朱熹與聖依納爵的靈修比較 (video inspired by god of star)


(Mitsuki found this important truth)

Theme of this page is to compare taichi of Shushigaku and brahama of Sarkar.
Taichi comes from philosophy of gods of heaven.
Brahma comes from philosophy of gods of earth.
Mitsuki found similarity of these two philosophies.
This is important study for us gods of star.
Taichi is unity of conflict between collective I consciousness of gods of star and time-space of Higgs particle.
Brahma is unity of conflict between purshya of collective I consciousness of gods of star and prakrity of time-space of Higgs particle.
Mitsuki found this important truth.

このページのテーマは,朱子学の太極とサーカーのブラフマの比較です。
太極は天の神々の哲学からきています。
ブラフマは地球の神々の哲学からきています。
ミツキはこの二つの哲学の共通性を見いだしています。
これは私たち星の神々にとって重要な研究です。
太極は星の神々の集合的私意識とヒッグズ粒子の時空の対立の統一です。
ブラフマは星の神々の集合的私意識のプルシャとヒッグズ粒子の時空のプルシャの対立の統一です。
ミツキはこの重要な真理を見つけたのです。


朱子の理気論とサーカー

はじめに

 サーカーの基本哲学のプルシャ、プラクリティ論を考えていて、以前に読んだ守本順一郎と岩間一雄による朱子学の理気二元論の説明が頭に浮かびました。
サーカーのブラフマ論で理気論を読むときわめて明瞭に理解するこができることがわかりました。
瞑想して粗大から精妙への意味を体感できた時、理気論による人間性の成長論は単なる主観的空論ではないことが分かると思います。

 そしてマルクスがヘーゲルを作り変えたように、朱子学を未来につながるものとして作り変えることができるのではないか。
サーカーを参考に江戸時代の身分差別と封建支配を支えた思想を、逆に近代の達成物を「含ませて超えさせる」ことで、未来につながる人類社会の新しい思想をつくるのに役だたせることができるのではないかいうインスピレーションが湧きました。

 そこで朱子学の理気論とはどのようなもので、サーカー哲学とどこが類似しているのか説明します。
なお、「理気二元論」と述べましたが、実際には、サーカーのプルシャ、プラクリティ論が二元論ではないように、二元論ではありません。
あくまで一元論です。
火とその燃える性質を二つに分けることができないように理と気は分けることができません。

1)理気論とプルシャ、プラクリティ論

 「天地の間、理あり、気あり、理なるものは形而上の道也、物を生ずるの本也、気なるものは形而下の器也、物を生ずるの具也、是を以て人物の生ずる必ず此理を稟けて然して後性あり、必ず此気を稟けて然して形あり、其性と其形と一身を外れずと雖も、然れども、道器の間、分際甚だ明かにして乱るべからず」(守本順一郎、『東洋政治思想史』129ページに引用してある朱子の文章)

 こういうことです。
「天地万物は、理と気でできている。
理は、形のないものであり、すべてのもとのものである。
気は、形あるものにさせるものであり、ものを生じさせる力である。
人間は理を受けた性質がある。
それに対して気を受けているがゆえに人間の間には様々の違いがある。
各自の分をわきまえて、秩序を乱してはならない」

 この場合、プルシャ(純粋意識)が理です。
プラクリティ(形質付与力)が気です。
形なき水を理とすると、氷でできた大皿が天地万物、その上の氷でてきた中皿が人間の心です。
気は水を凍らせて、様々の形を与える力です。
すべての人が理性(理すなわち純粋意識の性質)をもっているけれども、気が様々の質を与えているので、多様な気質があります。
プラクリティである気を克服、滅却してそくならば、誰でももともともっている理の性質が前面にでてきて、理性的存在になります。

 これは、サーカーのスピリチュアリティ(ヨーガ)思想と同一です。
サーカーの思想も近代が達成したものをふまえないと容易に封建的差別思想となりかねないと思っていましたが、朱子学をみるとそのとおりでした。
ただし、サーカーは封建的差別思想ではなく、そうしたものと闘う思想です。
しかし、この説明は、スピリチュアリティにレベルの違った人間がいろいろいることについて実感的に納得させるものがあります。

 「かくて朱子の人性論においては(中略)現実の人間は『気質の性』の混濁による『人欲』に覆われることによって、『善悪の機』が具わり、(中略)上は『気質の性』の混濁に覆われることのない絶対善としての聖人から、下は『形気の私』による『人欲』に塞がれた悪人までが、それぞれ現実に存在するものとしての、肯定された形で階梯的に配列されていた。(中略)
かくて朱子学の人性論は、倫理的な当為としては『気質の性』の混濁を取り払って、人倫=分を明かにし得た絶対善=聖人にいたる可能性を見いだすのである」同書、127ページ、

 これをサーカー的に言いなおすと、現実の人間はプラクリティに束縛されているレベルにおいて様々であり、人欲のみを追求するあまり『粗大な心』のみとなり、人々に迷惑や害をおよぼす人がいる。
そしてプラクリティの束縛から脱却したサドヴィプラ(聖人)まで現実には様々の人間が存在する。
誰でもプラクリティの束縛からの解放をめざすならば、スピリチュアリティの頂点である聖人をめざすことができる。
とこうなります。

 すべての人々が理(プルシャ=個体の純粋意識)をもっています。
このことを朱子学では「本然の性」と言います。
ところが人間は気( プラクリティ=形質付与力)を様々に受けています。
このことを「気質の性」と言います。
ではどのようにしてプラクリティ(気質の性) を克服して、プルシャ(理=本然の性)に至る精神性の向上の道を進むことができるでしょうか。
朱子学はその答えを主観的アプローチとして用意しています。

2) 『存心静坐』という主観的アプローチ

 「この『道理の学』の個人における成就のためには、先ず第一に『致知格物』という如き『読書』による客観的方法が採られるようにみえながら、この方法が朱子学の基本視角=名分論の歴史的特質に導かれて『居敬持志』『存心静坐』という如き主観的方法を内在せしめねばならなかった所以が明らかにされた」同書、125ページ

 朱子学=儒教と言えば、四書五経の徹底した読書と暗記を徹するイメージがありますが、実は単に読書だけではなく、スピリチュアリティ向上のための道徳実践と黙想実践を説いているのです。
守本順一郎は、それらを朱子学のもつ歴史的限界を主観的にごまかすための方法として、否定的な文脈で述べていますが、守本順一郎の論述からは、サーカーと同じような論が浮かび上がってきます。

 サーカーはスピリチュアリティすなわちヨーガの道に三つあることを紹介し、それを総合的に進めること精神性を頂点にむけて向上させることができると言います。
その三つとは、ジナャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ=経典を読んだり、講演を聞いたりする)、カルマ・ヨーガ(行動ヨーガ=困っている人を助ける他、サーカーの場合は、搾取のない社会をめざして闘うことも含まれる)、ディヤーナ・ヨーガ(瞑想とヨーガのアーサナの実践をする)です。
朱子学の読書はジナャーナ・ヨーガ、道徳的実践はカルマ・ヨーガ、静坐は、ディヤーナ・ヨーガにあたります。

 『学を為すの道、理を窮めるより先なるは莫し、理を窮めるの要は必ず書を読むに在り』同書、124ページ、
これはサーカーでは、ジナャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ)であり、書物を読んだり、講演を聞いたりすることでスピリチュアリティの向上をめざしてゆくことです。
しかも単に本を読むだけではなく、守本は「『致知は格物にあり』とは吾の知を致さんと欲するときは物に即して其理を窮めるにあるという也」云々の文章を紹介して、「ここに一見、客観的な科学的論求としてあらわれるようにみえる」同書、123ページと述べています。
単に書物を読むだけでなく、実際に照らし合わせてその真偽を確かめながら読むことは適切なことです。
しかし、心が乱れていては、それができません。

「この『致知格物』の前提条件として『心を存し得る能わざれば、理を窮めえる能わず』と心を存すること、即ち何らかの心的用意が必要であることを説き、(中略)更に存心が全く道徳的実践なることを述べるに至る。即ち、朱子における一切の個人的・社会的・政治的価値を実現すべき学=理の探求方法としての致知格物は『居敬持志』『静坐』という如き非論理的・主観的方法によって裏付けされねばならないのであって』同書、124ページとあります。
『居敬持志』『静坐』とは、サーカーのカルマ・ヨーガとディヤーナ・ヨーガにあたるものです。

 「朱子の学問方法論=致知格物は、このように主観的な実践としての方法を本質的に存したが故に、(中略)却って純粋に主観的な内省=存心によって、『天理常に明らかにして自然に人欲懲窒して消治』するに至るといわれ、かくて『理』(それは内心の本然の性でもある)は直観的にも洞察されるとさえされるのである」同書124ページと守本は論じます。

 ここで、守本は、朱子が「主観的な内省=存心」すなわち「静坐」を通じて、人欲が消失し、『理』を直観的に認識できると論じたことを、事実上、紹介しています。
これはサーカーと同じ理論構造となっている理気論の哲学から必然的に導きだされることです。
すなわち主観的な内省である静坐によって「気」の汚濁を消失させ、純粋な「理」に至る実践論を理気論は必要とします。

3)近代=主観的アプローチの放棄

 朱子学は、中国の宋、明、清王朝、李氏朝鮮王朝、そして日本の江戸幕府を支えた官学となり、その封建支配を支える役割を担いました。
このことは、江戸時代の朱子学の知識人が「静坐」などの主観的アプローチを行っていたことを意味します。

 明治以後の近代の良心的知識人は実験、観察にもとづく実証的精神を奉じました。
これは、物質文明を発達させただけでなく、客観的根拠にもとづかない社会的な偏見を克服する上で大きな役割を果しました。
これは称賛してあまりあるものです。
しかし、江戸時代までの知識人が行なっていたであろう「静坐」などによる心の集中訓練を、根拠のない主観的方法として捨て去りました。

 サーカーの社会サイクル論によれば、知識人が搾取的な偏見、この場合、封建的身分差別や女性差別などを人々に吹き込むのは、武⇒知⇒財の社会サイクルの中で知が財に支配権をとってかわられる時期です。
搾取的知識人は、自らの地位を維持するために差別、偏見を社会に吹き込みます。

 この考えからすると、朱子自体、あるいは日本の江戸初期の朱子学者が搾取的な考えをもっていたかは再検討が必要です。
むしろ、守本順一郎によれば、朱子は、それまでの支配的思想であった古代的質をもった仏教を批判し、一歩、歴史的前進を遂げた思想として朱子学を評価します。
東洋を停滞社会と見て分析した丸山真男に対して守本順一郎が優れている点はここにあります。

 江戸期の知識人が社会サイクルの展開の中で、指導的地位に留まる根拠を失い搾取的存在になりました。
彼らの搾取に対する反作用から、明治ではじまる社会サイクルの指導的知識人たちは、江戸期知識人のあり方を全面的に否定したと思われます。
明治に始まる社会サイクルの特徴は、大和魂によるナショナリズムの強調であり、理気論による普遍思想の朱子学的伝統と衝突することになります。
理気論の理は、プルシャ(純粋意識)にあたりますから、人間も含めて天地万物の材料にあたり、普遍的なものだからです。
同時に理気論を捨て去ることは、「静坐」を中心とする主観的修養方法を日本の支配的学問界が捨て去ることでもありました。

4)太極=ブラフマ

 朱子学は、古代儒教の弱点であった理論性の欠如を、周濂渓の太極図説を基礎として形而上哲学を作り上げることで克服しました。
丸山真男は、周濂渓の太極図説を次のように要約しています。
「自然と人間の究極的根源たる太極より陰陽二気を生じ、その変合より水火木金土の五行が順次に発生し、そこに四季の循環が行はれる。
また陰陽二気は男女として交感し、万物を化成するが、その中人はもっとも優れた気を稟けたため、その霊万物に優れ就中聖人はまったく天地自然と合一している。
故に人間道徳はかうした聖人の境地を修得することに存する」丸山真男『日本政治思想史研究』東京大学出版会、1991,21 ページ。

 朱子は、周濂渓が宇宙万物の究極的根源とした太極を合理主義的な哲学に発達させました。
朱子の太極は、サーカー哲学のブラフマと対応しています。
丸山真男による朱子の太極論を紹介し、それがサーカーのブラフマ論と対応することをみてゆきます。

 「太極とは(中略)天地万物を超越した窮局的根源である。
『未だ天地あらざる先き、畢竟也た只是れ理なり、此の理あれば、すなわち此の天地あり、若しこの理なければ亦天地なし』(同上)しかし、他方において理は気と共に個物に内在して万物の性となる」同書、22ページ、

 すなわち、こういう意味です。ニルグナ・ブラフマ(無属性の太極)とは、大宇宙の根源にあるプルシャ(理)がプラクリティ(気)の影響を受ける前です。
気すなわち形質を受けていない純粋のプルシャ(理)の状態です。
プルシャ(理)があるから、プラクリティ(気)の影響を受けて、この天地万物が生じたのです。

 朱子の場合は、サーカーのように明白にニルグナ・ブラフマとサグナ・ブラフマが区別されておらず、どちらも太極として一括されています。
次のようにサグナ・ブラフマとしても太極を論じています。

 「『合せて之を言えば万物の統体は一太極なり。
分けて之を言えば一物ごとに各々一太極を具ふるなり』(太極図説解)」、
すなわち天地万物は単一のブラフマです。
そして一物ごとの一太極とは、サーカー哲学ではアートマン(個体意識)にあたります。
気(プラクリティ)によって形質付与されて人間の心として展開します。
「静坐」などの精神性の修養は気の混濁を取り除きます。
そして理にもとづく本然の性=絶対善、すなわち聖人(サドヴィプラ)に近づくことができます。

5)おわりに  究極の根源が「無」から「実体」へは歴史的前進

 サーカーは、究極的な根源を「純粋意識」という実体においています。
仏教哲学は究極の根源を「空」「無」におきました。
そして朱子は、それまでの仏教哲学を批判して、究極的根源を「理」という実体におきました。
究極の根源に実体を置く点で、朱子とサーカーは一致します。

 守本順一郎は、古代段階の枠内にあった仏教哲学にかわり、朱子が、究極の根源に「理」をもってきた進歩的意義をきわめて説得的に論証しています。
きわめて簡単に守本の論を紹介するとこうです。

 古代社会は、勤労大衆が労働に対してまったく主体性をもちえなかった。
いわば奴隷の状態であった。
現世の苦とは、「空」の顕現した「虚」の世界であるという現世拒否の思想が古代社会に対応していた。

 封建社会は、勤労大衆が、土地と家族をもち(正確には「土地の下級所有権」をもち)、一定の自立性をもっていた。
一般大衆の主体性を認めた上で、そこに序列をつけて社会秩序を確立する必要があった。
したがってそれに対応する社会思想は、あらゆる人間に共通に人間としての主体性を認め、かつ人間の上下の多様性のあることを説明する論理でなくてはならなかった。

 この課題を成し遂げたのが朱子学である。
すべての人間には平等に「理」がそなわっている。
しかし、「気」によって形質付与されることで汚濁がそなわり、貴賤の上下が生じたと説明した。

 以上のように朱子学が、古代社会に対応したものではなく、封建支配秩序に対応したものであることを論証したのが、守本順一郎でした。

 朱子学においては、究極の根源を「理」という実体あるものにしたことで、すべての人間が「理」をそなえており、貴賤を問わず、あらゆる人間が学問と「静坐」などの精神性の修養をすることで、もともとの「理」の状態に達することができることになりました。
死後に極楽浄土をめざすのではなく、現世においてスピリチュアルな成長をめざすことのできる理論になりました。
このように現世拒否の仏教から、現世肯定の朱子学への展開は、思想史上の大きな前進であったことを守本順一郎は明確にしています。

 朱子学は封建社会形成の学問でした。
その課題は封建社会秩序を安定させることにありました。
したがって、「気」によって形質付与され、上下、貴賤のある多様な人間が生まれたとして、封建身分差別を確立する理論的根拠となりました。
そこに朱子学の限界があります。

 サーカーは、朱子と同じように万物の根源を単一の「理」におき、「気」によって形質付与され、多様性が生まれるとします。
そして「平等」と「多様性」を包含する「闘う」理論を提起しています。
朱子学も近代思想を「含ませる」ことで、近代を「超える」新しい社会サイクルを担う理論に改変できる可能性があります。
その際、万物の根源を「理」とする理気論を継承した上で、孫文や毛沢東の思想も「含んで超え」る必要があります。
根源を「実体」におくことは歴史的進歩であり、根源を「無」とすることは、人間存在の古代社会レベルに対応した理論です。
そして近代は、実証できないがゆえに根源を忘れました。(注)

(注)守本順一郎と異なり、丸山真男は、朱子学において究極の根源を「理」としたこと自体の意義に言及していません。
またケン・ウィルバーは、究極の根源を「空」から「実体」にすることの進歩的意義を見ません。
しかし、ウィルバーは事実上、「空」をスピリットととらえ、すなわちサーカーの意識と等置し、実体あるものとしての立場をとっています。
私は、サーカーや朱子のように究極の根源として「理」や「純粋意識」などの実体を設定することを支持するものです。
それは現世肯定、ひいてはこの世の人間存在の意味をより肯定的にとらえる世界観につながるからです。




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