Heart Chakra Meditation (432 Hz) ~ karunesh (video inspired by god of star)



( Neo-humanism theory liberates human beings from rule of thinking pattern of negative gods completely )

Dear
I am god salamnidam who downed neo-humanism to P.R. Sarkar.
This summery of neo-humanism of Mitsuki is excellent.
You can know neo-humanism by reading this article.

Theme of this part is to view neo humanism as compared to ordinary humanism.
Ordinary humanism appeared as human centered theory against rule of negative gods.
Negative gods joyed manipulating human beings.
In order to resist rule of negative gods human centered theory is progressive.
But negative gods continues to rule human beings by using human centered theory.
Human centered theory has weak point.
Neo-humanism theory liberates human beings from rule of thinking pattern of negative gods completely.


こんにちは
私はP.R. サ-カ-にネオ・ヒュ-マニズムをおろした神サラムニダムです。
このミツキのネオ・ヒュ-マニズムの要約はすぐれています。
あなたはこの論文を読むことによってネオ・ヒュ-マニズムを知ることができます。

この部分のテ-マは、普通のヒュ-マニズムと比較してネオ・ヒュ-マニズムをみることです。
普通のヒュ-マニズムは、ネガティブ神の支配に対して人間中心思考として登場しました。
ネガティブ神は人間を操作して楽しんでいました。
ネガティブ神の支配に抵抗するためには人間中心思考は進歩的でした。
しかし、ネガティブ神は人間中心思考によって人間の支配を続けました。
人間中心思考には弱点があります。
ネオ・ヒュ-マニズム論は、ネガティブ神の思考パタ-ンの支配から人間を完全に解放します。


第一章 ネオ・ヒューマニズム論

サーカーの「ネオ・ヒューマニズム論」

サーカーの提起したネオ・ヒューマニズムにもとづく知性の解放とはどのようなものでしょうか。
これまでのヒューマニズムと何が異なるのでしょうか。

1)ヒューマニズムの再解釈

(1) ヒューマニズムの問題点

 ヒューマニズムは、もともと人間性を否定する宗教的権威や政治権力などに対抗して人間性を尊重する思想として登場してきました。
しかし、サーカーは、ヒューマニズムは、実際には、真に人間性を尊重する思想にはなっていないと言います。
その理由は、ヒューマニズムにおいては、第一に、すべての階層、階級の人々が公正に扱われるはずなのに、実際は、搾取や不公正を隠蔽する役割をはたしていること、
第二に、人類愛と生命の尊重を建前としているけれども、実際には、心の内側には自国中心主義と人間以外の生命を軽視があることなどです。

 サーカーは、このようなゆがみのあるヒューマニズムを偽ヒューマニズムと呼びます。
そして本来のヒューマニズムの理念を継承し、それを極限まで拡大するネオ・ヒューマニズムを提起します。
そして人類は、このネオ・ヒューマニズムの道を進むべきだと主張します。

 「このゆがめられたヒューマニズムをネオ・ヒューマニズムの方向に向けることによって、私たちはすべての心理⇒精神性psycho-spiritualの病の新しい万能薬を生み出すことになります。
しかし、その逆に、もし、人類(ヒューマニティ)が、偽ヒューマニズムの道にそって進むことを許すならば、人類の社会的、経済的、政治的、文化的、精神的生活は、歪曲と欠陥に満ちたものになるでしょう。
それは人間の心を汚し、堕落させるでしょう」(Neohumanism is the Ultimate Shelter)

(2) ヒューマニズムの再解釈

 サーカーの提起するネオ・ヒューマニズムは、現在のヒューマニズムの限界を乗り越え、人類を新たな知的心理的地平に導くことを意図したものです。
サーカーは「新しい光のもとでヒューマニズムを再解釈しよう」と次のように言います。

 「ある人々が前進を開始した時、彼らは、自分たちのことをより考え、他の人々のことはあまり考えませんでした。
ましてや動物や植物のことは考えませんでした。
しかし、もし、私たちが冷静な頭で分析するならば、私の命が、私にとって大切であるように、他のものの命も、彼らにとっては同じように大切です。
そして、もし、私たちがすべての生き物の命にふさわしい価値を与えないならば、その時、完全なヒューマニティ(人間性)の発達は不可能になります。
もし、人々が自分個人のことについて、あるいは自分の小さな家族、自分のカースト、自分の氏族や部族についてより多く考え、集合体についてまったく考えないならば、それは明らかに有害です。
同様に、もし、人々が、生命世界全体( 植物世界、動物世界) を軽視するならば、それは本当に有害なことではないでしょうか。
私が、新しい光のもとでヒューマニティとヒューマニズムを解釈する必要があると言っているのはこういう理由からです。
そしてこれの新しく解釈されたヒューマニズムは、この世界の貴重な宝となるでしょう」(Neohumanism is the Ultimate Shelter)

2)ネオ・ヒューマニズムの精神とは

 ネオ・ヒューマニズムは、ユニヴァーサリズム(普遍主義)とも言います。

 それは、ありとあらゆる存在への愛です。
ありとあらゆる存在が根源において「一」(oneness)であることを意識化することです。

 そのために多様なる存在のすべては一なるものであり、存在を区分する線が意識の上から消えてゆきます。

 「あなたはすべてのために考え、すべてのために計画し、すべてのために行動しなくてはなりません。
絶対的視野(Absolute perspective)からは、人類の中のある人間と別の人間の間に相違はありません。
人類と動物の間に、生命と非生命の間に相違はありません。
あなたは動くものと動かないものの間を区分する線を引くことはできません」(Ism and Neo-Humanism)

 サーカーの哲学では、大宇宙の根源にある意識が粗大化し、この物質世界のすべてとして展開しています。
一者の多者としての顕現です。

 自らの心を宇宙の根源の意識に到達させてこの天地万物を見る時、実感をもってあらゆる存在を無差別に尊重する人格が生まれます。
宇宙の根源の意識を神とすると自らの心を神まで到達させる努力が必要になります。

 宗教は、絶対者の神を自分の心の外側に設定して祈ります。
いつまでたっても自分自身の心が神になることはありません。
仏教は、本来、悟った存在になることを目標にしており、サーカーの宇宙の根源の意識に自分の心を到達させることと似ています。

 しかし、サーカーは、宗教のもつ寺院や教会、像、教義、儀式、祈りという形式を否定します。
心だけを道具として宇宙の根源の意識に自らの意識を到達させる純粋にスピリチュアリティだけの実践を指導しました。

 さて、このスピリチュアリティの実践によっ宇宙の根源にある無限の意識に自らの心を近づける時、ありとあらゆる存在が聖なるものとして見えてきます。
ネオ・ヒューマニズムを身につけた目からは、あらゆる存在は次のように見えてきます。

(1) あらゆる人、すべての人類の尊重

では、新しく解釈されたヒューマニズムとはどのようなものでしょうか。
それは、人種、民族、宗教、階級、国籍、性別、年齢などを超えてあらゆる人間が、一つの人類として公正に尊重されるべきことことです。

 したがって老いて死にかけの老人も働き盛りの人間も同じ人間的価値をもつ重要な存在です。

「人間社会には無意味な人はいないこと、無視してよい人はいないことを覚えておくべきです。
100 才の老婆の命も価値あるものです。
彼女は全社会の重要な構成員です。
彼女は排除されるべきではありません。
私たちは彼女の重要性を正しく評価することができないかもしれません。
彼女は社会のお荷物だと間違った考えを持つかもしれません。
しかし、この種の間違った考えは、私たちの無知を示しています」(Ism and Neo-Humanism)

 人種、肌の色についてもいかなる不均衡もあってはなりません。
「ある人々は白い肌の色をしており、ある人々は黒い肌で、またある人は黄色い肌であったりします。
それは、もともとからの違いではありません。
それは外面的な相違です。・・・
(肌の)色によるいかなる相違もあるべきではありません。
肌の相違のゆえにいかなる不均衡もあってはなりません」(Ism and Neo-Humanism)

 性の違いによる不公平があってはなりません。
「数百年前、世界の多くの国々で女性は投票権を持っていませんでした。
女性も人間です。
男性と男と同じ権利を持っています。・・
社会的平等を求める運動を開始し、性的相違にもとづくそのような不平等に対して闘わなくてはなりません。・・・
社会には、服従させるリーダーシップではなく、協同的なリーダーシップがあるべきです。
男性と女性の間の関係は、調整された協同的な関係であるべきです。・・
これらの不均衡、不平等に対して闘わなくてはなりません。
社会からそれを無くさなくてはなりません」(Ism and Neo-Humanism)

 さらに今日においても、政治面や経済、文化面において、あるグループの人々による自国や他国の人々に対する利用(搾取)があります。
サーカーは、よい心をもった人々に知らせて、ともに人間の利用(搾取)をなくすことに取り組むように言います。
「政治の面においては、あるグループの人々は、自分の国あるいは他の国の別のグループの人々を搾取します。
そこには政治的不平等があります。
今もある種の経済的分極化、すなわち経済的搾取があります。
そればかりでなく、文化的不均衡と社会的文化的搾取もあります。
この事実をすべての人に知らせるようにしなくはなりません。
良い考えをする人々、正しく考える人々は、これらの不均衡を支持できません。
だから私たちはそれを支持できません。」(Renaissance in All Strata of Life)

 ただしこれらはユニヴァーサリズム(普遍主義)の精神のもとでなされますが、実際の取り組みにあたっては、各地域の事情に合わせたものでなくてはりません。
「ただし、世界の各地域がそれぞれ独自の問題と独自の諸条件をもっていることを前提としたユニヴァーサリズムでなくてはなりません」(Renaissance in All Strata of Life)

 以上は、あらゆる人、すべての人類が尊重されるべきだというネオ・ヒューマニストの目から見た時に、取り組んでゆくべき人間社会の課題のいくつかでした。

 自らの心を宇宙の根源において、この世界を見つめるネオ・ヒューマニストの課題は人間世界にとどまりません。

(2)すべての生命の尊重

(イ)「木の枝だって生きたいのだ」

 ネオ・ヒューマニストの目には人間の強者も弱者も同じ存在価値をもっているように、巨大な恐竜と小さなアリも同じ存在価値をもっていると映ります。
「過去の巨大な恐竜も今日の小さなアリも、同じ存在価値をもっています。
この世で人類がすることはすべて、最大の動物と最小の昆虫まで、すべての生命のためになされなくてはなりません」(Ism and Neo-Humanism)

 さらにネオ・ヒューマニストの目からは、人間にとって自分の命が大切なように他の生き物にとっても同じように自分の命が大切であることが見えてきます。
「人間が生き残りたいようにハトも生き残りたいのです。
同様に、牛も生き残りたいし、木も生き残りたいのです。
ちょうど、私にとって自分の命がいとおしいように、生き物たちの命も同様に自分たちにとっていとおしいのです。
この世に生きることは人類の生まれながらの権利です。
そして、この地にとどまることは動物世界、植物世界の生まれながらの権利です」(Renaissance in All Strata of Life)
「木の枝一つさえ、無用のものはありません。
それは喜びと苦しみの感情を持っています。
私たちはどうしても必要な時だけ木の枝を折るべきです。
あなたが生きる権利を持っているように、他のものもそれを持っているのです。
あなたの生命があなたにとって大切であるのと同じように他のものの生命もそれらにとって重要なのです。私の生命が私にとって大切であるように、他の人の生命もその人にとって同じように大切なのです。
あなたが他のものについて考える時、この考えを心に保持すべきです。」(Ism and Neo-Humanism)

 さらにサーカーは、人類が他人の痛みだけでなく、他の動物の喜びと苦しみを理解できるようになった時、人間はより高い知力に到達できると次のように言います。
「人類は、他の人間の痛みや苦悩を感じることができます。
しかし、犬が悲痛にくれている時、誰もそれに注意を払いません。
あたかも犬が痛みに苦しまないと考えているかのようです。
動物も喜びと苦しみを経験するということを人類が理解するようになるなら、人類は新しい次元の賢明さを持つことになります。
それは、すべての生命に対して同情的であるべきだという私たち人間の義務感とより高い知力のためです」(Prout and Neohumanism)

(ロ)生命の高次の形態の方を尊重する

ただし、サーカーは、人間も動物も植物も土も同じレベルで対処することを主張しているわけでありません。
人間、動物、植物、非生命の順に奉仕すべきだとしています。
それは、生命のより高次の形態う尊重する精神から来ています。
「すべての創造物の福利well-being を確保するためのネオ・ヒューマニストの政策は、第一に人類に奉仕し、次に動物に奉仕し、次に植物に、そしてその次に生命無きものに奉仕すべきです。
人類は、動物王国の創造物を殺すべきではありません。・・・
人類は、生命のより高い形態に対する尊敬から牛を殺すことを止めるべきです。
バッファローや山羊の屠殺も、同じ理由からすぐに止めるべきです」(Prout and Neohumanism)
だから当然のことですが、人間の生命が動物によって侵されそうな時は、人間の命の方の優先を説きます。
「一般的な原則として、私たちはいかなる状況のもとでも、動物を殺すべきではありません。この原則の例外は、人間の生命が危険である時です。
たとえば、もし、あなたが、自分の生命を脅かす虎に直面するならば、虎が攻撃する前にあなたは虎を殺さざるをえないでしょう。
同様に、もし、ライオン、ヘビ、象などが、あなたの居住地にやってきたら、その時、最後の手段として人間の安全を確保するために彼らを殺さざるをえないかもしれません。
しかし、直接に人間の生命を危険にさらす時だけ動物を殺するべきです。
したがって、彼らの自然の生息場所の中の動物は殺すべきではありません」(Prout and Neohumanism)

 サーカーはヴェジタリアンです。
したがって動物に対する不殺傷においては徹底した人生を送ったと思われます。
ただし、彼は、プラウト経済論のところでは田んぼに魚を養殖する提案をしていました。
そしてイヌイットが生活している極北の地では、必要な栄養を摂取するために肉食もやむをえないとも論じていました。
人間の生存のための食物としてやむをえず動物を殺すことも認めている考えられます。
それは、生命のより高次の形態を尊重する考えからだと考えます。

(ハ)動植物の聖域(保護区)を

 人間の近くで生きれば、人間に危害を加えかねない動物についても、保護区をつくって守るべきだと次のように言います。

 「森の中には、多くのライオン、虎、ヘビなどがいます。
しかし、そのような生物は彼らの自然の環境の中においては殺されるべきではありません。
なぜなら、彼らは人間の生命を脅かしていないからです。
人間を攻撃するのは、虎の特質ですが、すべての虎がその理由から簡単に殺されるべきではありません。
瀕死の動物と危険にさらされている動植物のために聖域を作ることが人間の義務でもあることを忘れてはいけません。
これは動植物の生命に対するネオ・ヒューマニズムのアプローチです」(Prout and Neohumanism)

   現在は、肉食のために牛や豚などの大量屠殺が行なわれています。
肉食は菜食よりもより健康に悪いものであることが医学的に証明されつつあります。

 ネオ・ヒューマニズムを身につけ、人類がさらに進化して、人類が牛や豚などの喜びと苦しみを理解し、その命を尊重する気持ちをもつようになった時、人々は、昔の肉食文化はなんと残酷で野蛮な文化だったんだろうと感じるかもしれません。

(3)命無き世界まで尊重

(イ)ネオ・ヒューマニズムの対象領域の拡張

 ネオ・ヒューマニストのすべての存在への愛と尊重の精神は、命無き世界にまで及びます。

 サーかーは、ネオ・ヒューマニストの奉仕の領域は、命なき非生命世界まで拡張させられるべきだと言います。 「ネオ・ヒューマニズムのアプローチは、あらゆるものを含んでいます。
その管轄内に生命ある世界と生命無き世界の両方を含みます。・・・・
私たちの奉仕の領域は、生命の世界を含むべきですが、そこに限定されるべきではありません。
それは、生命無き世界の外側の淵にまで広げられるべきです。
これは今日の要請です。ネオ・ヒューマニズムの観点から私たちの奉仕の領域は、常に増大、拡大させられるべきです。
そして生命ある世界、生命無き世界の両方を含むべきです」(Prout and Neohumanism)

 したがって、ネオ・ヒューマニストの目から環境破壊や核実験は、許すべからざるものとして映ります。

(ロ) 「地下水の利用よりも貯水の利用を」

土地陥没の原因の一つに地下水の汲み上げがあります。
サーカーは、地下水よりも貯水を活用せよと言います。

 「人類は、非生命世界を正しく考慮してきませんでした。
たとえば、人類は、多くの丘や山に害を与え、壊してきました。
あなた方は、山や丘を壊すべきではありません。
さもないと降雨について悪影響があるでしょう。
あなた方は、地下水の使用、深い井戸tube wells、浅い井戸を使うべきではありません。
なぜならば、この種の井戸に頼りすぎることは、水床レベルの低下を引き起こします。
そのことは、土壌の乾燥を引き起し、植物の生命を奪います。
地下水ではなく、雨水と川水、雨水を集めるための貯水池を使用することがベストです」(Prout and Neohumanism)

 日本でも、高度経済成長の過程で地下水採取量が急激に増大したため、地盤沈下や塩水化といった問題がおきました。
国土交通省のホームページは「現在でも地下水採取と地盤沈下の問題は解決したということはできないでしょう」と述べています。

(ハ)生態系のバランスを崩した核実験

もちろん核実験も非生命世界を破壊してきました。
「人類が非生命生命世界をいかに破壊してきたかのもう一つの例は、繰り返される原子爆弾の実験です。
原子の爆発は、地球の地殻に巨大なクレーターと大きな地下洞窟をつくります。
それは大気に黒い雲を生み出し、自然環境の生態系のバランスを崩します」(Prout and Neohumanism)

 1945年に米国のニューメキシコ州の砂漠での実験以来、米国、旧ソ連、英国、フランス、中国、インド、パキスタンといった国々が核実験を行い、その総計は2000回以上になります。

 それは私たちの共有財産である地球惑星を害してきました。
今日、引き起こされいる地球環境の異変にこれらの核実験は無関係なのでしょうか。

 大地という非生命世界を「含んで超えて」生命世界の生態系が生まれ、その生態系を「含んで超えて」人類が生まれました。

 大地の非生命世界のバランスを崩すことは、その上に立つ、生命世界、人間世界のバランスを崩すことにほかなりません。

 「母なる大地」を尊重する精神をネオ・ヒューマニズムは包含しています。




H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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