Hari om sharan - Aisa Pyar Bahade.. (video inspired by god of star)


(Base of universe is unity of conflict between ectoplasm of gods of star and flow of Higgs particle)

Theme of this page is to pursue two direction which is vidya and avidya.
Vidya means to close to god of star.
Avidya means to leave from god of star.
God of star is in base of universe.
Base of universe is unity of conflict between ectoplasm of gods of star and flow of Higgs particle.
Vidya is way to base of universe.


このペ-ジのテ-マは、ヴィディヤとアヴィディヤの二つの方向を追求することです。
ヴィディヤは星の神に近づくことを意味します。
アヴィディヤは星の神から遠ざかることを意味します。
星の神は宇宙根底にあります。
宇宙根底は星の神々の思念体とヒッグズ粒子の流れの対立の統一です。
ヴィディヤは宇宙根底への道です。


ヴィディヤー(内向化)とアヴィディヤー(外向化)

1)プレヤとシュレヤの背後にある外向化の原理と内向化の原理

 ヴィディヤーすなわち内向化の原理に導かれているのがシュレヤで、アヴィディヤーすなわち外向化の原理に導かれているがプレヤです。

 「シュレヤとプレヤは原理が、まったく異なっています。
ひとつは、ヴィディヤー、すなわち内向化の原理によって導かれ、そしてもうひとつは、アヴィディヤーすなわち外向化の原理によって導かれています。
一方は識別力に導き、他方は無知に導きます。
一方は光に導き、他方は闇に導きます。
シュレヤに導くパラー・ヴィディヤーPara'-vdya'は、人々を無願望性desirelessnessの究極の状態、すなわち完成に向けて成長させてゆきます。
プレヤに導くアパラー・ヴィディヤーApara-vidya' は、暗闇、究極の否定性と粗大さへの隷属へと人々をかりたてます。」(SUPREME BENEVOLENCE AND MUNDANE PLEASURE)

   シュレヤの道をめざす人は、自分の中のプレヤ(動物時代のサンスカーラに起因)の克服の努力が必要だと述べます。

 「シュレヤの道に従う人々は、当然、自分のプレヤのサンスカーラ、すなわち自分の動物的性向と闘わなくはなりません。
彼らは、お金に対するどん欲、名声への渇望、聖人ぶった装いの維持、嘘と偽りによる称賛への願望などのような粗大な性向をコントロールしなくてはなりません」(SUPREME BENEVOLENCE AND MUNDANE PLEASURE)

 その努力ははじめはつらくても一定のところを超えると超越したレベルに達するのだと次のように説明しています。

 「障害なしに活動はありません。
そして障害に対して働くエネルギーの勝利が、活動の具体化です。
これらの障害は、ヴィディヤーの道を進むサーダカにあるだけではありません。
堕落の道、すなわちアヴィディヤーの道に従い、プレヤを追いかけている人々もまた、そのような卑しい活動をやめよという警告としての障害に直面します。
はじめて盗みをした人々は、自分の手足がふるえます。
盗みを犯した後、悪夢を見ます。

 なぜ、こういうことかおきるのでしょうか。
それはヴィディヤーの力が、自分たちがしようとしている行い、してしまった行いが、非常に卑しく、劣ったものであり、その帰結が悲惨であることを彼らの心にたたき込んでいるのです。
しかし、さらにアヴィディヤーの道を進み、その力が心の中に基盤をもつと、その段階では、ヴィディヤーの障害を圧倒します。
だから、しばらく経験をつんだ泥棒の手は、もう、震えませんし、彼の活動のぞっとするような恐ろしい帰結を見ることもありません。
未熟な泥棒と熟練した泥棒の間の中間の状態は、闘っている精神性の修養者と聖なるゴールに達した人の中間状態とちょうど同じことです」(SUPREME BENEVOLENCE AND MUNDANE PLEASURE)

2)思考⇒エネルギー⇒物質

 プレヤの道にある人々は、心の中に自分たちの活動を正当化したいという心理から生み出したのが物質主義的な哲学であるとして次のように論じます。

 「唯物論的思考の最大の欠点は、この目に見える世界が究極の現実だと考えることにあります。
彼らは、自分の存在がまったく一時的なものであり、時、場所、人に制約されていることを理解することを意図的に拒否します。
彼らは、世界のもともとの原因の実体に自分の目をむけることを故意に拒否します」(SUPREME BENEVOLENCE AND MUNDANE PLEASURE)

 そしてそのもともとの実体についてサーカーは次のように論じています。

 「その実体のボディの中では、変化の律動が現れたり、消えたりしています。
物質Matterは、エネルギーの中に存在します。
エネルギーは思考thoughtの中に存在します。
エネルギーは物質を生じさせ、思考はエネルギーを生じさせます。・・・
本当のことを言えば、この世界の根本的な材料だと考えられている分子、原子、電子、陽子のいずれも、エネルギーの顕現にほかなりません。
物質は、いわば、瓶にいっぱいに詰まったエネルギーです。
しかし、エネルギーはもともとの実体ではありません。
それは、プラクリティの束縛下にある単なる意識です。
それゆえ、物質の本当の理解のためには、プルシャとプラクリティからなるブラフマの理論を受け入れなくてはなりません。
ブラフマが、すべてに充満した側面において考察されようが、その個別的な側面において考察されようが、彼の大宇宙的状態Macrocosmic Stateは、彼の個別的側面における表現であるのと同一の特徴を表現します」(SUPREME BENEVOLENCE AND MUNDANE PLEASURE)

 思考の中にエネルギーが生じ、エネルギーの中に物質が生じる。
思考というのは、プルシャ(純粋意識)にプラクリティが形質賦与してゆく過程である。
したがって、この大宇宙はすべてがブラフマ(プルシャ+プラクリティ)の顕現にほかならない。
このサーカーの論だと、小宇宙である私たちの心の思考が身体を動かし、表情を変え、思考が体調まで影響を及ぼすことが、大宇宙コスモスと統一的に理解できます。

 大宇宙の「物質」と「エネルギー」の背後に「思考」があるというこのこサーカーの説を科学的な検証で証明はできないけど、この説を否定することもまたできません。
小宇宙において、レモンを「思考」すれば、「唾液」がでたり、性的な「思考」をすれば、「精液」が製造されたりするということは、「思考」から「エネルギー」が生じ、「物質」に転化していることです。
「思考」が脳の「物質」「エネルギー」に関与していることは疑うことはできません。
しかし、脳の中の分子、原子、電子を顕微鏡で観察し、「物質」と「エネルギー」をそこに見たとしても、「思考」の存在は、科学的方法では見えません。
同じように、大宇宙の展開の背後に「思考」があったとしても科学的に観察することは不可能です。
だからといって大宇宙の背後に「思考」がないとは誰も言えません。

 Micorocosmos小宇宙とMacrocosmos大宇宙と訳してきましたけれども、脳の中に心があり、心の中心に魂があるように、大宇宙に展開している物質界の背後に思考する心の流れがあり、その中心に大宇宙の魂があるという構造になっているという意味で、コスモスCosmosの訳語がつかわれているとおもいます。

なぜ、人は、アヴィディヤー、すなわち粗大を追い求めるのか

 人がアヴィディヤーを追い求めるのは、もともと、もともと非生命実体、動物存在からの進歩の結果として人間が存在していることにあると次のよう説明します。

 「人間の生命は、動物存在からの進化的進歩の結果です。
エネルギーは、敵対する諸力の衝突を通じて表現されます。
そしてこれらの衝突を通じて、様々のいわゆる砂、鉄、石などのようなこの五要素の世界の「非生命」"inanimate" 実体が、原始的な植物や単細胞の原生動物などのような自己活動的な実体に変化します」(SUPREME BENEVOLENCE AND MUNDANE PLEASURE)

 そして動物の進化の中で、動物性を含んで人間性が生まれてきます。
動物性の推進力は、物的喜び(すなわち食欲、性欲・・筆者)にあります。
人間は、まだ純粋意識にいたらず、その喜びを知らず、動物時代の粗大な喜びはよく知っています。

 「動物性の推進力が、物質的喜びの見地からのみ理解できるのはそのためです。
というのは、その推進力は、まだ体験されていない(純粋)意識の喜びを吸収していないからです。
その喜びの達成は、人間の魂、心の主観によって鼓舞されます。
そのようなインスピレーションは、動物の心によっては適切に活用することはできませんでした。
人間の強い心によって有効に活用することができます。

 したがって、一方で、人類を物質的な喜びに導くのは、以前の動物生活の経験的知識です。
他方で、魂のより発達したインスピレーションは、(純粋)意識に導くことを追求させます。
だから、粗大さと(純粋)意識との間の(ヴィディヤーとアヴィディヤーとの間の)絶え間ない衝突が、人間の心の中で続きます。
人間は、普通、闘争を恐れます。
だから、物質主義的な心の人々が、当初は、そのような闘争に反対であるのは驚きではありません」(SUPREME BENEVOLENCE AND MUNDANE PLEASURE)

 すなわち、なぜ、アヴィディヤーの方向にむかってしまうのかは、動物性の推進力が働いているからであり、人間は、それと闘って、魂からのインスピレーションによって、これまでの喜びのレベルを超える純粋意識の喜びを知るべきだとサーカーは考えています。




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