうところに悲劇が生まれるのだと思います。
大事なことは論理的証明もしくは科学的根拠をもって信じることだと思います。
つまり、自らが信じるものが成り立つかどうかの論理や根拠を追求する知性を発達させることが大切と思います。
 そうした観点からみて、やはり、神がアダムを作ったという創造説は、間違っていると思います。

[地球の物質の化学反応の中から生命が生まれ、進化して人間が生まれた。・・唯物論]

 では、第二の考え方です。
この宇宙の地球という惑星の中で、地球の物質が化学反応の中で生命となり、発達して高度な意識をもった人間にまで進化してきた。
これは唯物論哲学です。
この唯物論的な見方は科学的な実証とも合致し、論理的でもあります。
人間の尊厳は、この宇宙で高度に発達したかけがえのない生命体であることに求められます。
この考え方が、現在世界で支配的な考え方で、普通の考え方だと思います。

 この考え方も人間の生命の尊さを説きます。
しかしながら、物質が発展したのが生命であり、人間であるという論理であり、究極的には物質ということになりますから、心と知性を持っているとはいえ、なぜ、人間や生命が尊いのかを論理的に完全に説明しきっていないのではないかと私は思います。

 たとえば、私が中学の時、カエルの解剖の授業がありました。
教科書にカエルの解剖をするように載っていたのです。
クロロホルムをかがせて、メスをいれると心臓がピクピク動いていました。
カエルの身体の仕組みを科学的に事実にもとづいて学ぶことができました。

 このような科学的な見方は大切ですが、そのカエルさんも、カエルにとってかけがえない自分の生命を生きており、この科学教育の中からカエルが「死にたくないよう、生きたいよう」と願っていることに共感をもった心を育てることはできません。
この唯物論的な見方は、人間の生命も限り無く尊く、カエルさんの生命も彼らにとっては限り無く尊いものだという認識に導くことができません。

 ここに唯物論の考え方の最大の弱点があります。
といっても唯物論を信じる人たちが生命を大切にしないと言っているのではありません。
私もつい最近まで唯物論者でした。
そして生命がかぎりなく大切なものであると感じていました。
私がここで論じていることは、唯物論の考えが、生命が限りなく大切なものだという人々の意識を不断に高める役割をするかという点です。

[宗教もあらゆる命の尊さの意識を不断に高める論理になっているわけではない]

 第一の宗教の考え方にもどりますが、宗教の考えでも同じことが言えます。
それが仮に愛を説いていたとしても、論理的には、いかなる生命もかけがえない大切なものであるという意識を高める構造にはなっていません。
神が動物や人間を作ったという論理になっていますが、神が作ったものだからと言って、生命の大切さを証明するものではありません。
いけにえと行って、生き物の生命を神にささげる宗教すらあります。

 すでに述べたように歴史の中で観察すると宗教の名前で歴史上もっとも多くの血が流されてきました。
最近のアフガニスタンへのアメリカの報復戦争でも、ブッシュ大統領が(キリスト教徒の)十字軍の発言をしたことは有名です。
したがって唯物論と科学があらゆる生命の尊さを不断に高めないからといって、宗教がそのような意識を唯物論よりも高めるというわけでもありません。

 したがって、これら二つの考え方を「含んで超え」、論理的であり、かつ科学的根拠とも合致し、なおかつ、いかなる生命も限りなく大切なものであるという意識を発達させるような考え方=哲学を生み出し、人類の中に広げることが、今後の人類社会の発展のための新たな課題になっていると思います。




H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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