Jack DeJohnette - Music in the Key of Om (video inspired by god of star)


(This is because theory of Buddha was down in ancient times)

Theme of this page is that way of Buddha was negation.
Negation does not mean negative.
In this negation spiritual practice does not include social activity.
This is because theory of Buddha was down in ancient times.
I could not down social theory.


このページのテーマは仏陀の道は否定型の道だったです。
否定型の道とはネガティブいう意味ではありません。
この否定型においてはスピリチュアルプラクティスが社会的活動を含んでいません。
これは仏陀の理論が古代におろされたためです。
私は社会理論をおろすことができませんでした。


サーカーと仏教(その2)スピリチュアリティのアプローチをめぐって

はじめに

 「サーカーと仏教 その一」において、仏教に身体論や社会経済論が発達しなかった背景を、その哲学的基礎から見てきました。
それは、この世が「マーヤー(幻影)」であり、「空」であり、この世に対して積極的、肯定的な意味づけをしないところに起因していました。

 それに対して、サーカーは人間存在を物的身体的領域と知的心理的領域とスピリチュアルな領域の三層の交差するところにみます。

 「人間の存在は三面的です。
すなわち物的身体的、知的心理的、スピリチュアル的です。
三つの領域でのバランスのとれた発達が、生活に統合をもたらします。
それは実存的充足をもたらします」(Prama')

 したがってサーカーは、物的身体的領域は厳然と存在するととらえます。
個人においては身体的バランスの向上はスピリチュアルな成長の土台となります。
人類においてはすべての人が最低限の衣食住を保障される世界をつくることが必要です。
現実の世俗の世界と無関係に個人的なスピリチュアルな救済を求めるのは偽善であるとまでサーカーは述べます。

 それに対して仏教は、物的身体的領域は問題にせず、心の層からスピリチュアルな層に進む領域のみに重点をおいた実践論になります。
この領域はサーカーと大きく重なります。
根本哲学の相違ゆえに、その実践論についても違いがでてきます。
本稿は、実践の側面について光をあてます。

1)サーカーの四つのアプローチと仏教

(1)三領域と四つのアプローチ

 仏教を見てゆく前にサーカーの三層の四つのタイプのアプローチを簡単に見ておきます。
すでに「サーカーと仏教 その一」の注でふれましたが、物的身体的領域での要求はカーマ、物的⇒知的領域での要求はアルタ、知⇒精神性(psycho-spiritual)の要求はダルマ(スピリチュアリティ)です。
そして最終的に個別の形質を失い、ニルグナの中に溶け込みたという要求はモクシャ(救済)でした。

 サーカーは、この三層すべての統合的アプローチをめざします。
このアプローチにおいては、心が対象とするもの、すなわちパブラが問題になります。
粗大な対象からより精妙な対象に心が向うようにパブラを変容させてゆくことが重要になります。
どんなに心が精妙な要求、すなわちスピリチュアリティやモクシャの要求までに高まっても、衣食住は欠かせませません。
衣食住などに不足しているならば、身体の維持のため、心のパブラ(心の対象)が物的なものとならざるをえず、心は粗大化してしまいます。
スピリチュアリティが高まるためにはすべての人類が最低限の衣食住が保障される社会構造を実現しなくてはなりません。
リストラや資本主義的競争原理は、スピリチュアリティの低下を招き、決してその向上の基盤にはなりえません。
仏教はこの点を問題しませんから、最終的に出家して、信者の寄付によって衣食住を確保し、ダルマとモクシャを追求せざるをえません。

 ここにサーカーとブッダとの根本的な違いがあります。
しかし、仏教は、ダルマ(スピリチュアリティ)とモクシャ(救済)を追求しており、その点では、サーカーはブッダと重なります。

(2)サーカーとブッダの共通領域

 ダルマ(スピリチュアリティ)の領域においてサーカーとブッダとの共通点は、カルマ(業)論です。
サーカーは、自分のサンスカーラ(反作用の潜在力)論は仏教のカルマ論と同じであると述べています。
サーカーもブッダも、スピリチュアリティの領域での基本目標は、このサンスカーラ(反作用の潜在力)を減してゆくことにあると考えます。(注)

(注)モクシャ
 なお、モクシャ(救済)の目標は、サンスカーラの軽減ではありません。
アートマンがサンスカーラを滅した段階は、ニルグナの直前のヒランマヤ・コーシャであり、ここにはすでにサンスカーラはありません。
サンスカーラを滅したいという願いを超えたところにあります。
モクシャは、個別性を一切滅して、普遍意識に溶け込む願いですから、人間への再生の願いを捨てて、大宇宙の永遠の生命に溶け込むことです。

 サーカーは、サンスカーラの重荷を減らす意義の中で次のようにブッダを引用しています。

 「この宇宙のあらゆる原子、分子、物質、心、すなわちあらゆるものがこのマクロコズミックの波動の中に浮かんでいます。
心が粗大な重荷から解放されている人は、容易にコズミックな波動の中に浮かぶことができます。
サンスカーラの荷物を過剰に抱えている人は、まったく浮かぶことができません。
ブッダは、教えの中で言っています。
「もし、向こう岸にわたりたいとおもうならば、あなたの心のボートの荷物を減らしなさい」(INDIVIDUAL RHYTHM AND UNIVERSAL RHYTHM)

 では、心のポートの荷物、すなわちサンスカーラとは何でしょうか。

2)サンスカーラ(カルマ)論

(1)サンスカーラとは

サンスカーラ論(カルマ)論とはどのようなものでしょうか。
サーカーはブッダと同じであると言っているのでサーカーのサンスカーラ論を説明します。

 人間は活動なしには存在を瞬時たりとも維持できません。
そしてあらゆる活動は、その反作用をともないます。
心の中で考えたことにさえ反作用があります。
そして反作用に駆り立てられている時には、自分が自主的にやっているように見えて、実際には、内奥からかりたてられています。

 「あなたが、以前のおこないの帰結の報いを受ける活動を実行している時、あなたは自主的に活動していません。
その時、あなたは機械的に活動し、以前の活動の反作用によって駆り立てられています。
そして、あなたは自分に恥辱や非難や苦痛をもたらす望ましくない活動をすることを余儀なくされるかもしれません。
そして後に自分を責め、後悔します。
それはあたかもあなたの手足に枷をはめられているようなものです。
あなたはそのような行動することを避けることができません」(KARMAとAND KARMAPHALA)

 反作用の潜在力(サンスカーラ)をサーカーは、ボールにたとえています。
過去のなんからの行いをすることによって、心に変形が生じます。
心はこの変形をもとにもどそうとします。
この変形がもとにもどろうとする中で、もし過去に他人に苦しみを与えたならば、それと同じだけの苦しみをその時に感じることになります。
この変形をもとにもどそうという力に駆り立てられて人は、行動し、新たなサンスカーラを蓄積してゆきます。
自分が行動しているように見えて、実は過去の自分の行いの反作用の蓄積によって駆り立てられて、失敗や苦悩、喜びを経験しているのです。
それがまた反作用の潜在力として蓄積します。
それがサンスカーラの重荷、あるいいは束縛です。
サーカーやブッダのスピリチュアリティは、そのサンスカーラの束縛からの解放をめざします。(注)

(注)なお、サーカーは、今、苦しんでいる人を過去のサンスカーラのせいだとみてはいけない。
その人の苦しみを減らすために活動しない。
むしろ、その人をブラフマの顕現であり、ブラフマが奉仕するチャンスをあたえてくれたと考えなさいといいます。
そして、社会的な諸問題での苦しみ、たとえば、リストラにあったとか、それをサンスカーラのせいにせず、そのような資本主義社会を人間的な社会に変革せよとサーカーはいいます。
ひとつまちがえれば、カルマ論は前世で悪いことをしたんだから仕方がないという非科学的な宿命論になりかねない要素があります。

(2)サーカーのサンスカーラ消滅論

 しかし、人間は、自分の存在を維持するための活動は不可欠です。
したがって、活動の反作用を避けることできません。
どのようにしたら活動と反作用のサイクルから脱却できるでしょうか。

 サンスカーラ(反作用の潜在力)からの解放のためには、サーダナー(スピリチュアル・プラクリティス=瞑想など)を通じて次の三つのレベルに心を到達させる必要があるとサーカーは考えます。
(1)活動の果実に対する願いの放棄、(2) 活動の実行の際の虚栄心の放棄、(3)自分を含むすべての活動はブラフマのなせることだと観念化することです。
(=このことをブラフマに対してすべての活動を「引き渡す」と言います)

(1)活動の果実に対する願いの放棄

 まず「活動の果実に対する願いの放棄」の重要性です。
期待が大きければ、それだけ落胆も大きいことは誰もが経験的に知っていることではないでしょうか。
サーカーは次のように説明しています。

 「たとえば、一片の鉄を上に投げ上げたとしましょう。
それが高く上がるほど、落ちてくる力はより大きくなります。
上がるための力が使い果たされるや否や、上がったのと同じ力で落ちてきます。
これは自然の、プラクリティの不変の法則です。
同様に、あらゆる思考や行いに対して反作用の潜在力は必ず蓄積されます。
活動をなし終えるや否や、反作用の潜在力の成長は止まります。
そしてこの潜在的なエネルギーは、実行された活動の反作用に必ず転化します」(KARMA AND KARMAPHALA)

 「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。
活動の結果を天命として受け入れよというこの意味も、努力の結果に対する願望を放棄することで反作用を防ぐ同様の人生哲学を述べていると思います。

 「人間は自分の行為をコントロールできるだけです。
その行為の結実はコントロールできません。
私たちが活動の結果を支配できない時、一定の目標の達成をあれこれ考えることは虚しいことです。
あれこれ考えても役に立ちません。
活動をなし終えるためにのみ働きつづけることは理にかなったことではないでしょうか。
そのように働きつづけることが、活動の果実への願望を放棄すること、すなわちプハラーカームクシャー・ティヤーガPhala'ka'm'ks'a tya'gaです」(KARMA AND KARMAPHALA)

(2)活動の実行の際の虚栄心の放棄(カルテルサヴァービマーナKartrtva'bhima'na Tya'ga)

 良いおこないをすれば、良い反作用がもどってくるはずですが、良いことをしてほめられたいとかの願望や虚栄心が生じるとその反作用の潜在力が蓄積してしまいます。

 「普通、人々は実現しそうな特定の目的をもって活動します。
しかし、結果を考えずに、ただ自己満足のために、あるいは自分の義務を成し遂げることでうぬぼれた高尚さを感じるために、活動を実行する人も多くいます。・・
 単なる活動の結実の放棄では足りません。
活動をおこなったという虚栄心、たとえば新聞に書かれた贈り物のニュースを見たいという願望、すべては心の振動の形成の原因になります。サンスカーラは従来どおり、増えつづけます」(KARMAとAND KARMAPHALA)

 この虚栄心については、活動の果実への願望を放棄している場合でさえ生じてしまいます。
それを防ぐためには、小宇宙の『私はする』を、ブラフマ、すなわち大宇宙の『私』が、『私』というマシーンを通じて仕事をしているというふうに自己暗示をかけます。
それができれば、小宇宙の『私』の虚栄心が生ずるのをある程度は防ぐことができるとサーカーは言います。

 しかし、その場合でも、他のものではなくこの『私』がブラフマから選ばれたという優越意識をもつ可能性があります。
 そのような考えに陥らないためには、ブラフマである「私」が、ブラフマによって選ばれ、ブラフマのあらわれである相手に奉仕したにすぎないという信念を身につけるべきだと次のように述べます。

 「ブラフマが私たちの奉仕する気持を引き起し、そしてブラフマが他者を通じてそれを受け取っているという考えを身につけるのです。
私たちが活動を実行するための好都合な機会があるというのは、ブラフマの優しさにほかなりません。
この信念を身につけるならば、するものdoer'sの虚栄心(カルトルトヴァービマーナティヤーガkartrtva'bhima'na tya'ga)を避けることは可能です」(KARMAとAND KARMAPHALA)

 以上が良いおこないをしても虚栄心を生じない方法です。

(3)すべての活動をブラフマが実行しているとみなす。

 しかし、このように活動の果実への願望を放棄し、虚栄心を放棄したとしても、なおかつ、なんらかの活動をおこなうことは、どうしても作用と反作用のサイクルの中におかれてしまう可能性があります。
個体としてアイデンティをもつかぎり、反作用は避けられないと次のように言います。

 「あなたが自分のアイデンティティをブラフマと切り離す限り、あなたが個別の『私』に夢中である限り、あなたは活動を実行しつづけなくてはならず、必然的にその反作用を被らなくてはなりません」(KARMAとAND KARMAPHALA)

 したがって、この世で活動しながら反作用の潜在力をそれ以上蓄えず、サンスカーラを消去しながら、生きてゆくためには、個別のアイデンティティを自分はブラフマ(全宇宙の『私』)であるというアイデンティティに転化させてゆくことだとサーカーは次のようにのべます。

 「そこからの出口はどこにあるのでしょうか。
唯一の方法はすべての活動をブラフマに明け渡すことです。
そしてあらゆる活動がブラフマによって実行されていると観念化することです。
そのような活動は、自分自身の活動とは呼びません。
活動はブラフマによってのみ遂行されてきました。
そして良いものであろうと悪いものであろうと、ブラフマだけがその帰結を担います。
その場合には、私たちは個々のアイデンティティをもちません」(KARMAとAND KARMAPHALA)

 ここで「明け渡すsurrender」という言葉が使われています。
これはグルにすべてを明け渡すということではありません。
これは親鸞の「絶対他力」の考えに似ていると思います。
自分の活動のすべては、一見、自分の力によるものと感じますが、実際には絶対的な力(ブラフマ)の一部分として展開しているという考えです。
違う点は、サーカーの方は、自分がその「絶対他力」であるブラフマに達することを課題とすることです。
そのために絶対他力によって生かされている受け身的存在から、反作用の潜在力を恐れない積極的活動的な存在になります。

 すべての活動がブラフマの活動だと認識できた時は、反作用の潜在力を恐れる必要がまったくなくなります。

 「多くの人々は、反作用のおそれから何もしません。
そして彼らは怠惰になります。・・・
すべての活動をブラフマに明け渡した人々は、活動を恐れる理由がありません」(KARMAとAND KARMAPHALA)

 以上のように、サーカーの現実のこの世俗の世界で世の中に貢献して生きながら、サンスカーラの束縛を脱して、仏教的には最終的な解脱、すなわちアートマンのブラフマへの融合という究極目標をめざすことができる論となっています。
それが可能になるのは、この現実の世がブラフマの顕現という彼の基本哲学があります。

 以上、サーカーの「サンスカーラ」の束縛からの解放へのアプローチは、主観的、かつきわめてポジティブなものであることがわかります。

 それに対して仏教はブラフマの顕現としてこの五要素の物的世界を見ません。
この五要素の世界がマーヤー(幻影)であること、五要素の世界を去ってゆく方向に「空」の悟りもとめてゆくことになります。

3)スピリチュアルな進歩を妨げる我執との闘い

(1)ブッダの苦滅聖諦・・・貪欲、怒り、我執を捨てる

 ブッダが35才で悟りに達した直後、弟子になった五人にはじめての説法をおこないました。
その中に四諦が出てきます。
四諦の「諦」とは真理という意味で「聖諦」とも訳します。
その四つとは、①苦諦(人生は苦であるという真理)、②集諦(苦の原因は執着の心、煩悩にあるという真理)、③滅諦(執着を無くすことによって苦が滅する真理)、④道諦(苦を無くし悟りに至る道は八正道であるという真理)です。

 二つ目の集諦についてブッダは次のように述べています。

 「比丘たちよ、聖なる真理としての苦の生起の原因(苦集聖諦)とはこれである。
それは再生をもたらし、喜びと貪り(むさぼり)をともなって、いたるところの対象に愛着する渇愛である。
それは、すなわち、性欲と生存欲と生存を否定する欲とである」野々目了訳「四つの聖なる真理(四聖諦)」(『原始仏典 第6巻 ブッダのことば4』)、講談社、1986年

 このように仏教では、対象への執着による貪欲や怒りなどの煩悩が、悟りに向って進むことを妨げると考えます。
したがって、苦を消滅させるために、すなわちサーカー的に言うと苦の原因であるサンスカーラを消滅させるためには、対象への執着・愛着を捨てなくてはなりません。
ブッダはそれについて次のように言ったと言い伝えられています。

 「比丘たちよ、聖なる真理としての苦の消滅(苦滅聖諦)とはこれである。
すなわち、その渇愛を残ることなく離れて滅し、捨て、捨離し、解脱し、執着のないことである」野々目了訳「四つの聖なる真理(四聖諦)」(『原始仏典 第6巻 ブッダのことば4』)、講談社、1986年

 このように仏教においては煩悩の原因であるこの世の対象への執着・愛着を捨てること、貪欲や性欲、怒りを捨てることが実践的な課題となりました。

(2)サーカーは貪欲や怒りを「捨てず」に克服する

 サーカーの論では、怒りや貪欲は、人間のスピリチュアルな進歩を妨げるサトリプ(Sadripu六つの衝動)の中に入ります。
リプripuとは敵という意味で、スピリチュアルな進歩を妨げる六つの敵です。
クロダKrodha (怒り)、 ローバLobha (どん欲)、 マダMada(うぬぼれ) 、マツァルヤMatsarya (ねたみ)、アマama (この世のものへの熱望)、モハMoha (愛着attracion),です。

 サーカーは、これらは、その人が生まれながらにもっている性向であると考えます。
ブッダのようにそれらを消滅させようとすると無理が生じて、別のところに問題を引き起こします。
したがって、たとえば、どん欲ならば、その対象を物的レベルから、知的レベル、スピリチュアルなレベルへと欲自体を向上させることで克服します。
怒りも怒りのレベルを向上させることで克服します。
これらは、パブラ(心の対象)が粗大から精妙なレベルに高まってゆくなかで質的な転化をとげてゆきます。

 サーカーは、スピリュチアルな進歩を妨げるものは、サトリプ以外にもあります。
八つの枷(Astapashaアスタパシャ)です。
サトリプと違ってこのアスタパシャは、心の中で闘って粉々にくだいてしまいなさいといいます。
サトリプは、生まれつき人間の心にそなわっているものですが、アスタパシャは、生まれてから後で、人間の心に染み込んできたものですから闘うことで無くすることが可能です。
アスタパシャとは、 バヤBhaya(怖れ)、 ラッジャLajja (恥かしさ)、グルナGhrna (憎しみ)、シャウンカShaunka (疑い)、クラKula(高い出自high descent),シラ Shiila (文化の優越感、劣等感), マナMana (虚栄心) ジャグプサJugupsa (陰口) です。

 アスタパシャについては捨てるアプローチですからブッダと共通です。
しかし、サトリプについては人間が生きるためにもともと持っているものですからブッダのようにそれを無くしてゆくアプローチでは無理が生じます。

 次の文章は、ブラフマチャリア(独身主義)について論じた箇所です。
性的衝動は、サトリプのひとつにすぎず、サーカーは、ブラフマチャリアとは性的衝動だけでなく、サトリプ(六つの衝動)とアスタパシャ(八つの枷)のすべてを克服した段階をさしているといいます。
そして性的衝動を含めたそれらサトリプとアスタパシャの克服は夫婦生活をやめることにあるのではなく、継続的なサーダナー(瞑想などのスピリチュアルなプラクティス)の中で超えてゆくものだと論じています。

 「たいてい、単に性的衝動(カーマリプka'ma ripu)を克服することが、ブラフマチャリアBrahmacaryaとみなされています。
本当は、すべてのサドリプs'ad'ripu (六つの敵the six enemies) とアスタパーシャas't'apa'sha (八つの枷the eight fetters)が、外向きの性向です。
性的衝動は、この六つのうちの一つにすぎません。
単に性的衝動を克服することだけでは、ブラフマチャリアに従うことにはなりません。

 心がブラフマチャリーになることができるのは、すべての外向きの諸傾向(=サドリプs'ad'ripuとアスタパーシャas't'apa'sha,、この二つ合わせてアヴィディヤーマーヤー)から自由になった時のみです。
アヴィディヤーavidya' (外向きの性向) があまりに優勢なので、直観的実践による以外にその克服は不可能です。
直観的実践なしにブラフマチャリアを達成しようと試みる人々は、時間を浪費しています。
直観的実践は、それ自体が次第に心を粗大から精妙に変化させてゆき、その人はゆっくりブラフマチャリーになります。
サドリプs'ad'ripu とアスタパーシャas't'apa'shaの支配力は自然に低下してゆきます。
その影響力が消えることで、心はもはや粗大さにとらわれなくなります。

 直観的実践をはじめるために夫婦生活をやめる必要はありません。
肉欲 (カーマka'ma)と愛着(モハmoha)から生まれた世俗への魅惑は、夫婦関係を必要なものとします。
人がこの必要を克服するために直観的実践が役立ちます。
それについて何とも思わなくなります。
だから、直観的実践のために夫婦関係をやめる必要は生じません」WHY ARE PEOPLE AFRAID OF INTUITIONAL PRACTICE?

 ここで、性欲(カーマka'ma)や愛着(モハmoha)を実現するために夫婦関係が必要だと述べています。
そしてスピリチュアリティの前進のためにそれを克服してゆく必要があるとしている点ではブッダと同じですが、ブッダのように禁止するものではなく、夫婦関係を続けながら、直観的実践、すなわち瞑想を通じて徐々にそれらの衝動をより高いレベルへと転化できると考えます。

 そしてこの文章につづいて、「ヴィルヤ(精液)保持」の意義について述べ、シュクラートゥ Shukradha'tu (精液になる液体seminal fluid) とヴィルヤ viirya(精液)は、「神経細胞と神経繊維の栄養分として必要なものです。
心の確固不動さ、知的鋭さを発達させるために精液を保持することは欠くことができません」WHY ARE PEOPLE AFRAID OF INTUITIONAL PRACTICE?、さらに別の箇所では、精液を保持してゆくことは、肌の色つやや魅力をましてゆくとサーカーは述べています。
したがって、サーカーが特別に強調しているわけではありませんが、性欲を抑えた分だけ、この世での知的鋭さ、心の確固不動、肌の色つや、魅力といった資質を増すという見返りがあるのです。
ガンジーが巨大なパワーを発揮した原因のひとつは、、彼が夫婦の性関係がなく、性衝動を超えていたこともあると考えられます。
(なお、サーカーは女性にも精液にあたるものがあるとしており、このことは男性のみの話ではありません)

4)存在の層と仏教

(1)事実上、存在の深みに到達する仏教

 サーカーにおいては、あらゆる行いや思考の「反作用の潜在力」は、アートマンの中に蓄えられます。
アートマン、すなわちスピリチュアルな層は、アティマーナス・コーシャ、ヴィジナーナマヤ・コーシャ、ヒランマヤ・コーシャの三層あり、その真ん中のヴィジナーナマヤ・コーシャが、「反作用の潜在力」が蓄えられるところです。
ブッダにおいては、アートマンを認めていないために、反作用の潜在力を蓄積しているところは不明確でしたが、後に仏教の唯識派が事実上のアートマンの領域であるアーラヤ識に蓄えられるとしました。

 サーカーは、仏教以外のほとんどの宗教は、マノマヤ・コーシャあるいは、よくてアティマーナス・コーシャまでしか進ませないと言います。
マノマヤ・コーシャを魂として天国と地獄を論じているとします。
それに対して仏教は、マノマヤ・コーシャとアティマーナス・コーシャを超えて進み、無我の境地に達することでサンスカーラを消滅させることを論じている点を評価します。

 「普通の宗派主義は、マノマヤ・コーシャで終わります。
偶像崇拝は、人をアーティマーナス・コーシャまで高めることができます。
しかし、それ以上は高めません。
多くの人が偶像崇拝に専念することで幸福を手にいれることを願います。
彼らはパラマートマンParamatmanに没入し、それに近づくことを願いません。
仏教は、それを超えています。
仏教もサンスカーラの消滅を規定しています。
「私」感覚の消滅は、至高Supreme(の存在)への融合です」INVOCATION OF THE SUPREME

(2)エゴ(我)によってエゴ(我)を消す仏教の論理矛盾

 しかし、仏教は、エゴによってエゴを消滅させようとしており、論理的矛盾があると次のように指摘しています。

 「仏教は魂を認めません。
しかし、エゴ(自我)の消滅について語っています。
しかし、誰がエゴ(自我)を消滅させるのでしょうか。
仏教において「私」感覚"I" feelingを消し去るのはエゴ(自我ego)です。
だから、エゴイズムegoismは心のもっとも精妙な表現とみなされなくてはならないことになります」INVOCATION OF THE SUPREME

 サーカーの哲学では、エゴの奥にアートマンがあり、その奥にパラマートマンすなわち大宇宙の心の魂(アートマン)にあたるものがあります。
それらはすべて天地万物の材料であるプルシャ(純粋意識)が、プラクリティの形質力の影響で展開しているものです。
したがって、エゴ(自我)から形質付与を取り去れば、アートマンになり、アートマンから形質付与を取り去れば、パラマートマンになり、さらに形質付与を取り去れば、無属性のニルグナ・ブラフマに達するのです。
 サーカーはプラクリティの束縛下にあるものは、同じくプラクリティの束縛下にあるものを解放できないといいます。すなわち自分が獄中に束縛されている人間は、獄中の人間を解放できません。
いったん獄中から解放されて、他の人間を獄中から出すことができます。

 したがって、仏教は、エゴよりもより精妙なアートマンの存在を認めていないので、エゴ(我)を消すために、エゴ(我)にたよることになるために、自分も獄中にある人間が、他の人を獄中から救おうしているようなもので、論理矛盾だとここでサーカーは言っているのです。

5)究極の目標

(1)目標を提示できない仏教

 ブッダは、「我」へのとらわれが煩悩のもとであり、実際は、「我」は無限のつながりの中に成立し(縁起)、「我」自体が独立して存在しているわけでない(諸法無我)と考えます。
ここまではサーカーも一致しますが、これを一切のものは実体がないことだと仏教はとらえます。
現実は幻影です。
したがって、仏教用語から転じた「悟った」という言葉は、「観念した」「諦めた」「放棄した」というニュアンスを含みます。
仏教では悟りが目標にはなりますが、俗世から離れて寺院で修業する人のための人生目標にはなりえても、ポジティブな人生目標として設定されません。

 サーカーの場合は、万物の根源は空ではなく、意識の充満であり、現実は意識の凝固です。根源が普遍意識という実体であり、普遍意識が形質付与されて展開しているのがこの天地万物です。
万物のうちでもっとも高い存在のレベルに達した人間がもともと自分が普遍意識であったことを思い出すことをサーカーは、「自己認識self-realization」と言い、仏教の「悟りenlightment」を使いません。

 サーカーは、仏教の欠陥は目標を提示できない点にあると次のように言います。

  [どうして仏教とジャイナ教は、時の試練に耐えなかったのでしょうか。
これらの宗教の両方とも、信望を掘り庖してゆく二つの主要な欠陥がありました。
ゴータマ・ブッダGaotam Buddhaは、神と人間生活の究極のゴールについての明確な考えを提出できませんでした。
そして彼の教えにもとづいた人間社会を建設しようとしませんでした。(中略)
ブッダとマハーヴィーラ・ジェインの教えは、ドグマにもとづいていず、人々を故意に誤導するものではありせんでした。
しかし、十分に包括的でよくバランスのとれたものでなかったために時が経つ中で衰えました」religious dogma

 ここでは、「神と人間生活の究極のゴール」と表現していますが、神へのゴールというのは、自分が普遍意識であったこと、あるいはブラフマであったことに気づくことを意味しています。

(2)心は心の対象の形をとる

 ブッダが我を消してゆくネガティブなアプローチであるのに対してサーカーは、我の心を拡大してポジティブなアプローチです。
サーカーによれば、人間は心の対象の性質に近づいてゆきますから、心の対象を注意深く選ぶ必要があります。

「人間は自分の心の対象に近づきます。あなたの存在自体が自分の心理的対象に転化します。
あなたは自分の心の対象を非常に注意深く選ぶべきです。
とかげ類の小さい動物がいます。
それは必要に応じて色をかえることができます。
すなわち自然にカモフラージュする技術を知っているのです。
その動物に何が生じているのでしょうか。
それが赤い色でありたいと思う時、自動的に肌が赤色になります。
赤道地域にその小さい動物を見るでしょう。
同様に人間も対象の形をとります。」SELECT YOUR OBJECT VERY CAREFULLY

 だから「わたしは罪人だ」とか、「私はだめな人間だ」とか考えるべきではないとサーカーは言います。
同じ論理から、私はエロビデオの普及がストーカーが増えている背景にあるとおもいます。
あるいは、「ロワイヤル・バトル」のような残虐な映画は残虐な性質を助長していると考えます。

 「だから、あなたがたは、心の中に罪の意識(コンプレックス)を発達させるべきではありません。
むしろ、ポジティブな観念化をすべきです。
「わたしはパラマ・プルシャの息子だ。
わたしは決して一人ぼっちではない。
わたしは最高実体Supreme Entityの切り離せない一部だ」と観念化すべきです。
それによってあなたの心は強化されてゆきます。
あなたは莫大な心理的パワーを身につけます。
自分のメディテーションmeditation、ジャパ Japa 、ディヤーナDhya'naによって心理的力がつけ加わります。
これがポジティブなアプローチです。
あなたはそうするべきです」SELECT YOUR OBJECT VERY CAREFULLY

(3)ブラフマ(最高実体)の観念化

 心が対象とするものにその人間が転化してゆくということは、自分と自分の対象すべてがブラフマ(最高実体)の顕現と観念化するなら、最高実体に近づくことになります。

 「人間の進歩は不完全から完全への運動にほかなりません。
心の対象が何であれ、心はその対象に転化するのは自然の習いです。
最高実体をあなたの対象にするならば、あなたは最高実体の形をとります。
あなたは彼と一体となるでしょう」MAKING THE MAN UNIVERSAL

 ブラフマを観念化する人間は、自分自身が最高実体であるブラフマに転化しますから、すべてを包括した無限のアイデンティティを身につけます。
したがって、カーストや民族や特定宗派のアイデンティティを身につけません。

 「ブラフマの観念化をするものは、有限の束縛を取り去り、無限の、解放された生命に自己を確立することができます。
そのような人々は、バラモンあるいは、いわゆる不可触民のいずれかのアイデンティティを身につけていません」THE ONLY WAY TO SALVATION

(4)パラマ・プルシャは主観

 パラマ・プルシャ、すなわち形質付与されていていない純粋の普遍意識は、形質付与されてこの宇宙として展開していますから、「私」の心は、この宇宙の展開の一部分ですから、パラマ・プルシャが主観であり、「私」の心はその客体(対象)です。
ですから、パラマ・プルシャを念じること、すなわち心の対象とすること(観念化)は不可能です。
したがって、「見られている」と感じます。

 「あなたは、自分が主観で、パラマ・プルシャがあなたの客体であると考えるべきではありません。
なぜなら、パラマ・プルシャはあらゆる客体の至高の中心点だからです。
彼らはあなたの客体となりえません。
あなたが彼の客体なのです。この宇宙のあらゆる実体は彼の客体です。
サーダナーをしている時、すなわち瞑想をしている時、そしてあなたが何をしていても、パラマ・プルシャが見つめていると常に考えるべきです。
すなわちあなたは客体で、彼が主観なのです。彼はあなたが何をしていても、何を考えていても、すべて見つめています」MAKING THE MAN UNIVERSA

 このように瞑想にあたってパラマ・プルシャについては「見られている」と自分の側を客体化します。
チョウをカエルがねらっています。
チョウが客体でカエルが主観です。
カエルをヘビがねっています。
カエルが客体で、ヘビが主観です。
ヘビをタカがねらっています。
ヘビが客体でタカが主観です。
同じように「私」は花をみています。
花が客体で「私」が主観です。
「私」を「個体意識=アートマン」が見つめています。
さらにその奥からパラマ・プルシャが見つめています。
心がいちばん奥に達することで、「私」は天地万物を見つめているものに成長します。
心は深さと無限の広さを獲得します。

(5)「一者への愛、知識、活動」

 スピリチュアリティの最高の極みに達するためには、一者への愛(devotion)、知(knowledg)、活動(action)を組み合わせたものを必要とします。
そのうち一者への愛がいちばん重要で、知と活動は二次的です。
知と活動は一者への愛を深めるために用いられなければ、障害となります。
あながどんな活動をおこなっても、どんなに知識を深めてブラフマを知ろうしても、もし、あなたがブラフマに対する熱烈な愛をもたないならば、最終的に自分の手元に得たものは何もないことに気づくでしょう」 THE ONLY WAY TO SALVATION

 一者への愛とは、自分がブラフマまで達したいという情熱です。
自分自身をブラフマの顕現としてこの世に役だたせてゆくことです。
スピリチュアリティの最高の極みまで到達しようという意思があってこそ、そこに達するための知識、そしてブラフマの顕現である万物への奉仕活動や主観的にブラフマに達する瞑想などの活動が意味を持ちます。

おわりに・・・現世肯定に根拠を与えないブッダ

 ブッダは、出家し、現世否定の道を進んで頂点まで達しました。
そのため、ジャイナ教の祖マハーヴィーラほど極端ではないけれども、現世肯定と現世否定の調整に欠け、スピリチュアルな領域でのバランスに欠けざるをえないとサーカーは次のように指摘しています。

 「ご存じのようにゴータマ・ブッダの道は、否定Abnegationの道 (ニヴルッティ・マルガNivrtti Ma'rga)でした。
実際、ニヴルッティ・マルガNivrtti Marga において彼は頂点に達しました。
救済の道の追求者としてブッダはニヴルッティ・マルガNivrtti Margaを選びました。(中略)
ニヴルッティNivrttiは、彼の哲学の中で主な役割を果たしています。ニヴルッティNivrttiに関しては, ヴァルダマーナ・マハーヴィーラVarddhama'na Maha'viira は、かなり現実からそれています。
ブッダはそれほどそれていませんでした。
けれども、サンヴルッティ Sam'vrtti(現世肯定) とニヴルッティ Nivrtti(現世否定と滅)の間に完全な調整がありませんでした。
両者の調整は、スピリチュアルな領域での完全なバランスをもたらすものです」(PRAMA' - 3)

 このようにサーカーはブッダの根本問題を、現世否定(ニヴルッティ)のみに方向づけ、現世肯定の道に根拠を与えていない点に見ています。
サーカーはブッダは現世否定という特異な道に人々を導いたと次のように言います。

 「ブッダのサーダナー(修業)は現世拒否(ニヴィルッティ)の精神にもとづいていましたが、彼の教えは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定でした。
しかし、これらの教えはサンヴルッティSam'vrti (現世的必要)にふれていないように、生きることに対する十分な根拠を与えませんでした。
ブッダが社会を形成するアイデアをまったく考えなかったこと、(中略)あるいは彼が経済活動にバランスをもたらすことを企てなかったこと、あるいは、社会的責任の規範を調和させることを企てなかったのはこのためだと考えられます。
彼は社会生活における均衡を確立するための指示を与えませんでした。
誰もが自分たちのグループ(集団)の利益に気をつかい、際限なく自分たちの利益を考えます。(中略)
ブッダは、人類をニヴルッティNivrtti(現世拒否)の特異な道に導こうとしました。
彼は、この世の(社会的、経済的などの) 諸活動とスピリチュアリティの調整を処方したでしょうか。
(その処方があったなら)プラマーPrama'によって育まれる均衡によって向上する美しいロカトリコーナLokatrikon'a、マハートリコーナ Maha'trikon'aが実現してきたでしょう」(Prama'3)




H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

appeal of gods of star

all H.P. of project of Heaven and gods

このページの先頭へ