Homage to Krishna - Deva Premal
(video inspired by god of star)




( Capitalism is exploitation system of exploitation of other peoples )

Dear
I am god salamnidam who downed neo-humanism to P.R. Sarkar.
This summery of neo-humanism of Mitsuki is excellent.
You can know neo-humanism by reading this article.

Theme of this time is exploitation in psychic sphere.
Exploitation is not only in economic sphere.
Exploitation means that someone utilize other human beings.
Relation of human beings should be cooperating between equal stances.
Capitalism is exploitation system of exploitation of other peoples.
Socialism eliminates exploitation by sharing means of production.
Sharing means of production makes human relation equal.
In psychic sphere exploitation is done by intellectual people.


こんにちは
私はP.R. サ-カ-にネオ・ヒュ-マニズムをおろした神サラムニダムです。
このミツキのネオ・ヒュ-マニズムの要約はすぐれています。
あなたはこの論文を読むことによってネオ・ヒュ-マニズムを知ることができます。

今回のテ-マは、心理的領域における搾取です。
搾取は経済的領域のみではありません。
搾取は,誰かが他の人間を利用することです。
人間の関係は対等な立場での協力であるべきです。
資本主義は他の人を利用する搾取のシステムです。
社会主義は生産手段を共有することによって搾取をなくします。
生産手段の共有は人間関係を対等にするのです。
心理的領域では搾取は知的な人々によってなされます。


3)知的心理的領域における搾取からの解放

(1) 知的心理的領域における搾取(利用)

 サーカーは、搾取(exploitation)という言葉に、人間が人間を利用するという意味を含ませて、知的心理的領域における人間による人間の利用(搾取)を論じます。
マインド・コントロールは、典型的な知的心理的搾取です。
オカルト集団によるマインド・コントロールは有名ですが、サーカーは、今日の人々は広範にマインド・コントロールされていると見ます。

 「奴隷制は現在では廃止されていると思われています。
しかし、『知的悪魔』としか言いようない一握りの人々は、間違った哲学を宣伝することによって人々を搾取(利用)しています。
彼らは知力を失った奴隷になっています。
論理的な議論で啓発しようとしても、聞くことを拒否します。
その人々は間違いなく知的奴隷です。
それゆえ、物的世界でも奴隷です」(The Continuous Effort to Promote Universal Well-being)

 宗教を信じて、教団の言いなりになって宗派の拡大やお金集め、選挙運動などをしている人を見かけます。
その人々は、身体的には自由ですが、指導者たちから心をコントロールされて活動させられます。
そこには知的心理的な領域における搾取(利用)があります。

(2) 人々の心を縛るドグマ

 サーカーは、「ドグマ」の注入によって心がコントロールされてしまうと考えます。
 サーカーは人格的な影響力もたない宗教者が、神の権威を借りて、「地獄に対する恐怖心」というドグマを注入する例をあげています。
「神の御告げにそむいたら・・・」
「もし、毎日、神に祈らないならば・・・」
「もし、神への供え物にあなたの足が触れるならば」
 すなわち、もし、○○しなかったら、地獄に落ちるという言い方です。

他にもサーカーは、人間自身がつくってきた社会の分裂を正当化する言い方はドグマであると言います。
「カーストの区分をつくったのは神です」
「金持ちと貧乏人に分けたのは神です」

 ドグマは、「論理と理性」を欠いています。
人間の心を束縛し、一つである人類を分裂させます。 「ドグマは普遍主義の確立に役立ちません。
むしろ、人類の間の人工的な相違を助長します。
ドグマを説くものは、狭い感情を駆り立てることによって、自分たちの利己的な願望を実現しようとします」(Ism and Human Progress)

 たとえば、9・11ニューヨーク・テロ後に合衆国に広がった「神はアメリカを祝福する」というナショナリズムの考えも人工的な相違を助長するドグマの一種です。

 ドグマは、 心を拡張し、人類の一体性の真実に目覚めることを妨げます。

(3) イズムは、その時代との照応関係をもつ

 ドグマの集合体がイズム(主義)です。

 イズムの運動は、大きな力をもちえます。
たとえば、二度の世界大戦は、帝国主義やナショナリズム、人種主義というイズムの悪夢でした。

 イズムの運動は、知的心理領域の波動と物的身体的領域の波動に照応した時に大きくなります。
たとえば、外国人労働者の流入によって、仕事を奪われる底辺層の人々は、ナショナリズムというイズムの波動の共鳴盤となります。
しかし、イズムは、それらが照応しなくなった時、力を失います。

「イズムの運動は、ある特定の時代、場所、人間において生じます。
それは、物的身体的な波動と知的心理的な波動との照応関係をもちます。
それゆえ、物的身体的な波動もしくは知的心理な波動のどちらか一方、あるいはその両方に、変化があった場合、そのイズムは力を失います。
そのイズムを受けていた時代と場所と人間が変化するためです」(Ism and Human Progress)

 サーカーのこの見方からすると、国際交流の発展とインターネットによる国家を超えた情報の流通は、今日のナショナリズムや原理主義を制約してゆく可能性もっています。
それらが、国際的交流という物的身体的領域の波動との照応関係を失うからです。
(もちろん、国際交流とインターネットが、原理主義やナショナリストの活動を容易にしている面があることはいうまでもありません)

(3) 相対的真理は、人生の最高の目標ではありえない

 サーカーは、形あるものを自分の最高の目的として観念化(意識化)すべきではないと考えます。
形あるものはすべて、時、場所、人の変化に応じて変化する相対的真実であるからです。

 自分の属する国を最高のものとして意識化、観念化するナショナリズムについて次のように述べます。
「多くの人々が、自分の国を崇拝します。
祖国の像を立てたりもします。
しかし、祖国への奉仕が人間の最高の目標ではありえないことを理解する賢明さを持つべきです。
なぜなら、祖国の概念は変化しつつあるリアリティだからです。
今日の祖国は、明日は大洪水で海に沈むかもしれません。・・・
だからある特定の国、地方の領域的な管轄は、将来、変化するかもしれません。
領土的な管轄を争点として激しい戦争を戦い、それによって人間社会の平和を乱すことは賢明なことではありません。
このような争点はもっと良い方法で互いにそれぞれの地域の住民によって解決されるべきです」(Ism and Human Progress)

(4) イズムという心の枠をとっぱらい心を無限に拡張する

 この形ある変化する相対的世界を最高のものと位置づけないとしたら、何を人生の究極の目標とすべきなのでしょうか。

 サーカーは、万物をその根源にある一つの無限の意識の表現として感じるところまで心を拡張することを人生の最高の目標としなさいと言います。

「人間の最高のイデオロギー(観念形態) は、非人格的なものであり、時、場所の領域を超えたところにあるものです。
それは人格的なものではない何かです。
この非人格的な実体は、最高非人格実体Supreme Impersonal Entityです。
もし人間がこの実体を自分の、観念化ideation の唯一の対象として受け入れるなら、不可避的な堕落への帰結を免れることができます。
社会的、政治的、経済的などんな理論も、時代を限定せずにどの時期にも人類に役立つことはできません。・・・
もし、最高意識Supreme Consciousness以外の実体が、人間の観念化 ideation の対象として受け止められたならば、イズムが支配しているとみなすことができます」(Ism and Human Progress)

 最高意識とは、形がなく、全宇宙そのものをもっとも精妙なレベルで認識したものです。
サーカーの哲学では、自分を含むこの顕現した世界の一切を最高意識(パラマ・プルシャ)のあらわれとして認識することが、最高意識の観念化です。

 イデオロギーという言葉は、一般にはサーカーがドグマ、イズムとして批判している意味として使われています。
サーカーの用い方は、イデオロギー本来の意味の「観念形態、意識形態」を意味しています。
観念形態すなわち心全体を占める最高の願望、目標がイデオロギーです。

 自分の人生の最高の願望を自分の所属する民族、所属する党派、所属するカースト、所属する団体などなど、あるいは尊敬する人に置き、心の観念形態をその有限のものと合体させるのは人生の目標としてはだめだというのです。

 それは、時、場所、人によって変化をこうむる相対的真理でしかないからです。

 最高のイデオロギー(観念形態)を持つとは、私たちの周囲のあらゆるもの、存在のすべてが、全宇宙的表現の一部として感じる意識形態に達することです。
したがって最高のイデオロギーに到達した人は、全人類、全生命、全存在物がかけがえない尊いものと感じるネオ・ヒューマニストです。

4)克服すべき狭隘なセンチメント

(1) センチメントとは

(ハ) サーカーによれば、ドグマやイズムは狭隘なセンチメントを通じて表現されます。センチメントとは自分の属する集団に対する偏愛感情または偏愛意識です。
注)セントメント
Sentimentを「意識」と訳すならば、consciousnessの訳としての意識と混同が生じる可能性があります。
「感情」と訳すならば、情動を含むことになります。
そこでセンチメントのままにしました。

 地域センチメントと社会センチメントは、二つあわせて、社会科学で言うエスノセントリズム(自集団中心主義)と呼ばるものに対応します。

 人類社会を、内集団と外集団に分けて認識し、自分の所属する集団に対する「身内びいき」感情が成立したものがエスノセントリズムです。
サーカーが、センチメントとして論じているものはこの「身内びいき」の気持ちです。

 センチメントとしてサーカーは三つのカテゴリーをあげています。
地域センチメントgeo-sentiment、社会センチメントsocio-sentiment、一般ヒューマン・センチメントgeneral human-sentimentです。
まず地域センチメントから順にみてゆきます。

  (2) 地域センチメントgeo-sentiment

 ネオ・ヒューマニズムの観点では、すべての土地は、無限の最高意識のあらわれであり、あらゆる地域が大切な場所です。
しかし、人は自然に生まれ育った土地や地域に対する愛着を身につけます。
それが自分の地域を他の地域よりも特別な地域ととらえたり、他の地域を軽視したりする感情としてあらわれる場合が、地域センチメントです。

 地域センチメントに経済的ドグマ、政治的ドグマ、宗教的ドグマを吹き込めば、それぞれ地域経済センチメント、地域政治センチメント、地域宗教センチメントなどが生じます。

①地域経済センチメントgeo-economic-sentiment
 それは、他の地域を自分の地域の工業発展のための原料の供給地、商品市場としての衛星地域として搾取します。

②地域政治センチメントgeo-political sentiment
 他地域に優越意識をもつ政治意識が地域政治センチメントになります。
他地域の政治支配に進みます。

③地域宗教センチメントgeo-religeous sentiment
 ほとんどの宗教は聖なる土地をもうけます。
そのため聖地をめぐる流血の争いが生じたりします。
 女性が入山することを禁じる「聖なる」山もあります。
この場合は、地域宗教センチメントに性別にもとづく社会センチメントが加わっています。

(3)社会センチメント socio-sentiment
 自分が所属する社会への帰属意識にもとづくものが社会センチメントです。
社会センチメントの基盤となる社会集団には、家族、団体、宗教、階層、性、文化、言語、人種、民族、国家など大小様々です。
ネオ・ヒューマニズムの観点では、全人類は根源において一つであり、人類社会のこのような表現の多様性に優劣を見ません。

 ところが、社会センチメントは、表面的なレベルの多様性にもとづいて非合理的な優劣の感情を発生させ、人類の間に対立と紛争を引き起こします。
またある社会集団による他の社会集団に対する心理的搾取を引き起こします。

(4)社会センチメントは心理的病

 サーカーは社会センチメントについて次のように述べています。

「より大きな集団に属する人は、常により小さな集団を軽蔑し、非難します。
 自分自身の家族だけとかかわりをもち、単に会社勤めをし、家ではぶらぶらし、新聞を読むだけの人がいます。
 カーストにもとづくコミュニティの人々は、そのような人を『家族だけにしかかかわっていない』と批判します。
 そしてそれよりも大きなコミュニティに参加している人々は、その人々を『自分たちのカーストだけにかかわっている』と言います。
 しかし、さらにより広い集団である国家に帰属意識をもっている人々は、『このようなコミュニティやカーストはナショナリズムに反している。
もし、われわれがカースト、コミュニティなどにかかわるなら、それはナショナリズムの基礎を弱めてしまう。
彼らは国家の敵だ。
彼らは宗派主義などの狭い考えを広げることで社会に害を与えている』と言い、ナショナリズム宣伝します」(Ism and Human Progress)

 ここでサーカーが述べているような家族集団にもとづく社会感情は、一般にはマイ・ホーム主義と言われています。
私たちの社会でも国家や民族への社会センチメントをもっているナショナリストは、マイ・ホーム主義を狭い自分のことだけ考える利己的な心だと批判するでしょう。

 しかし、サーカーは、自分が帰属を意識している社会集団の大小にかかわりなく、社会センチメントはすべて同じ心の病であると考えます。

 それでは、なぜ、自分の家族を偏愛する意識と自分の国家を偏愛する意識が同じ病なのでしょうか。
「以上に述べた全員が同じ病にかかっていることを忘れています。
唯一の違いは、その人の病の範囲が他の人の範囲よりもやや大きいかというところにあります。
 実際には、彼らは同じ病にかっていることに気づいているのかもしれません。
しかし、利己的な利益に動機づけられているために、なおもこの種の考えを広めています。
自分をなんらかの特定の範囲の中に制限する人々は、その範囲の大きさにかかわりなく、すべてが社会センチメントの領域の中に入ります」(Exploitation and Pseudo-Culture)

 このようにサーカーは、社会集団の大小にかかわりなくそれらの社会センチメントのすべてが、心に枠を設定して内と外を作り出している点で共通の病だと考えています。
違いは心の半径の大小であり、心に枠を設定している点では共通なのです。

5)一般的ヒューマニズム(普通のヒューマニズム感情)

 おそらく読者は、地域センチメントも社会センチメントも乗り越え、「一般的ヒューマニズム"general humanism」に達しているレベルの人だと思います。

 一般的ヒューマニズムとは、心の半径の枠の中に人類全体が入っています。

 「家族センチメントもまたある種の社会センチメントです。
しかし、その半径は非常に小さいものです。
それより大きいものがカースト・センチメントです。
そしていっそう大きいものが,コミュニティ・センチメント、ナショナル・センチメント、インターナショナル・センチメントです。

 すべての社会感情の中で、もっとも狭いをものをに『最小社会センチメント "socio-sentiment minimitis』と呼び、そのもっとも大きいものを『最大社会センチメント"socio-sentiment maximitis"』と呼びます。
その最大の段階を『ヒューマニズム』または『一般的ヒューマニズム』と呼びます」(Pseudo-Humanism)

(3) インターナショナリズムの限界

 したがって、サーカーにとって、インターナショナリズムは、一般的ヒューマニズムではありません。
「私が、ネイションの存在を認めて、私は、すべてのネイションのために働いていますと言う時、それは、一般的ヒューマニズムでもユニヴァーサリズム( 普遍主義)でもありません。
それは、単にインターナショナリズム(国際主義)です」(Pseudo-Humanism)

 これはまったく今日の政治指導者の理屈です。
自分の国益を守り、他国の国益を尊重すると言います。

 その理屈から、日本政府はアメリカの要請でイラクに自衛隊を派遣しました。
「国際貢献」は、インターナショナリズムです。

 かつて、労働運動で、スターリンのソ連を守ることが、インターナショナリズム(国際主義)だとされたことかあります。

 サーカーは、インターナショナリズム(国際主義)は、真の解決ではないと言います。
「さて、インターナショナリズム(国際主義) という用語を使う時は、別々のネイションの存在を前提としています。・・・
一つのネイションが他のネイションの血の上に栄えようする時、それに反対せざるをえません。
この反対は、最終的には戦争をももたらします。
だからインターナショナリズムも解決ではありません」(Pseudo-Humanism)

 この「インターナショリズムも解決ではありません」というサーカーの言葉は19世紀末の社会主義者たちのインターナショナリズムの運命を振り返る時、考えさせられるものがあります。
エンゲルスたちがかかわった第二インターナショナルは、平和と国際連帯を何度も誓いながらも、高まるナショナリズムを克服できず、第一次大戦の勃発の中で崩壊しました。
レーニンたち一部の社会主義者を除いて第一次大戦に向けて祖国擁護というナショナリズムの立場に立って戦争に協力しました。。
インターナショナリズムもナショナリズムの基盤に立っている故にネイション(国民国家)の間の衝突が激化する時、ナショナリズムの本性の表現を容易に許してしまうことになります。

(4) 一般的ヒューマニズムの二つの問題点

 ナショナリズムやインターナショナリズムを越えて心の円周を拡大し、一つの囲いの内部にすべての人々を含めるならば、それが「一般的ヒューマニズム」です。

 私たちはそれを人間のやさしさの理想と受け止めます。
しかし、サーカーは一般的ヒューマニズムには、二つの問題があると言います。

 一つは、なおもヒューマニズム内矛盾intra-humanistic conflictをひきおこす余地があることであり、もう一つが、人間中心であるがゆえに他の生命との関係で生態系のバランスを崩してしまうことです。
まず、前者からみてゆきましょう。

(イ)ヒューマニズム内矛盾

「ヒューマニズム内矛盾」とは、同情、哀れみを含むヒューマニズムは、相手の従属を引き起こし、そこから紛争を生じさせるということです。
「あるコミュニティが飢餓に苦しんでいるのを見て、彼らに食物を提供したとしましょう。
これは、明らかにヒューマニスティックです。
しかし、心の底で、『この人々を原料の提供者、われわれの完成商品の購入者として利用しよう。
これらの人々はすでにわれわれをありがたく思っているのだから』と考えます。
この種の心性は、いつか社会の平和を破壊します。
だから、ヒューマニズムのアプローチも完全ではありません。
それは質的に低下します」(Pseudo-Humanism)

 2002年の「国連途上国会議」は「先進諸国は、貧しい国の生産物を購入できるようにもっと市場開放をしてゆかねばならない。
先進国の中の市場開放への反対を克服してゆかねばならない」という内容を含む決議をしたと報道されていました。

 これは、先進国の農民たちが、農産物の自由化に反対したりすると貧しい国の人々に思いやりがないかのような言い方です。

 サーカーは、こうした理屈をエセ・ヒューマニズムとして強く批判します。

 「『先進国』『発展途上国』『未開発国』とか呼ばれます。
興味深いことは、これらの『先進』諸国の一カ国として、自分の足で立つことができないことです。
その国々は、発展途上国や未開発国に対して状況の圧力を生み出すことによって、自分たちの工業製品を買うように強いているにすぎません。
これらの諸国のどれ一つとして、自分自身の資源を開発しての「先進」ではありません」(Pseudo-Humanism)

 そしてサーカーは、先進国が、資源の自立ができなければ、最終的に他の国に「物理的な力や知的な力を用いることになるでしょう」と述べています。

 マイ・ホーム主義者で家庭と職場を往復するだけの人間であっても、家庭内紛争は生じます。
ナショナリストであっても、ネイション内部には搾取と対立があり、ナショナリズムは、それを隠蔽、抑圧します。
同じように一般的ヒューマニズムは、すべての人類をその内部に包含した意識であることによって、あるコミュニティによる他のコミュニティに対する搾取を隠蔽し、紛争を生じます。

(ロ)動物界に対する加虐的傾向を抑止できない

 ヒューマニズムは人間中心主義ですから他の生物を迫害しても、罪に感じません。
サーカーは、他の生物にたいする加虐的傾向は、同時に人間に対しても加虐的に傾向をもつことになると言います。

 「現在、動物に対してなされているその種の迫害が、同じやり方で、ある社会集団によって他の社会集団に対してなされています。
なぜなら、他のものを苦しめる傾向 (サディスト的傾向)が、搾取者の血の中で優勢だからです。
彼らはこの病を免れることができません。
彼らは単に高い理想を口にするだけなのです。
こういうわけで、これはヒューマニスティックな戦略ですらなく、すべて偽ヒューマニスト戦略なのです」(Liberation of Intellect)

 神戸のA少年は猫を殺し、次には、人間を殺しました。
動植物の世界を尊重しない人間は、他の人間集団に対しても同様に尊重しない心を持ちます。

 サーカーは、生命の尊厳を説いたヒューマニストが、講演の後で牛肉をなんのためらいもなくおいしく食べる欺瞞を述べています。
一般的ヒューマニズムは動植物の生命の尊重までは心から説きません一般的ヒューマニズムにはこのような限界があります。




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