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(I downed P.R.Sarkar economic liberation theory as progressive socialism)

Theme of this page is that Buddha has no liberation theory in economic level.
I downed theory to Buddha in ancient time also.
Age of Buddha people lived in state of primordial.
People cannot understand social theory.
This is because Buddhist have not theory of economic liberation.
I downed P.R.Sarkar economic liberation theory as progressive socialism.

このページのテーマは,仏陀は経済的領域の解放理論をもたなかったです。
私は古代に仏陀にも理論をおろしました。
仏陀の時代には人々は原始的な状態で暮らしていました。
人々は社会理論を理解することはできませんでした。
これが,仏教徒が経済解放の理論をもたない理由です。
私は,P.R.サーカーに進歩的社会主義として経済解放の理論をおろしました。


サーカーと仏教(その1)現実世界の位置づけをめぐって

はじめに

 サーカーがブッダをどのように論じているかを紹介します。

 サーカーの論が仏教を超えていることを論じますが、私は、人間の形をとったサーカーを絶対視するものではありません。
サーカーは、この世の真理は、時代、場所、人間に規定される相対的真理だと教えます。
サーカーは、彼が生きた20世紀(時)、インド(場所)、弟子(人)となった人々という要素によって規定された存在です。
私たちが学んで生かしてゆくには、私たち自身の場所、時代、人という条件を勘案しなくはならないと考えます。

 仮に、この世界の基底に全知が存在したとして、その全知にアクセスできた極少数の人類が存在したとします。
たとえば、ブッダ、ムハンマド、イエスが、そうだったとしましょう。

 彼らは、何億という人類に巨大な影響を与え、世界史を塗り替えてきました。
しかし、反面、それぞれが宗教や教条的なドグマとなり、その名で多くの人の血が流れました。

 したがって、ブッダ、ムハンマド、キリストが、仮に全知にアクセスできていたとしても、人間の形をとっている点で、すでに時代と場所と人間に規定されています。
それを絶対化する時、ドグマとなり、人間の心を縛り、人間の成長を疎外するものとなり、人間社会に悪影響を及ぼします。 

 私の見るところサーカーも百年後には、歴史に巨大な影響を及ぼす人間になっている可能性があります。

 しかし、サーカーは、体験、経験で確かめことになしに「信じるな」と言っています。
したがって、私たち普通の人間は、あくまで、実証、経験で確かめることのできる知の探求をすべきです。
すなわちこの物的身体的領域は、実験、観察などの方法によって得たデータ、知的心理的領域は、対話、読みなどによって得たデータに得たデータにもとづいて合理的推論を行うべきです。
もし、瞑想による真理の追求(直観科学)が許されるとしたら、スピリチュアルな領域に限定されるべきです。

1)出家について

(1)出家の願望とは

 仏教の創始者であるシッダルタは、シャカ族のカピラヴァストゥ城の王子であり、29才の時、父王の後を継いで国を統治することを放棄し、出家の道を選びました。
それは同時に妻と子、家族を捨てることでもありました。
6年後に悟りを得た後にブッダがつくった教団も厳密な出家主義でした。

 サーカーは、ブッダの出家について次のように言及しています。
「三つめのヴァルガはダルマdharmaです。
それは、心理⇒精神性psycho-spiritual の必要性を満たします。
人間には、物的身体的必要性があるだけではありません。
より精妙なものも必要です。
時々、家族のもとを離れて、僧の生活を始める人々がいます。
物的身体的physical必要性に対する願望をもたなくなった人々です。
なぜ、彼らはそのような選択をしたのでしょうか。
マハプラブ・チャイタニアは、どんな願いから出家したのでしょうか。
何がブッダに彼の美しい王国を放棄させたのでしょうか。
彼らは、それ以上の物的身体的願望をもちませんでした。
彼らの生活で、それ以上のカーマka'ma(物的身体的領域の必要性)とアルタartha(物的⇒心理的領域の必要性)の必要がありませんでした。
彼らがこの世の生活を放棄したのは、心の奥底に非常に深い願望があったからです。
人々が存在の精妙なレベルに達した時、自分たちが絶望的に無知であることに気がつきます。
より高い階層に入ると(たぶん、入らないと)彼らは生命のより精妙な表現を理解できません。
これは精神性に対する願望に導きます。
これが三つめのヴァルガです。すなわち、心理⇒精神性 psycho-spiritualの必要性の充足に導きます」(THE FOUR VARGAS AND DEVOTION)(注)

(注)四つのヴァルガ

 ヴァルガとは要求です。第一のヴァルガはカーマです。
カーマとは、物的身体的領域の必要性です。
人間が生きるために衣食住、医療、教育などを必要とすることです。
サーカーはこの領域での最小限の必要性をすべての人類に保障するためにプラウトの理論を創始しました。
第二のヴァルガは、アルタです。
アルタとは物的⇒心理的領域での必要性を意味します。
たとえば、ある言葉の意味を知らない人間は、その意味を知りたいとおもいます。
意味を知ったら、その必要性は心から消えます。
このような「言葉の意味」がアルタです。
一般的には「お金」もアルタに入るとされているようですが、サーカーは、物的身体的領域についての知識の必要性をアルタとしています。
第三のヴァルガはダルマ(スピリチュアリティ)です。
知的⇒精神性の領域において、心をより精妙な領域まで進ませたい。
あるいは精神性を高めたいという要求です。
第四のヴァルガはモクシャ(救済)です。個体意識(アートマン)の個としての属性を捨てて、ブラフマに融合したいという最終的要求です。
「人間がもっとも完全な表現を見いだした時、そこからやってきたもとの状態にもどりたい」(サーカー)という願いです。

 このサーカーのスピーチは、ブッダたちの出家に共感的に述べています。
サーカー自身は出家せず、最後まで世俗の人であったようですが、彼が指導してつくりあげたアナンダ・マルガはヨーガの出家者集団です。
ただし、サーカーの弟子の場合は単なる出家とは違います。

(2)出家し、世俗から離れて内面のみを追求するのは偽善である。

 私たちは、ここで言う第三のヴァルガ、すなわちスピリチュアリティを深めたいという願いのもとに妻や子と離れて出家することに共感するわけにはゆきません。
なぜなら、私たちは、そのような願いのもとに出家し、殺人者までに転落してしまった優秀な医師をすでに目撃しているからです。
そして残された家族のことを考えるとブッダが偉大であっからといって、出家を単純に支持するわけにはゆきません。

 実は、サーカーは、家族や社会に対する責任を捨てて出家して自分の魂の救いを求める生きかたを利己的であると言います。
人は社会の世話になっているのだから、社会に貢献しつつ、自らのスピリチュアルな成長を遂げるべきだと考えます。

 「もし、ある人が、どんなに世界が地獄にむけて進んでいても、self-realization(自己覚醒)のためにサーダナー(瞑想)をしているならば、その人はまったく利己主義的ではないでしょうか」Selfe-realization and Service to huamanity.Ananda vacanamrtam30,p.38

「ヴィディヤマーヤのみに関心をもっている人の立場はもっと悪いです。
彼らは、食事、衣服、その他のサービスを受けてこの世界で生きています。(中略)
その人はヴィディヤーに逃げる偽善者です。

 『私はサーダナー(瞑想)だけする』といいます。
しかし、もしも、この世界がないなら、どこから生きてゆく手段を得ているのでしょうか。(中略)
彼は偽善者になります。
だから、ヴィディヤーのみに注意を向けている人は、より大きな闇greater darknessに導かれます」Selfe-realization and Service to huamanity.Ananda vacanamrtam30,p.40-41

 この批判はブッダについてではありません。
逆にスピーチの中ではブッダを高く評価しています。
しかし、世俗を逃れて出家し修業することへの、このような批判が随所にみられます。
サーカーの組織した出家者のヨーガ集団であるアナンダ・マルガが、普通の出家とちがう点は、ヨーガのプラクティスを廉価で教えて生計をたて、世俗社会での確立をはかっていることです。
他にアナンダ・マルガの内部を部門にわけて、アフリカの飢餓の救済、幼稚園の設立と経営、あるいはプラウトの具体化など世俗の運動にかかわろうとしています。
したがって、彼らは仏教徒のように寺や山にこもったり、托鉢したりしません。

(3)家庭で生計を立てる人の方が尊敬に値する

 実際のアナンダ・マルガがどうかは別として、サーカーのスピーチの中には出家者よりも在家のものを高く評価した箇所も見受けられます。
出家よりも家庭にいて生計をたてる人の方が尊敬に値するし、究極のゴールにも到達できると説いています。

 「アナンダ・マルガは、家庭にある人と出家者 (Sannyasi)を区別しません。
私たちのマルガでは、家庭にある人物に与えられた立場は、出家者に与えられた立場によりも大きなものです。
それは、家庭にあるものは自分の生活の維持を他の人に依存していませんが、出家者は他の人に依存していることです。
家庭にある人は、自分で立っている強い樹木のようなものです。
しかし、出家者は、木のまわりに巻きついて自分を維持しているつる植物のようなものです。
それゆえ、家庭にある人は、アナンダ・マルガの考えによれば、出家者よりも尊敬に値します。
これ自体が革命的な考えです。
東洋でも西洋でも、家庭にある人が、修道士や出家者よりもより尊敬に値するとあえて述べた哲学者や思想家はこれまでいませんでした。
そのように述べることは革命的な勇気を必要とします。(中略)
以前には、家庭で生活して生計を得ている人が、究極のゴールに達することができるとは決して考えられないことでした。
しかし、アナンダ・マルガの革命は、それを可能にしました。」(Ananda Marga: A Revolution)

(4)サーカーでは特別な聖地、崇拝の対象は存在しない

 なぜ、サーカーは、究極のゴールに達するために出家の必要がないとするのかについては、ブラフマとアートマンの概念を含む基本哲学に関係があると考えています。
サーカーによれば、自分を含めてまわりのあらゆるものがブラフマであり、いわば宗教における崇拝の対象となるべき存在です。
したがって特別に聖なる場所を設定してそこで修業する必要がないということだけ、ここでは指摘しておきます。

 「私たちが見ているもののすべては、最高存在の表現です。
したがって、それにかかわるすべての行いは、他の宗教における崇拝行為と同じ気持ちをもってなされるべきです。
ブラフマは、あらゆるところに存在します。
人はブラフマを見いだすためにヒマラヤにゆく必要はありません。
私たちがすること、聞くこと、感じることはすべてブラフマであるというのは他にない思想です。
このような哲学は革命であり、これまでの偉大な世界の思想家たちによって発展させられてきた哲学とは根本的に異なっています」(Ananda Marga: A Revolution)

2)革命的な意義をもったブッダの思想と実践

(1)血縁を切り、普遍主義へ

 しかし、約2500年前当時の歴史段階においてゴータマ・シッダルタが血縁を断ち切ったということは進歩的なことであり、普遍的思想にむけた前進でした。
部族や氏族などの血縁原理を基礎としていたその当時の社会において、搾取的ヴィプラは、たとえば、「生まれによって卑しい人となり、生まれによってバラモンとなる」、すなわち生まれ(血縁=血のつながり)を差別的支配のイデオロギーに利用していました。

 生まれという血縁によって、すなわちバラモンに生まれることによって救済が保障されているという考えに対して、ブッダは、「生まれではなく、行いによって卑しい人ともなり、行いによってバラモンともなる」と説きました。
サーカーは、その意義について次のように言及しています。
「差別感覚を助長することを説く人々は、もっとも悪質な人類の敵です。
そのような人々は、あらゆる時代に宗教の名のもとに流血を引き起こしてきました。(中略)
ブラフマを知っているものがバラモンだと"言われますが、それは彼らに都合が悪いので、バラモンの息子がバラモンであり、ヴィプラの息子がヴィプラだと彼らは言います。
このようにして、彼らは、素朴で騙されやすい大衆を何世紀もの間、あざむいてきました。(中略)
ブッダは、彼らの残酷さとどん欲と闘った最初の人物です。
彼ははっきりと言いました。
Na jacca' pasalo hoti na jacca' hoti Bra'hman'a
Kammana' basalo hoti Kammana hoti Bra'hman'a.
『生まれつき卑しいものはいない。
生まれつきのバラモンもいない。
悪い行いによって卑しくなる』

 人々があらゆる有限の実体にブラフマを見、しかるべくふるまう時、バラモンの地位を得ます。
彼らは統合した知の中に確立します。
バラモンはカーストではありません。
それは地位(身分)ではありません。
それは普遍主義の中に打ち立てられた広大なコスミック実体です。(THE ONLY WAY TO SALVATION)

 このことはクシャトリアやヴァイシャ、シュードラ出身のものにもスピリュアルなレベルでの救いの道を保障しました。
それは当時の搾取体制を支える思想を打ち破るものでした。
それが、バラモンに対して力をつけつつあったクシャトリアやヴァイシャの層にブッダの教えが支持された理由です。

(2)ブッダは不正と人種主義に対する革命的な思想を説いた

 当時のインド社会は、インド亜大陸に進出した白人のアーリア人が、土着の褐色人種を支配し、ヴァルナ(色)で区別し、生まれによって支配していた社会でした。
ヴェーダの教えはそれを正当化していました。
したがって、「生まれ」すなわち血縁の切断は人種主義との闘いでした。

 「今日のヴェーダ革命を提唱している人々は、古代の過去にもどりたいと思っています。
ヴェーダには革命のコンセプトはありません。
むしろ、ヴェーダの教えは、反革命を暗示しています。
なぜなら、それは不正と人種主義を支持しているからです。
ブッダとジャイナ教の思想は、最初の革命的な思想を含んでいました。
ブッダの教えは、マハーヴィーラ・ジャインMahaviira Jainの教えよりも合理的でしたけれども、どちらもヴェーダの不平等に反対していました」(religious dogma)

 このように、サーカーは、ゴータマ・シッダルタの教えを最初の革命的な思想として評価します。
サーカーによれば、シッダルタは当時の搾取的構造(バラモンによるクシャトリア、ヴァイシャ、シュードラ支配)を革命的に打ち破ったサドヴィプラ(精神性の革命家)です。

 「ヴェーダの時代に、人々は抑圧され、ドグマの押しつけによる窒息状態を感じていました。
彼らは、ブッダの生きた時代に自由をはじめて体験しました。
なぜなら、ブッダはヴェーダのドグマに対する改革運動を初めて開始したからです。
仏教が大衆にすぐに受け入れられ、急速に広がったのはそのためでした」(religious dogma)

(3)ブッダは、言語抑圧と闘った

 サーカーは、言語に優劣をつけ、自分たちの言語に優越感をもち、他の言語に劣等感をあたえることを「知的搾取」と呼びます。

 「言語的搾取があるところでは、抑圧言語に対する闘争を導かねばなりません」(Struggle must go on)

 知的搾取は、物的身体的領域での経済的搾取を補強することになります。
サーカーは、ブッダがそうした知的搾取を許さず、当時の大衆の話し言葉で自分の教えを説いたことを評価します。

 「たとえば、古代のインドにおいては、サンスクリット語の学者が、話し言葉(プラークリットPrakrta)の言語を抑圧しようとしました。
そしてヴェーダのサンスクット語の学者はドラヴィダ系とオーストロイド系の言語を圧倒しようとしました。
ブッダLord Buddha がかれの新しい哲学を当時の人々の言葉であるパーリ語で広めようとした時、学者は彼に圧力をかけてサンスクリット語を使わせようとしました。
しかし、ブッダは彼らの要求を無視して、パーリ語を使い続けました」(religious dogma)

 「パーリという言葉は、田舎、素朴、洗練されていないという意味のパリーからきています。
バーガヴァーン・ブッダBhagava'n Buddhaが、一般の人々の言葉で説いたので、ヒンズーの学者は、彼の言葉をバーカーBha'kha'と呼びました」(Views of Other Faiths)

 私たちは、ラテン語で書かれ、大衆が自らの頭で読むことができなかった聖書を、ルターが、一般の人々が読むことのできる地域の言語であるドイツ語に訳したことを知っています。
イエス自身がユダヤの地で教えを説いてまわった時は、当然、一般の人々の言葉であったはずです。

 現在でも葬式の時に漢字で書かれた仏教経典が、理解できない言葉で読み上げられているのを見る時、サーカーのこの指摘は、考えさせられるものがあります。

(4)宗教的ドグマとの闘い

①宗教的ドグマは人間を抑圧し、拘束する

 サーカーによれば、宗教的ドグマは人間の心に枠をもうけ、進歩を妨げます。

 「人類のすべてが、調和のとれた人生を送り、自分自身の表現の機会をもち、進歩してゆくことを欲しています。
しかし、宗教的ドグマは、これらの基本的な人間の願望に反して進みます。
たとえば、聖職者の中には、もし、女性がダンスを踊れば、その足がだめになる、それゆえ、女性はダンスをすべきではないと言う人もいます。
これはドグマです。
また聖職者の中には怖がらせて特定の神を崇拝することを人々に強いるものがいます。
もしある神を崇拝しないならば、災いが彼らの家族に降りかかり、神は報復すらすると言われます。
しかし、悪い人々がするように、神は報復することができるでしょうか。
もし、それができるなら、どうしてそれが神でしょうか。
これはすべてドグマです」(Religeous Dogma)

 今でも日本には、女人禁制の聖なる山があり、かつて女性が山の神聖さを汚すと説いた僧がいた名残りです。
あるいは、これこれを唱えず、念仏や座禅をすると地獄にゆくと説いた宗教者もいました。
慈悲深い仏(神)がどうしてそんなことをするでしょうか。
サーカーによれば、これらはすべて悪意あるヴィプラの説いた宗教的ドグマです。

 「スピリチュアリティの場においては、恐怖感や羞恥心、その他いかなるコンプレックスも存在してはならないのです。
従って、もし従わないならば、あなたは地獄へ落ちるであろうと告げる経典、そのような経典は人間社会の極悪の敵です」(アナンダヴァチャナムタム12の第五章)

 サーカーは、宗教からドグマを取り去り、その根幹部分のスピリチュアリティだけを支持します。
しかし、宗教的ドグマは、数多くの流血の惨事をひきおこしてきました。

 「天国の魅惑と地獄の恐怖を用いながら、彼らは(中略)人間社会に人工的な分裂を生み出します。
知性のある人々は、そのような宗教の蛇のようなわなに捕らわれるべきではありません。
もし、人々がわなに捕らわれるならば、彼らは知的に破産したと理解すべきでしょう。
世界のすべての国でそのような人々が分離したコミュニティを形成しています。
おそらく宗教が人類にもっとも損害を与えてきたでしょう。
結局、ほとんどの人間の紛争は宗教の名前で起きてきました。
今や、宗教にかかわる紛争を永遠に終止符を打つ時がきました」(HUMAN SOCIETY IS ONE AND INDIVISIBLE-1)

 極楽と地獄の教義、男性と女性を差別する教義、カースト差別の教義、これらのドグマはそれ自体が、知的搾取であるばかりでなく、物的身体的領域において経済的搾取を強化します。
サーカーは地球上の人類すべてが最低限の衣食住、医療、教育が保障される世界をめざし、あらゆる領域の搾取の廃絶のために闘いなさいと言います。

 「生活のあらゆる領域、すなわち社会、経済、心理、スピリチュアルな領域で闘争が進まなくてはなりません。
貧しいものへの経済的搾取のあるところでは、搾取者に対する闘争に携わらなくてはなりません。
一般的に人間に対する搾取のあるところでは、搾取者に対する闘争が不可欠です」(Struggle must go on)

 サーカーにとって、人間は、物的身体的領域、知的心理的領域、精神性(スピリチュアリティ)の領域の三つの領域が交差するところに存在しています。
それゆえその三つの領域での搾取と闘い、バランスを回復しなくはなりません。
ブッダは、物的身体的領域は問題としませんでしたが、知的領域のドグマによる搾取と闘いました。

②ドグマに対するブッダの適切なアプローチ

 サーカーは、すべての領域において単に問題点を批判するだけでなく、その問題を乗り越える積極的な提案をしています。
否定と肯定の生じているレベルを超えたレベルに心をもってゆくポジティブなアプローチで一貫しています。
否定的なドグマに対するブッダのアプローチも、その視点から評価します。

 「一つのドグマが、同じ命令のドグマあるいは別の命令のドグマに置き換えられるべきでしょうか。
積極的な命令のドグマが積極的な命令のドグマによって、あるいは否定的な命令のドグマによって置き換えられるべきでしょうか。
ドグマは非論理的で不合理な感情です。
あらゆるドグマが、非ドグマによって置き換えられなくてはなりません。
ゴータマ・ブッダは、怒りは優しさによって克服されるべきであり、欲深さは寛大さによって、欺瞞は誠実さによって、憎しみは愛によって、悲しみは幸福によって克服されねばならないと言いました。
 もし、私たちが同じアプローチを採用するとすれば、これは、否定的なドグマを肯定的なドグマで置き換えることを意味するでしょうか。
いいえ、これらの特質は心の性向であって、ドグマではありません。
すべての否定的な心の性向は、ブッダが唱えたように肯定的な心の性向によって置き換えられるべきです。
これは適切なアプローチです」religeous dogma(注)

(注)女性蔑視のドグマと仏教
サーカーは、仏教の祖ゴータマ・ブッダにはドグマがなかったと評価します。
すなわち女性蔑視のドグマがなかったということです。
岩本裕は、ブッダのつくった出家者の教団の性的禁欲は厳しいものであり、女性は仏となることができなかったと指摘しています。
女性が仏、すなわち悟ることができるように位置づけられるのは、大乗仏教からです。
それも女性が男性に転生した上で、実現するものでした。
したがって、ブッダの説いたことに女性を低位おくドグマがなかったかどうかは疑問です。
(参考、岩本裕『仏教入門』中公新書、1964年)

③天国と地獄のドグマ

 天国や地獄は、搾取者が信者をあやつるためのドグマだとサーカーは考えます。

 「だから、人々は、一歩でも制約を越えて進むことを恐れます。
『なんて恐ろしいことだ。もし、そんなことをしたら、私は永久に地獄の火 の中で焦がされるだろう』
このようなやり方で、様々のコミュニティをドグマの縛りの中におこうとしてきた人々は、『宗教指導者』であり、『グル』でした」(Exploitation and Psedo-culture)

 「そして人間の心に天国と地獄、幽霊と悪魔の恐怖感を注入してきました。
彼らは、人類を生気のないあやつり人形にかえてきました。
そして今日でさえ、既得権益をもつものたちは、数多くのやりかたで差別を永続化しようしています。(THE ONLY WAY TO SALVATION)

 このようにサーカーにとって、天国と地獄のドグマは悪意ある宗教指導者が、人々をあやつるために考案したものです。
サーカーによれば、天国も地獄も存在せず、天国と地獄はこの時空をふくめた五要素の世界で体験します。
天国も地獄も私たちの人生の中にあります
。天国、地獄とは自らのおこなった行為の帰結としてのサンスカーラ(反作用の潜在力)によるこの世での体験です。

 「人間が死後にそこに行くと思われている天国と地獄の概念は、まったくの間違いです。よい行いの結果として天国ですべての喜びを経験し、悪い行いに対しては地獄で痛みを経験すると信じられています。
しかし、再び誕生して新しい脳を得るまでは、死後の機能していない心は、喜びと痛みを経験することはできません。
死後の天国と地獄の構想は、非常にあやまった幻想です。
天国と地獄のある別の世界はありません。
再び誕生して天国の喜びと地獄の苦しみを経験するのは、ただこの死をまぬかれることのできない世界においてだけです」(What is My Relation with the Universe and Cosmic Entity?)

 ブッダもいっさい、天国と地獄の観念を説きませんでした。
天国と地獄の観念が仏教の中に取り込まれるのは、ブッダのおよそ500年後のクシャン王朝下、ゾロアスター教の影響によるものではないかと私は推定しています。

 サーカーはゴータマ・シッダルタが、宗教的なイズムやドグマを説いていないことを評価します。

④偶像崇拝と大文字の神

 宗教的ドグマは心を粗大化し、すなわち心を固まらせ、他のドグマと衝突します。
そのために人類社会は分裂し、流血の惨事を引き起こしてきました。

 同じように自分たちの集団だけの有形の神々は、人類社会の分裂に寄与し、統合に寄与しません。
ゴータマ・シッダルタは偶像崇拝を説きませんでした。
したがって原始仏教には偶像崇拝がありませんでした。
仏像がつくられはじめたのはクシャン王朝下のガンダーラだと言われています。

 サーカーも偶像崇拝に反対します。
崇拝の対象となっている偶像の美術品としての価値は尊重しますが、木や石や銅でできた像を神や仏として崇拝の対象としてはならないと言います。
サーカーによれば、人間の心は、その対象の形をとります。
そしてその対象の性質に近づいてゆきます。
したがって、木や石や銅という五要素でできたものを念ずれば、心は次第に粗大化してゆきます。

 偶像を神(仏)として崇拝をしないのは、神とは何であるかについての観念からきていると考えられます。
サーカーは、神の存在について弟子から質問を受けた時のブッダの態度を支持します。

 「ブッダの人生の終わりころ、何人かの弟子がブッダに神Godの存在について聞きました。
彼らは「神Godは存在しますか」「神Godは、存在しないというのは事実ですか」という二つの質問をしました。
その二つの質問にブッダは黙ったままでした。
ブッダが、黙ったままだったので、ある弟子たちは神が存在しないものと受け取りました。
そしてある弟子たちは神が存在すると受け取りました。
また別の弟子たちは、「神は存在する、しかし、神は『存在する』『存在しない』という表現を超えている」という解釈に進みました。
すなわちそれは「神の存在は説明できない」ということです。
実際、神は超心理的supramentalです」(Views of Other Faiths)

 すなわち、ブッダにとってもサーカーにとっても、神(仏)は、五要素の物的身体的領域で形にすることのできないものであるばかりか、知的心理的領域における言葉でも表現することのできないものです。
しかし、後述するようにサーカーによれば、ブッダの理論は、ブラフマとアートマンを認めないので神は存在しません。

3)仏教は社会経済論がない

 ブッダは、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラという実際の社会における差別的秩存の変革を訴えたわけではありません。
ブッダの説いたスピリチュアリティと自分の教団の内部では平等を実現しました。

 サーカーは、実際の社会における差別的なありかたの変革を説きます。
そして、クシトャリア、ヴィプラ、ヴァイシャ、シュードラの観念を差別的秩序としてとしてではなく人間類型論として再生させています。

 そしてサーカーは、仏教徒時代、すなわちアショーカ王の時代には、スピリチュアリティ(精神性)のレベルにおいては、社会的出自によって救済される人とされない人があるという差別は克服されていたが、現実の社会秩序には不平等があったと次のように述べています。

 「仏教徒時代の間には、精神性において平等がありました。
 しかし、社会秩序には不平等がありました。
クシャトリアとヴァイシャがブッダから教えを伝授された後もなお、彼らは自分たちのカーストのアイデンティティを保持していました。
ブッダの死後、彼の遺骨をめぐって、クシャトリアとヴァイシャの間に争いさえありました。
マガダの王は、彼がクシャトリアであったので、遺骨はクシャトリアによって相続されなくてはならないがゆえに、自分が遺骨を預かるべきであると言いました」(プラウト8-17  恒常的に加速するスピード)

 このようにサーカーと違い、ブッダにおいては社会変革論はまったくありませんでした。
サーカーは、人間を三層でとらえます。
物的身体的領域、知的心理的領域、スピリュアリティの領域です。
下部の物的身体的領域でのバランスの確立なしに、知的心理的領域とスピリチュアリティの前進はありえません。
ところが、ゴータマ・ブッダは、社会や身体を含む物的身体的領域についての論は皆無で、問題にしませんでした。
ここに仏教が古代社会の支配イデオロギーに転化してゆく理由があると私は考えます。

 すなわち、仏教が物的身体的領域の位置づけがないことは、一方で、身体論をもたず、スピリチュアリティの前進に不可欠なホルモン・分泌バランスを整えるヨーガ・ストレッチ的実践がないことを意味しています。
他方では、社会の身体論たる社会・経済論をもたないことを意味します。
衣食住、医療、教育のすべての人への保障による物的身体的領域のバランスの確立の上に知的領域とスピリチュアルな領域の前進を並行的にすすめてゆく必要がありますが、仏教はその側面をまったく欠いています。
仏教が、なぜ、物的身体的領域に弱いのかその理論的基盤について次に考察してゆきます。

4)仏教に物的身体的領域の論がない理論的背景

(1)万物の根源の「一なるもの」を「空」とみるか「純粋意識」という実体とみるかの相違

 「色即是空」、色、すなわちこの世の多様性(差別的諸相)は、そのまま「空」であり、幻影なのだということを、ケン・ウィルバーは、「色」が多様性で、「空」が、万物の根源の一なるものとして解釈していました。
私は、「空」を事実上、サーカーの「意識」、ウィルバーの「スピリット」と解釈することに賛成ですが、「色即是空」は、この世自体を空とみる議論となりかねない論です。

 日本で最初に仏教を理解したといわれる聖徳太子の「世間虚仮唯仏是真」も、「この世は虚であり仮のもので、ただ仏こそ真実だ」と解釈でき、私たちが生きているこの物質世界を幻影(マーヤー)であるととらえることになります。

 サーカーは、空間、気体、液体、固体というこの物質的世界の背後に思考する実体があり、この世のすべては、「意識」という実体が固まって展開しているとみます。

 仏教の現代的な解釈では、原子、素粒子レベル、あるいはさらに微細なレベルは、結局、振動する場からなりたっているために、それをもってこの世も「空」としてなりたっていると論じることになります。
サーカーは、明確に無空間(真空)も、物質世界の五要素に含ませ、無空間以前に思考する大宇宙実体を設定しています。

 サーカーは、この世は大宇宙の心の思考展開である点で、大宇宙の心にとっては幻影であっても、その中で生きる人間の心にとっては、現実であると述べます。
すなわち人間の心が想像して心がさくらの花の形をとったとします。
その桜は幻影であっても、心の材料が花の形をとったことは現実です。
つまり大宇宙が思考して様々な形をとってこの世界があらわれていますが、大宇宙の思考の材料が様々な形をとっていることは現実なのです。
心深く瞑想し、大宇宙の心に近づくとこの世が幻影と見えるのは、そのためであるとサーカーは言います。

 したがって、「空」を根源とする仏教は、現世執着を克服して空に達することによる解放をめざします。
それは否定形でスピリチュアルな成長をめざすことです。
ところがサーカーの哲学では根源が「意識」であり、ひたすら心がプラクリティの束縛から解放されて普遍意識(パラマ・プルシャ)に達することを念じゆくことでスピリチュアルな成長をめざします。
いわば、仏教が否定形でスピリチュアルな成長をめざすのに対して、サーカーは肯定形でスピリチュアルな成長をめざします。(注)

(注)「空」について  仏教専門家は、「空」について「私たちが見る限りのすべての物は、『縁起』『無自性』『無常』『無我』といえますから、『空』といえる」岡野守也『唯識のすすめ』NHK出版、116ページと述べています。
「空」であらわそうとしていることはすべて一面の真理です。
たとえば「縁起」とは、あらゆるものを関係性の中にとらえることを指しています。
それは大切なことです。
 しかし、関係性の中で諸実体が厳然と存在していることも真理です。
「空」の把握に向うことで実体自体の認識の側面が後景に退いてしまいます。
哲学を、主観的観念論、客観的観念論、唯物論と三つに大別するならば、仏教は主観的観念論であり、サーカーやヘーゲルは、客観的観念論であり、客観的世界の認識への反映としての唯物論的観点を含むことができますが、仏教では、客観的世界の把握への努力が軽視されざるをえません。
目の前の煩わしい人間関係を「空」と見るのと聖なるブラフマの現れとして見るのには大きな違いがあります。
ネガティブなアプローチとポジティブなアプローチの違いです。
では、以下にサーカーの仏教理論への言及を見てゆきます。

(2)アートマンと仏教

①原始仏教とアートマン

 サーカー哲学の基本にブラフマとアートマンの現代的解釈があります。
原始仏教においては、ブラフマとアートマンはありませんでした。

 たとえば、平凡社世界百科事典には「空」について次のようにあります。
「あらゆる事象は事象間の相互関係の上に成立するから,不変的・固定的実体というべきものは何一つないという仏教の〈無我an´tman〉あるいは〈空 ⇒仝nya〉の思想を理論的に裏づけるのがこの縁起観である。
釈尊は当時のバラモン教の有我説に反対して無我を主張したが,その根拠として〈十二支縁起(十二因縁)〉説を唱えた。
すなわち無明を究極原因とし,生・老死を最終結果とする十二の因果の連続体がわれわれ有情(うじよう)のあり方であり,そこにはなんら固定的・実体的な自我(アートマン)は存在しないという」横山 紘一『平凡社、世界百科事典』

 ここでは、原始仏教が、永遠のブラフマ、実体的なアートマンを認めていないことだけ確認しておきます。

 サーカーが仏教を論じる際にもアートマンという実体を設定するのかが基本的なテーマになります。
サーカーによれば、アートマン(個体意識)とは連続した知の流れです。

 「すべてのアースティカ(A'stika有神論)のインド人哲学者たちは、アートマン(個体意識)がジナャーナ(jina'na知)の連続した流れであると信じる点で一致しています」(Views of Other Faiths)

 ところがサーカーによれば、ブッダはアートマンという言葉を用いず、アッタAtta(自我"Self")という言葉を用いました。
弟子は、ブッダがアッタという言葉を使った意味が理解できず、弟子たちの間に論争がおき、諸派に分かれいったと言います。

 「バーガヴァーン・ブッダはアートマンという言葉を使いませんでした。
それゆえ、彼の死後、比丘、すなわち仏教徒の僧の間で意見の違いが生じました。
(中略)マハーヤーニー(大乗部)には、四つの種類の哲学的教義がありました。
意見の相違の理由は、アートマンとその対象objectです。
バガヴァーン・ブッダは、アートマンA'tmanに対してアッタAttaという言葉を用いました。
アッタという言葉は、「自我"Self"」という箇所にも用いられています。
ビクたちは、バーガヴァーン・ブッダが、アッタという言葉を用いた意味が理解できませんでした」(Views of Other Faiths)

 サーカーの基本哲学から解釈すると、アッタ(自我self)を解釈すると、「個体意識」に形質付与されて、マハータットヴァすなわち「私はある」感覚の感覚が生じます。
アッタとは、サーカーの哲学におけるマハータットヴァすなわち「私はある」感覚です。
それは心の領域に入ります。
たとえば、気絶から覚醒した時、「私はある」感覚(マハータットヴァ)が再現します。
しかし、気絶の前後に同一の「私」が継続しているということは、気絶中に「私」のもとになる実体が継続していると考えなくてはなりません。
その継続している実体がアートマン(個体意識)です。

②唯識説とアートマン

 人間の心の奥底にアートマンにあたる部分が仏教で理解されるようになるのは、2、3世紀であり、「瑜伽師地論」や「解深密(げじんみつ)経」「大乗阿毘達磨(あびだつま)経」などにまとめられた唯識説です。
唯識説によると、心よりも更に奥底に、自分が過去にやってきたこと思ってきたこと(=サンスカーラ)が蓄えられているアーラヤ識があるとします。
さらにマナ識の層を設定し、心の六層以外に二つの心を超えた層を設定します。
サーカーは、アートマンのレベルに、アティマーナス・コーシャとヴィジナーナマヤ・コーシャとヒランマヤ・コーシャの三つの層を設定しています。
なお、自分のおこないの反作用の潜在力(サンスカーラ)が蓄積されている層はヴィジナーナマヤ・コーシャですから、アーラヤ識は、サーカーのヴィジナーナマヤ・コーシャにあたります。
岡野守也によれば、原始仏教からナーガルジュナ(龍樹)までは、心の六層をテーマにしており、仏教に心の領域を超えたアーラヤ識、マナ識すなわちアートマンの部分を導入したのは、3、4世紀のマイトレーヤ=弥勒、アサンガ=無着、ヴァスバンドゥ=世親です。(岡野守也『唯識のすすめ』NHK出版、24~26ページ)

 アートマンの領域を論じる唯識を完成させたのはこのヴァスバンドゥ=世親です。
そして世親は、ヨーガ派であり、世親は、ヨーガの実践の中でアートマンをつかみとっている可能性があります。

 「この瑜伽行派はヨーガによって清浄な境地へいたる修行を重視するとともに、を発展させた。
世親の『唯識三十頌(じゅ)』は、その代表的な著作である。
瑜伽行派の学説は、7世紀、玄奘によって中国につたえられ、法相宗を成立させた」(エンカルタ百科事典)

③カルマ論と輪廻論

 このように仏教にアーラヤ識が登場することで、サンスカーラ(反作用の潜在力)の蓄積の場が明確になりました。
サンスカーラ(反作用の潜在力)論と仏教のカルマ論は、同一ものです。

 サーカーは、ブッダがカルマ論を受け入れていることを評価します。
 「プッダは、カルマパラ すわなち行為の反作用を受け入れますが、チャルヴァカは受け入れません。
この点において仏教徒の哲学は、チャルヴァカよりもいいです」(Views of Other Faiths)

 ところが、ブッダは、カルマ論を論じながら、アートマンを認めませんでした。
仏教は「無我」であり、「私」のさらに奥にある実体を認めません。

 サンスカーラ論と輪廻論を認める点では、サーカーはブッダと共通です。
しかし、心のさらに奥にある実体を認めないとしたら輪廻において何が再生するかという疑問が生じます。
現世を超えて行為の反作用が働くとしたらその反作用の潜在力が蓄積されるところが必要です。
サーカーの哲学においては明確であり、それがアートマン(個体意識)です。
ところが仏教では、根源が「空」であるためにそれが不明確です。
サーカーは次のように言います。

 「仏教は、生まれかわりと魂の輪廻を信じます。
だから問題が生じます。
アートマンが存在しないとしたら誰が再生するのでしょうか。
この問題は比丘Bhiks'uの間で、後にマハーヤーニー Maha'ya'nii(大乗部)の学者の間で、論争点になりました。(中略)

 仏教は、カルマパラKarmaphala すなわち行為の反作用を認めています。
もし、カルマパラを受け入れるならば、誰がカルマ(行い)を遂行し、あるいはカルマパラを誰が被るのでしょうか。
それゆえ、アートマンの存在が認められなくてはなりません」(Views of Other Faiths)

(3)四諦とサティヤ

 四諦とは釈迦の説いた「4つの真理」、すなわち①ドゥフカ Duhkha(苦諦=苦の真理)、②ドゥフカのカーラナ Ka'ran'a of Duhkha(集諦=苦の原因の真理)、③ドゥフカのニヴルッティNivrtti of Duhkha(滅諦=苦を滅する真理)、④ドゥフカのウパーヤ Upa'ya of Duhkha (苦を滅する方法の真理=道諦)です。

 漢字の「諦」という字は日本語では「あきらめ」と読みますが、語源は「明らかにみる目」という意味であり、道理を究めるということです。
仏教ではサンスクリット語のサティヤの訳として用いられます。
サティヤとは、この世の相対的真理ではなく、究極の絶対的真理を意味します。
したがって、四諦は、四つの絶対的真理(チャトゥラーッヤ・サティヤCatura'yya Satya)(サーカー)です。

 苦諦とは、現世が苦であるという真理をしめしたものです。
生、老、病、死の四苦に、愛する人と分かれる苦や憎い人と会う苦などを加えて八苦として、日本語の「四苦八苦」の語源になっています。
サーカーは、人生を「苦」ととらえるのは、相対的真理であり、サティヤ(絶対的真理)ではないと次のように言います。

 「仏教によれば、ドゥフカDukha(苦)は、アールヤ・サティヤA'rya Satya(絶対的真理)です。
これは間違った解釈です。
ドゥフカを経験するのは、ただマーナスMa'nas (心)だけです。
だから、ドゥフカDukhaは、相対的真理にすぎません。
それは絶対的真実ではありえません」(Views of Other Faiths)

 なぜ、サーカーによれば、人生の苦はサティヤではないのでしょうか。
サーカーの哲学のうち相対的真理と絶対的真理にかかわる部分を簡単に紹介します。

 ブラフマとは、プラクリティ(形質付与の力)を伴っている意識(プルシャ)実体です。
プラクリティ(形質付与の力)が眠っている状態の普遍意識がニルグナ・ブラフマ(形質非付与最高実体)です。
普遍意識に形質が付与されて全宇宙の「私」感覚が生じます。
形質付与された段階から、サグナ・ブラフマ(形質被付与最高実体)です。
このサグナ・ブラフマ、すなわち全宇宙の「私」が思考活動をします。
その思考活動が生み出しているイメージが、空間、気体、燃体、液体、固体の五要素です。
この五要素の世界にあるすべては、時、場所、人という変化する要素によって規定されます。
したがってこの五要素の世界にあるものは、すべて相対的要素であり、サティヤ(究極の真理)ではありません。
したがって、サーカー哲学によれば人生の苦もまた五要素の中にあり、時、場所、人によって規定され、サティヤではありえません。
サティヤは、ブラフマに達した境地の中でしかつかむことができません。

(4)サーカーの紹介するシャンカラの仏教批判

 この世界は、マーヤー(幻影)かどうかをめぐって、サーカーは、8世紀のシャンカラSham'karaによる仏教哲学者の論破を紹介し、その後で、シャンカラを批判し、それによってサーカー自身の考えを浮かび上がらせています。
シャカンカラの時代は、とりわけ仏教的虚無主義者(シュンヤヴァディーThe Shunyavadiis)が大きな影響力をもっていました。
シャンカラは彼らと議論して次のように論破します。

仏教徒(シュンヤヴァディー)
「宇宙は無からやってきて無に進みます。あらゆるものが夢です」
シャカンラ
「おっしゃるように仮にこの世界が夢の地だとしても、夢を見ている誰かが存在することになります」
仏教徒(シュンヤヴァディー)
「夢を見ているものはいません。
ヘビと見間違えたロープが幻影であるように宇宙も幻影です」
シャンカラ
「それはありえないことです」
仏教徒(シュンヤヴァディー)
「これはサーダナー(瞑想)によってしか理解できないのです」
シャンカラ
「夢をみるものなしには夢はありえません。
もし、宇宙(この世)が、ヘビと間違えたロープのような幻影であるとするならば、宇宙と見間違えるロープにあたるものがなくてはなりません。
さらに、見間違いをした人も存在しなくてはならないように、宇宙の幻影を経験する何かが存在しなくてはなりません。
このことは、幻影を体験するある別の実体がなくてはならないことを意味しています」
仏教徒(シュンヤヴァディー)
「無は実際には何も無いnothing (シュンヤShunya)を意味していません。
あなたが、ブラフマと呼んでいるものを私たちは無と呼んでいるのです。
だから宇宙の幻影がブラフマなのです」
シャンカラ
「それは、見ているものと見られているものの両方が幻影であるということです。
見るものがいないところで、誰がロープをヘビと間違うのですか」
仏教徒(シュンヤヴァディー)
「・・・」(答えることができません)
 シャンカラは当時の四つの宗派を論破しています。
その二つ目の仏教的無常主義者(クシャニカヴァディーKshanikavadiisすなわち無常transienceの教義を信じる人々)に対してです。
仏教徒(クシャニカヴァディー)
「幻影は、常にクシャニカKs'anika(一時的、流動、無常)なのです」
シャンカラ
「ブラフマはアナーディーとアナンタAna'di and Anata (始まりがなく無限)です。
クシャナKs'an'a (瞬時にやってきて、次の瞬間に消えること)だと信じているということですね。
それではクシャニカKsan'ikaの実体はどこから来るのでしょうか。
創造と崩壊の間に何かが存在しなくてはなりません」
仏教徒(クシャニカヴァディー)
「クシャニカヴァディーたちは創造によって壊されているのです」
シャンカラ
「それは存在していないということですね」
仏教徒(クシャニカヴァディー)
(敗北を感じつつも)「存在は無視できるのです」
(これは納得のできる説明ではありませんでした)

 以上のように仏教徒の四つの宗派は、シャンカラによって打ち破られます。
そしてシャンカラと友好的になり、ヨーガの実践をシャンカラから受け入れ、仏教ヨーガ派が誕生したとサーカーは説明しています。

 この論争のテーマとなっているのは、この現実の世界(宇宙)を幻影とみるのか、実在する実体と見るのかです。
サーカー的に言えば、五要素の世界、物的身体的領域にかかわる世界が、「幻影」なのか、「無」なのか、「空」なのかという問題です。
サーカー的に言えば、すべて意識が充満し、凝固している一つの世界です。
決して「幻影」でも、「無」でも、「空」でもないのです。

(5)サーカーによるシャンカラ批判

 以上、サーカーによるシャンカラの仏教批判の肯定的な紹介でした。
シャンカラはシヴァを奉じるタントラの実践者でした。
しかし、サーカーは、シャンカラと仏教徒は、この世界(ジャガトJagatの実在を信じないことと、グナヴィタ・マヤヴァーダGunanvita Mayavada (形質付与された幻影の教義)を受け入れていることでは、同じだと言います。
そして次のようにシャンカラを批判することで、事実上、仏教も批判しています。

①シャンカラ哲学の一つ目の欠陥・・・ニルグナ・ブラフマとサグナ・ブラフマ

 仏教は、大宇宙の根源を「空」として、ニルグナ・ブラフマもサグナ・ブラフマも設定しませんが、シャンカラはニルグナ・ブラフマだけを信じて、サグナ・ブラフマを信じませんでした。

 サーカーはシャンカラの考えについて次のように要約しています。
一つ目のシャンカラ哲学の欠陥です。
 「 宇宙は創造されませんでした。
だから、サグナ・ブラフマ(形質被付与最高実体)は存在しません。
シャンカラは、ただニルグナ・ブラフマ(形質非付与最高実体)だけを信じました。
シャカンカラは、ジーヴァを信じなかったので、宇宙は夢のようなものであり、夢を見るものもまたブラフマだと言いました。
見るということは、属性であるのに、ブラフマがニルグナである時、どうしてシャカンラは見ることができるでしょうか。
このこともシャカンカラは忘れていました」(Views of Other Faiths)

②シャカラ哲学の二つ目の欠陥・・・この世界は幻影

(イ)誰が幻影を思い浮かべているのか

 サーカーによれば、シャンカラは、この世界は、ブラフマと呼ばれるマーヤーMaya(幻影)によって固定され、客体化したものだと主張しました。
したがって、仏教と同じく、この現象世界はじつは幻影のように実在しないものなのです。
サーカーは、さきほどの仏教徒との議論の例によって次のように説明します。

 「そこには、ヘビの幻影のためのロープがあります。
さて、問題が生じます。誰がヘビの幻影を見たのでしょうか。
へびについてすでに知っているものです。
もし、ブラフマにとっての宇宙の幻影が存在するならば、どこか他のところに本当の宇宙があることを意味します」

 この世界が幻影だとするならば、誰が幻影を見るのか。
シャンカラはブラフマ=幻影(マーヤー)としていますから、幻影を見るものが見当たりません。
そしてこの世界が幻影なら、へびを知っている人がへびの幻影をみるように、もう一つの本当の世界がなくてはならなくなります。
シャンカラは一元論を主張しているのに二元論になってしまいます。
だから、これは間違った解釈だとサーカーは言います。
仏教徒はシャンカラと同じ考えに立っているので、その点を指摘しなかったとサーカーは言います。

 エンカルタ百科事典のシャンカラの項目に次のような説明があります。
「人間はうつろいやすい個別的で物質的な世界しかとらえることができず、輪廻にくるしんでいる。
シャンカラは、それは人間が無知(アビドヤー)のために、現象世界がじつは幻影のように実在しないものであり、ブラフマンとアートマンが不二であることに気づかないからである。
この無知を滅することによって解脱が可能となるのだと説いた」
この説明のように、シャンカラではブラフマとアートマンは一つであり、どちらも実在しないものです。
そしてこの世界とジーヴァJiiva(生き物)も幻影であり、実在しません。
だから、幻影を思い浮かべているのかが問題となります。

 さらに、シャンカラはサーダナーの必要を信じていますが、ジーヴァ(生き物)が幻影で、実際には存在しないのなら、幻影の人間がサーダナーをしても意味がないことになります。

(ロ)シャンカラのマーヤー論の間違い

 サーカーの哲学では、始源のニルグナ・ブラフマ、すなわち無属性のブラフマが、そのプルシャ(意識)にプラクリティ(形質付与力)が働いて、サグナ・ブラフマ、すなわち属性のあるブラフマになり、私たちを含めたこの天地万物として展開します。

 シャンカラの論では、マーヤーが幻影としての宇宙をつくりあげますが、ブラフマはニルグナ(無属性)にとどまります。
つまり目の前にマーヤーとしての世界が見えますが、実際には幻影で、ブラフマはニルグナ(無属性)のままです。
サーカーは、「宇宙がマーヤーの影響で創造される時、どうしてブラフマがニルグナにとどまるでしょうか」と述べています。

 幻影としてのマーヤーが天地万物として展開し、その実体は、形質付与されていないニルグナ(無属性)・ブラフマです。
サーカーの場合は、ニルグナ・ブラフマがプラクリティによって形質付与され、サグナ・ブラフマとなります。
サグナ・ブラフマは大宇宙の「私」感覚であり、その大宇宙の「私」感覚のプラクリティの形質付与による思考の流れが、私たちを含めた天地万物です。
大宇宙の「私」からみれば、思考の流れとして幻影のように見えますが、天地万物の一員である私たち人間からみると、この世界は、「無」でも「幻影」でも「夢」でもなく、厳然たる現実です。

 仮にシャンカラのマーヤーをサーカーのプラクリティのことであると考えても、マーヤーは、「無」で「幻影」であるので、プルシャに形質付与する力はありません。
論理的に成り立ちません。
サーカーは次のように述べます。

 「シャンカラは、ブラフマがあるところにマーヤーがあると言います。
その時、疑問が生じます。マーヤーが無ですか。
もし、マーヤーが存在しないならば、どうしてそれがブラフマに影響を与えることができるでしょうか。
それを克服するために、シャンカラは、それは無でさえないと言います。
それは説明のつかないもの(アニルヴァチャニーヤAnirvacaniiya)です。
もし、ブラフマがマーヤーを創造したのでないなら、誰がマーヤーを生み出したのかについて再度疑問が生じます。
そしてマーヤーが、サグナ・ブラフマになります」(Views of Other Faiths)

(6)世界は実在する見方の重要性

 このように仏教が、物的身体的領域にあたる身体論と社会経済論を発達させなかった根本的な理由は、この現実の世界をマーヤー(幻影)と見ることにあります。

 それに対して、この世界は実在するとサーカーは断言し、そのような見方を広めることは人類の将来に遠大な影響を及ぼすと言います。

 「哲学者や思想家たちはすべて見える世界は非実在であると述べてきました。
私たちの哲学によれば、自分自身の存在についての人類の知識と同じように世界は実在します。
思想の動向にこの根本的な変革がどのように遠大な影響を及ぼしうるかは、すぐには想像しがたいことです。
このアプローチは人類に現世的に平等な重要性を与えるだけでなく、現世の存在を本質的なものともします。
この現世での活動は、人類自体と同じように最高存在の表現なのです。
それゆえ、アナンダ・マルガは、この現世からの逃避を説かず、あらゆる人が現世にとどまることを本質的に必要なことと考えます。
人類に現世的に平等な重要性を与える考えは、革命的な考えです。(Ananda Marga: A Revolution)

 サーカーは、現世からの逃避を説かずに、すべての人々に平等に現世的な重要性を与える論を説きます。
サーカーも輪廻論者ですが、普通、輪廻の見方からするとこの世は仮の宿です。
しかし、サーカーにとっては、死後のあの世も天国も地獄もありません。
喜びも苦しみも心が感じるものであり、心は身体を必要とします。
したがって、自らの行いの反作用として、私たちはこの世で天国と地獄を体験しているのです。
この世は仮の宿ではなく、究極的にニルグナの状態に達し、アートマンがブラフマに融合するまで、私たちが喜びと苦しみを体験する唯一の場なのです。
サーカーは徹底した一元論(ワンネス)です。

 「それは、それは人生を現実的なものにする革命です。
それは無意味な隠遁生活に導くことによってこの世を放棄するのではなく、実生活との調整を説きます。
生活のどの歩みにも適合する人々を生み出します。
彼らは自分の仲間の間にいかなる区別ももうけず、一つの世界的な共同体として一つに結ばれています。(Ananda Marga: A Revolution)

おわりに

 以上、なぜ、ブッダが身体論や社会経済論がないのかをサーカーが紹介するブッダの論に従って見てきました。

 ブッダは、インド古代に生きた人です。
サーカーは1921年から1990年を生きた人です。
両者が仮に同じように究極のレベルまで悟っていたとしても、その教えを伝える大衆の理解のレベル、大衆の思考の質に大きな差があります。
古代社会の一般大衆は、奴隷に近い状態で基本的に個人としての主体性はもち得ません。
ましてや団結して社会を変革してゆくとか搾取と闘うなどの考えを持ちようがありません。
サーカーは、身体的社会的レベル、すなわちフィジカルなレベルの解放、知的レベルの解放、魂のレベルの解放の三つのレベルでの救済と解放を説いていますが、ブッダの時代は、ほとんどの人が字を読むことができなかったでしょうから、知的解放おろか、バランスのとれた社会にするための闘争にたちあがる条件はありませんでした。
現世を苦としてそこから逃避したところに救いの道を示す方が当時の大衆にかなっていたとおもいます。
だからブッダは物的身体的領域を説かず魂の救済のレベルのみにしぼって教えを説いたと考えます。
ブッダも生まれた時代に制約されているはずです。

 もし、ブッダの哲学が、この世界を厳然と実在するものとしてとらえるものであったら、サーカーのように社会経済のバランスを回復するための大衆の闘争を支持するものとなっていたと考えます。




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