Noam Chomsky's Take on the film American Sniper
(video inspired by god of star)



(Democracy is precondition of individual having self-reliance)

Theme of this page is theory of Sarkar and democracy.
Democracy is precondition of individual having self-reliance.
This is most important view when thinking theory.
Mitsuki refers this most important issue.
I recommend you to read by translating.


このページのテーマはサーカーの理論と民主主義です。
民主主義は自立した個人を前提としています。
これは理論を考えるときもっとも重要な観点です。
ミツキはこのもっとも重要な論点に言及しています。
私はあなたに訳して読むことを勧めます。


サーカー思想は近代精神を肯定的に乗り越えるか

序)友人の天野氏の提起

「サーカーはインドの土壌からでてきた思想である。
近代を超える思想を生み出している面と近代を踏まえていない面の両面がある。
インドではうまくいった面も日本のような先進国ではうまくいかない面があるのではないか。
近代の民主主義をしっかり踏まえていないのではないかという面を感じる。
サーカーの近代の物質主義の批判はするどいが、近代を生み出した近代精神に対する理解がどの程度あるのか」

 以下、この天野氏の提起に答えてゆきます。

1)近代精神を引き継ぎ、発展させる方向で乗り越えるべき

 私も同一のスタンスです。
社会を見るにあたって、個と集団の関係をどう人々がどう認識するかが大切です。
自立した個人の社会契約を前提とした民主主義思想、そして自然を科学的に認識する経験論や合理論の哲学、こうしたものが近代精神です。
私たちは、「それ以前にもどる=プレ」ではなく、その肯定面を保持して「含んで超える=トランス」をめざしましょう。

2)サーカー思想が近代精神を肯定的に乗り越える可能性 

私は、サーカー思想の中に近代を肯定的に乗り越える可能性を見ているのです。
サーカーの言っていることとの中にはそういうものがあるのです。

(1)それは第一に経済民主主義です。
近代精神の肯定面とは、自立した個人の連帯です。
その基礎になっていたものは、アメリカの西部開拓者のような独立自営の農民層です。
自分で生産手段をもって、自分で畑を耕し、森を開拓していた人々です。
創意工夫のできる自立した精神を子どもに教えないと生きてゆくことができませんでした。
しかし、今日、資本主義が高度に発達して、労働者は、生産手段をもたず、生産に対して本質的な自己決定のかかわりをもつことができません。
サーカーやコーテン教授たちの経済民主主義は、その会社を労働者の共有の協同組合にし、自分たちのものとして生産手段にしてゆくわけです。
そして自分達が住む地域の開発も、中央の遠くに住む人々ではなく、自分たちで決定してゆくわけです。
この意味では、経済ではまさしく近代(資本主義)を乗り越える思想です。
このように物的身体的領域の経済基盤において、サーカーが自立した個人の連帯を前向きに復活させる方向をもっており、近代を乗り越える質をもった思想でありうることが理解されるとおもいます。

(2)さらにもう一つ重要な面で近代を乗り越えています。
民主主義の基盤である近代精神というのは、当然のようにアメリカのフロンティア開拓農民のピストルが森のバッファローやインディアンに向けられ、それを疑うことを知りませんでした。
近代精神を達成した国の人々は、帝国主義国となり、世界中の他民族を蔑み、人間も生物も殺してゆきました。

サーカーは、ネオ・ヒューマニズムの立場から、すべての人類、すべての生命、すべての存在が同じように尊いという意識を身につけること、そうした文化を発達させることを重視します。
自分の国はすぐれているというナショナリズムのドグマ(思い込み)を批判します。
これをドグマから知性の解放と称しています。
サーカーのめざすネオ・ヒューマニズムと知性の解放は後ろ向きに近代の克服をめざしていることでしょうか、前に向かって克服をめざしていることでしょうか。

サーカーは自然科学や社会科学の領域では、その進歩を肯定し、しっかり学ぶようにいいます。
そして合理的推論の重要性をくりかえし述べています。
そしてフィールドワークのような調査の重要性にふれた個所もありました。
すなわち今日の学問をさらに深めてゆく重要性を否定していません。
ネオ・ヒューマニズムを身につけた人間が知的に発達し、搾取を見破り、搾取と闘いなさいといいます。
ですから、知的心理的側面でもサーカーは近代精神を未来にむかって超えようと呼びかけていると考えます。

(3)スピリチュアリティ=精神性の領域では、前近代的思想がたくさんあります。
概して社会の見方が主観的で恣意的で非科学的です。
サーカー思想のスピリチュアリティはその点ではどうでしょうか。
近代西洋思想をもったイギリス帝国主義の支配に対するインド独立運動の発展の中で、インド人というアイデンティをもとめて、過去の文化を見直し、様々のインドの前近代的思想を復活させ、実践する人があらわれました。
サーカーもその流れの中に位置づけることができます。
サーカーは、インド最古のウパニシャッド哲学、そしてサーンキヤ哲学、ハタ・ヨーガなど、それまでのすべてのインドのスピリチュアリティの理論と実践を復活させています。

しかし、サーカーのスピリチュアリティがそれらの前近代思想をそのまま復活させたものかというとそうではありません。
彼は、まったくあらたな光でそれまでのスピリチュアリティの思想を再解釈しています。
この点はきわめて重要です。

一例をあげましょう。
プルシャとプラクリティの概念でこの全宇宙一切をとらえる視点は、サーンキヤ哲学と同一ですが、その解釈はまったく違うものとなっています。

サーンキヤ哲学では、プルシャはただ見ているもの(純粋意識、観照者)で、プラクリティは、根本原質であり、大宇宙、あるいは小宇宙(人間の心)の自我として展開してゆきます。
(注「今に生きるインドの叡知  ヨーガの源流から現代の聖者まで」成瀬貴良、善本社105ページより)
つまり基本的にはこの宇宙はプラクリティであり、幻影であり、真実はプルシャにあるのです。

しかし、サーカーの哲学では、プルシャ(純粋意識)は単に観照者であるばかりでなく、実はこの大宇宙のいっさいの根本材料です。
サーカー哲学に「根本原質」という言葉を使うとすれば、プラクリティではなく、むしろプルシャなのです。
これは重要な決定的な相違です。
純粋意識(プルシャ)がプラクリティによって固められて、この物質宇宙として展開しているのです。
プルシャ(純粋意識)は大宇宙の最初から最後まで存在している実体です。
あらゆる物質は、純粋意識が固まっているのです。

それは物質の実在性を前提とする故に、科学的唯物論とも同一の波長の側面があり、人類がこれまでにもっていたスピリチュアリティの哲学(仏教などの諸宗教を含めて)との根本的な違いがあると感じています。
ここにサーカー思想が単なる過去にもどる前近代思想に終わらない可能性があります。

サーカーはウパニシャッド哲学を復活させています。
ウパニシャッド哲学のもっとも重要な教えの一つは、外界の多様性・雑多性は『幻=マーヤー』ととらえることです。
一方に奴隷がいて、他方で富者がいるという差別の様相も「幻=マーヤー」です。
仏教もヨーガ思想も、すべて、この現実が「幻=マーヤー」でありとして、この現実社会の階級差別的な諸相に対して容認し、消極的な態度に陥ります。
せいぜい、優位にたつものによる、かわいそうな人々への慈善行為を推奨して、多様な差別的社会の諸相の安定化をはかります。

サーカーの哲学もこの外界の多様性(大は銀河から小は電子に至るまでなに一つ同一のものはないという多様性)を、大宇宙の思考のあらわれ、すなわちマーヤーとしてみる点はまったくウパニシャッド哲学と同じです。
しかし、サーカー哲学では、マーヤーは単なる幻ではなく、この世界で生きる私たちは、そこから生まれてき、そこに規定されざるをえない、動かすことのできない現実であるという哲学なのです。

その決定的なポイントは、プラクリティでなく、プルシャ(純粋意識)の方をこの全宇宙の材料(根本原質)ととらえる点にあります。
ここに近代物質文明を「含んで超える」論点があります。
いわば、社会的正義感から社会変革にいどむ唯物論者と共通するものがあるのです。
そして物質世界をプルシャ(純粋意識)の固まったものとしてみますから、自分をプラクリティの束縛から解放して純粋意識に至ろうというスピリチュアリティ(精神性)の向上もめざそうという理論構造になっているのです。

以上、サーカー思想が近代精神を乗り越える可能性をもった側面について紹介しました。

(サーカー思想の検討課題)

「しかしながら、天野氏のいわれるようにサーカーが「近代の民主主義をしっかり踏まえていないのではないか」という疑問を私ももっています。

インドで、サーカーの指導したアナンダ・マルガはスピリチュアリティの実践と社会的なボランティア運動にとどまらず、政治社会運動までおこないました。
全知のグルにしたがう出家集団がそのまま社会政治運動を指導する時、政教分離という近代民主主義の原則をおかしていることなります。
しかし、それに対して、進歩的活用理論をとなえ具体化を指導してゆくときは、P.R.サーカーとして、そして全知のグルとして出家者たちにスピリチュアリティの実践を教えるときは、シュリ・シュリ・アナンダムルティとして活動をおこなっています。
その点では、政教分離を本人が意識していたことは考えられますが、実体として出家集団が指導するわけですから、政教分離はなされていません。
近代政治においては、政教分離の原則は大切です。

その点で日本にサーカーの思想にもとづくグループができた時、スピリチュアリティの領域、知的領域、社会経済の領域について区分したスタイルが必要だと考えています。
この政教分離、すなわちスピリットの領域と他の領域を区分したスタイルこそ、民主主義原則にのっとってサーカー思想を適用する道だと考えます。

第二に、経済民主主義についてのサーカーの思想は、近代をさらに前方に克服してゆくすばらしい内容となっていますが、政治民主主義の言及については、議論すべき余地があります。
サーカーは、今日の代議制民主主義の問題点として、財をもつものが選挙を通じて裏で政治を自分たちに有利なようにコントロールしていると指摘しています。
さらに選挙の問題点として理想的な民主主義政治が実現したとしても、誰もが20才になったからといって自動的にふさわい政治判断力とモラリティをもっているわけではないと指摘していることです。
(もちろん、財産所有による差別のない普通選挙権を勝ち取ってきた闘いの歴史を評価した上での指摘です)

サーカーの問題提起を検討しながらも、政治民主主義についても、やはり近代民主主義の成果を引き継いだ未来像を考えてゆくべきだと思います。




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