Integral Theory & Ken Wilber ??? ???? (video inspired by god of star)


(When theory of Wilber is used to analyze of economic sphere, same theory to progress socialism and socialism of Marx is made)

Theme of this page is similarity of P.R.Sarkar and Ken Wilber.
This is important study of Mitsuki.
When theory of Wilber is used to analyze of economic sphere, same theory to progress socialism and socialism of Marx is made.
Mitsuki made horon social theory same to socialism.

このページのテーマは,P.R.サーカーとケン・ウィルバーの共通性です。.
これはミツキの重要な研究です。
ウィルバーの理論が経済領域の分析にもちいられたとき,進歩的社会主義とマルクスの社会主義と同じ理論ができあがります。
ミツキは,社会主義と同じホロン社会理論をつくりました。


ケン・ウィルバーとサーカー

1)ケン・ウィルバーとサーカーとの類似点

まず、ケンウィルバーとサーカーとの共通点を考察します。

(1)三元的認識論

 ケン・ウィルバーは、多元的認識論をすべての議論の出発点においています。
「人間には・・・それらを認識する少なくとも、三つの基本的な知識の眼がある。
すなわち肉の眼(経験主義)、理知の眼(合理主義)、黙想の眼(神秘主義)がある」ケン・ウィルバー著、吉田豊訳『科学と宗教の統合』春秋社、24ページ

 外側の世界に向かって、理論にもとづいた調査、実証による科学があります。
これは人間の感覚器官の能力を拡張した顕微鏡や望遠鏡のような道具さらに発展してゆきます。
ノーベル賞の小柴教授のニュートリノは巨大な観測装置で可能になったものです。

 数学のように心の中で合理的推論をしてゆくことが理知の目です。
この心の中での新たな理論を生み出しながら、外部の世界で実験、実証、応用して近代科学は大きく発展してきました。

 しかし、ケン・ウィルバーは、もう一つ、人類が忘れ去り、宗教の根幹の部分に保持されている認識装置がある。
それは心自体だ。
目を閉じて黙想して、内面的な探求の中で客観的な真実をつかんでゆくことができるのだといいます。
それを「スピリチュアリティ科学」と呼びます。
なぜ、科学なのかというと、こうすればどうなるという最初に指示があります。
その指示にしたがって実行します。
そうして最初の指示どおりの事実を体験できたかどうか検証できます。
それを実行者が互いに共有することによって、その宗教教義を信じ込むという非科学的な信仰ではなく、黙想による内面的な体験という事実で検証した科学的確信になるというのです。

 実は、サーカーは、このケン・ウィルバーが「スピリチュアリティ科学」というものを「直観科学」と呼んでいます。
ケン・ウィルバーとの違いは、サーカーの教える実践は個人から個人へ秘儀として伝えられるインド古来の伝統的なやりかたにもとづいているので、実践の指示がオープンにされず、弟子の範囲を超えて体験、データの共有化が難しい点にあるように思えます。

 外部に向かう感覚的な経験科学は、顕微鏡の倍率によって見える程度がちがいますが、内部に向かう直観科学は、顕微鏡にあたる心の集中度が人によって異なるので、同じ指示がなされても、心の集中度の高い人には体験できるが、心の集中度の低い状態の人には体験できないことになります。
そこでサーカーの場合にはどの人も心の集中度がアップできるように体系的な実践論をもっています。
ケン・ウィルバーたちがどのような実践論をもっているか興味のあるところです。

 ケン・ウィルバーは、三つの科学を次の三つ、すなわちモノロジカル(独白的)ダイアロジカル(対話的)トランスロジカル(超論理的)の三つにわけます。

 「モノロジカル(独白的)とは、ひとりの人が独りで話していることを意味する。・・・・
経験科学は、注意深く決して話しかける必要のない調査対象を選ぶ。
その対象が岩石、惑星、原始、細胞・・・・いずれであってもかまわない。
人間の感覚を拡大するような道具を用いて得られたデータと結びついた、独白的な活動である。・・・・
 ダイアロジカル(対話的)とは、人に話しかけその人を理解しようとすることを意味する。・・・
今、この文章を読んでいるあなたは、知の対話様式にかかわり、私が記号で表していることを理解しようと努めている。
私が実際にそこにいたら、じかに私に問いかけ、私たちは話すだろう。・・・・

 トランスロジカル(超論理的)論理的・合理的・心的なもの全般を超越していることを意味する。・・・・
偉大な叡知の伝統の核心はまさに、超論理的な霊的領域への黙想的参入なのだ」同書、30ページ、

 このように、ケン・ウィルバーは、西洋近代の思想すなわちモダニティが、前近代的な宗教教義の蒙昧を批判する中で、黙想(瞑想)による科学的認識論までも捨て去ってしまったと考えます。
そして黙想を科学的認識論として認め、多元的な認識論を人々が認知し、内にむかうスピリチュアリティ科学と外に向かう科学が、手をとりあって協力する時代の到来を念願します。

 「これによって、知識の探求は根本から新しい方向性を与えられ、実在の探求において、前近代と近代が手と手を取り合い、科学と宗教はこの上ない親密な抱擁の内に結びつくのである」同書33ページ

(2)黙想による科学的認識

 五感による知覚を出発点とする経験科学に対して、いわば心という顕微鏡、望遠鏡を磨いて、深く内的世界を認識する「直観科学」があるというサーカーの文章を読んだ時に私はひどく抵抗感をもちました。
ケン・ウィルバーの論全体は、このサーカーのいう「直観科学」を科学として認知せよということです。
物質科学、すなわち知覚による経験科学の側は、宗教の祖が啓示としてつかんだ直観科学という内的な世界をさぐる方法を認知せよ。
そのかわりに宗教の側は近代科学が検証してきたことと合致していない教義は捨てなさい。
このこと両者の歩み寄りの中に宗教と科学の協力のという人類の新しい時代がひらかれるというものです。

 私は、サーカーが「直観科学」ということを言っているので「そんなばかなことがあるか」とサーカーの弟子に言ったら、そしたら実際にやってみろというので「黙想」の方法を少しだけ習いました。
心の鏡が磨かれていないせいか、いまだケン・ウィルバーやサーカーが確信をもって言うように内的世界を「直観科学」で認識することができると言いきることはできません。

 ただ、黙想は、日々の生活に次のような恩恵をもたらすことは事実です。
(1)認識の面でいうと、幼少の時の思い出などクリアに思い出すことができます。
自分の内的な生活が豊かなものになります。
(2)同じ緑の木をみても、緑が美しく見えるようになります。
(3)心の安定度がまし、人にやさしく、あるいは自信をもって生きてゆくことができるようになります。
(4)同じことの裏側ですが、何か自分以外のものに絶えず追いかけられて生きているような状態から、自分の人生を取り戻したような感じになります。
これらのことは、どんなにすぐれた人の話を聞いても、どんな本を読んでも、知識として得ることはできないものだと思います。
それは黙想をし、心を集中、安定させてゆく実践の中でしか得ることができません。
木の緑がより美しい緑に見えるように黙想によって心の顕微鏡を磨きつづけることで、いっそう(コスモス)の真の姿が見えてくるのかもしれません。

 黙想による「直観科学」もふくめて、ケン・ウィルバーは、科学的であるために次の三つが必須だとしています。
「1、介助的指示、もし、これを知りたければ、これをせよ。
手本、パラダイム、実験、手順である。
2、直接的体験、ないしデータの感受、
3、共同体的確認、これは指示と感受の要求をみたした他の人々とデータ、証拠を照合することである」同書、202ページ

 ケン・ウィルバーのこの提起は、黙想という認識方法による探求を真に科学的プロセスに高めてゆく探求の必要を私たちに提起しています。

(3)宗教とスピリチュアリティの見方

(ア)進歩的な見方について

 サーカーは、この宇宙の一切が波の形あるいは回転の形をとって進歩的な運動をしているとみます。
この宇宙が進歩的に進んでいる点については、ケン・ウィルバーはサーカーと共通しています。
頑迷な宗教が進化論をなかなか受け入れなかったことを次のようにケン・ウィルバーは批判しています。

 「また宗教は、進化全般に対する態度を修正する必要かある。・・・
このように宗教が自分の神話的信念をかっこでくくり、その秘教的確信(大いなる連鎖)に眼をむけるかぎり、進化を受け入れることは適切な修正になる」同書、263ページ

(イ)宗教的教義(ドグマ)について

 サーカーは宗教の教義や儀式のドグマ化を批判し、儀式のやりかたや教義を科学的根拠なく信じることを批判します。
しかし、宗教の根源にスピリチュアリティの実践があり、そこに宗教がドグマ化しても生き延びてきた秘密があるとします。
そしてサーカーの方はいわば、アナンダ・マルガという宗教を超えたスピリチュアリティだけの究極の「宗教」集団をめざします。

 ケン・ウィルバーはそのような究極のスピリチュアリティの集団をつくることをめざすわけではありませんから、宗教の側が自分の教義を科学の検証可能ものにしぼるべきだとします。
たしかに宗教の側も自分の教義を検証可能な科学と両立するものに変更もしくは絞ってゆく対応をすることも大切だと思います。
これを成し遂げることなしには宗教の側の前進もありえないでしょう。

 もともと偉大な宗教の創始者は、スピリチュアリティの実践的な体験の中でつかんだ真実を弟子に教えたのだとケン・ウィルバーはいいます。
「ところが、特定の霊的伝統がこうした実験的探求のプロセスを放棄した瞬間・・・
 つまり霊的探求に三つの要素(指示、データ、検証可能)を適用するのをやめた瞬間、直接的証拠や経験、変容させる力を欠いた単なる教条や神話的宣言に硬直化しはじめた。
黙想の眼を捨て去れば、宗教には理知の眼(宗教が近代哲学によって八つ裂きにされている領域)と肉の眼(宗教が近代科学によってさんざん笑い物にされている領域)しか残されていないのだ。
宗教に唯一固有のものがあるとすれば、それは黙想にほかならない」同書、219ページ

 同じことを次のように言っています。
「宗教(そして形而上学一般)にとってきびしい時代がつづいている。
そうなっているのは、まさに黙想の眼でしか、できないことを理知の眼をやろうとしているからだ、と私は主張する。・・・・・・
感覚的経験主義も、純粋理性も実践理性も、いわんやそれらのいかなる組み合わせも(スピリット)の領域を覗き込むことはできない。・・・・
未来の形而上学と真正のスピリチュアリティは、すべて直接的な経験的証拠を提示しなければならないことである」同書、225ページ

 瞑想をして何かをつかんだ人は、それを言葉によってのみ人に伝えるのはまちがいだということになります。
プリンを食べたことがない人にいくら言葉で説明してもその味を伝えることは不可能です。
したがって瞑想をして何かをつかんだ人は、その瞑想の仕方を伝えなくてはなりません。
すなわち心を顕微鏡にたとえれば、より深く内部をのぞこうとすれば、心という顕微鏡の倍率の高めかたを伝えなくはなりません。
瞑想でつかんだ事実の方を言葉で相手に信じさせようとすれば、宗教的ドグマにつながります。

(4)前近代的宗教の残虐批判は共通

 サーカーは、人類の歴史では、神や宗教の名でもっとも多くの血が流されてきたといいます。
ケン・ウィルバーも同様のことを言っています。
「啓蒙運動のスローガン・・・ヴォルテールの『あの残虐さを忘れるな』・・・は選ばれた神や女神の名において前近代的宗教がしばしば加えた非道な迫害を終わらせんとする掛け声であった。
そうした神々に捧げられたもろもろの寺院は、何百万人もの人々の多大な犠牲の上に建造されたのである。
その天国への道には辛さの知と涙の跡が残されている」同書、59ページ

(5)根拠を重視する点も共通

 サーカーは、神を根拠なしに信じさせることからはじめるゆえに、宗教を批判します。
合理的根拠なしに「神」や「教義」や「儀式」を信じさせることは信者の知力を低下させ、聖職者による搾取を可能にします。
「直観科学」による実践をすすめる中で体験的につかんで確信せよと言います。

 ケン・ウィルバーも、根拠薄弱な議論を徹底的に批判しています。
この30年間、自分本意、自分が宇宙の中心にいると思っているナルシシズムの人たち、たとえば、「ニューエイジ、芸術批評、文芸理論、部族の復興、新歴史主義、カルチュラル・スタディ、自分本位の霊性(ミー・スピリチュアリティ)」などが『パラダイム転換』と称して、根拠薄弱にもかかわらず広範な影響を与えてきた」と批判し、歴史家アーネスト・ゲルナーの「根拠が示されないところでは、ナルシシズムがはびこる」という言葉を引用し、「前進する真正の科学を常に支えてきた根拠に対する要請ということが意味するのはただ、宇宙そのものから確証を得られないリアリティ像を、誰か個人のエゴが宇宙に押しつけることはできないということである」同書、43ページと述べています。
このように経験、体験、データなどによる根拠を示すことをケン・ウィルバーも、きわめて重視します。

(6)スピリチュアル哲学の類似性

1)ウィルバーの言う「上向の道」「下降の道」の類似性

 ケン・ウィルバーは、プラトンを西洋史上最初の「非二元」すなわちワンネスの思想を体得した人物としてとりあげます。
そしてその最大の継承者としてプロティノスをあげます。

 私は、サーカーが最近の最大の「非二元」「ワンネス」の思想家であり、過去の類似の思想家をはるかに超えた地点にあると考えます。
そこでケン・ウィルバーの紹介するプラトンについての記述を紹介し、その後でそれに対応するサーカーの見方を紹介します。

 「スピリットそのものに関する二つの運動の記述であると言ってよい。
最初の運動は、一者の多者の世界に対する下降である。
それは実際に多者の世界を創造し、多者を祝福し、善なるものをあまねきものに及ぼす運動であり、この世界におけるスピリットの内在である。
もう一つは、多者の、一者への帰還ないし上昇である。
善なるものを思い出し、ふたたび集めてゆくプロセスである。
それはスピリットのこの世界からの超越である」同書、5ページ

 これは、サーカーの基本哲学の短い要約以外の何者でもありません。
サーカーのブラフマ・チャクラ論は、一者から多者への運動と、多者から一者への帰還の運動の二つの部分からなりたっています。
そしてその二つの運動は、今、私たちの前で、同時的に現在進行形で進んでいる過程です。

①一者から多者への運動

 サーカー的に説明するならば、一者から多者への運動は、次のようになります。
形質付与されていない無限の意識(ニルグナ・ブラフマ)の中で、形質付与がはじまり、サグナ・ブラフマが生じます。
サグナ・ブラフマとは、大宇宙の心です。
大宇宙の心は、大宇宙の「私」感覚(マハータットヴァ)の出現、それへの形質付与により、大宇宙の「私」が思考します。
アハムタットヴァです。
さらにその大宇宙の「私」の思考の結果としてのチッタの流れが、私たちがその中に存在している五要素の世界です。
五要素の世界は多様な生命世界を生み、人間の身体構造まで生み出しました。
これが「一者の多者の世界への下降」です。
「この世界におけるスピリットの内在」です。

 ウィルバーも次のように言います。
「プロティノスは答える。
それは今、ここで起きているのだ、と。
この時間のない瞬間において、万物は絶対者の一から、やむことなく流出している。
存在のすべての段階はこの最高位の次元が一歩ずつ降りていったものである」同上書、32ページ

②多者から一者への帰還

 普遍的意識が形質付与力のエネルギーによって天地万物が生じ、生命世界、人間世界まで達しました。
これが一者から多者でした。

 サーカーが説明する形質付与力(プラクリティ)には三つの種類があり、その三つの配分によって様々な形質付与力となります。
この形質付与力(プラクリティ)が多様性の原因でもあり、絶えず変化してゆく原因でもあります。
意識への多様な形質付与とその程度の差によって多様性が出現しているのです。

 この多者がいかにして一者に帰還するのでしょうか。
原始的生命にかすかに「意識」が発生します。
すべての生物に「私は存在する」という意識があります。
それが個体意識であり、身体構造の発達と並行にして心が発達します。
身体構造の発達につれて、外部世界に向う「粗大な心」、記憶や思考を司る「精妙な心」が発達します。
人間は、外界に向う「粗大な心」と内側に向う「精妙な心」をさらに発達させます。
そして「元因の心」である「私は存在する」という意識ももっとも明確になります。
黙想が可能な身体構造となり、粗大な心、精妙な心の活動を停止し、個体の「意識」に個体性を付与しているプラクリティまで除去された時に、もともとの純粋な「意識」に帰還し、個体の「私」は、大宇宙の「私」(サグナ・ブラフマ)に合体します。
さらにニルグナ・ブラフマの段階、まったく形質付与のない段階に至ります。

 この多者が一者に帰還する過程は、バターが徐々に溶けてゆくように、個々人が別々に順次に達して、溶けてゆきます。
これが多者の一者への帰還運動です。

2)上向と下降が相戦う陣営に分裂した西欧

 一者から多者へ、多者から一者への二つの運動を強調しているケン・ウィルバーは、そのどちちらか一方に偏ることを批判します。

 「プラトンは、この二つの運動を強調している。
なのに、西洋文明は、この二つの運動の決闘になってしまった。
一方は多者の住む「この世」にだけ生きたいと願い、もう一方は、超越的な一者の「あの世」にのみ生きたいと願う」

 サーカーにとってこの世界は「意識」(プルシャ)がプラクリティによって形質付与される過程とプラクリティの形質付与の束縛から「意識」が解放される過程の二つの運動が同時的に進んでいます。
プラクリティとプルシャをあわせてブラフマと言います。
プラクリティはプルシャに内在する形質付与力であり、この世界のリアリティ(物質も心も)は、ただ一つのブラフマの中の形質付与の多様性にほかなりません。
存在するのは、ただ一つのブラフマ、その根本材料の「意識(プルシャ)」の世界です。
サーカーにとって多者と一者は分離していません。
したがって、多者のみをもとめる下降の道は生じませんし、一者のみを求める上向の道も、少なくもと、理論上は生じません。

 西洋においては二つの運動はどのようにぶつかったのでしょうか。

 「ところがその二つを結び合わせる一者が忘れられると、二つの運動は相戦う二つの陣営に分裂してしまい、一方は、禁欲的で抑圧的な厳格な上昇者となり、彼らの考える『あの世』のためにならば『この世』(自然、身体、感覚からなる)のあらゆるものをほとんど破壊しつくしたいと願う。
もう一方は、洞窟の影に映る影を抱きしめる下降者である。(中略)
有限の領域を無限の価値に変換しようとして、結局、上昇者とおなじように、この世界をひどくゆがめてしまう。
下降者は、『この世』ではけっして得られないものを、この世から得ようと願い、また強制するのである」同上書、5、6ページ

 ポイントは、結び合わせる一者です。
サーカーの論ではブラフマ(プルシャ+プラクリティ)です。
多を一つに結び合わせる一者がない時、どんなことになるかケン・ウィルバーは次のように説明します。

  エロスとは、多者から一者すなわち低位から高位への愛(上向)です。
高位から低位へとさしのべられる思いやりの愛(下降)がアガペーです。
この上向と下降が統合的に進むことが必要です。

 「個人の発達においては、人はエロス(より広い、より高いアイデンティティへの拡大)を通じて上昇し、アガペー(下位のホロンを思いやり、抱擁する)を通じて統合する」同上書、34ページ。

 すなわち、一者に近づく中で同時に多者を慈しむ心が発達するということです。

3)上昇と下降が分離した時のエロスとアガペー

①フォボス(恐怖)

 しかし、もし、このエロスとアガペーが個人の中で統合されない時、次のようになるとウィルバーは言います。

 「統合されないエロスは、ただ高位に手をさしのべて、低位を超越するだけではない、それは低位を切り離し、低位を抑圧するのである。
そうするのも恐怖(フォボス)のためである。
低位によって『引きずりおろされる』という恐怖である(中略)
危険な人々である。(中略)
頬に伝わる涙、うっとり見上げる眼のかげで、上昇者は世界を破壊しようとする。
少なくとも世界が死に絶えるのに任せる。(中略)
上昇者は、この世界を破壊しようとする。
なぜなら、それが彼らが完全に軽視していると確信できる唯一の土地だからである」

 僧院や寺院の中で神にちかづく修養に勤しみ、外の世界で、たとえばアメリカによる不正なイラク戦争がおこなわれ、多数の人々が殺されていても、この世のことは無視して、内向きのレッスンのみ、すなわち神まで達することをめざしている人々は、「すべきことをしない罪」をおかしています。

 一者のみが真実であり、多者であるこの世を幻影とみなす論は、この世に対して「すべきことをしない罪」に陥ります。
上昇のみに走り、左上象限のみとなり、右下象限は見失われます。
偉大なる叡知の伝統はすべてのこのような弱点をもっているとケン・ウィルバーは考えます。
サーカーも同じです。

②タナトス(高位から逃走するアガペー)

 「タナトスは、その逆に上昇から切り離された下降である。
それは高位から逃走した低位である。
狂った慈悲である。
低位を抱擁するだけではない。
そこまで退行しようとするのだ。
低位を思いやるのではない、それにとどまろうとするのだ。(中略)
危険な人々である。
この下降者たちは、アガペーと慈悲の名の下に彼らは低位を抱擁せんとする絶望的な希求のなかで、すべての高位を誤って破壊してしまうのである。
もっとも危険なことに、彼らは哀れな有限のこの世界を無限に価値をもつ世界に変えようと試みるのだ」同上書、38ページ

 サーカーは、ソ連がまだ存在していた時期に、ソ連を中心とする共産圏が近く崩壊する。
そして資本主義もいずれ死滅すると論じました。
共産主義も資本主義もどちらもマテアリアリズム(唯物論、物質主義)です。
上昇から切り離されて、この世のみを世界と考えて、そこに無限を求めました。

 資本主義は、有限の物質世界の中で無限の財を追い求めます。
サーカーは、物的世界は有限であるから、資本家の活動に法的制約をかけ、無限の蓄積に歯止めをかける必要を説きます。
そしてこの有限の世界に無限をもとめるのではなく、人々の心をより高位への上昇への願望へと導きなさいと言います。

③サーカーは二つの愛を統合している

 上向の道のみを進み、下降を忘れている人は、サーカー的に言うと「内向き」のみを追求している人々です。
「すべての人類、すべての生命、すべての生命を愛する」ネオ・ヒューマニズムの愛は、多者へのおもりやりの愛であり、高位が低位に下降するアガペーです。
スピリチュアリティの頂点をめざす意識と統合した時にサーカーの教えは本当に生きることができます。
サーカーの言うパラマ・プルシャ(至高の意識)に達することを渇望すること、アートマンをブラフマに融合させることをめざすこと、大宇宙の「私」に小宇宙の「私」を到達させること、それは、エロス(上昇への愛)です。
サーカーの論は、上昇と下降の二つの愛を統合的に進める愛論となっています。

4)二元論をとらない

 鍵は、この世とあの世を別々のものと見ないことです。
つまり二元論を克服することです。
西洋世界でプラトンの非二元をひきついだプロティノスを紹介してウィルバーは次のように言います。

 「『この世界』から離れて『あの世界』を見つけようとするものは、完全にポイントを見失っていると説いている。
『この世界』『あの世界』があるのではない。(中略)
彼らは、上昇者か下降者であって、一つの心(ホール・ハート)をもっていないのである」同上書、41ページ

 ウィルバーは、プロティノスの説の要約を紹介しています。

 「神聖なスピリットの、完全な時間のない生命は、創造的な活動のやむことのない流れに溢れ出ていく。
それは、存在のもっとも下の領域まで到達する(物質)。
したがって、神聖なエネルギーは、そのあらゆる可能な顕現を、神聖な輝きはそのあらゆる陰影を、すべての種類のあらゆる程度の多様性において、どこかで、いずれ実現する」同上書、41ページ

 サーカーにとっても、一者=多者であり、天国と地獄という「あの世」はありません。
天国も地獄もこの世で経験する意識レベルをあわらしています。

5)思い出すこと

 一者から多者への運動、多者から一者への帰還運動、この二つの運動が止むことなくつづいているのが、このコスモス(心を含む宇宙)です。
サーカーのブラフマチャクラ論は、前半が一者が展開して無空間、気体、燃体、液体、固体まで進むことを論じます。
そして後半が、生命が誕生し、人間にまで至り、人間であることの意味がどこにあるかを論じます。
人間の身体は、空間、気体、燃体、液体、固体の五要素からできています。
心は身体構造に対応して発展してきましたが、心は身体を構成する五要素の中にはありません。

 宇宙の心が固体まで展開することによって、無数の個体意識へと普遍意識が分岐することが可能になりました。
ほこりの粒にも個体意識が眠っています。
この個体意識が長い長い旅を続けて、人間の身体を得て、私たちになりました。

 サーカーはスピリチュアリティの頂点まで達することをself-realization(自己認識)と言います。
self(自己=小宇宙の「私」)が、実は、大文字のSelf(大宇宙の「私」)であったことを思い出すことです。
この世のすべては、スピリチュアルな中心のSelfに、あたかもSelfという車軸からスポークが無数にでているように、結びついています。
そして自分を深く掘り下げれば、自分がひとつのselfではなく、無数のselfのSelfであったことを思い出すのです。

 ウィルバーも次のように書いています。

 「東洋において、想起ないし念(中略)とは、ほとんどすべての観想の始まりである。
その目的は、自分の真実の性質が仏性であること、アートマンはブラフマンであることを思い出すことである。
念、想起、覚醒とは、忘れていた本来の自分を思い出すことである。
無明(アヴィデヤー)とは、無知、忘却の意味である。
覚醒ないし、悟り(覚、菩提、解)とは、そこになかったものをもたらすことではなく、いつも、すでにそこにあるものに目覚めることである。
『瞑想によってブッダとなろうなどと思うな』と黄檗希運は言う、『おまえはいつもブッダだったのが、そのことを忘れているだけだ。こう言うのはやさしいのだが』。
おなじくイエスの指示『このことを私を思い出しながら、行え』というのは、『私』ではなく『キリストが私の中に生きている』ことの想起である」同上書、19ページ

 サーカーによれば、私たちは、ブラフマ(普遍意識)が無限の数に分化した個体意識(アートマン)です。
長い旅をして人間の身体と心にまで至りました。
天地万物すべてがブラフマから派生しました。
だから、私たちがブラフマであったことを思い出すならば、天地万物は私たちの兄弟です。
すべてに対する愛=ネオ・ヒューマニズムがそこから流れでます。

2)近代(モダニティ)の評価におけるウィルバーとサーカー

(1)近代性(モダニティ)とその成果

 インド人のサーカーとの違いとして西洋人のケン・ウィルバーは、歴史区分を前近代、近代として設定します。
そして前近代に戻るのではなく、近代の成果をふまえて、近代を超えることをめざします。
では、ケン・ウィルバーにとって、近代とは何なのか。

 「マックス・ウェーバーからユルゲン・ハーバーマスまでの数々の学者によれば、近代を明確に定義するものは『文化的価値諸領域の差異化』と呼ばれるものである。
それはとりわけ、芸術、道徳、科学の差異化を意味する。
近代以前においては、これらの領域は、融合される傾向があったが、近代はそれらを差異化し、それぞれが自らの歩調で、自らの尊厳をもってあゆみ、自らの道具を使い、自らの発見に従い、他の領域からの侵入者によって邪魔されないようにしたのである」同書、16ページ

 したがって、前近代世界では、ガリレオが望遠鏡で観察することを教会から妨害されたし、芸術家のミケランジェロがローマ教会を気にしつつ絵画をかかざるをえなかったと次のように述べます。

 「明確に差異化されていなっかたため、一つの領域でおこったことが、他の領域で起こったことを支配統制することができたのである。
たとえば、ガリレオのような科学者が科学領域の探求を妨害されたのは、それが優勢であった宗教-道徳領域と衝突したからであった。・・・・・
同じように国家は、まだ宗教から差異化されていなかった。
すなわち教会と国家は分離されていなかったのである。
したがって、もし、宗教的権威と争うことになれば、異端と反逆という二つの罪で裁かれた」同書、63ページ

 このようにモダニティは、科学、道徳、芸術(真、善、美)を明確に差異化(区分して双方からの干渉がない状態)することによって各領域が自由に発展できるようになったといいます。
ここにモダニティの長所があり、これを継承する必要をケン・ウィルバーは説くのです。
「この『私』と『私たち』の差異化は直接リベラルな民主制の興隆に寄与した。
『私』は、みな平等・自由・公正という政治的権利を与えられた。
これはさらに、奴隷制の廃止、女性の権利、不可触賤民の解放というような解放運動につながった。・・・
かくして差異化された尊厳のリストが並ぶ。
リベラルな民主制、平等、自由、フェミニズム、生態科学、奴隷制の廃止、医学の発展、近代物理学。・・・」同書、68ページ

 差異化が進まず、集団の中で自立しえない『個』は、前近代です。
前『個』から近代的『個』へ、そして近代的『個』をふまえた超『個』に私たちは進まなくてはなりません。
私たちはケン・ウィルバーの提起を受け、モダニティをふまえた前進をめざさなくてはなりません。

 サーカーは、西洋近代(モダニティ)をウィルバーのように特別に評価することはありません。
イギリスの植民地として収奪されたインドの思想家であることが背景にあるかもしれません。

(2)近代性(モダニティ)の厄災

 ケン・ウィルバーは同時にモダニティの問題点にも言及します。
その最大の問題点は、黙想による科学的認識方法を捨て去ったことにあり、スピリチュアリティの領域の実在を否定してしまったことにあると見ます。

 「独白的(モノロジカル)科学がそれ以外の領域(審美的-表現領域と宗教道徳領域)に入植し、支配してしまったからである。
しかも、ほとんどの場合、それらの領域の実在性までも否定しさったのだ。・・・
端的にいえば「私」と「私たち」は「それ」の植民地になってしまった」同書、73ページ

 これは、知覚器官を通じる経験科学によらないものは、すべて根拠のないものとして退け、近代は、内面性が深化せず、外面のみに偏った人間を生み出すことになったことを意味します。

 「あらゆる価値領域を、肉の眼によって知覚される独白的な「それ」へ還元することであった。
これこそ、他の何にもまして、モダニティの災いを成立させたものである」同書、73ページ

 こうした点についてサーカーは、西洋は、外面に向かう科学を発達させた点を評価します。
そして逆に東洋(インド)は内面に向かう科学のみを重視したといいます。
どちらも一面的であった。西洋と東洋が双方の長所を学びあい、両者を統合して、内面と外面の両方の科学を発達させるべきだと論じています。

3)政治民主主義に対するウィルバーとサーカー

(1)民主主義に対するケン・ウィルバーとサーカーのスタンス

 ケン・ウィルバーは、今日の政治民主主義の更なる徹底の必要は認めますが、モダニティが達成した業績として代議制民主主義を高く評価しています。
「今日、世界には百以上の民主国家が存在するが、それらの国々の統治原則は、事実上、モダニティの原則・・・つまりリベラルな西欧啓蒙主義の諸価値・・・である。
こうした諸価値には、平等・自由・正義の尊重、代議制民主政治、民族、性別、信条を問わない法の下の全市民平等、政治的諸権利および公民権(言論・宗教・集会の自由、公正な裁判など)が含まれる。
もちろん、これらの諸価値のいくつかは、今でも、もっと広範、かつ公平に適用される必要があるけれども、自由社会が尽力すべき広く認められた理想としてしっかり定着している」同書、58ページ

 このようにケン・ウィルバーは代議制民主主義を高く評価します。

 サーカーは、近代の勝ち取った民主主義的前進の意義を認めつつも、代議制民主主義は、ヴァイシャ(財力をもつもの)がお金の力で政治家を背後からあやつることのできるシステムであり、大衆の意識水準が低くされているゆえに、マスコミなどをあやつって衆愚政治にする可能性をもっていると批判します。
貨幣の支配する資本主義を乗り越えた彼の構想するプラウト社会(進歩的社会主義)の社会、すなわち経済民主主義を徹底した社会でこそ、民主主義は真に完成したものとなると考えます。
そしてその時に人々はさらにベターな統治方法を考案し、それが人々のコンセンサスをえるだろうといいます。

(2)民主主義について私たちがとるべき立場

 私たちは、モダニティが達成した政治的民主主義、その基礎にある民主主義的精神と社会生活における民主主義運営をその長所として継承しなくてはなりません。
 しかし、サーカーが代議制民主主義の問題点として指摘している点(その一つは、財による支配であり、もう一つは大衆の意識水準の問題)については、私たちが民主主義の更なる実質化を追求するさいに避けて通ることのできない論点です。

4)資本主義経済に対するウィルバーとサーカーの相違

(1)経済面でのモダニティの病の側面が抜け落ちているウィルバー

 ケン・ウィルバーの視界からは社会経済面でのモダニティの災いが欠落しています。

 ケン・ウィルバーは、文化、思想面でのモダニティの批判はきわめて鋭いですが、経済面でのモダニティ批判が皆無の点です。
資本主義批判も見られますが、自らの属するアメリカ社会の病み、とりわけ、財力派支配による貧富の格差の増大による経済的アンバランスの拡大といった現象は、彼の論の中に入ってきません。
そして他国の経済支配の側面についての言及がありません。

(3)ケン・ウィルバーの最大の関心事・・・内面性とスピリチュアリティの復権

 ケン・ウィルバーが、経済矛盾を視界からドロップさせてきた理由の一つは、彼の最大の関心事が、モダニティをふまえた上で、スピリチュアリティを復権させることだったことにあると考えます。
モダニティ(近代化)は、人権、社会的自由、平等などの輝かしい成果をあげたが、近代以前の思想を否定するあまり、「内面への深まり」、「スピリチュアリティのレベルの高さ」、「意識の深さ」すなわち、黙想的伝統によるすべてを否定してしまい、外界、この現象世界にすべてを還元する平板な思考の枠の中に人々の心を閉じ込めてしまったと考えます。
すなわち産湯とともに赤ん坊まで流してしまったというのです。
そこでウィルバーは、知力のすべてをふりしぼり、近代合理主義をふまえた上で、それを乗り越えたレベルにある超近代合理主義(スピリュアリティ)の意識の深みがありうることを論証します。
彼の知的エネルギーのほとんどがそれに費やされて、大きな成果を生んでいるように感じます。

 しかし、その側面に集中するあまり、資本主義という経済システムのもつ病理の側面がドロップしてしまったと考えます。
(ただし、ウィルバーは、時間を追って自らの思想を発達させており、四象限の理論の発達の中でモダニティの経済的側面の病理を指摘する可能性があります)

(2)資本主義システムの変革を説くサーカーのスピリチュアリティ

 そして対して、サーカーには明確な資本主義批判が見られます。
そてし「すべての地域の人類の衣食住と医療、教育というに基本的生活必需品がそれぞれの地域で自給でき、雇用を保障される」世界をめざし、その点から、人が人をexploitaiton(利用、搾取)することのない世界をめざせと言います。
そのビジョンを具体化したものが「進歩的活用理論=プラウト」です。

(4)財を追う心は次第に物質化、粗大化するというサーカー

 P.R.サーカーの資本主義批判はスピリチュアリティの立場からなされています。
サーカーによれば、心は念ずるものの形をとり、次第に念じるものに近づいてゆきます。
したがって物的財貨を絶えず念じていると心は粗大化します。
その粗大化した心で経済活動を運営するために、たとえば、海外に土地を購入し、経済活動をおこなう際、その土地を追われて生活が悪化してゆく人々の運命は視野に入らなくなります。

 資本主義社会の中で優位を占める財力派(ヴァイシャ=資本家)のメンタリティは、社会全体に影響を及ぼし、その社会の支配的なメンタリティになると言います。
財力派のメンタリティの中心には物質的財を追い求めることがあり、多くの人々がそのメンタリティに駆り立てられ、心が粗大化します。

5)ケン・ウィルバーのホラーキー階層制とプラウト

(1)これまでの資本主義批判

 人々の出世と物欲をあおることを、今日の資本主義はその存在の必要条件としています。
出世と物欲は人々の心を「超個」のレベルには導きません。

 自立した「個」のレベルの人々も出世競争の中にまきこまれ、この世での高い社会的地位の確立に執着します。
「前個」のレベルの人々もゆがめられてゆきます。

 スピリチュアリティをもとめた一部の人々は、そこから逃れようとし、「個」として主体性を失いました。
その究極の姿がオウムです。
また宗教に走る人々も、ケン・ウィルバーの言うように、その保守性に取り込まれ、「前個」の受動性の中に取り込まれます。
そして出世競争と物欲をあおる資本主義システム維持の基盤になります。

 このように資本主義システムはスピリチュアリティの低下をもたらします。
これまでの資本主義批判は、労働者階級の資本家階級への階級闘争にありました。
それは労働条件の向上などをめざしす労働者階級の運動から始まりました。

 その一つ目の問題は、その階級意識を普遍的意識に高める論理と実践がないことです。
物的要求を知的欲求にそしてそれを含んで超えたスピリチュアルな人間発達の要求に高める論理と実践です。
それがないと労働者の意識が物的身体的レベルにとどまります。
労働者が、物質的レベルの思考に留まることは、体制側が給与格差と出世主義のコントロールの中に容易にとりこむことができることです。
他民族を帝国主義的に支配しようとするイデオロギーにも容易に乗せられます。

 二つ目の問題は、労働組合の活動家は、その活動によって労働組合の中に自分の地位を確立します。
それは必要なことですし、献身的な労働組合の活動家のおかげで今日の労働者の地位が築かれてきました。
そのことによって彼らは尊敬を得ます。
ところが、この世に社会的地位をもつことで傲慢な気持ちが生ずるのを防ぐ理論と実践はありません。
「個」のレベルで肥大化しまいます。

 指導部の内部で、意見の違いを闘わせるのは重要ですが、論の違いと感情的もつれが重なって、「肥大化した個」のゆえに、団結すべき労働者階級は、協力から分裂へと進みます。
「肉の眼」「知の眼」に加えて、「スピリットの眼=観想の眼」を導入することが必要です。

 人々の出世と物欲をあおることを必要とする資本主義は、スピリチュアリティの向上、すなわち人間性の発達の妨げとなっています。
私たちは、資本主義の達した良きものを「含んで超える」超える新な社会へのヴィジョンをさぐらなくてはなりません。

 サーカーは、進歩的社会主義(プラウト)としてその構想を示していますが、ケン・ウィルバーのホロン論を活用するならば、サーカーのプラウトと同様の新たな未来への道を構想することができます。
ここで説明するホラーキー階層社会とはそのままプラウト社会でもあります。

(2)ケン・ウィルバーのホロン論

 ケン・ウィルバーのホロンについて正確な詳しいことは『進化の構造(1)』春秋社の最初の部分にまかせるとして、簡単にウィルバーの言うホロンの基本点を説明します。

 ホロンとは、(部分/全体)という意味で、下位ホロンに対しては一つの統合された全体としての個体であり、上位ホロンを構成する部分です。
この宇宙にあるもの一切がホロン(部分/全体)として存在します。
部分だけであるものも存在しませんし、全体だけであるものも存在しません。
全体と部分、すなわちエイジェンシー(自律性)とコミュニオン(共同性)のバランスがくずれる時、病的になります。

 一例を考えてみます。
全宇宙に水素、ヘリウムが充満しました。
衝突と結合の中でさらに原子が成立し、分子が成立しました。
すなわち気体、液体、固体が成立しました。そして分子から細胞が成立しました。

 分子は原子を「含んで超えた」存在です。
細胞は分子を「含んで超えた」存在です。
細胞が人体の器官を形成します。器官は「細胞」を含んで超えた存在です。
人体は「器官と細胞」を「含んで超えた」存在です。

 原子⇒分子⇒細胞⇒器官⇒人体⇒と例にあげたように、天地万物一切のものは階層構造(ヒエラルヒー)の中にあります。
しかし、これは従来、考えられていたようなヒエラルヒーではありません。
ヒエラルヒーとは上から下への命令構造としての階層性をさします。
しかし、細胞は個々の分子に命令しませんし、分子は、原子に命令しません。

 「こうしてケストラーは、すべての複雑な階層はホロン、または増大する全体性から成立していることを指摘した後、階層性(ヒエラルヒー)という言葉は、正しくはホラーキー(ホロン階層性)と呼ぶべきであると考えたのだった。
彼はまったく正しい。
したがって以後、私も存在の偉大な連鎖、ないし階層を呼ぶ時、ホロン階層と呼ぶことにしたい」ケン・ウィルバー『進化の構造』春秋社、61ページ。

 したがって、ホラーキー階層性においては、下位ホロンは、上位ホロンの命令ではなく、自律性をもって、自決権をもって活動し、かつ、同じホロンレベルと協同し、連携して上位ホロンを構成します。

(3)個人ホロンの上位ホロンとしての家族と職場のホロン

 ケン・ウィルバーのホロン論を応用して考えてみます。

 個人をホロンしましょう。
個々の人間は、生命の生産と再生産の場、すなわち家庭と生産の場である職場に属して活動します。
自営農民や小商店主など、家庭の単位と生産の単位が合致するもケースがありますが、ここでは、家庭と職場が分離している場合を例に考えてみます。

 職場では個別で働く場合もありますが、チームで働く場合もあります。
チームは部署に属します。
部署の上に役員会があり、企業全体を統括します。
企業は、同じ業界、他業種、行政などとの関連に入ります。
個人の従業員が一つのホロンレベルです。
チームもホロンです。部署もホロンです。
企業全体もホロンです。業界全体もホロンです。

 個人として自律しながら、協同で仕事をします。
その協同の中でチームの仕事をします。
チームとして仕事する中で意識の統合がなされてチームとしての意思と統合された意識が成立します。
チームは他のチームとの協同の中で仕事をします。
協同で仕事をする中で、チームを統括する部署の意識が成立します。
部署は、自律的に仕事をします。
他の部署との協同で仕事をする中で統合された意識が成立します。

 各ホロンレベルにおいて個と共同性の問題があります。
各レベルで、個として統合され、個として確立しているか、そして他の個と協力関係がうまくいっているか。
各レベルでエイジェンシー(自己決定権をもつ自律性)とコミュニオン(協同)の問題が問われてきます。
すなわち各ホロンレベルでのエイジェンシーとコミニュオンのバランスが大切です。
各ホロンレベルにおけるホロンは、完全にエイジェンシーのみであることはありえません。

 すべてのこの世の存在(ホロン)は、部分としてしか存在しえませんから、上位ホロン(全体)の情報を受けて、自律的に活動してゆきます。
バランスのとれた個と共同性は各ホロンレベルにおいて、重層的に実現されなくはなりません。

 P.R.サーカーの進歩的社会主義(プラウト)においては、このことは経済民主主義として提起されています。
そして大企業は協同組合経営になります。
そして上意下達のヒエラルヒー構造ではなく、ホロン構造となります。

  労働者は家庭にも属しています。
家庭も一つのホロンです。
個々人がともに生活する中で家庭としての統合された意識が成立します。
家庭が集まって、村や町の地域ブロックが成立します。
その上に連合した地域があり、市や郡レベル、県レベルの地域が成立します。

 この地域社会も下位ホロンが自己決定権をもち、他のホロンと協力して上位ホロンを形成するというシステムになるべきです。
すなわち下からピラミッド状に積み上げてゆくシステムです。

 P.R.サーカーの進歩的社会主義(プラウト)においては、このことは、地域経済圏(ユニット)という構想の中で述べられています。
下位経済ブロックが、地域の短期の経済計画を策定する権利をもちます。
そして他の下位ブロックと調整してゆきます。
下から上へと経済計画がのぼってゆきながらより広範囲な範囲で調整されてゆきます。

 ソ連社会主義では、中央のモスクワが地方の経済開発の決定権をもっていました。
アメリカ資本主義では、ニューヨークにある本社が、遠く離れた地域の支店の経済活動の決定権をもちます。
いずれも、地域の住民に自分たちの住む地域について決定権をもちません。
サーカーの進歩的社会主義の理論は、地域の人々が下から決定権をもつホラーキー構造をめざすものです。

 行政単位のホロンレベルを考察すると、町や市の上に県のホロンレベルがあります。
県のホロンレベルの上に国のホロンレベルがあります。
原子の活動を分子が命令しないように、分子の活動を細胞が命令しないように、国も県や市の活動を命令するものではあってはなりません。
ホロンは、どこまでいってもホロンです。
国も最終のホロンではありません。

 国を最終のホロンとして教育の最高の目標とするものがナショナリスト(民族主義者、国家主義者)ですが、国も諸国の一つです。

 したがって、全人類を包含した世界連邦政府まで達して、個人を再下部ホロンとした最高レベルのホロンが成立します。
世界連邦政府まで成立しても、組織はヒエラルヒーではありません。
ホラーキー構造として、下部ホロンが自己決定権、自律性をもって活動し、他ホロンとの協同で上位ホロンを成立させます。
個々人の帰属意識は、特定のホロンレベルに特化されたものではなくなります。
ある特定のホロンレベルが肥大化するならば、病的になります。

 どの領域、どのレベルにおいても、ホロンが肥大化しすぎるならば、病的になり、問題をひきおこします。
職場の中で特定人物がボス的になることも、ホロンの肥大化です。
ナショナリズムは、国レベルのホロンの肥大化の病です。
多国籍企業は企業レベルの肥大化の病です。
それぞれ適切な大きさに位置づけることが病からの解放です。

 サーカーのプラウト経済論では、「中央集権経済」に対して「分権経済」という言葉を使っています。
資本主義もソ連などの社会主義もどちらも「中央集権経済」だと批判します。
サーカーは、ヒエラルヒー階層制の経済を中央集権経済と呼び、ホラーキー階層制の経済を分権経済と呼んでいるのです。
下部から階層制になっているけれども、下から経済決定権をもっている社会をめざすのです。

(4)ホラーキー階層構造をめざす

 このホラーキー階層性の概念がでるまで、個と共同性のテーマは階層性の中で論じられることはありませんでした。
ヒエラルヒー階層性は、共同性の名をもって上位が下位の個を支配します。

 今日、消費文化が物欲に人々を導く中で、個の未発達な低次のレベルで、個が肥大化することで、様々な反社会的行為や非社会的な行為が生じています。
地下鉄でつばを平気で吐く人、電車の中での化粧や携帯電話、成人式での私語や身勝手な行動などなど、そうした問題が背景に共同性の育成の側面が課題にのぼっています。

 それを愛国心教育という国家という上位ホロンへの帰属意識とヒエラルヒー階層構造の強化によって解決しようという動きが強まっています。
これは、下位ホロンの共同性の強化をするのではなく、下位ホロンの自律性をつぶすことで、エイジェンシー(自律)とコミニュオン(協同)を、従属と支配という病理にもってゆくことです。

 ホラーキー階層構造が天地万物の理であるのに、ヒエラルヒー構造は、そこからはずれていますから、上位ホロンレベルにおいても、下位ホロンレベルにおいても問題が生じてきます。

 私たちは、天地万物の理であるホラーキー階層構造の実現に向かって活動してゆくべきです。
職場では、個人として自律するとともにチームとして部署としての統合した意識が成立するように協力してゆかなくてはなりません。
それぞれのチーム、部署の統合された意思が尊重されるような運営を勝ち取ってゆかなくてはなりません。

 労働組合は、それぞれのホロンレベルの自律性(エイジェンシー)の側面、自己決定権の側面が剥奪されないように要求して、エイジェンシーとコミュニオンのバランスの維持を確保するために闘わなくてはなりません。
雇用保障や解雇への規制を強めることで、社会における最下部のホロンを形成する諸個人の不安を除去し、自立性を保障しなくてはなりません。
首切りの不安は、エイジェンシーとコミュニオンのバランスを崩します。

6)本物のスピリチュアリストは、闘いを放棄しない

 最後に、サーカーとケン・ウィルバーの共通点をもう一つをあげます。

 超個の中に自らを確立するスピリチュアリティは、この世から離れところに人生の目標をもち、保守的で権力に従順に従い、非社会的であることを推進する思想のイメージがあります。
しかし、サーカーは、スピリチュアリティの高い人間は人類の福利のために闘ったと言い、そうした人間をサドヴィプラ(レベルの高い知識人、革命的スピリチュアリスト)と呼びました。
そして自分自身も、1960年ころ、インドで言語ナショリズムが高まり、分裂の危機が生じた時、ナショナリズムを批判し、インド統一を守る立場からの呼びかけをおこなっています。
決して、現実の政治、社会、経済から離れたところに人生を設定しませんでした。

 ケン・ウィルバーも同様の思想を語っています。
一つ目に、アメリカでは声を上げる道徳的勇気を失うことがスピリチュアリティと勘違いしているという指摘です。
「彼らが論争的であったのは、まさに彼らがチョギャム・トゥルンパの言う『慈悲』と『愚か者の慈悲』の違いを知っていたからである。
これはポリティカルにはコレクストな(政治的にお上品なことしか言わない)アメリカ人には、もっとも飲み込みにくい教えである。
アメリカでは愚か者の慈悲-違いを見抜く智恵を放棄すること、その結果、道徳的な声をあげる勇気を失うことが-があまりにしばしば、スピリチュアリティと同一視されているからである」ケン・ウィルバー『統合心理学』394ページ

 二つ目に、無選択的な意識、すなわち無我の境地に達することを判断の放棄と勘違いしている。
そうではなく深いレベルに達した意識からは、レベルの高い判断が湧き上がるという指摘です。
「人々は、無選択的な意識を何も判断しないことと取り違えている。
むしろ、無選択的な意識というのは、判断ないし、無判断が状況に応じて適切に生起することを許す、ということである。
なぜ、多くの偉大なスピリチュアルな哲学者が、時に信じがたいほどに激しく論争的であったかという理由は、まさにここにある。
プロティノスがあまりにも激しく占星学者たちを攻撃し、・・・
さらにプロティノスはグノーシス派を呵責なく切り裂き、彼らは神性について語る権利さえ持たぬ、としたのである」同上書395ページ

 第三に、真のスピリチュアリストは、意識の深いレベルから湧き上がる分別智をもって論争に参加するという指摘です。
 「私は、こんなにまで激しく論争的であるような人は、あまりに悟っているとは言えないのではないかと考えたこともあった。
しかし、今はまったく逆であると理解している。
私たちは、本当のスピリチュアリティはこうした論争を回避すべきだと、信じがちであるが、実際は逆に、深度を判断する力の顕現として、すなわち分別智の顕現として、真のスピリチュアリティは情熱的に論争に参加する」同上書395ページ

 第四に、それは個人的なレベルからではなく、より深い普遍的レベルの集合的福利のための全存在をかけた勇気ある心の叫びだという指摘です。
ここには「超個」まで達した高いレベルの「個」があります。

 「それは、心の中から湧き上がる、鋭い叫び声である。
神経症を行動化することは、何の努力もいらない。
だが、立ち上がって全存在をかけ、心の叫びを上げることは、非常な勇気を要する。
私が、先に言及した哲学者や聖者を尊敬するようになったのは、彼らがそのすばらしい判断を、すべての力を使って残していってくれたからである。(中略)

 自分たちがおかれている状況のひどさを何もかもはっきり見ている人は、数多く存在する。
彼らはプライベートな状況ではそのことについて話をする。
彼らは私にいつもそのことについて語る。
反動的で、反進歩的で、退行的な雲が全分野を覆いつつあることを彼らは、心底心配している。
しかし、ほとんどの人は立ち上がって声を上げることをしない。
なぜなら、カウンターカルチャーの秘密警察が制裁や断罪を下すべく、いつも待ち受けているからである」同上書396ページ。

 これらのケン・ウィルバーの指摘は、道徳的な声を上げる勇気を失うことがスピリチュアリティの高さではないこと。逆に、今日、全分野を覆いつつある反動的で、反進歩的で、退行的な雲に対して、立ち上がって全存在をかけ、心の叫びを上げること、そして明瞭に自らの深い判断力、分別智の顕現を示すこと、それが本物のスピリチュアリストの証だというのです。



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