OM MANI PADME HUM- BELLISIMA VERSION DE IMEE OOI (video inspired by god of star)
(This is way to eternal life living with gods of star)
Theme of this page is depth of existence.
There are two existence.
One is presence of time-space.
Second is non-presence of ectoplasm.
Most depth is base of universe which is unity of conflict between ectoplasm of god of star and flow of Higgs particle.
Koshya means depth of presence and non-presence.
This is way to eternal life living with gods of star.
このページのテーマは存在の深さです。
二つの存在があります。
一つは時間空間のある顕在存在です。
二つ目は思念体の非顕在存在です。
最深部は星の神の思念体とヒッグズ粒子の流れの対立の統一の宇宙根底です。
コーシャは,顕在と非顕在の深さです。
これは星の神々とともに生きる永遠の生命への道です。
存在の深さ(コーシャ論)There are two existence.
One is presence of time-space.
Second is non-presence of ectoplasm.
Most depth is base of universe which is unity of conflict between ectoplasm of god of star and flow of Higgs particle.
Koshya means depth of presence and non-presence.
This is way to eternal life living with gods of star.
このページのテーマは存在の深さです。
二つの存在があります。
一つは時間空間のある顕在存在です。
二つ目は思念体の非顕在存在です。
最深部は星の神の思念体とヒッグズ粒子の流れの対立の統一の宇宙根底です。
コーシャは,顕在と非顕在の深さです。
これは星の神々とともに生きる永遠の生命への道です。
コーシャ論・・存在の7層
1)意識の「深み」を論じる「コーシャ論」
私たちは、この大宇宙を物質世界とそこから派生した人間の心というふうにデカルト以来の近代哲学の二元論の目で見てきました。
この視点では、人間の心の成長、視野の拡大は、主としてその幅広さを問題にすることになります。
つまり、自分のことだけ考える人間から、自分の家のことを考える人間、自分の村の利益を考える人間、自分の国の利益を考える人間、人類全体と人類のすべての利益を考える人間、人類も含んで生物界全体を考える人間、生物も含めそれを生み出した大地と地球全体の利益を考える人間へと、人類の歴史の中で心は拡大してきました。
これらは、心の横の拡大を示しています。
サーカーは、心のこの横へひろがりは、「病」の患部が広いか、狭いかの違いがあるだけで、人間の心の問題の本質的な解決になっていないと考えます。
もし、自分の家族への帰属意識が中心なら、ロミオとジュリエットの話にあるような紛争がおきます。
国の利益を中心に考えれば、国際間の紛争は避けられません。
かつて、封建領主間の戦国時代がありましたが、封建的領域を克服して国民国家の広さになってもより規模の大きな多くの戦争が存在しています。
サーカーは心の横への水平的拡大だけでなく、粗大から精妙への心の進歩を問題にします。
心を精妙の極限状態まで達することを目標にせよといいます。
ケン・ウィルバーの表現では、意識の「深さ」「深度」です。
サーカーの「粗大」から「精妙」へ、そして「頂点」へというテーマは、ケン・ウィルバーの「意識の深度」と同じものを指しています。
すなわち、心の発達とは、水平的な広がりの発達を一側面とするならば、縦への「深まり」、すなわち粗大から精妙への心の発達をもうひとつの側面を含むものでなくてはならないというわけです。
そのゆきつくところは、全人類、全生命、全存在の天地万物と自らはひとつのものであるというワンネス性の自覚の高まりです。
縦への深まりと横へのひろがりは、ひとつの全面的なものとなります。
サーカーのコーシャ論は、近代哲学に欠けている人間の縦への「意識の深まり」、粗大から精妙への人間進歩の方向の提起として摂取できると考えます。
「物質」と「こころ」という存在領域の二区分は、すべての人が認めます。
西洋思想史の中では、そのどちらを根源的と見るかで、哲学者のグループを唯物論と観念論に分けることもありました。
哲学的に論じた場合の「物質」とは、心以外のすべての領域を指していますから、物質そのものだけでなく、経済や政治機構なども物質領域に入ります。
私のサーカー訳では、「物的身体的領域」が「物質」にあたり、「知的心理的領域」が「心」にあたるものです。
この一般的な二区分に対して、サーカーは、物質、心、スピリットを粗大から精妙への7層で存在領域を論じます。
1)物質の層、2)粗大な心、3)精妙な心、4)三つの層をもつ元因の心、5)無限の意識に融合した状態です。
西洋心理学においては、フロイトが出てきて、無意識の層を解明し、物質と心という存在の二区分を三区分にしました。
その後、ユングは個人の無意識のさらに深層にある普遍的無意識の存在を主張しました。
ユングの普遍的無意識の中身への賛否は別として、ユングによって存在の領域は四区分となりました。
フロイト、ユングたちの創始した研究はその後、精神分析学として発展します。
ケン・ウィルバーの統合心理学は、この存在領域の四区分を継承し、さらにサーカーの4)の元因の層と5)無限の意識に融合した非二元の状態を設定しており、サーカーと重なります。
コーシャとは、このコスモス(単に物質だけでない宇宙)の七つの存在層を意味しています。
生命は、より粗大なコーシャを「含んで超える」形で、より深い心の層をもった存在への進化の歴史でもありました。
(1)「物質の層」の中から物質を含んで超えた最初の生命存在が生まれます。
それは(2)「粗大な心」しかもっていません。
それは物質構造すなわち身体構造と対応する粗大な心を発達させながら、
(3)記憶や思考する「精妙な心」をもった存在に進化しました。
人間です。
人間の中の一部が、瞑想などのトレーニングを通じて
(4)「元因の心の三層」を超えて、
(5)「無限の意識に融合した状態」に達します。
これは人間を「含んで超えた」存在です。
人間の中には(2)の「粗大な心」に引きずられて、「動物レベルの心」に低下する人々もいます。
サーカーは人間なのに動物レベルの心をもってしまった存在を「人間構造をした悪魔」と呼び、その危険性を警告します。
それは無限を希求する本質をそなえた人間存在が粗大な物質世界にのみ自己実現を追求した時の危険性の指摘です。
私たちのさらなる進化の方向である
(5)の無限の意識への融合した状態をめざすべきだと繰り返し指摘します。
2)コーシャの7層
サーカーは、1)物的身体の層をアンナマヤ・コーシャ、2)粗大な心をカーママヤ・コーシャ、3)精妙な心をマノマヤ・コーシャ、4)元因の心の三つの層を、それぞれアティマーナス・コーシャ、ヴィジナーナマヤ・コーシャ、ヒランマヤ・コーシャ、そして、5)無限の意識に融合した状態をサティヤと呼びます。
以下、この7つのコーシャを説明します。
1)物的身体の層
(1)第1層(アンナマヤ・コーシャ)
アンナマヤ・コーシャとは、物的な身体のことです。
人間の身体は、物質世界の五要素から栄養を取り入れて生きています。
サーカーは、食べ物やアーサナの呼ばれるヨーガのポーズなどで身体のバランスを維持し、ホルモン分泌線を調節し、アンナマヤ・コーシャの完成をめざすべきだと考えます
サーカーはこの大宇宙の物的階層をブール・ロカと呼び、その階層から私たちは、その肉体の形、大きさを切り取ってコーシャ(ボディ)を確立していると言います。
2)心理体の層
(2)第2層(カーママヤ・コーシャ=粗大な心)
さらに大宇宙の物的階層ブール・ロカの1つ内側の階層としてブヴァルロカという大宇宙全体の心の層から切り取った個人の心のレベルが、カーママヤ・コーシャであり、粗大な心の層です。
粗大な心とは、この物質世界の方向を向いた心です。
生命は最初、身体構造維持のために粗大な心のみをもちました。
私たちは、粗大な心を働かせ、外の世界を見て活動しないと生きてゆけません。
しかし、人間はこのカーママヤ・コーシャよりもさらに深い心の層をもった存在です。
それにもかわらず、粗大な心だけを働かせていると次第に動物レベルの心に近づいてゆきます。
たとえば、貧しいため、絶えず衣食住ばかり考えざるをえない心、お金をどん欲に蓄積することばかりを人生の目標にしている心、この世界での出世ばかり念じている心、このような心は、粗大化、粗野化してゆきます。
(3)第3層(マノマヤ・コーシャ=精妙な心)
大宇宙コスモスのさらに内側に、スヴァルロカが存在します。
その層を切り取って、マノマヤ・コーシャが成立します。
物的層にかかわらない心の層、すなわち精妙な心の層です。
この層は、思考の領域であり、すべての記憶の領域です。
サンスカーラ(反作用の潜在力)の喜びと痛みはこの層で感じています。
「ひどいことをあの人に言ってしまった」と日中にしたことを夜、寝る時の心静かな時にわき上がる自責の念の苦痛は、心のこの層の領域に感じるものです。
「人が喜びと痛みを経験するのはこの層です。 ・・・
サンスカーラは、マノマヤ・コーシャに存在します。
それは純粋に心理的領域としても知られています。
ラジョグナはわずかに存在します。
そしてサンスカーラはスヴァルロカの中に生じます」(The Base and the Relative Truth)
精神科医が、幼児期のトラウマが原因だと心の病を診断して治療にあたる場合の、「トラウマ」もこのスヴァルロカの階層の問題だと考えます。
サーカーは、主として自分が他の人に与えた苦しみの反作用としてサンスカーラを論じていますが、トラウマもあきらかに心の変形がもとにもどろうとする作用としてのサンスカーラの概念からも検討可能です。
サーカーは、宗教は、このマノマヤ・コーシャのサンスカーラからの救済の解答をあたえるべく天国・地獄のドグマをつくって人間を支配したと言います。
また生まれてから親や社会からたたきこまれてきた他宗派への敵愾心も、その人をかりたてるサンスカーラとしてサーカーは論じています。
このマノマヤ・コーシャの完成はプラーナーヤーマの実践を通じてなされるといいます。
プラーナーヤーマとは、サーカーの教える瞑想技術の1つです。
3)超心理体の層=元因の心
目を閉じて花を思い浮かべたとしましょう。
「私は花を思い浮かべる」という文章になります。
心の材料が「花の形」をとった部分が粗大な心です。
「思い浮かべる」という作業している部分が精妙な心です。
そして思い浮かべている「私」の中に元因の心があります。
(4)第4層(第一超心理層) (アティマーナス・コーシャ)
アティマーナス・コーシャとは、超心理の1つ目の層で、サーカーがマハル・ロカと呼ぶ大宇宙の心理の層を切り取って成立します。
アティマーナス・コーシャは、サンスカーラが脈動を開始する場所で、この心の深部から人を駆り立てています。
(5)第5層(第二超心理層) (ヴィジナーナマヤ・コーシャ)
ヴィジナーナマヤ・コーシャと、サーカーがジャナル・ロカと呼ぶ大宇宙の心理層を切り取って成立し、ここにサンスカーラ(反作用の力)自体が潜在しています。
サーカーは、反作用の力が潜在しているゆえに、潜在意識の層と述べています。
一般的な心理学でも、その人の記憶に上らないが、無意識にその人のありようを規定している潜在意識の存在は確認されています。
サーカーは、「私」意識という元因の心の奥底の層の中に蓄積しているサンスカーラの束を一般的に言う潜在意識と見ていると考えます。
もちろん、それは顕在意識となる場合もあります。
精神分析の治療は、潜在意識のこの層にアプローチしようとしているものと思われます。
催眠療法は、反作用の潜在力の除去をめざすものだと思われます。
その結果、現世のサンスカーラだけでなく前世のサンスカーラにアプローチしてしまい、前世療法という部門が確立しつつあります。
サーカーは与えた痛みの分だけの反作用の苦しみは当人が苦しむしかないと言い、唯一の解決は総合的なサーダナーにより、反作用の潜在力自体を滅することだと考えますが、潜在意識へアプローチする精神分析の療法も、心の変形をもとに戻すという点では共通しています。
ヴィジナーナマヤ・コーシャまで達した人は、その人の真の知、賢明さ、こだわりの無さによる人格的輝きによって一般の人々の目からも目立ってくる存在となるとサーカーは言います。
ヴィジナーナマヤ・コーシャの完成は、サーカーがダーラナーとよぶ実践によってなされます。
(6)第6層(第三超心理層) (ヒランマヤ・コーシャ)
ヒランマヤ・コーシャは、サーカーがタパル・ロカと呼ぶ大宇宙コスモスの心理層を切り取って成立しています。
「私」という感覚がなくなっていますが、「私」という感覚は潜在した形で残っている心の層です。
ヒランマヤ・コーシャは、ディヤーナと呼ぶスピリチュアリティの実践によって完成させます。
(7)第7層 無限の純粋意識 (サティヤ)
サティヤは、無限の意識に融合した「頂点」の状態であり、心の最高の到達地点です。
サティヤにおいては個体性が溶解していますから、それは大宇宙の心理層の出発点以前のまったく形質が付与されていない純粋意識でもあります。
大宇宙の心理層としてサーカーは、サティヤ・ロカとも呼びます。
「 サティヤは不変です。
もし、それが変化するならば、それはもはやサティヤではありません。
サティヤとは変化しないもので、時、場所、形の制約を超えています。
それは、存在自体の様々の部分においても相違がありません。
どのひとつの部分も他の部分と異なりません。
サティヤすなわちブラフマとは、分割不能の、遮断できない、不変の実体です。(中略)
ブラフマを超えて存在できるものはありえません。
分割できないものは無限です」(The Base and the Relative Truth)
「人がサティヤの中に確立されるならば、過去、現在、未来、最終的に真実それ自体を知るものとなることができます。
そのような人物にとって、どこにも不調和はありません。
もちろん、自分を大宇宙の純粋意識の中に確立することは難しいことです。
しかし、いったんブラフマの中に確立されたならば、その人はすべての不調和から解放されます」(The Base and the Relative Truth)
サーカーのコーシャ論
3)7層の存在領域は、ブラフマ(純粋意識+プラクリティ)の顕現
(1)大宇宙の心の展開
コーシャとは、小宇宙を身体の層、粗大な心の層、精妙な心の層、元因の心の層と個体において見たものです。
それに対して7階層のロカは、大宇宙の心の展開の層を考察したものです。
すでに説明しましたが、理解を深めるために、再度、簡単に説明しておきます。
大宇宙の心は、次のように展開します。
まず、無限の純粋意識(プルシャ)が全宇宙の材料です。
そこに形質を付与する力であるプラクリティが、まったく形質を付与していない段階が、ニルグナ・ブラフマです。
ニルは「無」で、「グナ」は属性の意味で、無属性のブラフマという意味です。
すなわち形質・属性をまったくもたない純粋意識です。
心が大宇宙の始源のレベル、すなわちニルグナに達した時がサティヤです。
次にその形質をもたない無限の純粋意識に、プラクリティの形質付与力によって、大宇宙の「私」感覚、すなわちマハータットヴァ(「私」はあるという意識)が生まれます。
この大宇宙の「私」意識の成立こそに天地万物の創造のはじまりです。
さらに形質付与力が働いて、大宇宙の「私」が「思考」します。その思考の結果としてこの物質宇宙の天地万物が展開しています。
7階層のロカとは、大宇宙の思考において無属性の純粋意識(プルシャ)に漸次的に形質付与されてゆく諸段階にほかなりません。
「無限の存在Infiniteは、物的身体を必要とせず、ただ心理体だけをもっています。
無限でないものだけが、縛られ、制限される必要があります。
プラクリティは、三つの識別可能な属性、すなわちサットヴァ、ラジャ、タマの合成です。
プルシャが『私はある』『私はする』『私は客体である』のそれぞれを自覚するのはこれらの属性の影響のゆえです」(The Base and the Relative Truth)
サーカーは大宇宙の「私」のイマジネーションの過程として、この全宇宙の展開を見ています。
なお、全宇宙の出発点である大宇宙の「私」感覚まで到達するならば、サグナ・ブラフマを知ったことになります。
サとは「有」であり、グナは「属性」ですから、属性をもつブラフマです。
サーカーは最終的にめざすべきはニルグナ・ブラフマだと考えています。
「表現された宇宙universeにおいて7つの階層があります。
サティヤ・ロカをのぞいて、他の6つの階層は、グナの割合のバリエーションのゆえに輝きます」(The Base and the Relative Truth)
(2)アーダーラA'dha'ra (基境base)
大宇宙の7階層のそれぞれを切り取って、個人の小宇宙の7層が成立します。
(ただし、7層目のサティヤでは個別性は失われていますから、正確には小宇宙の層と言うことはできません)
サーカーは、大宇宙のロカ(層)からその小宇宙のコーシャ(ボディ)を切り取る境目をアーダーラA'dha'ra (基境base)と呼びます。
サーカーは、その基境を池の中のコップにたとえています。
第一階層の物質宇宙の中から切り取って私たちの身体は成立しています。
内と外を区別するシステムがないなら身体は崩壊してしまいます。
コップの内と外を区別するものが基境です。基境は必要なものです。
第七階層のサテヤの状態においてのみコップは消え、ブラフマと一体になります。
「あらゆる生き物は基境を必要とします。
基境が無いと、コスモスの海に溶け込みます。
池の中にコップ一杯の水があるとしましょう。
コップが存在するかぎり、コップの中の水も存在します。
しかし、コップを取り去るなら、コップの水は池の水に溶け込みます。
その水の基境はコップです。
コップの水が池の水に溶け込むのはコップが取り除かれた時だけです。
同様に魂soulはそれを具現する基境がない時、ブラフマに溶け込みます」(The Base and the Relative Truth)
このように第七階層のサテヤにおいてのみ個体の魂はブラフマと一体になります。
なお、サーカーは、魂、個体意識(アートマン)などの言葉を使い分けますが、ここでは、魂は個体意識と同じものとして使われています。
4)7つの層それぞれの完成によって頂点にゆきつく・・・宗教との違い
人間は、この7つのそれぞれの層を完成させることなしには、最高の到達点に達することはできないとサーカーは考えます。
もし、ある層を無視、軽視して、ある層だけを重視するならば、それは、宗派主義=宗教に陥ると指摘しています。
「ダルマ(スピリュチアリティ・・訳者)の目的は完全な幸福を得ることです。
完全な幸福は魂への到達です。
それぞれのコーシャには部分的な幸福あるにすぎません。
魂に到達していない間は、あらゆるコーシャを完成させなくてはなりません。
それぞれのコーシャの世話をしなくてはなりません。
ひとつのコーシャは、他のコーシャを排除しては、完成させることができません。
完全な幸福があるところに、ダルマがあります。
他のすべては、部分的な幸福を生み出すにすぎません。
それゆえ、宗派主義です。
宗派主義はプレヤpreya (表面的で直接的な喜び)に導きます」(Invocation of the Supreme)
そしてサーカーの見るところ自分の指導する「アナンダ・マルガ」しか真のダルマ(スピリュアリティ)を教えておらず、他はすべてどれかの層を無視している宗派主義や宗教であると言います。
「天国の幸福と地獄の恐怖は、心の創造物です。
ダルマ(スピリチュアリティ)は、それを通じてもともとの状態に到達するものであり、恐れはありません。
アナンダ・マルガのみがダルマ(スピリチュアリティ)です。
ほかのすべては宗派主義です」(Invocation of the Supreme)
どの宗教も自分のところだけが正しいと言いますから、サーカーも同じレベルのことを言っているように聞こえます。
しかし、サーカーがつくったアナンダ・マルガという組織が実際はどうであるかは別として、七つの層のすべてにわたってその完成をめざして進むものは、サーカー以外の宗教や哲学に見いだすことができません。
いずれも七つの層の一部分を問題にしているにすぎません。
たとえば、すべての宗教は、ヨーガのテーマとしている身体構造の修練を問題にしません。
どれかの層だけをテーマとします。
(ただし、ケン・ウィルバーの「全レベルアプローチ」は、サーカーの7層全部へのアプローチを含んでおり、今のところ唯一の例外です)
近代教育で語られる「知育、徳育、体育」の徳は、その「徳」はきわめてドグマ的なもの、たとえば、しばしば「愛国心」など、国といった外側の粗大な実体と結びつけられます。
したがってその「徳」は「粗大化」に向かい、スピリチュアリティの低下に向かいます。
サーカーのコーシャ論は、体⇒知⇒「徳」という構造になっており、その徳は、粗大から精妙な意識へ、そして、サンスカーラの克服、魂の浄化へと進み、「徳」の含むドグマ的なニュアンスを越えたものとなっています。
この七つの層をそれぞれ1つ1つ上ってゆくことは、心を粗大から精妙な状態へ進歩させることです。
サーカーはケン・ウィルバーよりも明瞭に粗大から精妙に「意識をどう深めてゆくか」を実践的に語っています。
それは「心は、考えているものの形をとり、対象の性質に近づいてゆく」という視点です。
したがって、狭い、小さいことばかり考えていると小さい心の人間になります。
粗大な対象についてのみ考えていると、心は粗野化します。
したがって、黙想で精妙な心をつくるとともに見ているものすべてをもっとも精妙なるブラフマのあらわれと考えることを重視します。
サーカーは次のように述べています。
「どのようにして解放が達成されるでしょうか。・・・
心はその対象の形をとります。
心が彼(ブラフマ)を対象とする時、心に彼(ブラフマ)に変容します。
宇宙的な感覚Cosmic feelingで心を満たすことによって、心は無限を達成し、彼(ブラフマ)の中に包含される全天地万物entire universeを見ます。
経典では次のように言われてきました。
"Brahmavid Brahmaeva bhavati." (ブラフマを知るものknowerはブラフマになる)
個体の『私』が集合的な『私』、宇宙的な『私』に転化する時、アートマンは、集合的『私』の魂に融合することによってワンネス(一体性)を達成します。
すなわちそれはサグナ・ブラフマのアートマンに結合して、ひとつになります」(Invocation of the Supreme)
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods