8 Hour Sleep Hypnosis: Meditation for Sleep, Delta Waves, Deep Sleep, Soft Music ?389 (video inspired by god of star)


(Whole of human life should be placed as spiritual practice to eternal life)

Theme of this page is how spiritual practice should be.
Spiritual practice should include social practice according to providence.
This point of view of documents of Heaven is very important.
Whole of human life should be placed as spiritual practice to eternal life.


このページのテーマはスピリチュアルプラクティスはいかにあるべきかです。
スピリチュアルプラクティスは摂理にそった社会実践を含むべきです。
天の文書のこの観点はきわめて重要です。
人生全体が永遠の生命へのスピリチュアルプラクティスとして位置づけられるべきです。


科学的な見方とすべてをブラフマの顕現と見ることは両立する・・・・天野氏との対話

(1)一瞬一瞬に気づくこととブラフマ顕現の観点は両立する

この前お借りしたティク・ナト・ハンの「微笑みを生きる」をゆっくり読んでいます。
学ぶべき点があるので、私も本を手に入れておこうと思います。
彼の言う一瞬一瞬の気づきは、興味深いものがあります。
この前に天野氏から学んだ歩く瞑想も時々やっています。
今の瞬間に歩いていることに気づく。
今、車を運転して、青信号でとまっている。木、空、鳥が見える。

そうして、今の瞬間を見る時、いろいろ名詞をあてはめてようとおもいます。
何の木か名前を知らないものがほとんどです。
自分がいかにこの世界の様々な実体の名前を知らないかを思い知らされました。

 このティク・ナット・ハンの気づきの瞑想の提案は、現代的で実生活に役だつように考えていると思います。
私は、それにブラフマをつけています。
青信号、ブラフマ、空、ブラフマ、天野さん、ブラフマ、すべての今の瞬間をわたしは生きている。
それはブラフマの脈動なのです。

(2)概念・理論なしに、リアリティは読み取れない。

天野さんは、「すべてをブラフマの顕現とすること」は、あてはめ主義のように感じると言いました。

 リアリティを把握する時の概念装置として、図式、概念、法則などを活用することは有益です。
問題は、リアリティに迫るのではなく、リアリティを切り取り、リアリティの方を図式、概念、法則に従わせることにあります。
リアリティが、図式、概念、法則とずれてくるならば、図式、概念、法則の側を深化させなくてはなりません。

サーカーやウィルバーに従えば、リアリティには、物的身体的領域、知識心理的領域、スピリチュアルな領域があります。
理論なくしてそれらリアリティは読みとれません。
私たちが、図式、概念、法則、理論を身につけるのは、それ自体が目的ではありません。
リアリティの側に迫るためです。
理論なしには、リアリティの方にひきずられてしまいます。
もし、理論の深化を軽視するならば、リアリティ(無限の多)に方にひきずられてしまいます。

ブラフマはこの宇宙全体を包含する実体の概念です。
それはあてはめではありません。
私たちの目にみえるすべての実体が原子からなりたっているように、すなわち、木=原子、私=原子、あなた=原子、といっても間違いでなく、あてはめではないように、哲学的には、それぞれがブラフマであると言っても間違いではないのです。

(3)三領域のリアリティに迫るためにの理論

物的身体的、知的心理的、スピリチュアルな側面からのアプローチがあります。
三つの統合的アプローチが必要ですが、その結節点は知的な側面にあると私は考えます。

 その際、近代の科学的精神とはなにかが問題になります。
サーカーは近代の科学的精神と古代からの精神を区別しません。
原始時代にも科学があったとします。
ウィルバーは近代科学とそれまでの区別の重要性をみます。
私はウィルバーの立場にたちます。
私は、それは近代的個の確立と関連すると思います。
ここでは問題の所在だけ提起しておきます。

いずれにしても科学的なあり方とは、概念、理論のレベルと実証・実践のレベル、この二つが車の両輪のようにして発達してゆくスタイルです。
概念や理論なくして、実践はないのです。
実践なくして、理論の発展もないのです。
実践というのは三領域あります。
物的身体的領域では、実験・観察・調査、そして知的領域では読書など、そしてスピリチュアルな実践の三領域です。
スピリチュアルな領域まで理論と実践・実証の精神を貫いているがケン・ウィルバーです。
わたしもその立場に立ちます。

図式化、あてはめ主義、教条主義、どれも共通して、理論の側をリアリティに押しつけ、豊かなリアリティを見ることを曇らせるのです。
しかし、三つの領域のリアリティについて新たな真実を明らかにできる図式化は重要です。

ウィルバーの四象限は図式以外何者でもありません。
図式、概念、理論を、リアリティを明らかにするために用いることができるなら、まったく問題ありません。
問題はその人がリアリティの解明に主体的にそれらの図式、概念をもちいることができるかどうかです。

(4)天野さんより・・・・この項は、上の文章を受けた天野健氏の文章です

「サーカーのいう心を無限に拡大していく。
非常にすばらしいと思います。
すべては無限の愛と念じることですべてのものを愛する心をつくる大切なやりかたです。
ヴィッパーサナではすべての生きとしいけるものが幸せでありますようにと唱え自分の心を広げ深めていきます。
その点でまったく違いはありません。

ただ宇宙意識との合一を目指すこの方法はオウムでわかるように自分の心に繭のような閉じられた心をつくる危険性があります。
現実のものではなく心の念じたイメージでみる。
本当のもの。あるがままのものを見させなくする危険がある。

普通ではない神秘体験のすごさに自ら、はまってしまう。
はまるとその魔力に縛られる。
強烈な快感が伴うので手放したくないという執着も強く起こります。
そしてこれこそがほんとうと思わせる力があります。

ヨガ系の瞑想法にはこの危険が常に伴っているのではないでしょうか。
オームとは違うと思っているでしょうが,私は基本的な発想、瞑想法は同じだと思います。
自分の中にあるがままに起こっていることに対してそれを見させなくする働きがあるのでは。心にふたをしてしまう強烈な作用があるのです。

 それに対して、ことさら意図せず,きづいていない面を意識化する。
自分の中の知らない面,遠い面を意識化して統合するヴィパーサナー的なやりかたは一つ一つホロン階層を登っていく自己幻想を持たない方法です。

人間は自我の都合のいいことだけを取り込み自我の都合の悪いことを排除して、ありのままに見ません。
心の葛藤や見たくないもの、マイナスのもの。それらをありのまま見つめて受容すること。
自分自身の独特の反応パターンに気づくことです。
自覚して新しい回路つくること。
この点でヴィパーサナーに惹かれた点でもあるのですが。

ヴィッパーサナでは事実と頭の世界妄想の世界をきちんと分けてゆきます。
足に集中して今ここの意識で思考妄想を止めます。
心をあるがままに狙わずに自然放置して他人のごとく淡々と見つめてゆきます。
きづきをしてゆきます。
そうすることで自分が見えてきます。

瞑想のやりかたについてヨガ系の集中の瞑想法ときづきの瞑想法の両方が必要だといいたい。
あくまで実践の中でおきる問題について話したのです」

(5)統合的提案・・・上記の天野氏への返信

これを読んで、天野氏がヴィッパーサナやその他のスピリチュアルな実践団体にいろいろ参加されている理由が分かりました。
自分の五感、自分の感覚を捨ててドグマの中に洗脳されたくないという気持ちがあるのだと思いました。
それはとても大切なことだと思います。

ドグマにからめとられないようにするためには、私が天野さんなら、同じようにするでしょう。
で、それは正しいし、今の段階では、いい結果につながっていると思います。
すべてはあるホロン段階あるという相対的真理ですから。

 「ただ宇宙意識との合一を目指すこの方法はオウムでわかるように自分の心に繭のような閉じられた心をつくる危険性があります」

私はオウムは研究していませんが、サーカーの瞑想には、私の知った範囲では、まったくそういう危険はありません。
オウムが、すべての人をブラフマのあらわれたとして尊重したでしょうか。
むしろ、すべてをブラフマの顕現とみる見方で一致しているのは、マザー・テレサです。
彼女は路上に倒れている病の人もすべて神のあらわれてとして丁重に接して手当てしました。 

私たちはこの世界の物的人的諸関係の中で活動しながら生きてゆきます。
その中で心の粗大化や低下を引き起こします。
なぜなら、心は心の対象の性質に近づいてゆくからです。
私は実感をもってこのサーカーの説明に納得しています。
心の低下を避ける方法として、すべてをブラフマの顕現と見るのです。
それがサーカーのこの世俗の世でスピリチュアリティを向上させるアドバイスです。

一方、朝、歯を磨きながら、次はパンを食べなくては、次は、〇〇をしなくてはと、今を生きていない自分がいました。
サーカーの瞑想も、この今に対する気づきを高めてくれました。
だから、私は、サーカーの指導するプラクティスの有効性を感じます。

そして天野氏が教えてくれた一瞬の気づきのよさも理解できます。
実際に、ヴッパーサナの歩く瞑想もやって、その有効性を感じます。

(6)心にふたをするのではなく、心を解放してゆく道

ここでの問題はブラフマという概念装置です。

「現実のものではなく心の念じたイメージでみる。
本当のもの。あるがままのものを見させなくする危険がある」と天野さんは危惧します。

 この天野さんの記述にはサーカーのブラフマの説明についてのかなり誤解があると思います。

そして日常生活の中で、今の瞬間見たものをブラフマとしたからといって「普通ではない神秘体験のすごさに自らはまってしまう。はまるとその魔力に縛られる・・・」というようなことはありえません。
マザー・テレサが路上の病人を助ける時に、その病人を神(ブラフマ)の現れとみたからといって、彼女は神秘の世界に生きていることを感じていたかもしれませんが、魔力に縛られていたわけではなく、むしろ自由を体験していたでしょう。

実践は、朝・夕の瞑想、そして日常生活の中で私たちが気づく対象と自分、そのすべてが本当にブラフマなのか、スピリチュアルな実践で検証することです。
つまり科学的精神とは、目の前のものをブラフマと頭から信じるわけではないのです。
スピリチュアルな実践で検証するのです。
信じ込むのではないのです。

サーカーは、神(ブラフマ)を頭から信じさせる宗教を批判しています。
知性を低下させるからです。
ブラフマを頭から信じさせるやり方はマイナスにこそなれ、プラスにはなりません。
宗教的ドグマに低下します。
忙しい俗生活の場では、しっかりとした理論と実践の統一で進んでゆかねばなりません。

(7)山が見える

天野さんは、次のように書きました。
「スピリチュアルな実践の面に限定して話しているのです。
知の眼、肉の眼の話ではないのです。
禅の話をしましたね。
最初山は山に見えていた。
次に山は別の違うものに見えた。
最後に山は山に見えた。
最初は概念として山を見ている。
常識的な見方です。
次に山が別のものに見えるのはスピリチャルな実践の途上での話です。
最後に山が山に見えたというのは悟りに達した時の話です。
今問題にしているのはスピリチャルな実践の途上でのことです」

この天野氏の文に対して、私は次のように書きました。

  最初は山です。
山に生命を感じます。
山が輝きます。
最後は、山は『私』であることに気づきます。

スピリチュアリティの哲学では、究極の状態では、山も含めて天地万物は『私』の中に入ります。
思い込んでその境地に達することは不可能です。
それは三領域のバランスのとれた発達の結果です。

途上の実践において、「肉の目」でまず、山が見えなくてはなりません。
山を感じなくてはなりません。
山のせせらぎが聞こえなくてはなりません。
山の匂いがしなくてはなりません。
山の体験が必要です。
それが元になって感じます。

「知の目」で山に木があることの意味を知ります。
根が山の土砂を支え、落ち葉が保水の力もち、栄養が川と海の生命を支えます。
「肉の目」を含んで超えて「知の目」があります。
私たちの教育は、これを主たる課題としています。

では、第三の目、「観想の目」「スピリチュアルな目」とは何でしょう。

サーカーの提案は、二つです。一つは、毎日、朝夕、約15分の瞑想で心の池を静かにし、池深くに達します。
二つ目は、実際の生活の中で見るものをブラフマの顕現と見てゆく努力をします。
(これは、知の目のレベルですべてが原子の組み立てであることを知っているように、スピリチュアルな哲学理論の実践です、頭から思い込む努力と違います)
その結果、目に見える木は、スピリチュアルな目を加えることによって輝きを増します。気づきのレベルをアップさせます。
つまり「肉の目」「知の目」を含んで超えて、それらを強めるのです。
そして私たちが慈愛に満ちた世界の中にあることに気づきます。
山の生命の喜びを感じます。そして山の木の伐採が進み、生命が場を失いつつある時、山の悲鳴を感じるでしょう。
山は私にとってもはや他者ではありません。

したがって、私はヴィッバーサナの瞬間、瞬間に気づくこととブラフマを統合させることがいいのではないかと思います。

(8)私たちの進むべき道

天野さんは次のように書いています。  
「 ただ宇宙意識との合一を目指すこの方法はオウムでわかるように自分の心に繭のような閉じられた心をつくる危険性があります」

もし、そうならば、私たちはこの道を絶対に進むべきではありません。
天野氏がヨガ集団に参加することでそのような心を見ているならば、ヨガ集団に問題があります。

 私は、一つは「肉の目」「知の目」を低下させつつ、「観想の目」だけを追求することろに、知力の低下があるとおもっています。

「現実のものではなく心の念じたイメージでみる。本当のもの。あるがままのものを見させなくする危険がある」

決して、サーカーの論は、現実を心の念じたイメージで見ろとはいっていません。
しかし、私はサーカーべったりではありません。
そのスピリチュアル哲学が正しいかどうかは、その哲学を実践してみて検証しつつ、その限界をあきらかにしてゆかなくてはなりません。
私は心の念じたイメージで見ろといっているのではありません。

「肉の眼」では見えませんが、私たちが見ている気体、液体、個体はすべて「知の眼」からは原子からなっています。
「スピリチュアルな眼」からは、すべてブラフマからなっているのです。
私たちがすべてのものを原子とみる時、それはあてはめ主義です。
その場合、あるがままのものを見えなくさせる危険があるでしょうか。

「自分の中にあるがままに起こっていることに対してそれを見させなくする働きがあるのでは。心にふたをしてしまう強烈な作用があるのです」

もし、本当にそうならヨガ系の瞑想方法をとりいれるのはやめましょう。
しかし、サーカーのブラフマについてはおどろくべき理論的整合性があり、学び、スピリチュアリティの実践に生かす方途を探るべきだと私は思っています。

(9)「黙想の目」を高める二つのパラレリズム

サーカーが仏教に「サンヴルッティとニヴルッティの間に完全な調整がありませんでした」と指摘したことを紹介しました。
そして、サーカーは、心を外側にだけに向けてゆくアヴィディヤーを人間性を低下させる道として批判しながらも、瞑想など心を内側に進むヴィディヤーのみの追求もまちがった道だといいます。
すなわち、ヴィディヤーの道とはこの世が地獄に進もうが寺院にこもって修行する道ですから、エゴイズムであるとします。
そこには真のスピリチュアリティの高さはありません。

サーカーは、内側への道と外側への道のパラレリズム(照応関係)を主張しています。
内側に向かっては毎日二度の短時間の瞑想です。
そのことによって次第に心を深層まで達して自分がブラフマであることに最終的には気づくのです。
外側に向かっては、生活の中で対象とするすべてをブラフマの顕現として見てゆく努力をするのです。

パラレリズム(照応関係)とは、この内側へ道と外側への道が対応関係になくてはならない、すなわちバランスがとれていなくてはならないということです。

外側をブラフマと見る意識の高まりなし、内面だけに向かう道は、危険です。
外界で生じることに対して無関心、あるいは冷酷になってゆきます。
世俗世界で生活しない出家者集団はそこに陥ります。
また世俗生活の中で、内面への道を瞑想などによって追求している人々も、日常生活では物的関係、人間関係の中で生活してゆきますから、物的な世界を念じざるをえず、心は念ずる対象に近づいて低下してゆきます。

日々の短時間の瞑想によって自分自身のブラフマ性に気づいてゆきながら、同時に外側の世界のブラフマ性に気づいてゆくことは、「私」の世界に全宇宙をとりこんでゆくことです。
天地、自然、人間すべてを自分のことのように愛する気持ちを培います。

しかし、仏教には、一なるブラフマとその顕現として私を含む一切の世界という哲学はありません。
サーカーのブラフマ論では、内側と外側の両方の追求によって次第に一者(ブラフマ)に統合され、「私」も「家族」も「全人類」も「全生命(いきとしいけるもの)」も、すべて、内的にブラフマに近づいた「私」の内部に含まれてゆきます。

 


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