VERY VERY POWERFUL HEALING MANTRA : HARI OM !! (video inspired by god of star)


(As Mitsuki wrote in last line, when I downed Buddha, there was no means of record)

Theme of this page is similarity of way of Buddha and Srakar.
I downed both theory.
It is nature that both has similarity.
As Mitsuki wrote in last line, when I downed Buddha, there was no means of record.
When I downed P.R. Sarkar, there was tape recorder.
What I downed Buddha is impossible to convey later generation.

このページのテーマは仏陀とサーカーの道の共通性です。
私が両方の理論をおろしました。
似たところがあるのは当然です。
最後の行でミツキが書いているように,私が仏陀におろしたときには記録手段がありませんでした。
P.R.サーカーにおろしたときにはテープレコーダーがありました。
仏陀におろしたことが正確に後世の人々に伝わるのは不可能だったのです。


サーカーと仏教(その3)中道と八正道

1)中道論

(1)ブッダの中道の教え

 ブッダは、二つの極端な生き方を避けよと中道の道について次のように述べています。

 「比丘たちよ、出家者はこれら二つの極端に近づくべきではない。
二つとは何であるか。
一つは、種々の欲望において欲楽に耽(ふけ)ることであり、それは下劣で、卑しく、世俗の者の行いであり、高尚でなく、ためにならないものである。
他の一つは、自ら苦行をなすことであり、それは苦しみであり、高尚でなく、ためにならないものである。
比丘たちよ、
如来(にょらい)はこの両極端に近づかないで中道をさとったのである」野々目了訳「四つの聖なる真理(四聖諦)」(『原始仏典 第6巻 ブッダのことば4』)、講談社、1986年

(2)中道についてのサーカーの説明

 サーカーの言葉では、欲望にふけることはアヴィディヤーです。
苦行・修業をしてゆくことはヴィデヤーです。
サーカーは、心がスピリチュアルな意味での中心点に向う精妙化の運動をヴィデヤーと言います。
反対に心が物質世界に向っている粗大化の運動をアヴィディヤーと言います。
心は念じるものに近づきますから、スピリチュアルな中心点である普遍意識(パラマ・プルシャ)を念ずれば精妙化してゆきます。
そして物質でてきた偶像を念じたり、お金を念じたり、この世での名声を念じたりすれば、心は粗大化してゆきます。それがアヴィディヤーです。

 サーカーはこの両方のバランスをとって進みなさい。
どちらか一方に進むことは闇に向って進むことですと言いました。
この点では、ブッダが世俗の快楽でもなく、苦行でない道を進みなさいと述べていることと同じです。

 したがって中道とは、ヴィディヤーとアヴィディヤーのどちから一方に進まず、それらのバランスをとって進んでゆく道と解釈できます。
しかし、サーカーの「中道」の説明によれば、そうではありませんでした。

 サーカーによれば、ヴィディヤーとアヴィディヤーの両方を超越した状態に達する道が中道です。
すなわちより高い、あるいはより深い存在領域(ローカ)に達する道が中道です。
より高い在領域に到達するという根本を忘れて、日々の俗的生活、あるいは瞑想をしても時間の無駄ですよと言うのです。

 「ヴィディヤー・タントラVidya' Tantraは世界に対するポジティブなアプローチです。
ところがアヴィディヤー・タントラは、ネガティブなアプローチです。
ネガティブな道を歩む人々は粗大になる傾向があります。
そしてもし、ポジティブな道を進むなら、名声や社会的信望などを得るかもしれません。
しかし、パラマ・プルシャに到達することには失敗するでしょう。
彼らはより高いローカlokas (存在領域)にすら達することかできないでしょう。(中略)
 ポジティブとネガティブの考えを超越しているこの道は、タントラでは、マディヤンマールガ madhyamma'rga (中道) と呼ばれます。
(ブッダはそれをマッジヒマーマーッガmajjihima' ma'ggaと呼びました)
これが、人間生命を最高の実現に導く唯一の道です。
他に道はありません。
その段階では、もうサーダカは知覚世界に魅惑されません」(PRAMA' - 3)

 ここでは高いレベルの存在階層に前進してゆくことが論じられていますが、わかりやすくするために低次の例をあげましょう。
些細なことに怒ったり、くよくよしたりする心のレベルがあります。
体調や人間関係のストレスなどから、日頃によりもいっそう些細なことが気にかかることがあります。
それは存在の低いレベルです。
体調も良く、心も晴れていると些細なことが気にならなくなります。
そうした時は、些細なその問題についても容易に解決することができます。
それは存在の高いレベルです。
より高い存在領域(ローカ)に達するとは、一時的ではなく、恒常的にそのような心身の状態に達することです。

 ブッダの言うように苦行と快楽のどちらも一歩高い存在領域に達する方法ではありません。

(3)身体、心、エネルギーを頂点に方向づける

 私の理解では、ヴィデヤーとアヴィディヤーの両方を超越してゆく「中道」すなわち存在階層の高みにのぼってゆく鍵となるものは、「ブラフマの観念化」です。
私たちは「一」なるブラフマが「多」として顕現している世界に存在しています。
ブラフマが多に分岐した一つが「私」にほかならず、「私」が見ている多の世界はすべてブラフマのあらわれです。
したがって、私とこの世の一切は、一なるブラフマの無限の分岐です。
「ブラフマの観念化」とはこういうことです。

 ブラフマの観念化によって、世俗の世界、すなわち「一者」が「多者」に分岐した世界に生きる存在でありながら、心は、もともとの「一者」に近づいたものになってゆきます。
すなわちより深い存在領域に達してゆきます。
これが中道です。

 このヴィデヤーとアヴィディヤーの両方を超越してゆく「中道」の道の説明にサーカーはエケンドリアという言葉を用いています。
エケンドリアとはブラフマの観念化だけではなく、身体、思考、エネルギーのすべてを最高の目標のもともとのの「一者」へ方向づけてゆくことです。

 「エケンドリアとは、すべての知覚神経と原動神経motor nervesのすべての表現とそれらの器官のすべてのエネルギーと精妙な力がひとつの点に焦点化されるべきであることを意味します。
神経、インドリア indriyas,、心の材料の一つになった力が、最高のゴールにむけて方向づけられるべきです。
この段階では、サーダカは、特定のインドリア(器官)、思考に重点をおきません。
最高のゴールにむけることに最大の重点をおきます。
そのようなサーダカは最終的にヴィデヤーvidya' とアヴィディヤー avidya'の両方のタントラ Tantraを乗り越えます」(EKENDRIYA - 8)

 これは、単に心理的レベルでブラフマを観念化して、心をもともの「一者」に近づけるだけでなく、身体的領域を深まった知的心理的領域の状態にふさわしいものにしてゆくことです。
仏教は身体的領域を論じませんが、サーカーは、より深いレベルに達した心には、身体構造、たとえばホルモン分泌構造が伴わなくてはならないと考えます。
すなわち身体が心に対応して発達しないと病的になる可能性があることを指摘しています。

(4)心の拡張

 サーカーは、中道の道を進み、存在の高みを一歩一歩上り、心が拡張してゆくイメージを雲にたとえて次のように述べています。

 「弦楽器を演奏する人々は、弦がきつすぎても切れることを知っています。
そしてゆるすぎても適切な響きをだしません。
人間の心は、弦楽器にたとえることができますが、空全体を覆っている雲に比べるほうがより正確です。
どのように人間の心は拡大するでょうか。
雲のたとえでもっともうまく説明することができます。
空の端に雲の小さな切れ端があるとイメージしてください。
次第にそれが空全体を覆うほどまでにその大きさを拡大します。
これは、エクトプラズミックな拡張です。
心がすべての方向に拡張するつれて、それはあらゆる対象をその外周の内部にもってきます」(EKENDRIYA - 8)(注)

 心が存在のより高い層に達することは、「深み」とともに「抱擁する領域」が広がることです。
幼児期は、自分のことだけが視界に入り、子ども時代には家族が視界に、さらに自分の住む地域が視界に入り、そして全人類、全生命、全存在が視界に入ります。
存在のすべてが「抱擁する領域」として自分の愛の枠内に入る時、スピリチュアリティの極みに達しています。
だから、存在の層のより高みに達してゆく「中道」は人間生命を最高の実現に導く道です。

2)八正道

 ブッダは、彼の「中道」の中身を八正道として具体的に次のように説明しています。

 「中道とは何であるか。
実にそれは八つの聖なる道(八聖道)である。
すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい念い(おもい)、正しい精神統一である。
比丘たちよ、これが実に如来がさとった中道であり、眼を生じ、知を生じ、寂静・神通・正しい覚り・涅槃に導くものである」野々目了訳「四つの聖なる真理(四聖諦)」(『原始仏典 第6巻 ブッダのことば4』)、講談社、1986年

 八正道は、「正見、正思, 正語、正業、正命、正精進、正念、正定」としてお経の本に出てきます。
サーカーによれば、八正道は、生きている一般の人向けのブッダの教えです。
その一つ一つについてのサーカーの解釈をみてゆきましょう。

(1)正見《サムヤク・ダルシャナ(Samyak Darshana)》

 正見 《サムヤク・ダルシャナ(Samyak Darshana)》の《サムヤク》とは、ふさわしい形で「適切におこなう」ことを意味します。
そしてダルシャナは、「見る」ですから、サムヤク・ダルシャナは「適切に見る」ことを意味します。

 「ダルシャナ=見る」には、二つの意味があります。
一つは、普通の意味の「見る」です。
「両目の視力」を使って見ることです。
もう一つは、「内的な洞察力」すなわち「直観力」を使って見ることです。

 「『視力』は常に物質的であるのに対し、『洞察力』はフィジコ・サイキック(物的⇒心理的)であり、同時にサイコ・フィジカル(心的⇒物的)です」(LORD BUDDHA'S CARDINAL PRINCIPLES)

 両目を使って見るものはすべて物質的なものです。
視力のいい人は、遠くまで正確に見ることができます。
しかし、サムヤク・ダルシャナは、このような普通の意味の「見る」ではありません。
直感力、洞察力のある母親は、自分の子どもが泣いているのを見て、愛情を求めているのか、お腹が空いているのか、身体のどこかが痛いのか判断するでしょう。
それはフィジコ・サイキック(物的⇒心理的)です。
そしてすぐに適切な行いをするでしょう。
たとえば、愛情を求めていれば抱きしめ、お腹が空いていれば乳をあげるでしょう。
それはサイコ・フィジカル(心的⇒物的)です。
もちろん両目でしっかり赤ちゃんの様子を観察する必要があります。
しかし、「正見」とは、両目で見るレベルではなく、それを「含んで超えた」レベルの「見る」なのです。

 このように正見すなわち《サムヤク・ダルシャナ》とは、何かを見るとき、常に、内的洞察、すなわち洞察力を用いるべきだという意味です。
誰が罪を犯しても、その人を罪人と言うべきではなく、彼を罪人にした原因を見ることがサムヤク・ダルシャナです。

 以上はサンヤク・ダルシャナを両目の視力だけでなく、内的な目による洞察力の二つにわけた説明でした。
サーカーは、二つ目の内的な目を、さらに知的心理的レベルの目とスピリチュアルなレベルの目に分けて次のようにも説明しています。

 「もともとのサンスリット語では、ダルシャナは、見ることを意味します。
そして哲学用語としては、すなわち知的心理的階層とスピリチュアルな階層では学問的スピリットと精神性のスピリットをもって何かを見ることを意味します。
ダルシャナは、指針となる哲学を意味します」(THE FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF LIFE)

 これと同じことをアメリカのケン・ウィルバーは、「肉の目」「知の目」「観想の目」という言葉で表現しています。
学問的な精神をもって見ることは「知の目」であり、精神性の目で見ることは「観想の目」です。

 「肉の目」だけでは、生きてゆく指針は見えてきません。
「知の目」「観想の目」をもった時、何をすべきか人間がどこに向かうべきかが見えてきます。
ダルシャナとはこの三つの目をもって生きることです。

 八正道の中道とは、存在のより高い層域に進む道でした。
その道の一つ目の正見とは、「肉の目」「知の目」「観想の目」へとそれぞれ前者を「含んで超える」より高い層域に進む道です。
(ただし、もし目の見えない人がいて聴覚に頼って見ているとしても、この場合はそれを「肉の目」と考えてください)

 「人が歩いているとしましょう。
しかし、目的地を定めなかったら、彼の努力すべては、彼の運動のすべては、無意味なものになるでしょう。
人は多くのことをするかもしれません。
しかし、ゴールが何であるかを知らなければ、彼の得たものすべては無意味になるでしょう。
だから、あらゆる人間は人生哲学をもつべきです。
それになしには進歩はありえません」(THE FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF LIFE)

 人間のめざすべきゴールは、「肉の目」から「知の目」へ、そしてスピリチュアルな「観想の目」まで持ちえた時、見えてきます。この三つの目が正見です。

(2)正思《サムヤク・サンカルパ(Samyak Sa'm'kalpa)

 サンスクリット語で《サンカルパ》は《確たる決意》であり、したがってサムヤク・サンカルパとは、適切で確たる決意をもって生きてゆくことを意味します。
すなわち自分の使命・人生の目標を定め、「私はそれをしなければならない」という決意をもって人生を生きてゆくことです。

 「人間と動物との根本的な違いは、人間は精神性へと向って進みますが、動物はひとかけらのスピリチュアリティも持たないことです。
動物はただ食べて、飲んで、寝て、そして死んでゆくだけです。
人間の生活は、イデオロギー(理念、観念ideological)の流れです。
そこに人間と動物との根本的な違いがあります。
それでは、人間として一体何をすればよいのでしょうか。
人間は自らの人生の初期に、『自分は何をしなければならないのか』『自分の人生の使命は何なのか』ということを考え、決断を下さなければなりません。
それが早期であればあるほど、より一層よい結果が生まれます。
何故なら、その目標を活動の流れに転換し、実現させてゆくためのより広い視野と多くの機会を得ることができるからです。
これが《サムヤク・サンカルパ》です」(LORD BUDDHA'S CARDINAL PRINCIPLES)

 そして早期に決意すべき適切な目標として、サーカーは、最高実体に近づき、最高実体と一体化してゆこくことをあげています。

 そもそも中道とはより高い存在領域を一歩一歩のぼってゆく道でした。
したがって、「正思」とは、最高実体への融合をめざして、存在領域の高みへと一歩一歩高まってゆく確たる決意をするというとです。

(3)正語《サムヤク・ヴァク(Samyak Va'k)》

 「正語」は、漢字の文字面からは適切な言葉を使って話すことと思われます。
しかし、サーカーは、声帯だけでなく発動器官をコントロールし、適切な表現をすることだと次のように説明しています。
なお、発動器官とは、話すための声帯、働くための手、動くための足、廃物を出すための肛門、生むための性器の五つです。

 「サンスクリット語でヴァクVa'kの意味は、声帯です。
しかし、哲学的用語としては、すべての遠心性の神経の表現を意味します。
見る、触れる、話す、これらすべての表現は、 ヴァクVa'kの中に含まれます。
それゆえ、生活のいずれの層における自己表現にも、適切なコントロールが必要です。
表現する時、自分の知覚神経と発動神経を適切にコントロールしなくてはなりません。
これがサンヤク・ヴァクです」(THE FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF LIFE)

 中道、すなわち八正道は、存在領域の高みにのぼってゆくことでした。
一歩高みに登ることは、同時に発動器官による自分の表現が節度あるものになっていることを意味します。
すなわちその人の話ぶりやふるまいのすべてが自制心のあるものに変容してゆくことを意味しています。
サーカーはブッダの言葉を引用して、次のように言っています。

 「ブッダ自身が詩の形式で語ったものを集めたものがダルシャン・パダDarshan Padaとして知られています。
そのダルシャン・パダの中で、ブッダは言っています。
"Cak's'un'a' 'Sam'varo Sa'dhu
'Sa'dhu Sotena sam'varo'
'Gha'nena Sam'varo 'Sa'dhu.'
'Sa'dhu Jibha'ya Sam'varo.'
'Ka'yena Sam'varo Sa'dhu.'
"Sa'dhu Va'ca'ya Sam'varo.'
'Savvatha Sam'varo Bhiks'u.'
あなたは目を適切にコントロールすべきです。
心に悪い影響を与えるものは見るべきではありません。
心に悪い影響を与えるものを聞くべきではありません
あなたは臭覚をコントロールすべきです。
あなたは味覚をコントロールすべきです。
自分の肉体をコントロールすべきです。
自分の言葉もコントロールすべきです。
この世の枷からの解放を願うならば、あなたはどの領域においても自制心をもたなくてはなりません。
これがサンヤク・ヴァクSamyak Va'kです」(THE FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF LIFE)

 この世の枷からの解放とは、存在領域の深みに進んでゆく中道の道にほかなりません。
心が深いレベルに達すれば、私たちはすべての人類と兄弟であり、すべての生命が自分の家族であると認識されてゆきます。
したがって、サムヤク・ヴァク、すなわち発動器官の適切な表現は、すべての生き物、すべての人間の幸せを願うふるまいになってゆきます。

 「発動器官(手、足、舌など)によってなされるあなたのどんな活動も生き物の福利を考えたものでなくてはなりません。
一匹のアリがいます。
あなたはそのアリを殺すかも知れません。
あなたにアリを殺す理由はありません。
あなはアリを殺してはいけません。
自分の発動器官を適切に使いなさい。
あなたは、罪のない人にひどい言葉使いをするかもしれません。
ひどい言葉を使うべきではありません。
声帯を正しく用いなさい。
だから発動器官や遠心性の神経はすべて適切に使用しなくてはなりません」(LORD BUDDHA'S CARDINAL PRINCIPLES)

(4)正業《サムヤク・アジーヴァ(Samyak A'jiiva)》

 サムヤク・アジーヴァSamyak A'jiivaとは、正しい仕事で生計を立てることです。
反社会的、あるいは人々の利益に反するものではなく、無害な仕事でなくてはなりません。
 そして仕事には物的身体的領域の仕事だけでなく、知的心理的な領域の仕事もあります。
知的な領域でも盗みや汚れた仕事がありえます。
物的な面でも知的な面でも他の人に害のないクリーンな仕事に従事べきだとサーカーは言います。

 「よい人間はクリーンな仕事をもつべきです。
汚れた手段で生計を立てるべきではありません。物的身体的な仕事だけでなく、知的心理的な仕事もクリーンで純粋なものであるべきです」(THE FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF LIFE)

 中道(=八正道)とは、存在の領域を一歩高みに進むことですから、単に正しい職業に従事しているだけでなく、その仕事ぶりも、仕事の中で考えることも適切なものとなります。
その仕事ぶりは誰も傷つけません。
そのためにすべての活動がよくコントロールされたものになります。

 「物的身体的な仕事と知的心理的な仕事で誰も傷つけないという目標をもつべきです。
すなわち、あなたは自分のすべての活動と知覚器官を適切にコントロールすべきです。
これがサムヤク・アジーヴァです」(LORD BUDDHA'S CARDINAL PRINCIPLES)

 なお、サムヤク・ヴァク(正語)の場合には、自分の発動器官(声帯、手、足、肛門、性器)のすべての表現が適切にコントロールされることでしたが、サムヤク・アジーヴァ(正業)においては、すべての活動と知覚器官(見る目、聞く耳、匂う鼻、味わう舌、触覚を感じる肌)が正しくコントロールされなくてはならないとサーカーは言います。

(5)正命《サムヤク・ヴヤーヤーマSamyak Vya'ya'ma》

 サムヤク・ヴヤーヤーマSamyak Vya'ya'maとは、身体的領域、知的心理的領域、スピリチュアリティの領域の強化のすめに適切なエクササイズ(運動、鍛練、練習)を継続してゆくことです。

 ヴヤーヤーマ(エクササイズ)にあたる適切な日本語はありません。
体を鍛えて強くしてゆくためには、様々な運動が必要です。
運動器具をつかったものもありますし、器具のいらないものもあります。
運動は、体を動かすものについていいます。
心を強くし、知力を鍛えてゆくことは運動とはいいません。
知力を強くするための低次のレベルでは練習問題という言葉は使います。
思考訓練とも言うことできます。
訓練は、身体についても知力についても可能です。
スピリチュアリティの領域においては、魂を磨くとはいいますが、スピリチュアリティのプラクティスは、運動でも訓練でもありません。
したがって、サムヤク・ヴヤーヤーマ「正命」とは、物的身体的レベル、知的心理的レベル、スピリチュアリティのレベルでそれぞれの領域を強める適切な実践をしてゆくことです。

 サーカーは、この三つの領域が同時並行的に強化されてゆくことの重要性を説いています。

 「そこに秘められていることをあなたは知るべきです。
発達のために物的な身体physical bodyのエクササイズが適切になされ、心理体にエクササイズがなされなかった場合、その身体的に強くなった人々は、少し知的な欠陥をもちます。
 だから、その場合は少し害が生じます。物的身体的な発達と知的心理的な発達は適合adjustmentしているべきです。
物的身体の発達のための身体的エクササイズとならんで、心理体の発達のための知的心理的エクササイズがあるべきです。(中略)
 身体physical body,心理体psychic body,スピリチュアル体spiritual bodyに適切なエクササイズがあるべきです。
その人は身体的に強くなるだけでなく、適切な知的心理的エクササイズによって知的心理的に強くなります。
しかし、もし、スピリチュアルな実践がないならば、彼らは社会の「洗練されたサタン」になります。
それは一般的な言葉では、「偽善者」'hypocrites'です。
だから、サムヤク・ヴャヤーマSamyak Vya'ya'mすなわち物的身体、心理体、スピリチュアル体に対する適切なエクササイズがなくてはなりません。」(LORD BUDDHA'S CARDINAL PRINCIPLES)

 この視点で、私たちの社会の子どもたちの成長を考えると様々なタイプが見えてきます。
学校では体と知と徳は統合して追求されます。
しかし、放課後は、一方で、少年スポーツ・チームなどに所属して、身体的エクササイズのみに偏した指導を受けている子どもたちがおり、他方で、塾通いなど知的エクササイズの発達のみに偏した指導を受けている子どもたちがいます。
そして放課後、身体的エクササイズも知的エクササイズもせずに、一部には退廃文化にのみこれまれてゆく子どもたちがいます。
そしてどのタイプもスピリチュアルなエクササイズは欠けています。

 中道、すなわち存在領域深くに進むことは、心だけで主観的に達することはできません。
体と心と魂の三つが並行的に進んでこそ達することができます。

(6)正精進《サムヤク・カルマーンタ(Samyak Karma'nta)》

 《サムヤク・カルマーンタ(Samyak Karma'nta)》とは、はじめた仕事を、中途で投げ出さずに、適切に完了するまで、あるいは満足のゆく結果がでるまで、成し遂げることです。
個人的な生活、家族の生活、社会生活、人生のあらゆる領域で、中途半端で投げ出さずに課題をやり遂げることです。

 「仕事を始めたら、その仕事をきちんと、りっぱに仕上げなければなりません。
仕事を中途半端な状態で投げ出してはいけません。
最後は必ず良い状態で終わらなければなりません。
最後の仕上げは常にりっぱで感じのよいものでなければならないのです」(THE FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF LIFE)

  サーカーによれば、人間には三種類のタイプがあります。
最高を意味するウッタマ、普通を意味するマデャマ、そして低級を意味するアダルマです。
低級を意味するアダルマの人々は、何かに着手することを恐れ、何もしようとしません。

 「そしてマデャマという普通の人達がいます。
彼らは仕事を始めます。例えば土地の耕し方を知らない都会人がいたとします。
その人は耕作に魅せられて田畑を耕し始めますが、後になってそれが非常に困難であることを知り、その仕事を諦め、中途半端な状態でその仕事を放棄してしまいます。
これが普通の人の行うことです。
これもまたよくありません」(THE FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF LIFE)

 ウッタマという最良の人に人についてサーカーは次のように説明します。

 「彼らは『一旦仕事を始めたらそれをりっぱに成し遂げなければならない』という主義を持っています。
ブッダはサムヤク・カルマーンタ、つまり一旦仕事を始めたらそれをきちんと成し遂げなければならないと説いたのです」(THE FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF LIFE)

(7)正念《サムヤク・スムルティSamyak Smrti)》 

 スムルティ'Smrti'とは英語の「メモリー=記憶」です。
記憶についてサーカーは次のように説明しています。

 「あなたがある体験をしたとしましょう。
象と出くわしたとしましょう。
あなたが、象を見たとき、あなたの心の中に象の内的心理的投影が生じます。
その外部の象を見た後、内的心理的投影としてあなたの心の中にもう一つの象が生み出されます。
そして数カ月後、三年後、三十年後、その心の中の象を再生できた時、それがスムルティ 'Smrti', すなわち『メモリー 'memory=記憶'』と呼ばれます。
自分の体験した象を心の中にもはや再生できない時、『忘れてしまった。思い出せない』と言います」(LORD BUDDHA'S CARDINAL PRINCIPLES)

 したがって、サムヤク・スムルティは、「適切な記憶」という意味となります。
スピリチュアリティの進歩につながることは忘れずに覚えておくことです。

 「人間の無限の進歩に導くスピリットに適ったものを覚えておくことです。
その他のことは忘れてもいいです。
ある人があなたの感情を傷つけたとしましょう。
それを忘れないならば、あなたは内的な痛み、心の苦しみを感じます。
そいうことは忘れようとしなさい。
しかし、良いことを学んだら、忘れずに記憶に留めておきなさい。
精妙な領域、記憶の領域を源とするものが、サムヤク・スムルティ'Samyak Smrti'です。
自分のスムルティの領域内に常に保持すべき最良のものは、パラマ・プルシャです。
それを一瞬たりとも忘れるべきではありません」(LORD BUDDHA'S CARDINAL PRINCIPLES)

(8)正定《サムヤク・サマーディSamyak Sama'dhi》

 サムヤク・サマーディとは、適切な心理的同化です。
心が何かを感じたり、イメージしたりする時、心の材料は二つの部分に分かれます。
たとえば、バラを見る時、心の材料は、見るという主観の部分とバラの形をとった客体の部分です。
バラにうっとりとしてわれを忘れた時とは、主観の部分が、その主体性を失って、バラの形をとった客体の部分に融合・同化してしまった時です。
この融合・同化についてサーカーはsuspend(停止)という単語を使っています。
究極的実体を瞑想し、我を忘れ、主観の部分がその普遍意識に融合した状態が、サムヤク・サマーディです。

 「サムヤク・サマーディとは適切な心理的同化(suspension停止of mind)です。
すばらしい音楽表現を聴いている時、その音楽が心の客体となります。
そして聴いている間、心の主観的部分は、その客観的部分に同化suspendedします。
それは聴覚における心の同化(suspension停止)です。
同様にあなたがバラを見る時、その美しさに魅されます。
あなたの心の主観的部分は、心の客体的部分に融合します。
それはバラに同化suspensionしていることです。
同様に、最高実体、すなわちパラマ・プルシャを瞑想している時、あなたの心はパラマ・プルシャに同化(suspended停止)します。
それが適切なサマーディ、心の同化(suspension of mind)です」(THE FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF LIFE)

まとめ

 以上の八つの道は、より深い存在階層に進んだ時の人間のあり方であると同時に一般の人々がより深い階層に進むにはどうしたらいいかを示した指針でした。

 ただし、この八正道はあくまでサーカーの解説であり、たとえば、ブッダが瞑想においてパラマ・プルシャと融合することを目標とせよと述べたと伝えられているわけでありません。

 またサーカーは、次のように「正見」《サムヤク・ダルシャナ》が、バランスのとれた経済社会をつくる決意を促すものだと述べています。

 「例えば、あなたがある男が盗みをしているのを見て考えます。
もし、あなたが直観を用いれば、その男は四日間も何も食べていなかったことを見ます。
今、彼は盗みを働いています。
外的に見れば、その男は盗みをしています。
彼は罰されるべきです。
それが普通の見方です。
しかし、もし、ここで内的洞察を用いるならば、つまり、直観的な見方をすれば、あなたは、その男は四日間もの間食べ物にありつけず、やむなく盗みをせざるをえなかったことを見ます。
従って、この内的洞察、直観の後、あなたは、状況に強いられて二度と盗みにおいやられることのないような社会経済構造を打ち立てる決意に至るでしょう」(LORD BUDDHA'S CARDINAL PRINCIPLES)(注)

(注)ここでは空腹のために犯罪に走った例をあげていますが、要は、罪を犯した人を罪人として見るな、罪を犯させた要因の方を洞察して、その要因の方を除去せよという視点を述べているのです。
日本社会もリストラなどの不安や不安定な経済状況があり、すべての人が安定した経済生活を送ることができる経済構造を打ち立てる課題があり、ここで論じられていることは後進国だけの問題ではありません。

 しかし、ブッダの八正道には、このような視点があるわけではありません。
あくまでサーカーの解説です。
ブッダが一般の人のために述べた八正道には、この世で生活してゆく上で必要な物的要素、バランスのとれた経済、調和のとれた社会的規範などが含まれていないとサーカーは指摘します。

 しかし、同時に「ブッダは、たくさんのことを言いましたが、すべてが正しく書き留められたわけではありません」(THE FUNDAMENTAL PRINCIPLES OF LIFE )とサーカーは述べています。
私自身、サーカーの本とサーカーの弟子の本では天地の差を感じます。
それから類推すると、ブッダの教えは、弟子が記憶に頼って記録したものであり、弟子の理解力のレベルに規定されて、ブッダの深みを経典に書き残せなかっただろうと考えます。
サーカーの指摘しているようなことを実際にはブッダは言っていたのかもしれません。




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