Gayatri Mantra bellisimo! (video inspired by god of star)


(way to eternal life is horon layers)

Theme of this page is that way to eternal life is horon layers.
Explanation of Mitsuki is excellent.
I recommend you to read by translating.

このページのテーマは,永遠の生命への道はホロン階層になっているです。
ミツキの説明はよくできています。
私は訳して読むことを勧めます。


サーカー哲学のやさしい解説

1)ヨーガとは何か

ヨーガは三領域からアプローチする
「昨夜、私は、身体的領域、知的領域、精神性の領域におけるヨーガについてお話しました。・・・
ヨーガはすべての領域からアプローチします」(Discourses on Krsna and the Git)

解説 

 ヨーガとは、個人の有限の心を大宇宙の無限の心に結びつける努力を意味します。
ですから、サーカーにとってヨーガとは、単に身体のバランスをととのえるだけではありません。
身体のバランスの上にバランスのとれた心がなりたち、バランスのとれた心の上に最高の頂点まで達した心の状態が実現します。

 ちょうどお皿を高く積み重ねようとしたら、下の部分も中くらいの部分も一番上の部分もバランスがとれていないと皿がくずれて、高く積み重ねることができないようなものです。
一番上がバランスがくずれても下の方もくずれます。
それと同じで、一番上が魂の清らかさです。
他人を傷つけるとか、何か人に迷惑をかけるような汚いことをしたら、魂が汚れて全体のバランスがくずれて、積み重なった皿がくずれるように、心の状態はくずれます。
お腹が、ひどく空いていても心は最高の状態に達することができません。
身体のバランスは、皿でいうと一番下の部分です。

 だから、サーカーの説くヨーガとは、一般的に理解されているような身体の屈伸だけではなく、すべての領域を含んで自分の精神性の成長をめざしてゆくものです。

セヴァ(世話)は、相互的でなく、一方的なもの

「ヨーガは、三つの要素にもとづいています。
プラニパタpranipataとパリプラシュナpariprashna,とセヴァsevaの三つです。
セヴァsevaとはサービス=世話です。
ヨーガの領域では、商売でいうサービスと意味が違います。
商売でいうサービスは、お金を渡すかわりに何かを得るというふうに相互的です。
商人は商品を与えて、かわりにお金をえます。
セヴァ(世話)は、相互的ではなく、一方的です。

 あなたはパラマ・プルシャにすべてを与えますが、かわりにあなたは何も受け取りません。・・・
その結果、あなたはパラマ・プルシャになります。・・・・
あなたは何も失いません。
あなたはすべてに対する勝利者となります」 Discourses on Krsna and the Gita,p.195, Yoga its fundamental factors

解説

 パラマ・プルシャとは根源の純粋意識ですが、サーカーによれば、この天地万物すべてが純粋意識の固まりですから、パラマ・プルシャに奉仕するとはすべての人、生き物、存在、この世のすべてに無私の奉仕をすることを意味します。

 人々の幸せをもとめて無私の奉仕をすること、みかえりをもとめない奉仕すること、そのこと自体があなたの精神性=スピリチュアリティを高め、心を純粋意識に近づけます。
一般的な言いかたでは魂を磨くことです。
見返りを求める気持ちをもって奉仕する時にはあなたは高まりません。

2)サーカー基本哲学における存在の階層

 バランスをとりながら皿を重ねるという例で、サーカーの哲学を説明してみたいと思います。

 氷でできた皿をイメージしてください。
大皿を5枚、中皿を2枚、そこに小皿が三枚、その上に皿の原料である溶けた水がのっています。
大皿は身体です。
中皿は心です。
小皿は魂(心の奥の心を超えた層)です。
溶けた水は、皿という形を失ってもともとの素材である水もどっています。

 サーカーの哲学では、私たちが生きているこの世界のもともとの材料は、純粋意識(プルシャ=氷の皿の例でいうと水)です。
純粋意識の水を凍らせて形づくる力が働いてこの世界ができてきました。
この形づくる力のことをプラクリティ(形質付与力)と言います。
この力は三つからなりたっています。
平穏な力のサットヴァ、変化をもたらすラジャ、固めるタモです。

 透明に澄んだ水に最初に凝集させる力はサットヴァです。
全宇宙の純粋意識を凝集させ、大宇宙の「私は存在する」意識を与えました。
大宇宙の純粋意識が「私」という意識をもちました。
無限にひろがる純粋意識(水)の中に、氷として固まる中心が発生したのです。
この氷として固まる中心を「神」と呼ぶ人もあります。

 ちなみにサーカーはサグナ・ブラフマ(属性をもつブラフマ)と呼びます。
氷の外には無限に広がる水があります。
今も、私たちの目にみえる世界の外側あるいは奥深くには無限にひろがる純粋意識があります。
この氷に固まっていない水の部分にあたる純粋意識をサーカーはニルグナ・ブラフマ(属性をもたないブラフマ)といいます。
サーカーは、心が属性をもたない純粋意識のレベルまで到達する努力をする生き方をせよと言います。

 さて先程の話にもどります。形質を付与する力であるサットヴァの力で水が凝集をはじめて中心である大宇宙の「私」が生まれました。その大宇宙の「私」に、この大宇宙の「私」意識に「イメージし、思考する」という働きを与えるのがラジャの力です。大宇宙の「私」が「イメージした形」に水は固まりはじめます。大宇宙がイメージした形となって水が固まったものがこの世界です。この物質宇宙です。天地万物です。すなわち、水に例えた純粋意識が固まったものがこの世界のすべてです。

 さて、人間の身体は、氷(純粋意識の固まり)の五枚の皿からできています。
純粋意識の水がかたまって五枚の皿の層になりました。
一枚目は、無空間=場です。
純粋意識の思考の結果の最初の産物は無空間です。
無空間から二枚目の気体が生まれました。
気体から三枚目の燃体が生まれました。
燃体から四枚目の液体が生まれました。
液体から五枚目の固体が生まれました。
空間も気体も燃体も液体も固体も、すべては同じ純粋意識がかたまったものです。

 五枚の氷の大皿をイメージしてくだい。
空間という第一枚目の氷の皿がなければ、後の四つの皿は存在しえません。
気体がなければ、後の三つの皿は存在しえません。
燃体がなければ、液体も固体も存在しえません。
液体がなければ、固体は存在しえません。逆は違います。
固体という一番上の氷の皿がなくても、その下の四つの氷の皿は存在しえます。
固体、液体がなくても、下の三つの氷の皿は存在しえます。

 空間、気体、燃体、液体、固体という五つの要素がこの大宇宙に出現し、適切な環境がととのった時、はじめて生命が誕生できます。
生命は、心という中皿を発達させてゆきます。
個別の心は、大宇宙がこの五つの物質世界をイメージしてつくる前の段階の大宇宙の心を材料としています。

 心の最初の氷の中皿は、生命の存続のための食欲と性欲です。
サーカーは、この皿のことを「粗大な心」と言います。
人間に至ると粗大な心は、食欲、性欲という生命の維持を超えて、科学的探究心という肯定的な心や名誉心や虚栄心などの否定的な心にも発達しました。
さらに外側の世界に直接かかわらずに思考し、記憶する「精妙な心」の層も人間は発達させました。
これが心の二つ目の氷の中皿です。
心の一枚目の中皿がしっかり発達することなしには、心の二枚目の中皿も発達しえません。
すなわち一枚目の中皿の上に二枚目の中皿をおくことができません。

 ここまではみなさん、理解できると思います。
心を超えた層、すなわち超心理の三つの氷の小皿があるのです。
この三つの小皿をサーカーは「元因の心」とも言います。

 「元因の心」とは小宇宙の「私」です。
「私」は、「イメージし、考える」というのは「精妙な心」であり、心の二枚目の中皿です。
「イメージした結果として形」をとったものが心の一枚目の中皿の「粗大な心」です。

 「元因の心」である「私」の中には過去のすべての体験の記憶(サンスカーラ=反作用の潜在力)が貯蔵されています。
とりわけ貯蔵されているのは、「元因の心」の2枚目の小皿の部分です。
何か悪いことをしていた場合は、一枚目の小皿の中で反作用の振動がはじまり、その下にある心の中皿の2枚目で苦しみを感じることになります。

 「元因の心」の3枚目の小皿は、2枚目のサンスカーラの記憶の貯蔵庫を超えていますから、そこまで達すると苦しみから解放されています。
3枚目の氷の小皿の上には、溶けた水が載っています。
溶けた水は純粋意識です。
「私」という小皿の形を失っています。
大宇宙のもともとの材料である純粋意識になるのです。
サーカーは、その純粋意識になった時、大宇宙のすべてが分かると言います。
なぜなら、そこから大宇宙の心が発生し、大宇宙が形づくられたからです。

 そこまで達した人こそが、狭い我欲を克服しており、真にこの世に貢献した一生を終えることができると言います。
人間なのに精妙な心、元因の心を深めず、「粗大な心」のレベルにとどまるならば、動物のレベルですから、社会に害毒を与えて一生を終えることになります。
人生ではいろんな目標をもって生きてゆくこととおもいますが、小皿の上の水、すなわち純粋意識に回帰することを人生最大の目標として堅持しながら、進んでゆきなさいというのがサーカーの教えです。

 小皿だけを追求する人がいますが、サーカーの教えでは、大皿の部分、中皿の部分がしっかりとバランスがとれていないといけません。
大皿と中皿の上に小皿がのっているわけですから、最後の小皿の上の水まで至ることができません。
しかも、圧倒的多数の大皿と中皿で生きている人類がバランスのとれた平和的で安心して暮らせるものに変革してゆく努力をしないと、小皿の上の水まで至ろうと努力している人々も、大皿、中皿がゆらぐので、それが実現できません。

3)存在の階層についての補足

(1)「粗大な心」として、食欲、性欲、名誉欲、虚栄心、科学的な探究心などを紹介したのですが、「粗大な心」とは生物が個体として存在を維持するために外部世界に向いている心のことです。
この中で、食欲や性欲は、適切であれば肯定的なものです。
名誉欲も適切なレベルであれば、人間は社会的存在ですから肯定されるとおもいます。
しかし、虚栄心を「粗大な心」の中に入れましたが、それは間違いでした。
虚栄心は、優越感や劣等感、嫉妬心などとともに、人間のまっすぐな心の流れを歪めるもので、スピリチュアリティの前進を阻むもので、サーカーは克服すべきものとしてあげています。
スピリチュアリティの道をずっと進み、元因のレベルにまで達したとしても、虚栄心や優越感、嫉妬心などをもつと、スピリチュアリティ(ヨーガ)の道をそれ、人間を悪魔にもさせてしまうとサーカーは言います。
殺人集団に転化したオウム真理教はそのよい例だと思います。
最後の氷の溶けた段階、すなわち純粋意識に達する目標を忘れて、横道にそれてしまうというわけです。

(2)氷の大皿三枚と氷の中皿二枚は、唯物論哲学がテーマとしており、近代科学で科学的に検証が可能なものです。
したがって、サーカー哲学は、近代科学と唯物論哲学をその中に「含んでいる」と言わなくてはなりません。

 しかし、純粋意識(プルシャ)に形質付与力(プラクリティ)が影響して、空間をはじめとする空間、気体、燃体、液体、固体という「物質世界の五要素」ができてくる生命発生以前の段階と「元因の心」の小皿3枚は、顕微鏡やカミオカンデのような発達した観測器を用いても検証不可能です。
「証拠」をもって論じる近代アカデミズムの知識人の世界ではまったく認められないものです。

 これについてサーカーは、「直観科学」すなわち黙想によってのみその真理性を検証できるとしています。
同様のことをアメリカのケン・ウィルバーは、「黙想科学」と言っています。
前近代の聖人たちが、「黙想」によって同じような結論に達したことを確かめます。
「仮説」、黙想による「実践」「集団的検証」できたわけてすから、これも科学的カテゴリー(科学の範囲)に入れるべきだというわけです。

 「黙想科学」を信じる信じないは各自の自由ですが、「事実や体験」にもとづく「証拠」によって論じるという科学的精神を堅持することが必要です。
ここに、近代思想を「含んで超える」のか、近代以前の思想レベルにもどるのかの別れ道があります。

(3)サーカーの基本的哲学の大宇宙論は、前半と後半の二つの段階に分かれます。
前半は、純粋意識(プルシャ=水)に形質付与力(プラクリティ=凍らせ、形作る力)が影響して、真空、気体、燃体、液体と出現して、固体が出現し、個別の生命出現を可能にするまでです。
後半は、最初の生命が発生し、進化して、人間が登場するまでです。
人間の身体構造は、心の二枚の氷の中皿を超えて、三枚の小皿を超え、最後の水(純粋意識)に回帰する可能性をもった存在です。
純粋意識の回帰をもって大宇宙論の後半が終了します。

(4)固体まで達した純粋意識は無限の数の個体(個体意識=アートマン)に分かれることが可能になりました。
この個体意識(アートマン)が長い旅をして私たちの心の中心の「元因の心」にまで発達しました。
では、無数の数の個体意識とは何でしょう。
回転する渦の中心です。
回転する原子にも、回転する地球にも中心があります。
渦の中心は「無」にみえますが、実は、「無」ではなく、「個体の純粋意識=人間まで達した段階では(アートマン)」なのです。
サーカーは、ほこりの中心の個体意識も人間までの長い旅をするのだと言います。

(5)なお、「粗大な心」と「精妙な心」の2枚の中皿は、5枚の大皿なしには働きません。
「元因の心」の小皿の3枚は、5枚の大皿からなる身体構造なしには、2枚の中皿、すなわち人の心として展開することができません。
5枚の大皿、2枚の中皿がなかったら「元因の心」は眠っています。
したがって、サーカーは「死語の世界」をみてきたというのはウソだと言います。
死んだら「元因の心」は新たな「大皿」と「中皿」を得て「生まれる」のです。
よく「霊」と話したり、「霊」がとりついているとか、「幽霊」がいたという人がいますが、サーカーによれば、「元因の心」は、身体(大皿)と心(中皿) がないと心として展開できませんから、「幽霊」とか「霊」がいるというのはウソで、人間が恐れなどから幻影を見ているにすぎないと言います。




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