Gayatri Mantra bellisimo! (video inspired by god of star)



(When you learn and practice idea of neo-humanism, your spirituality rise)

Dear
I am god salamnidam who downed neo-humanism to P.R. Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of human assistant Mitsuki in whole life.
This time I introduce summarize of neo-humanism.
This summarize is excellent.
You can understand idea of neo-humanism by reading this summarize of Mitsuki.
We project of Heaven and gods share importance of this idea.
When you learn and practice idea of neo-humanism, your spirituality rise.
Without neo-humanism, you cannot raise your spirituality.


こんにちは
私はP.R. サ-カ-にネオヒュ-マニズムをおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトは、人間のアシスタントミツキの生涯の研究を紹介しています。
今回はネオヒュ-マニズムの要約を紹介します。
この要約はすぐれています
あなたはミツキのこの要約を読むことによってネオヒュ-マニズムの考えを理解できます。
私たち天と神々のプロジェクトは、この考えの重要性を共有しています。
あなたがネオヒュ-マニズムを学び、実行するとき、あなたのスピリチュアリティは高まります。
ネオヒュ-マニズムなしにあなたはスピリチュアリティを高めることはできません。


Neo-humanism and liberation of intellect
ネオ・ヒューマニズムと知性の解放

はじめに

 P.R.サーカーは、人間存在を三つの領域の重なるところにあるととらえます。
物的身体的領域Physical、知的心理的領域Psychic,Mental, Intellectua, l精神性Spiritualの領域の三つです。
言い換えれば、身体、心、スピリット(魂)の三つです。
 プラウト(Progressive Utilization Theory進歩的活用理論、進歩的社会主義)は、人類の社会的経済的解放の理論で、物的身体的領域を対象としていました。

 さらにサーカーは、知的心理的領域における解放理論としてネオ・ヒューマニズムと知性の解放を説き、スピリチュアリティの領域における解放の理論と実践を提起しています。

 「プラウトは、人類の社会的経済的解放の道です。
プラウトは、ネオ・ヒューマニズムの知的心理的アプローチと並んで進むべきです。
ネオ・ヒューマニスティックな考えは、人類に前進への刺激を与えます。・・・
物的身体的領域、知的心理的領域、精神性の領域の間にバランス、平衡と均衡がなくてはなりません。
プラウト、ネオ・ヒューマニズム、スピリチュアリティの実践の三つの間にもバランスがなくてはなりません。
これらの三つのバランスを維持しなくてはなりません。
プラウトは、社会・経済的アプローチです。
ネオ・ヒューマニズムは知的・心理的アプローチです。
スピリチュアリティの実践は、精神・直観的アプローチです。
この三重のアプローチが人類を解放への道に進ませるでしょう」(Prout and Neohumanism)

 私たちは、社会・経済のテーマのみを人間の解放として追求するグループ、心理的領域でのみ人間の解放を追求するグループ、スピリチュアリティの方向にのみ解放を追求するグループを見かけます。

 サーカーは、これら三層に平行したアプローチがなされるべきだと考えます。
いずれかに片寄ってはならず、社会・経済的なアプローチと知的・心理的アプローチとスピリチュアリティのアプローチの三つが並行して、バランスのとれた形ですすめられる時に本当に社会に貢献できるものになるのだと言っています。

個人のレベルにおいても、社会(集合体)のレベルにおいても、物的身体的領域、知的心理的領域、スピリチュアルな領域が存在します。

 サーカーは、この三層の関係をコマの回転にたとえます。
コマの芯が、スピリチュアリティです。
コマの肉の回転の外側の部分が物的身体的領域です。
食生活のアンバランスから身体がバランスを崩しても、コマは回転をやめます。
また中心のスピリチュアリティの部分が歪んでいても、コマは回転をやめます。
三つの層への同時、並行的アプローチが必要です。
そこにヨーガ身体論があるゆえんです。

   この世に個体が個体として存在するものはありません。
すべて集合体の中に存在します。
集合体(社会)の前進なしに、個体(個人)の解放や幸せは確保できません。

 そして集合体は、まず、経済的な基盤(すなわち物的身体的領域)の上なりたちます。
したがって、すべての地域の人が衣食住、教育、医療を保障される世界を築かねばなりません。
それが、進歩的活用理論(プラウト)です。

   しかし、知的心理的領域において、今日の人権(ヒューマン・ライツ)とヒューマニズム思想の限界を乗り越え、それらを「含んで超えた」レベルに達するしか、その実現への道は開けません。

 ブッシュ大統領のイラク戦争の目的は、大量破壊兵器保有阻止からイラクに「人権と民主主義」を根付かせることに変化しました。
日本政府は、国際協力(インターナショナリズム)の口実のもとにアメリカ軍への協力を推進しました。

 ネオ・ヒューマニズム論によれば、このような人権(ヒューマン・ライツ)と国際協力(インターナショナリズム)は欺瞞です。
今日の「人権とヒューマニズム」の限界を「含んで超える」道を、サーカーのネオ・ヒューマニズム論は示しています。

  第一章 ネオ・ヒューマニズム論

サーカーの「ネオ・ヒューマニズム論」

サーカーの提起したネオ・ヒューマニズムにもとづく知性の解放とはどのようなものでしょうか。
これまでのヒューマニズムと何が異なるのでしょうか。

1)ヒューマニズムの再解釈

(1) ヒューマニズムの問題点

 ヒューマニズムは、もともと人間性を否定する宗教的権威や政治権力などに対抗して人間性を尊重する思想として登場してきました。
しかし、サーカーは、ヒューマニズムは、実際には、真に人間性を尊重する思想にはなっていないと言います。
その理由は、ヒューマニズムにおいては、第一に、すべての階層、階級の人々が公正に扱われるはずなのに、実際は、搾取や不公正を隠蔽する役割をはたしていること、
第二に、人類愛と生命の尊重を建前としているけれども、実際には、心の内側には自国中心主義と人間以外の生命を軽視があることなどです。

 サーカーは、このようなゆがみのあるヒューマニズムを偽ヒューマニズムと呼びます。
そして本来のヒューマニズムの理念を継承し、それを極限まで拡大するネオ・ヒューマニズムを提起します。
そして人類は、このネオ・ヒューマニズムの道を進むべきだと主張します。

 「このゆがめられたヒューマニズムをネオ・ヒューマニズムの方向に向けることによって、私たちはすべての心理⇒精神性psycho-spiritualの病の新しい万能薬を生み出すことになります。
しかし、その逆に、もし、人類(ヒューマニティ)が、偽ヒューマニズムの道にそって進むことを許すならば、人類の社会的、経済的、政治的、文化的、精神的生活は、歪曲と欠陥に満ちたものになるでしょう。
それは人間の心を汚し、堕落させるでしょう」(Neohumanism is the Ultimate Shelter)

(2) ヒューマニズムの再解釈

 サーカーの提起するネオ・ヒューマニズムは、現在のヒューマニズムの限界を乗り越え、人類を新たな知的心理的地平に導くことを意図したものです。
サーカーは「新しい光のもとでヒューマニズムを再解釈しよう」と次のように言います。

 「ある人々が前進を開始した時、彼らは、自分たちのことをより考え、他の人々のことはあまり考えませんでした。
ましてや動物や植物のことは考えませんでした。
しかし、もし、私たちが冷静な頭で分析するならば、私の命が、私にとって大切であるように、他のものの命も、彼らにとっては同じように大切です。
そして、もし、私たちがすべての生き物の命にふさわしい価値を与えないならば、その時、完全なヒューマニティ(人間性)の発達は不可能になります。
もし、人々が自分個人のことについて、あるいは自分の小さな家族、自分のカースト、自分の氏族や部族についてより多く考え、集合体についてまったく考えないならば、それは明らかに有害です。
同様に、もし、人々が、生命世界全体( 植物世界、動物世界) を軽視するならば、それは本当に有害なことではないでしょうか。
私が、新しい光のもとでヒューマニティとヒューマニズムを解釈する必要があると言っているのはこういう理由からです。
そしてこれの新しく解釈されたヒューマニズムは、この世界の貴重な宝となるでしょう」(Neohumanism is the Ultimate Shelter)

2)ネオ・ヒューマニズムの精神とは

 ネオ・ヒューマニズムは、ユニヴァーサリズム(普遍主義)とも言います。

 それは、ありとあらゆる存在への愛です。
ありとあらゆる存在が根源において「一」(oneness)であることを意識化することです。

 そのために多様なる存在のすべては一なるものであり、存在を区分する線が意識の上から消えてゆきます。

 「あなたはすべてのために考え、すべてのために計画し、すべてのために行動しなくてはなりません。
絶対的視野(Absolute perspective)からは、人類の中のある人間と別の人間の間に相違はありません。
人類と動物の間に、生命と非生命の間に相違はありません。
あなたは動くものと動かないものの間を区分する線を引くことはできません」(Ism and Neo-Humanism)

 サーカーの哲学では、大宇宙の根源にある意識が粗大化し、この物質世界のすべてとして展開しています。
一者の多者としての顕現です。

 自らの心を宇宙の根源の意識に到達させてこの天地万物を見る時、実感をもってあらゆる存在を無差別に尊重する人格が生まれます。
宇宙の根源の意識を神とすると自らの心を神まで到達させる努力が必要になります。

 宗教は、絶対者の神を自分の心の外側に設定して祈ります。
いつまでたっても自分自身の心が神になることはありません。
仏教は、本来、悟った存在になることを目標にしており、サーカーの宇宙の根源の意識に自分の心を到達させることと似ています。

 しかし、サーカーは、宗教のもつ寺院や教会、像、教義、儀式、祈りという形式を否定します。
心だけを道具として宇宙の根源の意識に自らの意識を到達させる純粋にスピリチュアリティだけの実践を指導しました。

 さて、このスピリチュアリティの実践によっ宇宙の根源にある無限の意識に自らの心を近づける時、ありとあらゆる存在が聖なるものとして見えてきます。
ネオ・ヒューマニズムを身につけた目からは、あらゆる存在は次のように見えてきます。

(1) あらゆる人、すべての人類の尊重

では、新しく解釈されたヒューマニズムとはどのようなものでしょうか。
それは、人種、民族、宗教、階級、国籍、性別、年齢などを超えてあらゆる人間が、一つの人類として公正に尊重されるべきことことです。

 したがって老いて死にかけの老人も働き盛りの人間も同じ人間的価値をもつ重要な存在です。

「人間社会には無意味な人はいないこと、無視してよい人はいないことを覚えておくべきです。
100 才の老婆の命も価値あるものです。
彼女は全社会の重要な構成員です。
彼女は排除されるべきではありません。
私たちは彼女の重要性を正しく評価することができないかもしれません。
彼女は社会のお荷物だと間違った考えを持つかもしれません。
しかし、この種の間違った考えは、私たちの無知を示しています」(Ism and Neo-Humanism)

 人種、肌の色についてもいかなる不均衡もあってはなりません。
「ある人々は白い肌の色をしており、ある人々は黒い肌で、またある人は黄色い肌であったりします。
それは、もともとからの違いではありません。
それは外面的な相違です。・・・
(肌の)色によるいかなる相違もあるべきではありません。
肌の相違のゆえにいかなる不均衡もあってはなりません」(Ism and Neo-Humanism)

 性の違いによる不公平があってはなりません。
「数百年前、世界の多くの国々で女性は投票権を持っていませんでした。
女性も人間です。
男性と男と同じ権利を持っています。・・
社会的平等を求める運動を開始し、性的相違にもとづくそのような不平等に対して闘わなくてはなりません。・・・
社会には、服従させるリーダーシップではなく、協同的なリーダーシップがあるべきです。
男性と女性の間の関係は、調整された協同的な関係であるべきです。・・
これらの不均衡、不平等に対して闘わなくてはなりません。
社会からそれを無くさなくてはなりません」(Ism and Neo-Humanism)

 さらに今日においても、政治面や経済、文化面において、あるグループの人々による自国や他国の人々に対する利用(搾取)があります。
サーカーは、よい心をもった人々に知らせて、ともに人間の利用(搾取)をなくすことに取り組むように言います。
「政治の面においては、あるグループの人々は、自分の国あるいは他の国の別のグループの人々を搾取します。
そこには政治的不平等があります。
今もある種の経済的分極化、すなわち経済的搾取があります。
そればかりでなく、文化的不均衡と社会的文化的搾取もあります。
この事実をすべての人に知らせるようにしなくはなりません。
良い考えをする人々、正しく考える人々は、これらの不均衡を支持できません。
だから私たちはそれを支持できません。」(Renaissance in All Strata of Life)

 ただしこれらはユニヴァーサリズム(普遍主義)の精神のもとでなされますが、実際の取り組みにあたっては、各地域の事情に合わせたものでなくてはりません。
「ただし、世界の各地域がそれぞれ独自の問題と独自の諸条件をもっていることを前提としたユニヴァーサリズムでなくてはなりません」(Renaissance in All Strata of Life)

 以上は、あらゆる人、すべての人類が尊重されるべきだというネオ・ヒューマニストの目から見た時に、取り組んでゆくべき人間社会の課題のいくつかでした。

 自らの心を宇宙の根源において、この世界を見つめるネオ・ヒューマニストの課題は人間世界にとどまりません。

(2)すべての生命の尊重

(イ)「木の枝だって生きたいのだ」

 ネオ・ヒューマニストの目には人間の強者も弱者も同じ存在価値をもっているように、巨大な恐竜と小さなアリも同じ存在価値をもっていると映ります。
「過去の巨大な恐竜も今日の小さなアリも、同じ存在価値をもっています。
この世で人類がすることはすべて、最大の動物と最小の昆虫まで、すべての生命のためになされなくてはなりません」(Ism and Neo-Humanism)

 さらにネオ・ヒューマニストの目からは、人間にとって自分の命が大切なように他の生き物にとっても同じように自分の命が大切であることが見えてきます。
「人間が生き残りたいようにハトも生き残りたいのです。
同様に、牛も生き残りたいし、木も生き残りたいのです。
ちょうど、私にとって自分の命がいとおしいように、生き物たちの命も同様に自分たちにとっていとおしいのです。
この世に生きることは人類の生まれながらの権利です。
そして、この地にとどまることは動物世界、植物世界の生まれながらの権利です」(Renaissance in All Strata of Life)
「木の枝一つさえ、無用のものはありません。
それは喜びと苦しみの感情を持っています。
私たちはどうしても必要な時だけ木の枝を折るべきです。
あなたが生きる権利を持っているように、他のものもそれを持っているのです。
あなたの生命があなたにとって大切であるのと同じように他のものの生命もそれらにとって重要なのです。私の生命が私にとって大切であるように、他の人の生命もその人にとって同じように大切なのです。
あなたが他のものについて考える時、この考えを心に保持すべきです。」(Ism and Neo-Humanism)

 さらにサーカーは、人類が他人の痛みだけでなく、他の動物の喜びと苦しみを理解できるようになった時、人間はより高い知力に到達できると次のように言います。
「人類は、他の人間の痛みや苦悩を感じることができます。
しかし、犬が悲痛にくれている時、誰もそれに注意を払いません。
あたかも犬が痛みに苦しまないと考えているかのようです。
動物も喜びと苦しみを経験するということを人類が理解するようになるなら、人類は新しい次元の賢明さを持つことになります。
それは、すべての生命に対して同情的であるべきだという私たち人間の義務感とより高い知力のためです」(Prout and Neohumanism)

(ロ)生命の高次の形態の方を尊重する

ただし、サーカーは、人間も動物も植物も土も同じレベルで対処することを主張しているわけでありません。
人間、動物、植物、非生命の順に奉仕すべきだとしています。
それは、生命のより高次の形態う尊重する精神から来ています。
「すべての創造物の福利well-being を確保するためのネオ・ヒューマニストの政策は、第一に人類に奉仕し、次に動物に奉仕し、次に植物に、そしてその次に生命無きものに奉仕すべきです。
人類は、動物王国の創造物を殺すべきではありません。・・・
人類は、生命のより高い形態に対する尊敬から牛を殺すことを止めるべきです。
バッファローや山羊の屠殺も、同じ理由からすぐに止めるべきです」(Prout and Neohumanism)
だから当然のことですが、人間の生命が動物によって侵されそうな時は、人間の命の方の優先を説きます。
「一般的な原則として、私たちはいかなる状況のもとでも、動物を殺すべきではありません。この原則の例外は、人間の生命が危険である時です。
たとえば、もし、あなたが、自分の生命を脅かす虎に直面するならば、虎が攻撃する前にあなたは虎を殺さざるをえないでしょう。
同様に、もし、ライオン、ヘビ、象などが、あなたの居住地にやってきたら、その時、最後の手段として人間の安全を確保するために彼らを殺さざるをえないかもしれません。
しかし、直接に人間の生命を危険にさらす時だけ動物を殺するべきです。
したがって、彼らの自然の生息場所の中の動物は殺すべきではありません」(Prout and Neohumanism)

 サーカーはヴェジタリアンです。
したがって動物に対する不殺傷においては徹底した人生を送ったと思われます。
ただし、彼は、プラウト経済論のところでは田んぼに魚を養殖する提案をしていました。
そしてイヌイットが生活している極北の地では、必要な栄養を摂取するために肉食もやむをえないとも論じていました。
人間の生存のための食物としてやむをえず動物を殺すことも認めている考えられます。
それは、生命のより高次の形態を尊重する考えからだと考えます。

(ハ)動植物の聖域(保護区)を

 人間の近くで生きれば、人間に危害を加えかねない動物についても、保護区をつくって守るべきだと次のように言います。

 「森の中には、多くのライオン、虎、ヘビなどがいます。
しかし、そのような生物は彼らの自然の環境の中においては殺されるべきではありません。
なぜなら、彼らは人間の生命を脅かしていないからです。
人間を攻撃するのは、虎の特質ですが、すべての虎がその理由から簡単に殺されるべきではありません。
瀕死の動物と危険にさらされている動植物のために聖域を作ることが人間の義務でもあることを忘れてはいけません。
これは動植物の生命に対するネオ・ヒューマニズムのアプローチです」(Prout and Neohumanism)

   現在は、肉食のために牛や豚などの大量屠殺が行なわれています。
肉食は菜食よりもより健康に悪いものであることが医学的に証明されつつあります。

 ネオ・ヒューマニズムを身につけ、人類がさらに進化して、人類が牛や豚などの喜びと苦しみを理解し、その命を尊重する気持ちをもつようになった時、人々は、昔の肉食文化はなんと残酷で野蛮な文化だったんだろうと感じるかもしれません。

(3)命無き世界まで尊重

(イ)ネオ・ヒューマニズムの対象領域の拡張

 ネオ・ヒューマニストのすべての存在への愛と尊重の精神は、命無き世界にまで及びます。

 サーかーは、ネオ・ヒューマニストの奉仕の領域は、命なき非生命世界まで拡張させられるべきだと言います。 「ネオ・ヒューマニズムのアプローチは、あらゆるものを含んでいます。
その管轄内に生命ある世界と生命無き世界の両方を含みます。・・・・
私たちの奉仕の領域は、生命の世界を含むべきですが、そこに限定されるべきではありません。
それは、生命無き世界の外側の淵にまで広げられるべきです。
これは今日の要請です。ネオ・ヒューマニズムの観点から私たちの奉仕の領域は、常に増大、拡大させられるべきです。
そして生命ある世界、生命無き世界の両方を含むべきです」(Prout and Neohumanism)

 したがって、ネオ・ヒューマニストの目から環境破壊や核実験は、許すべからざるものとして映ります。

(ロ) 「地下水の利用よりも貯水の利用を」

土地陥没の原因の一つに地下水の汲み上げがあります。
サーカーは、地下水よりも貯水を活用せよと言います。

 「人類は、非生命世界を正しく考慮してきませんでした。
たとえば、人類は、多くの丘や山に害を与え、壊してきました。
あなた方は、山や丘を壊すべきではありません。
さもないと降雨について悪影響があるでしょう。
あなた方は、地下水の使用、深い井戸tube wells、浅い井戸を使うべきではありません。
なぜならば、この種の井戸に頼りすぎることは、水床レベルの低下を引き起こします。
そのことは、土壌の乾燥を引き起し、植物の生命を奪います。
地下水ではなく、雨水と川水、雨水を集めるための貯水池を使用することがベストです」(Prout and Neohumanism)

 日本でも、高度経済成長の過程で地下水採取量が急激に増大したため、地盤沈下や塩水化といった問題がおきました。
国土交通省のホームページは「現在でも地下水採取と地盤沈下の問題は解決したということはできないでしょう」と述べています。

(ハ)生態系のバランスを崩した核実験

もちろん核実験も非生命世界を破壊してきました。
「人類が非生命生命世界をいかに破壊してきたかのもう一つの例は、繰り返される原子爆弾の実験です。
原子の爆発は、地球の地殻に巨大なクレーターと大きな地下洞窟をつくります。
それは大気に黒い雲を生み出し、自然環境の生態系のバランスを崩します」(Prout and Neohumanism)

 1945年に米国のニューメキシコ州の砂漠での実験以来、米国、旧ソ連、英国、フランス、中国、インド、パキスタンといった国々が核実験を行い、その総計は2000回以上になります。

 それは私たちの共有財産である地球惑星を害してきました。
今日、引き起こされいる地球環境の異変にこれらの核実験は無関係なのでしょうか。

 大地という非生命世界を「含んで超えて」生命世界の生態系が生まれ、その生態系を「含んで超えて」人類が生まれました。

 大地の非生命世界のバランスを崩すことは、その上に立つ、生命世界、人間世界のバランスを崩すことにほかなりません。

 「母なる大地」を尊重する精神をネオ・ヒューマニズムは包含しています。

3)知的心理的領域における搾取からの解放

(1) 知的心理的領域における搾取(利用)

 サーカーは、搾取(exploitation)という言葉に、人間が人間を利用するという意味を含ませて、知的心理的領域における人間による人間の利用(搾取)を論じます。
マインド・コントロールは、典型的な知的心理的搾取です。
オカルト集団によるマインド・コントロールは有名ですが、サーカーは、今日の人々は広範にマインド・コントロールされていると見ます。

 「奴隷制は現在では廃止されていると思われています。
しかし、『知的悪魔』としか言いようない一握りの人々は、間違った哲学を宣伝することによって人々を搾取(利用)しています。
彼らは知力を失った奴隷になっています。
論理的な議論で啓発しようとしても、聞くことを拒否します。
その人々は間違いなく知的奴隷です。
それゆえ、物的世界でも奴隷です」(The Continuous Effort to Promote Universal Well-being)

 宗教を信じて、教団の言いなりになって宗派の拡大やお金集め、選挙運動などをしている人を見かけます。
その人々は、身体的には自由ですが、指導者たちから心をコントロールされて活動させられます。
そこには知的心理的な領域における搾取(利用)があります。

(2) 人々の心を縛るドグマ

 サーカーは、「ドグマ」の注入によって心がコントロールされてしまうと考えます。
 サーカーは人格的な影響力もたない宗教者が、神の権威を借りて、「地獄に対する恐怖心」というドグマを注入する例をあげています。
「神の御告げにそむいたら・・・」
「もし、毎日、神に祈らないならば・・・」
「もし、神への供え物にあなたの足が触れるならば」
 すなわち、もし、○○しなかったら、地獄に落ちるという言い方です。

他にもサーカーは、人間自身がつくってきた社会の分裂を正当化する言い方はドグマであると言います。
「カーストの区分をつくったのは神です」
「金持ちと貧乏人に分けたのは神です」

 ドグマは、「論理と理性」を欠いています。
人間の心を束縛し、一つである人類を分裂させます。 「ドグマは普遍主義の確立に役立ちません。
むしろ、人類の間の人工的な相違を助長します。
ドグマを説くものは、狭い感情を駆り立てることによって、自分たちの利己的な願望を実現しようとします」(Ism and Human Progress)

 たとえば、9・11ニューヨーク・テロ後に合衆国に広がった「神はアメリカを祝福する」というナショナリズムの考えも人工的な相違を助長するドグマの一種です。

 ドグマは、 心を拡張し、人類の一体性の真実に目覚めることを妨げます。

(3) イズムは、その時代との照応関係をもつ

 ドグマの集合体がイズム(主義)です。

 イズムの運動は、大きな力をもちえます。
たとえば、二度の世界大戦は、帝国主義やナショナリズム、人種主義というイズムの悪夢でした。

 イズムの運動は、知的心理領域の波動と物的身体的領域の波動に照応した時に大きくなります。
たとえば、外国人労働者の流入によって、仕事を奪われる底辺層の人々は、ナショナリズムというイズムの波動の共鳴盤となります。
しかし、イズムは、それらが照応しなくなった時、力を失います。

「イズムの運動は、ある特定の時代、場所、人間において生じます。
それは、物的身体的な波動と知的心理的な波動との照応関係をもちます。
それゆえ、物的身体的な波動もしくは知的心理な波動のどちらか一方、あるいはその両方に、変化があった場合、そのイズムは力を失います。
そのイズムを受けていた時代と場所と人間が変化するためです」(Ism and Human Progress)

 サーカーのこの見方からすると、国際交流の発展とインターネットによる国家を超えた情報の流通は、今日のナショナリズムや原理主義を制約してゆく可能性もっています。
それらが、国際的交流という物的身体的領域の波動との照応関係を失うからです。
(もちろん、国際交流とインターネットが、原理主義やナショナリストの活動を容易にしている面があることはいうまでもありません)

(3) 相対的真理は、人生の最高の目標ではありえない

 サーカーは、形あるものを自分の最高の目的として観念化(意識化)すべきではないと考えます。
形あるものはすべて、時、場所、人の変化に応じて変化する相対的真実であるからです。

 自分の属する国を最高のものとして意識化、観念化するナショナリズムについて次のように述べます。
「多くの人々が、自分の国を崇拝します。
祖国の像を立てたりもします。
しかし、祖国への奉仕が人間の最高の目標ではありえないことを理解する賢明さを持つべきです。
なぜなら、祖国の概念は変化しつつあるリアリティだからです。
今日の祖国は、明日は大洪水で海に沈むかもしれません。・・・
だからある特定の国、地方の領域的な管轄は、将来、変化するかもしれません。
領土的な管轄を争点として激しい戦争を戦い、それによって人間社会の平和を乱すことは賢明なことではありません。
このような争点はもっと良い方法で互いにそれぞれの地域の住民によって解決されるべきです」(Ism and Human Progress)

(4) イズムという心の枠をとっぱらい心を無限に拡張する

 この形ある変化する相対的世界を最高のものと位置づけないとしたら、何を人生の究極の目標とすべきなのでしょうか。

 サーカーは、万物をその根源にある一つの無限の意識の表現として感じるところまで心を拡張することを人生の最高の目標としなさいと言います。

「人間の最高のイデオロギー(観念形態) は、非人格的なものであり、時、場所の領域を超えたところにあるものです。
それは人格的なものではない何かです。
この非人格的な実体は、最高非人格実体Supreme Impersonal Entityです。
もし人間がこの実体を自分の、観念化ideation の唯一の対象として受け入れるなら、不可避的な堕落への帰結を免れることができます。
社会的、政治的、経済的などんな理論も、時代を限定せずにどの時期にも人類に役立つことはできません。・・・
もし、最高意識Supreme Consciousness以外の実体が、人間の観念化 ideation の対象として受け止められたならば、イズムが支配しているとみなすことができます」(Ism and Human Progress)

 最高意識とは、形がなく、全宇宙そのものをもっとも精妙なレベルで認識したものです。
サーカーの哲学では、自分を含むこの顕現した世界の一切を最高意識(パラマ・プルシャ)のあらわれとして認識することが、最高意識の観念化です。

 イデオロギーという言葉は、一般にはサーカーがドグマ、イズムとして批判している意味として使われています。
サーカーの用い方は、イデオロギー本来の意味の「観念形態、意識形態」を意味しています。
観念形態すなわち心全体を占める最高の願望、目標がイデオロギーです。

 自分の人生の最高の願望を自分の所属する民族、所属する党派、所属するカースト、所属する団体などなど、あるいは尊敬する人に置き、心の観念形態をその有限のものと合体させるのは人生の目標としてはだめだというのです。

 それは、時、場所、人によって変化をこうむる相対的真理でしかないからです。

 最高のイデオロギー(観念形態)を持つとは、私たちの周囲のあらゆるもの、存在のすべてが、全宇宙的表現の一部として感じる意識形態に達することです。
したがって最高のイデオロギーに到達した人は、全人類、全生命、全存在物がかけがえない尊いものと感じるネオ・ヒューマニストです。

4)克服すべき狭隘なセンチメント

(1) センチメントとは

(ハ) サーカーによれば、ドグマやイズムは狭隘なセンチメントを通じて表現されます。センチメントとは自分の属する集団に対する偏愛感情または偏愛意識です。
注)セントメント
Sentimentを「意識」と訳すならば、consciousnessの訳としての意識と混同が生じる可能性があります。
「感情」と訳すならば、情動を含むことになります。
そこでセンチメントのままにしました。

 地域センチメントと社会センチメントは、二つあわせて、社会科学で言うエスノセントリズム(自集団中心主義)と呼ばるものに対応します。

 人類社会を、内集団と外集団に分けて認識し、自分の所属する集団に対する「身内びいき」感情が成立したものがエスノセントリズムです。
サーカーが、センチメントとして論じているものはこの「身内びいき」の気持ちです。

 センチメントとしてサーカーは三つのカテゴリーをあげています。
地域センチメントgeo-sentiment、社会センチメントsocio-sentiment、一般ヒューマン・センチメントgeneral human-sentimentです。
まず地域センチメントから順にみてゆきます。

  (2) 地域センチメントgeo-sentiment

 ネオ・ヒューマニズムの観点では、すべての土地は、無限の最高意識のあらわれであり、あらゆる地域が大切な場所です。
しかし、人は自然に生まれ育った土地や地域に対する愛着を身につけます。
それが自分の地域を他の地域よりも特別な地域ととらえたり、他の地域を軽視したりする感情としてあらわれる場合が、地域センチメントです。

 地域センチメントに経済的ドグマ、政治的ドグマ、宗教的ドグマを吹き込めば、それぞれ地域経済センチメント、地域政治センチメント、地域宗教センチメントなどが生じます。

①地域経済センチメントgeo-economic-sentiment
 それは、他の地域を自分の地域の工業発展のための原料の供給地、商品市場としての衛星地域として搾取します。

②地域政治センチメントgeo-political sentiment
 他地域に優越意識をもつ政治意識が地域政治センチメントになります。
他地域の政治支配に進みます。

③地域宗教センチメントgeo-religeous sentiment
 ほとんどの宗教は聖なる土地をもうけます。
そのため聖地をめぐる流血の争いが生じたりします。
 女性が入山することを禁じる「聖なる」山もあります。
この場合は、地域宗教センチメントに性別にもとづく社会センチメントが加わっています。

(3)社会センチメント socio-sentiment
 自分が所属する社会への帰属意識にもとづくものが社会センチメントです。
社会センチメントの基盤となる社会集団には、家族、団体、宗教、階層、性、文化、言語、人種、民族、国家など大小様々です。
ネオ・ヒューマニズムの観点では、全人類は根源において一つであり、人類社会のこのような表現の多様性に優劣を見ません。

 ところが、社会センチメントは、表面的なレベルの多様性にもとづいて非合理的な優劣の感情を発生させ、人類の間に対立と紛争を引き起こします。
またある社会集団による他の社会集団に対する心理的搾取を引き起こします。

(4)社会センチメントは心理的病

 サーカーは社会センチメントについて次のように述べています。

「より大きな集団に属する人は、常により小さな集団を軽蔑し、非難します。
 自分自身の家族だけとかかわりをもち、単に会社勤めをし、家ではぶらぶらし、新聞を読むだけの人がいます。
 カーストにもとづくコミュニティの人々は、そのような人を『家族だけにしかかかわっていない』と批判します。
 そしてそれよりも大きなコミュニティに参加している人々は、その人々を『自分たちのカーストだけにかかわっている』と言います。
 しかし、さらにより広い集団である国家に帰属意識をもっている人々は、『このようなコミュニティやカーストはナショナリズムに反している。
もし、われわれがカースト、コミュニティなどにかかわるなら、それはナショナリズムの基礎を弱めてしまう。
彼らは国家の敵だ。
彼らは宗派主義などの狭い考えを広げることで社会に害を与えている』と言い、ナショナリズム宣伝します」(Ism and Human Progress)

 ここでサーカーが述べているような家族集団にもとづく社会感情は、一般にはマイ・ホーム主義と言われています。
私たちの社会でも国家や民族への社会センチメントをもっているナショナリストは、マイ・ホーム主義を狭い自分のことだけ考える利己的な心だと批判するでしょう。

 しかし、サーカーは、自分が帰属を意識している社会集団の大小にかかわりなく、社会センチメントはすべて同じ心の病であると考えます。

 それでは、なぜ、自分の家族を偏愛する意識と自分の国家を偏愛する意識が同じ病なのでしょうか。
「以上に述べた全員が同じ病にかかっていることを忘れています。
唯一の違いは、その人の病の範囲が他の人の範囲よりもやや大きいかというところにあります。
 実際には、彼らは同じ病にかっていることに気づいているのかもしれません。
しかし、利己的な利益に動機づけられているために、なおもこの種の考えを広めています。
自分をなんらかの特定の範囲の中に制限する人々は、その範囲の大きさにかかわりなく、すべてが社会センチメントの領域の中に入ります」(Exploitation and Pseudo-Culture)

 このようにサーカーは、社会集団の大小にかかわりなくそれらの社会センチメントのすべてが、心に枠を設定して内と外を作り出している点で共通の病だと考えています。
違いは心の半径の大小であり、心に枠を設定している点では共通なのです。

5)一般的ヒューマニズム(普通のヒューマニズム感情)

 おそらく読者は、地域センチメントも社会センチメントも乗り越え、「一般的ヒューマニズム"general humanism」に達しているレベルの人だと思います。

 一般的ヒューマニズムとは、心の半径の枠の中に人類全体が入っています。

 「家族センチメントもまたある種の社会センチメントです。
しかし、その半径は非常に小さいものです。
それより大きいものがカースト・センチメントです。
そしていっそう大きいものが,コミュニティ・センチメント、ナショナル・センチメント、インターナショナル・センチメントです。

 すべての社会感情の中で、もっとも狭いをものをに『最小社会センチメント "socio-sentiment minimitis』と呼び、そのもっとも大きいものを『最大社会センチメント"socio-sentiment maximitis"』と呼びます。
その最大の段階を『ヒューマニズム』または『一般的ヒューマニズム』と呼びます」(Pseudo-Humanism)

(3) インターナショナリズムの限界

 したがって、サーカーにとって、インターナショナリズムは、一般的ヒューマニズムではありません。
「私が、ネイションの存在を認めて、私は、すべてのネイションのために働いていますと言う時、それは、一般的ヒューマニズムでもユニヴァーサリズム( 普遍主義)でもありません。
それは、単にインターナショナリズム(国際主義)です」(Pseudo-Humanism)

 これはまったく今日の政治指導者の理屈です。
自分の国益を守り、他国の国益を尊重すると言います。

 その理屈から、日本政府はアメリカの要請でイラクに自衛隊を派遣しました。
「国際貢献」は、インターナショナリズムです。

 かつて、労働運動で、スターリンのソ連を守ることが、インターナショナリズム(国際主義)だとされたことかあります。

 サーカーは、インターナショナリズム(国際主義)は、真の解決ではないと言います。
「さて、インターナショナリズム(国際主義) という用語を使う時は、別々のネイションの存在を前提としています。・・・
一つのネイションが他のネイションの血の上に栄えようする時、それに反対せざるをえません。
この反対は、最終的には戦争をももたらします。
だからインターナショナリズムも解決ではありません」(Pseudo-Humanism)

 この「インターナショリズムも解決ではありません」というサーカーの言葉は19世紀末の社会主義者たちのインターナショナリズムの運命を振り返る時、考えさせられるものがあります。
エンゲルスたちがかかわった第二インターナショナルは、平和と国際連帯を何度も誓いながらも、高まるナショナリズムを克服できず、第一次大戦の勃発の中で崩壊しました。
レーニンたち一部の社会主義者を除いて第一次大戦に向けて祖国擁護というナショナリズムの立場に立って戦争に協力しました。。
インターナショナリズムもナショナリズムの基盤に立っている故にネイション(国民国家)の間の衝突が激化する時、ナショナリズムの本性の表現を容易に許してしまうことになります。

(4) 一般的ヒューマニズムの二つの問題点

 ナショナリズムやインターナショナリズムを越えて心の円周を拡大し、一つの囲いの内部にすべての人々を含めるならば、それが「一般的ヒューマニズム」です。

 私たちはそれを人間のやさしさの理想と受け止めます。
しかし、サーカーは一般的ヒューマニズムには、二つの問題があると言います。

 一つは、なおもヒューマニズム内矛盾intra-humanistic conflictをひきおこす余地があることであり、もう一つが、人間中心であるがゆえに他の生命との関係で生態系のバランスを崩してしまうことです。
まず、前者からみてゆきましょう。

(イ)ヒューマニズム内矛盾

「ヒューマニズム内矛盾」とは、同情、哀れみを含むヒューマニズムは、相手の従属を引き起こし、そこから紛争を生じさせるということです。
「あるコミュニティが飢餓に苦しんでいるのを見て、彼らに食物を提供したとしましょう。
これは、明らかにヒューマニスティックです。
しかし、心の底で、『この人々を原料の提供者、われわれの完成商品の購入者として利用しよう。
これらの人々はすでにわれわれをありがたく思っているのだから』と考えます。
この種の心性は、いつか社会の平和を破壊します。
だから、ヒューマニズムのアプローチも完全ではありません。
それは質的に低下します」(Pseudo-Humanism)

 2002年の「国連途上国会議」は「先進諸国は、貧しい国の生産物を購入できるようにもっと市場開放をしてゆかねばならない。
先進国の中の市場開放への反対を克服してゆかねばならない」という内容を含む決議をしたと報道されていました。

 これは、先進国の農民たちが、農産物の自由化に反対したりすると貧しい国の人々に思いやりがないかのような言い方です。

 サーカーは、こうした理屈をエセ・ヒューマニズムとして強く批判します。

 「『先進国』『発展途上国』『未開発国』とか呼ばれます。
興味深いことは、これらの『先進』諸国の一カ国として、自分の足で立つことができないことです。
その国々は、発展途上国や未開発国に対して状況の圧力を生み出すことによって、自分たちの工業製品を買うように強いているにすぎません。
これらの諸国のどれ一つとして、自分自身の資源を開発しての「先進」ではありません」(Pseudo-Humanism)

 そしてサーカーは、先進国が、資源の自立ができなければ、最終的に他の国に「物理的な力や知的な力を用いることになるでしょう」と述べています。

 マイ・ホーム主義者で家庭と職場を往復するだけの人間であっても、家庭内紛争は生じます。
ナショナリストであっても、ネイション内部には搾取と対立があり、ナショナリズムは、それを隠蔽、抑圧します。
同じように一般的ヒューマニズムは、すべての人類をその内部に包含した意識であることによって、あるコミュニティによる他のコミュニティに対する搾取を隠蔽し、紛争を生じます。

(ロ)動物界に対する加虐的傾向を抑止できない

 ヒューマニズムは人間中心主義ですから他の生物を迫害しても、罪に感じません。
サーカーは、他の生物にたいする加虐的傾向は、同時に人間に対しても加虐的に傾向をもつことになると言います。

 「現在、動物に対してなされているその種の迫害が、同じやり方で、ある社会集団によって他の社会集団に対してなされています。
なぜなら、他のものを苦しめる傾向 (サディスト的傾向)が、搾取者の血の中で優勢だからです。
彼らはこの病を免れることができません。
彼らは単に高い理想を口にするだけなのです。
こういうわけで、これはヒューマニスティックな戦略ですらなく、すべて偽ヒューマニスト戦略なのです」(Liberation of Intellect)

 神戸のA少年は猫を殺し、次には、人間を殺しました。
動植物の世界を尊重しない人間は、他の人間集団に対しても同様に尊重しない心を持ちます。

 サーカーは、生命の尊厳を説いたヒューマニストが、講演の後で牛肉をなんのためらいもなくおいしく食べる欺瞞を述べています。
一般的ヒューマニズムは動植物の生命の尊重までは心から説きません一般的ヒューマニズムにはこのような限界があります。

6)ネオ・ヒューマニズムのアプローチ

 では、一般的ヒューマニズムの限界を超える「ネオ・ヒューマニズム」のアプローチはどのようなものでしょうか。

(1)全人類、全生命、全存在への奉仕意識

 「 私たちは社会建設の領域で、二つのまったく別個の心理があることに気づきます。
一つは奉仕の心理であり、人々が集合的利益を促進するように導きます。
二つ目はグループ主義の心理であり、それは小さなグループの限られた利益を促進しようとだけします。
奉仕心理に導かれている人々は、その道徳性ゆえに分離主義的政治を好みません」(Service Psychology and Group Psychology)

 半世紀前の日本の軍国主義時代には「奉仕」の心があったが、現在の人々は「奉仕」の心にかけていると言う人がいます。

 しかし、日本の軍国主義時代の奉仕は日本の国家への「奉仕」でした。
人類普遍の奉仕ではなく分離主義的政治でした。
ですから、サーカーの用語法では、それは奉仕ではなく、日本というグループの利益を促進するグループ主義の心理です。

 それに対して、ネオ・ヒューマニズムの奉仕とは、全人類、全生命、全存在に対するものです。
現実世界の多様性の根源にある単一の聖なるものへの奉仕です。
サーカーのいう奉仕の心理は、グループの利益をずっと超えたところにあります。
それは一切を含めた全体性への奉仕です。

 現実には自分の所属する身近な社会に奉仕しますが、その心は、あくまで人類全体、宇宙全体への奉仕にあります。

(2)社会的平等の原理からのアプローチ

(イ)「利己的な喜び」の原理と「社会的平等」の原理

 サーカーによれば、人間を行動に駆り立てている動機にはアートマ・スカ・タットヴァ ( 利己的な喜びの原理)とサマサマージャ・タットヴァ"Sama-Sama'ja Tattva" ( 社会的平等の原理)の二つがあります。そして人間の行動のほとんどは、「利己的な喜びの原理」に駆り立てられていると言います。
そして「利己的な喜び」の原理でなく、「社会的平等の原理」すなわちネオ・ヒューマニズムの立場から現実世界にアプローチせよと言います。

 「社会的平等」の原理のアプローチとは、次のような心をもって活動することです。

 「他の人が何を言おうとも、すべての人間が、食物、衣服、住居、教育、医療の権利を持っていることを私は心から信じます。
原理として彼らの権利を認めたというだけでは不十分だ。
正直な人間として、私は、彼らが自分たちの権利を実現するよう最大限の努力をします」(Samasama'ja Tattva)

 ただし、「社会的平等の原理」とは、画一的平等を意味するものではありません。
サーカーはこの世界は多様性を原理としており、一定限度の格差があることは当然であると見ています。

(ロ)間違った方向に導く人々を広く暴露する

 サーカーは本気で「社会的平等」の心をもって活動する時、誰が自分の慈悲深い心に協力し、誰が傍観し、誰が妨害してくるかが見えてきて、「知的悪魔」を見抜くことができると言います。

そして人類を間違った方向に導いている人々を見抜いたら、座して黙していてはだめだ、人間社会の中に広く知らせよと次のように言います。

 「人間構造した悪魔を見抜いた後、彼らが人間社会に害を与えるものであることを人々にわかるように暴露しなくてはなりません。
個人的に見抜くだけでは十分ではありません。
他の人々の目も開けなくてはなりません。
このようにしてのみ、世界の福利を促進させることができます。
だから象牙の塔の中の善良ぶった人のように穏やかに待っているだけでは十分ではありません」(Samasama'ja Tattva)

(ハ)誤りを正した人の才能は活用する

 もちろん、サーカーは「知的悪魔」だとレッテルを貼って、その指導者を排除するものではありません。
彼らが誤りを正そうとするならば、その人の才能を人々の福利を促進するために活用しなさいと言います。
「あなたがたは、人々が自分を正すことができ、人類にとって価値ある貴重な人物となるように人々を導かなくてはなりません」

(ニ)利己的喜びの原理の人は敗北する

 そして「利己的喜び」の原理から「社会的平等」の原理の道を妨害する人は、最終的に敗北すると次のように述べます。
「エゴから邪魔する人は、最終的には敗北するでしょう。
エゴが肥大化する時、知性は衰えます。
その知性が低い人は、容易に敗北させられます。
だから、それについて心配する必要はありません」(Samasama'ja Tattva)

注)社会的平等の原理とは、多様性や一定の枠内での格差を前提としており、画一性をめざしたものではありません。

(2) 内面的深まりの追求と外部世界の不公正との闘い

 (イ)内面的深まりは、心の領域を広げる

 サーカーは、ネオ・ヒューマニズム感情に達するためには、瞑想などのスピリチュアル・プラクティスが必要だと述べます。

 スピリチュアリティのプラクティスは心の領域を広げます。

 「ラージプート社会の全体の幸福について考える人は、彼らはヒンドゥ人であることに、さらにインド人であることに、最終的に全宇宙のメンバーであることに誇りを感じるようになるでしょう。

 合理的で統合的な深い思考の後、彼らは自分たちを宇宙のあらゆる粒子と同一視するでしょう。
それは全宇宙の実体と一体の感覚をもたらすでしょう」(Service Psychology and Group Psychology)

 しかし、サーカーは、心の内部の平穏の追求は、心の外部世界での不公正を正す闘いと統一的に進められなくてはならないと言います。

(ロ)心の内側だけを追求する人は、二重性の病に苦しむ

 外部世界の不公正に目をとじて、心の内側だけを追求する人をきびしく批判し、そういう人は二重性の病に苦しむと言います。
「客観的な世界では、人間は、宗教、文化、政治経済などの生活を持っています。
誰がこれらを拒むことができるでしょうか。
それらを拒む人は、ペテン師です。
その人は真実をゆがめています。
そのような人々は、決して、自分自身のためにも、自分たちの世界のためにもどちらにもなんらの良いことができません。
彼らは、常に二重性の心の病気に苦しみます。
すなわち、彼らの内部の心と外部の表現との間が一致していないのです。
この心理的二重性は、非常に深刻な心の病を生じます。
それは最後に彼らを破滅させます」(Samasama'ja Tattva)

 そして社会的平等の原理をもって活動する中でこそ、二重性の病から解放されると次のように言います。

 「サマサマージャ・タットヴァすなわちネオ・ヒューマニズムは、人々をこの二重性の病気から解放します。
その人々は、自分自身に良いことがすることができるし、彼らの能力に応じて他の人々に対しても良いことができます。
というのは、あらゆる人がいくらかの能力を持っているからです」(Samasama'ja Tattva)

◎引用文献
 引用はP・R・サーカーの英語CD版"Electronic Edition Of The Works Of P. R. Sarkar", Version 6.0, Ananda Marga Prublications, 2001.(527, VIP Nagar, Tiljala, Kolkata, India.)所収文献を用いました。
サーカーの文献については著書名と論文名のみ表記します。
P.R.Sarkar,Prout and Neohumanism, Prout in a nutshell Part17
P.R.Sarkar,Neohumanism is the Ultimate Shelter, Prout in a nutshell Part17
P.R.Sarkar,Ism and Neo-Humanism, Prout in a nutshell Part16
P.R.Sarkar,Renaissance in All Strata of Life, Prout in a nutshell Part9
P.R.Sarkar,The Continuous Effort to Promote Universal Well-being
P.R.Sarkar,Ism and Human Progress, Prout in a nutshell Part16
P.R.Sarkar, Pseudo-Humanism, Prout in a nutshell Part8
P.R.Sarkar, Liberation of Intellect,Neohumanism in a Nutshell Part1
P.R.Sarkar, Service Psychology and Group Psychology, Prout in a nutshell Part12
P.R.Sarkar, Exploitation and Pseudo-Culture,Prout in a nutshell Part8
P.R.Sarkar, Samasama'ja Tattva,Prout in a nutshell Part8



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