Prabhu Hum Par Kripa Karna Hariom Sharan [Full Song] I PREMANJALI PUSHPANJALI (video inspired by god of star)


(Quality of ectoplasm is determined by thinking and behavior)

Theme of this page is relation between physical area and psycho-spiritual area.
Psycho-spiritual area means mental body and I consciousness.
In center of ectoplasm there is I consciousness.
When we say I consciousness of human, it is called spirit or soul of human.
Psycho means ectoplasm in documents of Heaven.
In human life ectoplasm is overlapped on subtle energy of bio-matrix.
Mind is work of ectoplasm overlapping on subtle energy of bio-matrix.
Quality of ectoplasm is determined by thinking and behavior.
This two article of Mitsuki explain how to level up thinking and behavior.


このページのテーマは物的肉体領域とサイコスピリチュアル領域の間の関係です。
サイコスピリチュアル領域は,心理体と私意識を意味します。
思念体の中心には私意識があります。
私たちが人間の私意識を言うとき,人間のスピリットや魂と呼ばれています。
サイコは天の文書では思念体を意味します。
人間の生命においては,思念体が生体マトリクスの精妙エネルギーに重なっています。
心は生体マトリクスの精妙エネルギーに重なっている思念体の働きです。
思念体の質は思考とふるまいによって決定されます。
ミツキのこの二つの論文は,思考とふるまいをどのようにレベルアップするか説明しています。


二つのパラレリズム・・・サイコ・スピリチュアル・パラレリズムとフィジコ・サイキック・パラレリズム

 瞑想して心の奥の平穏さに心を一致させるのが、サイコ・スピリチュアル(心⇒スピリット)のパラレリズム(照応関係)の確立です。
でも、瞑想ばかりして生きてゆくわけにはゆきません。
どうしても私たちは、フィジコ・サイキック(物的身体⇒心)のパラレリズムが必要です。
つまり現実の物的世界に対して正確に対応する認識をもっていないと、現実の壁にぶつかります。
しかし、この私たちの外側の世界は物的世界です。
自分の家族も自分の勤務先の人間関係も、心の外の物的世界に属しています。
物的世界に心が向かうと心は粗野化します。
そこで外の物的世界のすべてをもっとも精妙なブラフマのあらわれとして絶えず見るのです。
そして自分をブラフマの世界の中に確立するのです。

 つまり、心のいちばん奥はブラフマであり、心の外側のこの物的世界もブラフマです。
サーカーが『自分の息子をブラフマのあらわれとしてみていますか』というのはそういう意味です。
内と外に精妙なブラフマを感じることによって、心は常に精妙な方向に向かい、安定を得ます。

 もう少し、説明しておきます。
サーカーの人間存在論は、フィジカル(物的身体的)、サイキック(知的心理的)、スピリチュアル(精神性)の三つのレベルの重なるところに人間があるというものです。

(ちなみに、他の類書の訳は、スピリチュアルを霊性と訳し、サイキックも霊と訳され、混乱しています。サーカーについては間違いなく、サイキックは心の領域の文脈で論じています)

 サイコ・スピリチュアルのパラレリズムというのは心と精神(心のもっとも奥)との照応関係の確立ということです。
目をとじて瞑想していると心は静かになってきます。
それが徹底的に澄みきった状態になることがサイコ・スピリチュアル(心⇒スピリット)のパラレリズムの確立です。 

 それは毎日、朝と夕方、ちょっとずつ練習しているとできるようになります。
(もちろん、ヤーマ、ニヤーマを守らず、たとえば、人を傷つけたりしているとその反作用で集中力が低下します。
あるいはカフェインやお酒、あるいはキムチのような興奮させるものを飲食すると集中力は低下します。
だから、心を純粋な意識に近づけるためには、どうしてもおこないや食べ物に気をつける必要があります)

 このように心を静かにできたとしても、私たちは実際には仕事をしたり、いろんな人と人間関係をもったりして生きてゆかなくてはなりません。
そこで、せっかく、朝、瞑想で得た平穏な心も崩れてしまいやすい状況があります。
この世俗の物的世界に適切に対応して生きてゆかなくてはなりません。
現実世界に対して正しい認識をもっていないと適切な対応ができません。
この現実世界を正しく把握し、認識して生きてゆくのが、フジコ・サイキック(物的身体的世界⇒心)のパラレリズムです。
すなわち心と心の外の物的世界との照応関係です。
これはきわめて大切です。
これが確立しないと現実世界とぶつかって、平穏な心は混乱に陥ってしまいます。(注)

 (注)現実世界から逃避して心の平安をもとめる人がいます。
そのような生き方をサーカーは批判します。
私たちは物的肉体を維持するために食べ物を得なくてはならないから、物的世界とかかわっていることを避けることはできません。
ですから現実世界から逃避で、本当の意味で心の平穏の実現は不可能なのです。
サーカー以外のスピリチュアルな成長を説いている人は、ほとんどこのフジコ・サイキックのパラレリズムの確立がサイコ・スピリチュアルのパラレリズムの確立と同じだけの重要性をもっていることを説くことが欠けていると感じます。
サーカーの場合、このことがバランスのとれた世界をつくる進歩的活用理論(プラウト)などの創始と関連していると考えられます。
社会(物的世界)に対する「適切な対応」、ある場合は「闘いの必要」を説いているのは、類似の思想家ではサーカーだけです)

 さて、二つのパラレリズムを確立しながら生きてゆくのが、内と外のバランスのとれた理想的生き方であることは理解していただいたと思います。
この場合、一方で、心は、内側のより精妙さに向かい、他方で、心は外側のより粗大な方向に向かいます。
サーカーによれば、心は念じるもの、考えることの形をとるようになります。
粗大な現実世界のことばかり念じる(たとえば、お金がほしい)と、あるいは粗大な現実世界で自己を確立する(たとえば、出世する)ばかり念じると、心は粗大化します。
朝、夕の瞑想で心が精妙化したとしても、昼の活動の間に、心は粗大な現実を考え、見つめますから、心は粗大化してゆきます。
ですから、二つの面でのパラレリズムの確立で人は適切に生きてゆくことができるけれども、サーカーの言う人生の最大の目標であるべき心をピュアにして純粋意識に近づけること、最終的に全宇宙の純粋意識に溶け込ませることは不可能です。

 なぜなら、朝、夕の瞑想で心が精妙になっても、昼の活動で心が粗大化するので、プラス・マイナス、ゼロで、進歩がありません。
では、現実世界で生活しながら、心をピュアにして純粋意識に近づけるには、すなわち粗大な心を精妙な心にしてゆくにはどうしたらいいのでしょうか。

 サーカーは、あらゆるものをもっとも精妙な純粋意識の固まったもの、すなわちブラフマの現れとして見よといいます。
そうしたら、昼の生活の中でみているあらゆるもの、食べ物、人、建物、木、空気、水、大地、ありとあらゆるものは、スピリチュアルに見えてきます。
すべてが精妙なものの現れとして見ていますから、外に向かっている心は、精妙なものをみていますから、物的なものを見ながら、粗大な物的なものも、精妙なものに見えるゆえに、次第に心は精妙に繊細になり、純粋意識に近づいてゆきます。
すなわち、朝と夕方の瞑想で心が、精妙になるのに加えて、昼の活動の中でも心は精妙になってゆきます。
精妙化+精妙化ですから、心はどんどんピュアで精妙な純粋意識に近づいてゆきます。
サーカーは言います。
親には「あなたは自分の息子をブラフマの現れとして見ていますか」
農夫には「自分の耕す大地を精妙なブラフマの現れとして見ていますか」と。

 同じことを教師だったら「あなたは自分の生徒をブラフマの現れとして見ていますか」、
お店で働いている人だったら「あなたはお客さんをブラフマの現れとして見ていますか、自分の出す料理をブラフマの現れとして見ていますか」となると思います。

 以上が、安定した心をつくるうえでの参考になれば幸せです。


愛した分だけもどってくるのか

1)愛した分だけ、愛は返ってくるのですか

質問
 「前に先生が言った愛されたいならまず自分から愛しなさいそしたら愛は返ってくるって言葉を私は信じていました。
でも人によるんじゃないかなって思います。
生まれつき不幸な人間は自分から愛しても誰からも愛されないんじゃないかなって。
かならずしも愛は返ってくるもんじゃないと思います」

答え1
 「愛した分だけ、愛がもどってくる」というのは、やっぱり正しいとおもうけど、「愛」をセックスとかと間違えたらだめです。
「愛している」といって、セックスの関係になったからといって、それは本当の意味での愛ではないのです。
愛は、肉体ではなく、心と魂のレベルにあるのです。
「愛している」といって男性の場合は「君が気にいっているから(好みだから)セックスを君としたい」という場合がおおいにあると思います。
それに応えても、それは本当の意味の愛ではないから「愛した分だけ、愛がもどってくる」というのはありえません。

答え2
 あなたの相手に対する愛は本物で、肉体的な意味ではなく、相手の心に幸せを与えるものだったとしましょう。
その場合は、相手に与えた幸せは、それと同じ量だけかならず自分にもどってきます。
しかし、それは、その相手から戻ってくるとはかぎりません。
その逆を考えてみましょう。

 人を傷つけたら、相手が痛みを感じた量だけ、自分も痛みを経験します。
しかし、それは、その分だけすぐ心が痛む場合もあるし、10年たって心が痛む場合もあるのです。
そして一度にひどい痛みの場合と、ゆっくりの痛みで長くつづく場合もあるのです。

 それと同じように、だれかに幸せを与えた(愛した)からといって、いろいろです。
すぐに相手に与えた幸せの分だけ戻ってくることもあるし、10年たってもどってくることもあるし、すごい幸せですぐ終わる場合もあるし、ゆっくり時間をかけた少しずつの幸せの場合もあります。
幸せを与えた相手からだけ、必ずしも愛が戻ってくるわけではありません。

 しかし、人に与えた痛みの量、人に与えたよころびの量だけもどってくるのです。

2)いつも裏切られます

質問
「信じてもいつもうらぎられてる私はどうしたらいいんですか?」

答え
 サーカーの教えでは、目の前の形あるこの世は、たえず変化する世界です。
永久のものはどこにもありません。
どんなに愛した人とも最後には死に分かれなくてはなりません。
今、つきあっている友人も一定の期間がきたら永遠にわかれることになります。
愛した彼氏も、その期間が短いか長いかだけで、自分のまわりにいる人、すべてとやがて私たちは分かれる運命にあります。
この世に永久に完全なものはなく、この世のものはすべて流れてゆきます。
だから、それを信じてもはかなくきえてゆくのです。

 私たちが、確実に信じることのできるものはすべてをふくんだ単一のものです。
桜の来を考えてみましょう。
花は毎年、咲いて散ります。
花は、一つの木から多様に咲いた花です。
1つの木(一者)からたくさんの花(多者)が生まれました。
多は相対的で一時的なものです。
まり、時間の流れの中でかならず終わりのあるものです。

 したがって裏切られることのない確実な真実は、花ではなく、もともの1つの木です。
木の全体です。

 この宇宙の根本にある一つの心が分かれてあなたになり、わたしになりました。
私たちはひとつの木に咲いているたくさんの花です。
私たちは一つの木です。
花を信じてもうらぎられます。
ひとつの木、これのみが永遠の真実です。

 他は、どんなに信じても、かならず最後には「裏切られます」あるいは必ず別れはやってきます。
裏切られないとしても、分かれなくてはならない。
そういう存在なのです。
それを知るならば、「裏切らずに、身近な人をできるだけ大切にしたい」と思うようになると考えます。



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