3 HOURS Relaxing Music | Smooth Guitar | Background for Dreaming - Spa - Massage - Stress Relief (video inspired by god of star)


(When your consciousness become infinitive, your I consciousness close to parent god of star)

Theme of this page is what is happiness for human being.
True happiness of human is in way to eternal life living with gods of star.
I down way to eternal life as to become to infinitive consciousness.
Infinitive consciousness is same to I consciousness of parent god of star.
I consciousness of parent god of star is infinitive entity which exists in base of universe.
Base of universe has not limited boundary.
When your consciousness become infinitive, your I consciousness close to parent god of star.


このペ-ジのテ-マは,何が人間とって幸福であるのか、です。
人間の真の幸福は、星の神々とともに生きる永遠の生命への道を進んでいるときです。
私は永遠の生命への道を無限の意識になるとしておろしました。
無限の意識は、親の星の神の私意識と同じです。
親の星の神の私意識は、宇宙根底に存在する無限の実体です。
宇宙根底は有限の境界はありません。
あなたの私意識が無限となるとき、あなたの私意識は親の星の神に近づいています。



幸福論

はじめに

 幸福な人生を送りたいというのはすべての人の願いです。
ここで、紹介するサーカーの考えは、これまでに読んだどんな幸福論よりも私の心に響きました。
結論を短くいうとこうです。
人間は無限を求めてゆく性向がある。
物的世界は有限であり、獲得した物や実現したことは有限であり、人間の心は有限なものには、満足しきれず、さらなる渇望が生じる。
だから、有限な物的世界に幸福を追求しても、真に満たされることはない。
心が有限なこの物的世界への渇望から無限なるものの渇望に向かう時、真の満足と充足感が達成される。

 ただし、物的世界に私たちは生存していますから、物的世界を「離れる」のではなく、物的世界を「含んで超えた」無限なるものを求めるのです。
物的世界を軽視するわけではありません。
食欲、性欲、物、名誉、支配、出世などに、幸福を追求しても、その方向に満ち足りた至福を味わうことはないですよということであって、食、性、物、出世それ自体を否定するものではありません。
食べ物が無くて、飢えた状態にある時、どうして至福を味わえるでしょうか。
サーカーは、すべての人類がリストラ、失業や飢えの不安のない社会を作る理論を創造しました。

 では、まず幸福の探求についてサーカーの考えを詳しくみてゆきましょう。

1)有限なものに満たされない人間
(1)有限な存在は無限の渇望を癒せない
 私たちは、悲しみと苦しみのない幸福な人生を過ごしたいと思っています。
そこで、サーカーは、まず物的身体的な領域に幸福を追求した場合を検討します。
物的身体的領域で願望を達しても人間は決してそこで満足することはできないと次のように論じています。

 「幸福の探求において、人々はまず物的身体的な楽しみに引きつけられます。
彼らは、富を蓄えます。幸福への願望から権力と地位を得ようとします。
百を持っている人は、百に満足しません。
その人は数千を求めます。
しかし、数千を達成しても数千に満足しません。
その人は百万を欲します。

 また地域に影響力をもっている人は、影響力をその地方全体に広げたいと思います。
地方の指導者は、その国の指導者になりたいと思います。
そしてその国の指導者になれた時、世界の指導者への願望がとりつきます。
富、権力、地位の獲得は満足をもたらしません。
有限なものの獲得は、さらにそれ以上の願望を生み出します。
幸福の探求には終止符が打てません。
渇望が癒されることはありません」(What is Dharma?)

 なぜ、有限なものの追求では渇望が満たされることはないのでしょうか。
それは、この物的世界は、どこまで行っても有限だからです。
たとえ、地球全体を手にいれても人間は満足することはないとサーカーは論じます。

 「どんなに威厳があり、高尚であっても、その達成(有限な領域での達成)は、幸福に対する際限のない渇望を鎮めることはできません。
富を切望する人々は、無限の富を得ることができるまで、満足することはありません。
また権力、地位、威信を求めるものも、無限の割り前を得ることができるまで満足できません。
これらすべては、世界の客体(object物、物体、対象)だからです。
この世界は有限であり、無限のものを提供できません。
それゆえ、この世でのどんな大きな達成も、獲得物も、たとえ、それが全地球であっても、無限性、永遠性を与えてはくれません」(What is Dharma?)

(2)無限の意識が投影している人間

 なぜ、有限なるものの獲得で、人間は無限の渇望を癒せないのでしょうか。
それは、人間の心は、動物よりも「意識」が、はっきり投影している存在だからだとサーカーは言います。

 「意識」はそもそも無限の存在であり、無限を追求する性質があります。
人間は「意識」がもっとも投影している存在ですから、そのことが人間に無限・永遠を求めさせます。
有限なるものによっては、無限をもとめる「意識」をもつ人間の渇望を癒すことはできないのです。
サーカーは、無限の渇望を癒せるのは、自分を含めたすべての存在に大宇宙の実体(無限の意識=ブラフマ)を認識することだと次のように言います。

 「意識の性質は、無限を求めることです。
大宇宙の実体を認識することです。
意識を活用し、その指示に従うものだけが、人間と呼ばれるにふさわしい人々です。
それゆえ、すべての人が、その投影した意識を十分に活用することによって、人間と呼ばれるにふさわしい状態になり、自分のダルマ(特質)が無限(大宇宙の実体)を追求することであることに気づきます。
この無限を求める切望が、人間であることを特徴づける内的な資質(ダルマ)です」(What is Dharma?)

(3)無限を求める人間のダルマ(特質)

 サーカーは、物的身体的なレベルの必要や要求をカーマ、知的心理的レベルの必要や要求をアルタと呼び、スピリチュアルなレベルの要求をダルマ(スピリチュアリティ)と呼んでいます。
カーマは物自体を欲することですが、アルタは、物が何であるか知りたいという欲求です。
ダルマは、物の存在の深い意味を感じたい欲求です。
アメリカのケン・ウィルバーは、「肉の眼」「知の眼」「観想の眼」という言葉を使います。
カーマは「肉の眼」で見ることです。
アルタは「知の眼」で見ることです。
ダルマは「観想の眼」で見ることです。

 人間だけが、ダルマと「観想の眼」を持ちます。
猿は、食欲、性欲を持つだけでなく、ボスの地位をめぐって争います。
したがって、カーマ(物的身体的欲求)は、人間だけの特質ではありません。
猿も、一定の知的好奇心や親の情を必要といますから、アルタ(知的心理的欲求)は人間だけの特質ではありません。
アルタが発達しているだけでなく、ダルマ(スピリチュアルな欲求)もそなえていることが人間の特質です。

 内的にカーマ(肉欲)だけの欲求をもって、すなわち「肉の眼」で人生を生きるなら、人間構造をした動物の人生をおくることです。
カーマにアルタの欲求が加わることで人間に近づきます。
しかし、カーマとアルタだけでは、猿のレベルであり、人間にはなれません。
カーマとアルタを「含んで超えた」レベルとしてダルマ(スピリチュアリティ)の欲求をもつ時、人間になります。
すなわち「肉の眼」「知の眼」だけでなく、「観想の眼」(=スピリチュアルな眼)ももつことで本物の人間になります。

2)人間の二面性・・・動物性と理性

(1)人間のもつ2つの側面(動物性と理性)

 サーカーは、人間は動物から進化したので動物性と人間性の二つの側面をもつと考えます。
人間性とは、明瞭な「意識」の投影による「理性」(rationality)です。

 まず、人は、カーマすなわち物的要求、「肉の眼」の方向に幸福を求めます。
たとえば、飲むこと、食べること、その他の物的身体的願望の実現です。
それは動物と共通する側面です。
しかし、人間は幸福を求める無限の切望をもっていますから、それによって内面的に満たされることはありません。
ところが、動物は、飲む、食べるなどの物的願望が実現すれば、そこで満足します。

 「動物は,これらの限りある喜びに満足します。
動物の衝動は無限ではないからです。
動物は、どんなに多くの量を与えられたとしても、必要とする量だけをとり、残りを欲しがることはありません。
しかし、人間は、このような状況のもとでは確実に動物とは異なるふるまいをします。
このことは人間の願望は無限で、動物のように有限なものに満足できないことを示しています」(What is Dharma?)

 たとえば、ライオンは、食べるためにのみ牛を殺します。
人間は一頭の牛を殺すだけでは満足せず、アメリカ大陸では一時期バイソン(バッファロー)がレジャーのために絶滅の危機に陥りました。
そして現在、牛は、人間の生存のための必要という枠を超えて、美食という人間のどん欲のためにどんどん殺されています。
痩せるためのダイエットをしながら、食べています。
まるで古代ローマの貴族がごちそうを食べるためにいったん食べたものを吐いたようです。
人間は有限なものに満足していません。

(2)動物性と理性の闘争

 このように人間も動物もともに喜びの願望は生命維持の動物的側面に促されています。
しかし、それに満足できないのには、人類には、はっきりと投影した意識があるためだとサーカーは言います。

 「絶対的な喜びに対する人間の衝動の無限な性質は、意識だけに帰すべきです。
所有、権力、地位の物的身体的喜びに満足しないのは、この意識のためです。
どんなに大きな割り前の所有、権力、地位も一時的な性質しか持っていません。
大宇宙の実体への人間の切望を生み出すのは人間のその切望です」(What is Dharma?)

 物的身体構造と心は対応して進化してきました。
人間に至って心は身体構造維持の領域を「含んで超え」ました。
「『私』は〇〇する」という時の『私』には、明瞭に意識が投影しています。
(詳しいことは、「小宇宙論」参照)

 『私』には無限性につながる意識が投影していますから、『私』がこの世の「所有、権力、地位」の中に自らを確立しても、それが有限であるがゆえに、無限の渇望は癒されないのです。

 「この世の物事・・・物的身体的楽しみ・・・は人の心の幸福への渇きを鎮めません。
それでも人々は物的身体的楽しみに引きつけられます。
人々の中の動物性が、動物の願望の満足に向けて引っ張っているのです。
しかし、この満足はすべて一時的ではかないものですから、彼らの意識の理性は満足しないままに残ります。
それらは、人間の意識の際限ない渇望を静めるのに十分ではありません。
したがって人々の中で動物性と理性の間に恒常的な争いがあります」(What is Dharma?)

 「権力と地位を得ることから生まれる現世的な喜びが無限で際限のないものであったならば、それは幸福を求める意識の際限の無い追求を終わらせるでしょう。
しかし、それは終わることはありません。
一時的な喜びであるはかない栄光は、人間の心に永続的な平穏を保証し、人々をエクスタシー(至福の喜び)に導くことは決してできません」(What is Dharma?)

 動物性と理性の闘争とは、動物性と意識の闘争でもあります。
人間の動物的側面は、つかの間のこの世の喜びに向かわせます。
しかし、人間の理性に背後にある意識はこれらには満足しません。
人間の『私』の中にある意識は、大宇宙の実体である無限の意識に存在根拠をもっています。
したがって、動物性と意識が闘争します。
それは人間の心の中では動物性と理性との闘いの形ででてきます。

 意識と理性の強化の方法を考えてみましょう。
サーカーは、心の層を「粗大な心」「精妙な心」「元因の心」と三つの層に分けます。
粗大な心は外界に向かい、身体的存在を支えている領域です。
「精妙な心」は思考や記憶をになう領域です。
「元因の心」とは『私』です。『私』が、外の世界を見て、思考や記憶を行ないます。
ケーキを見て食べようと思い、昔のことを思い出すのは『私』です。
毎日、短時間、黙想して「粗大な心」と「精妙な心」の部分を澄ませます。
いわば、心の池の表層の部分と中層の部分の濁りを無くすのです。
そこに「意識」が明瞭に投影した『私』だけがあらわれます。
毎日、続けるならば、心の池の表層と中層が澄むゆえに、「意識」が『私』の心の池全体に明瞭に投影し、意識と理性が勝利する存在になってゆきます。

 粗大な心から発するのは「肉の眼」であり、精妙な心から発するのは「知の眼」です。
そして心の一番奥底の『私』から発するのは「観想の眼」です。
「観想の眼」を取り入れる時、永続的な幸せに近づくことができます。

(3)意識を活用できない人間は動物よりも悪くなる。

 「観想の眼」を取り入れ、意識と理性が、心全体をコントロールできるようになった人間が、人間性の高い、動物性に打ち勝った人間です。
逆に意識と理性を活用できない人間は、動物より悪い存在になります。

 「人間を動物と分かつものはよく投影した意識だけです。
もし、人間の意識が、その動物性の背後で眠ったままであったならば、人々は動物のようにふるまいます。
実際、よく投影された意識を与えられていても、それを使うことができない場合、人間は動物よりも悪くなります。
そのような人々は人間の位置にふさわしくありません。
彼らは人間の姿をした動物です」(What is Dharma?)

 意識と動物性の闘いにおいて動物性が優る場合、人間の姿をした動物、すなわち人間構造をした獣です。
私たちは毎日のようにそのような動物性に負けた人間のニュースを聞きます。
ストーカーなどはその典型です。
この場合、動物よりも悪質です。

おわりに・・・真の幸福

 幸福とは望んでいるものを獲得することです。
しかし、この物的世界は有限であり、獲得には限りがあり、満たされない心が残ります。
サーカーは、大宇宙の実体の認識に近づく時のみ真の幸福を達成すると次のように述べます。

  「幸福は、その人が望んでいるものを獲得することで得られるものです。
もし、その人が望むものを得られないならば、その人は幸せであることはできません。
悲しく惨めになります。
はっきりと投影した意識、それだけが動物と人間を分かつものですが、それは大宇宙の実体、すなわち無限を求めます。
だから、人々は、大宇宙の実体を得ることができた時のみ、あるいはそれを達成するプロセスに入った時のみ、真の幸福を引き出します。
意識は、この世の喜びを欲しません。有限であるゆえに、この世の喜びは意識を満足させないからです」(What is Dharma?)

 「大宇宙の実体だけが無限で永遠です。
それだけが無制限です。
そして幸福に対する人間の永遠の切望は、無限性の認識によってのみ満たすことができます。
この世の所有物、権力、地位のはかない性質は、有限の世界のものはどれ一つ、幸福に対する果てしない衝動を静めることはできないという結論を導くだけです。
彼らの獲得物は単にさらなる切望のもとになるだけです。
ただ無限性の認識だけが静めることができます。(What is Dharma?)

 無限性、永遠性をもつものは、大宇宙の実体であるブラフマしかありません。
ブラフマにはニルグナ(無・形質)の状態とサグナ(有・形質)の状態があります。
形質付与されていない無限・永遠の純粋意識がニルグナ・ブラフマです。
その無限の純粋意識の海の中に浮かぶ氷山の氷山部分がサグナ・ブラフマです。
サグナ・ブラフマとは、プラクリティによって形質付与されたブラフマであり、大宇宙の「私」の思考活動の展開の全体を意味します。

 私たちがその中にいる有限の天地万物は、無限の意識の形質付与された顕現です。
有限の万物に無限の意識を認識する時のみ、人間の飽くなき渇望は静まります。

 「私」と「私」を含む一切が、無限の純粋意識(one=ニルグナ・ブラフマ)がプラクリティ(エネルギー)によって形質(属性)が付与され、多(many=サグナ・ブラフマ)として展開していると認識できた時、そこには無限性の認識が生じています。
その無限性の認識のみが渇望を癒せます。
「肉の目」「知の目」に加えて「観想の目」すなわちスピリチュアルな目をもった時、喜びと苦しみを超えたレベルの幸せに近づいてゆきます。




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