10 hours of Thunderstorm and Rain Sounds in a lightning storm [ Sleep Music ] (video inspired by god of star)
(Parent god of star knows all of your sanskara and has ability to erase all of your sanskara)
Theme of this page is sanskara which is react.
I consciousness of human is in ectoplasm of god of star.
Parent god of star knows all of your sanskara and has ability to erase all of your sanskara.
This is important for you.
We gods of earth did not know that human I consciousness is in ectoplasm of parent god of star.
You can erase your sanskara completely by learning Heaven healing of project of Heaven and gods.
このペ-ジのテ-マは、反作用という意味のサンスカーラです。
人間の私意識は星の神の思念体の中にあります。
星の親の神はあなたのサンスカ-ラのすべてを知っています。
そしてあなたのサンスカ-ラのすべてを消去する能力があります。
これはあなたにとって重要です。
私たち地球の星の神は、親の星の神の思念体の中に人間の私意識があることを知らなかったのです。
あなたは天と神々のプロジェクトの天のヒ-リングを学ぶことによって完全にサンスカ-ラを消去できます。
サンスカーラ論I consciousness of human is in ectoplasm of god of star.
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このペ-ジのテ-マは、反作用という意味のサンスカーラです。
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星の親の神はあなたのサンスカ-ラのすべてを知っています。
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私たち地球の星の神は、親の星の神の思念体の中に人間の私意識があることを知らなかったのです。
あなたは天と神々のプロジェクトの天のヒ-リングを学ぶことによって完全にサンスカ-ラを消去できます。
1)反作用は避けられない
①あらゆる行為は反作用の潜在力をともなう
これまでたびたびサーカーの議論の中にでてきたサンスカーラ(反作用の潜在力)とは何でしょうか。
力学の作用と反作用の法則は、ある物体を押す(作用)と押した側にも同じだけの力が働く(反作用)という法則です。
サーカーは、この法則は力学のみならずプラクリティの原理として全宇宙の原理、そして苦楽の根本原理とみます。
仏教で言う「業論」と基本的には同じだとサーカーは言っていますが、現世のあらゆることに適用できる彼の説明には説得力を感じます。
元因の心には、その人がかかわったすべてが記憶されています。
その元因の心をボールとたとえましょう。
考え、言葉、行いのいずれかで誰かの心を傷つけたとしましょう。
与えた傷の痛みの分だけ、記憶とともに元因の心のボールにへこみができます。
そのへこみがサンスカーラ(反作用の潜在力)です。
そのへこみがもとにもどる時に相手に与えた痛みの分だけ自分が痛みを経験することになります。
すぐにへこみの復元を経験するか、ずっと後で復元を経験するかは状況によって様々です。
元因の心には無数のサンスカーラ(反作用の束)が刻まれており、人生で心が活動する時に背後から駆り立てます。
サーカーは次のように説明しています。
「心がもとの形に回復するプロセスすなわち反作用は、その変形が心の活動によるものであるので、カルマパラkarmaphala(活動の結果)として体験されます。
活動がなされ、心が変形します。
反作用すなわちカルマパラは、その心の変形の強度に応じて表現されることになります。
心をもとの通常の形態に回復するために心の変形を引き起こす時にプラクリティ対して用いられたプレッシャーに出会うことになります。
たとえば、ゴムのボールを指で押すとヘコミができますが、指を離すとその元の形に戻ります。
反作用の時、指は正反対の同じ力を体験します。
このゴムボールは心と比較することができます。
指は、心を働かせる人間の「私」という実体にあたり、心にヘコミをつくります。
それゆえ、人は、心がその元の形にもどる時、ヘコミをつくる時に用いられたのと同じ程度の強さの反作用を感じます。(中略)
その行いが良いものであれ悪いものであれ、プラクリティの法則に従って人はすべての行いの反作用を体験します。
たとえば、もし、人が盗みをして、盗まれた人に苦痛を引き起こすならば、痛みを与える能力を用いることによって自分の心にひずみを引き起こします。
心はこのひずみを取り除こうと反応します。痛みを与えた人は、その反作用の結果として(心のものさしで)同じ量の痛みを体験することになります。
同様に、もし、行いによって他の人々に幸福を与えたら、通常の状態にもどろうとする心の反作用の結果として、同じ量の幸福を体験します。
これは、心が通常の状態に回復するプロセスの中で、プラクリティの法則によって反対方向の同じ量の体験をすることになるためです」(What Is My Relation with the Universe and Cosmic Entity?)
そして行いに対してすぐに反作用が引き起こされない場合は、反作用の可能性の「種子」として心の奥に潜在することになります。
いじめをしていた小学生が友人たちの反発を受け、逆に自分がいじめられる立場になって心理的な苦しみを味わうのは、行為の結果を経験していることです。
政治家が汚職で逮捕され、心理的苦渋をなめるのも、行為の結果の経験です。
これらの場合、サンスカーラ(反作用の潜在力)は現在の生で表現されています。
あらゆる行為には反作用の潜在力がつきまとい、永久に反作用の経験をせずにすむことはありえないとサーカーは次のように述べています。
「あらゆる行為において、その反作用の可能性が横たわっています。
それは、適切な瞬間にそれ自身を表現するでしょう。
それぞれの行為の反作用は、すぐには実現されません。
それはその表現が可能になる適切な環境を待たねばなりません。
あらゆる環境はある行いや他の行いの反作用を経験するのに助けとなります。
しかし、あらゆる環境があらゆる反作用を経験することの助けにならないことも事実です。
しかしながら、誰も永久に反作用の経験をせずに済むことはありえません。
もし、そんなことがおきるとすれば、心は停止したままの状態でなくてはならないでしょう。
それは不可能です。ほんのわずかの時間ですら、心は停止した状態でいることはできません。
停止は反乱の種を生じさせ、心に爆発を引き起こすでしょう」(Superstitions About Death)
社会的な集合的心理でも反作用の動きをおこすとサーカーは次のような解雇反対闘争の例をあげます。
「誰かが職を辞めさせられたとします。
彼の心の中には反抗の種が生じます。
かれは裁判に訴えたり、多くの人々と接触したりして、デモを組織するなどのことをします。
それは辞めさせられたことへの自然の反作用です。
もし、心は一瞬の間でも停止するなら、それは存在することができません」(Superstitions About Death)
あらゆるふるまいに反作用があります。
心の中のおこない=考えることにも反作用があります。
「なぜなら、行為は心とともにもあるからです。
それゆえ、反作用が覚醒するのは心理体の中です。
もし、わたしたちが他人について無慈悲に考えるならば、私たちは、心の反作用もしくはそこからの報復に耐えねばなりません。
それが何であれ、心の中のふるまいにも反作用がおきるはずです。
反作用はもともとのふるまいの性質にそっておこります。
だから私たちは、行為の結果についてではなく常にわたしたちのふるまいに注意深くある必要があります」(Cakra and the Dheya of the Microcosm)
②反作用は体験してしまう以外に軽減も消滅もさせることはできない
あらゆるふるまいにおける与えた苦しみや喜びの分量だけ、時間の差はあれ、かならず体験する。
祈りやお払いや呪い他のどんな努力をもってしても自分に返ってくる分量を減らすことはできないとサーカーはいいます。
「多くの人は、運勢の影響を中和させること (グラハシャーンティGrahashanti) によって、あるいは悔い改めの犠牲的なおこないをする儀式(Prayashcitta) によって、自分の行いの帰結を逃れることができると信じています。
プラクリティの法則によればすべての行いはその反作用を伴わざるをえませんから、この信仰は正しくありません。
心は、反作用によってその常態に回復しなくてはなりません。
これはプラクリティの法則であり、誰もそれを無視することはできません」(How Should Human Beings Live In This World?)
運勢の勢いの中和とは、たとえば、姓名判断で運勢をよくする名前に変えること、悔い改めの儀式とは、教会での懺悔やお払いなどを示していると解釈しました。
この文章ではすべての行いが反作用を伴うことをプラクリティの法則と説明しています。
サーカー哲学によれば、この大宇宙は、プルシャ(意識)にプラクリティ(力=エネルギー)がくわわって展開しているものです。
人間の心の展開も同じ原理が働いています。
瞑想して目をとじて一つに集中させようとしても心は動きまわり、自分でコントロールできません。
この動きまわるのは、プラクリティの三つのあらわれ方のうちラジョグナ(変化・興奮の力)の原理が働いているからです。
プラクリティに駆り立てられて心を自分でコントロールできない人間は、目をあけた状態でも自分の心を適切にコントロールできず、つい人の心を傷つけたりしてしまいます。
そしてそれが自分に反作用として返ってくるのを感じます。
「ああ失敗した。ひどいことを言ってしまった」というレベルの反作用は、人は日々感じているのではないでしょうか。
プラクリティの原理はこのように小さなレベルの作用・反作用だけではなく、人に大きな苦しみを与えたまま反作用を体験せずにその生を終われば、次の生で必ず反作用としてでてくるというふうにより大きなレベルでも働いているということです。
2)生まれ変わりとサンスカーラ
①分離した心はサンスカーラの表現に適した身体と神経細胞を探す
人は、その心のありようにふさわしいものに生まれ変わると説明してきました。
しかし、分離した心(元因の心)が、意識して自覚的にふさわしい身体を探すと誤解してはいけません。
元因の心に刻まれた以前の生の未表現のサンスカーラ(実現されていない反作用の潜在力)が、その表現にもっとも適した身体と神経細胞に探すのです。
元因の心はプラクリティの原理に束縛され、ふりまわされているのであって主体的に自分の意思で動いているのではありません。
プラクリティの束縛から本当に自由になれるのは、元因の心(アートマン)からサンスカーラのヘコミがなくなり、普遍意識に溶け込む時です。
「人が息を引き取る時、以前の生のサンスカーラ、すなわち反作用の潜在力が、元因の心(=アートマ a'tma')に伴います。
この反作用の潜在力とは何でしょう。
その人の前の生で実行されたカルマ(活動、行ない)の実現されなかった帰結にほかなりません。
すなわち、活動が実行されたけれども、それらは実を結びませんでした。
過去の活動の実現されなかった潜在力は、可能性の種子の形で、心に同伴して眠っています。
その可能性の種子(すなわち実行されたが実を結ばなかった活動の未だ実現していない帰結)は、これらの可能性の具体化のためのもっとも適した次の生の場、基盤を手にいれます。
サンスカーラは、自分の表現にもっとも役立つ身体と神経細胞を捜し、手に入れます」(Extra-cerebral Memory)
筆者の知人が以前の生の反作用にかかわる話をしてくれました。
現在の人生において「私は前の夫との間に二人の子どもがいましたが、姑とうまくゆかず、夫は別の女性をつくり、離婚することになりました。
私は一人で生活し、私たちの子どもは夫のもとにいます」という女性でした。
彼女はヒーラーのもとでリラックスの瞑想の指導を受けた後、心に浮かぶことをすべてメモしなさいといわれて記録したそうです。
その中に「私は男性で地主でした。丸い帽子をかぶっていました。
後で考えると中国のイメージと思います。
現在の夫は召使でした。
その召使を地主の私はいじめて苦しめていました。
そして他の召使をかわいがっていました」というイメージがあったそうです。
筆者は前の生についての記憶をもちませんから、生まれ変わりに確信があるわけではありませんが、サーカーの説が本当だと仮定すると、過去の生において地主であった彼女が召使に与えた苦しみが、この生において夫から同じだけの苦しみを受けているということになります。
②今の人生で反作用を受けることもあれば、次の人生で反作用を受けることもある
今の人生のサンスカーラの表現についてサーカーは次のように述べています。
「この離脱がおきる時、サンスカーラの束は熟します。
そして現在の生の反作用がその表現を開始します。
この種のカルマはドリシュタ・ヴェーダニーヤ・カルマ drs'ta vedaniiya karma として知られています。
そのもともとの行いが果たされたので、良い反作用、悪い反作用は、同じ生において経験されます。
もし、嘘つきで、欺瞞的で、収賄を受け取った人、すなわち腐敗した政治家が、この生においてその悪い行いの帰結を受けることになるならば、彼らが認めようが認めまいが、その欺瞞と政治的偽善のために罰せられていることに心の中で気づくでしょう。
これらの反作用がドリシュタ・ヴェーダニーヤ・カルマです。
同様に、人々はこの生において行為の果実を享受することもできます。
一般的に、私たちは過去の生で行った行為の果実を受けます。
現在の生の行為の帰結を受けることは、不自然でもありませんが、まったくの自然ではありません。 (Superstitions About Death)
このサーカーの説明によればドリシュタ・ヴェーダニーヤ・カルマとは、現在の生の行為から生じたサンスカーラの反作用です。
つまり、ある人の心に傷を与えたとしましょう。
与えた傷の痛みの量を自分が体験することは避けられません。
その体験は、その人の反撃の形ですぐに体験することもあれば、20年後である場合もあるし、もし、死んでしまって、その生でそれだけの痛みを体験しなかったら、次の生で体験することになるということです。
③運命とサンスカーラ
運命だとおもっていることも、実は自分の前世の反作用の潜在力に今服していることだとサーカーは次のように言っています。
(しかし、すでにのべたように社会的不公正による貧困や身体障害などを前世のサンスカーラのせいにすべきではないと言っていることはすでに述べました)
「しかし、身体が弱かったり、病気だったりのために変化を被る(=死んだ)時、次の生でその人は生じた報いに服さなくてはなりません。
その時には、彼らの以前の生の行為のどれが今服している反作用 をもたらしたのか理解てきないでしょう。
それが運命とか言われるのは、その原因を見たり聞いたりできないからです。
ニヤティNiyatiもしくは運命fate、は、単に、もともとの行為から生じた 反作用にすぎません。
ニヤティは導く要因ではありません。
人間は行為によって自分自身の運命を形づくることができます。
彼らは、その運命の奴隷になってはいけません」(Cakra and the Dheya of the Microcosm)
ここでは、サーカーは「運命の奴隷になってはいけません」と述べています。
サンスカーラ(反作用の潜在力)は、過去に自分がおこなったことから生じています。
したがって、これからの自分のおこないと生き方で未来の運命は変わるということです。
たとえば、過去に自分が人に与えた痛みから、今、同じ痛みを味わっているけれども、その痛みの量だけを味わえば、苦しみは終わるのです。
そして今から、正しい生き方をするならば、社会的な問題は別として自分のおこないを原因とする苦しみは未来には味わうことがなくなります。
④サンスカーラの性質とその表現のあり方
過去の生のサンスカーラの性質と今の生で生じたサンスカーラの性質が共通の場合は、両方のサンスカーラが同時に表現されます。
前の生のサンスカーラと今の生のサンスカーラの性質が異なるならば、今の生において過去の前の生のサンスカーラが表現され、今の生のサンスカーラは未表現にとどまり、次の生で表現されます。
「一般的に人はこの生で遂行された行為の帰結を受けません。
もし、この生で蓄積されたサンスカーラが過去の生のサンスカーラの束とほとんど共通であるならば、すなわち、両方の行為の振動が同じであるならば、その時、両方の生の反作用が同時におこります。
しかし、もし、この生の蓄積されたサンスカーラの振動が全体として過去の生のそれと異なっていたら、二つの生の反作用は同時にはおこりません。
後者の場合には、人は以前の生の行為の帰結を受けるでしょう。
この生で遂行された行為はサンスカーラの新しい束を構成するでしょう。
この束が以前の生で作られた束と合わさる時、いっしょになったサンスカーラの新しい束が作られます。
それゆえ、サンスカーラの束は人によって様々です」(Superstitions About Death)
サンスカーラの束は、善いこと悪いこと無数のおこないの反作用の潜在力の束であるので、単純化はふさわしくありませんが、このことをわかりやすく説明します。
前の生で盗みを働き、その反作用の潜在力が表現されないまま、死んで、現在の生でまた盗みを働いて同じ性質のへこみをつくるとそのへこみは大きなへこみとなってこの生でもとにもどろうとしてしまいます。
したがって逮捕されるなり、なんからの形でへこみ(サンスカーラ)と同等の苦しみを体験することになります。
しかし、前の生では盗人で、その未表現のサンスカーラをもったまま今の生では善いおこないをして生きている場合、今の生では善いおこないをして生きていても、その善いおこないの反作用は表現せず、前の生の罪に相当する苦しみをこうむることになり、今の生のよいおこないの反作用は次の生にもちこされてしまうということです。
この論が本当なら、それぞれの生で反作用の潜在力は表現されつくした方がよいということになります。
未来に向けてよい性質のサンスカーラだけを残すことができます。
そして前の生で善いおこないだけをしたサンスカーラをもった人が、現在の生で、何か悪いことをするならば神経繊維にきびしい騒乱を生じると次のように述べています。
「聖者のサンスカーラの束は罪人のサンスカーラの束と同じではあまりせん。
もし、聖人のような人物が何か悪いことをするならば、悪い行いによる振動とサンスカーラのもともとの束の振動の間に衝突がおきるでしょう。
これが神経繊維に厳しい騒乱を引き起こします。
はじめて賄賂を受け取る人の手は震えます」(Superstitions About Death)
この議論は、いっしょに同じ悪いことをした人々の中に良心の呵責に苦しむ人と良心の呵責に苦しまない人がいることを合理的に説明しています。
何か不道徳的なあり方をした時に心に痛みを強く覚えるタイプの人は、以前の生で得たサンスカーラの性質に悪いおこないが含まれていなかったのだと考えることができます。
サーカーは、そのようなよい人が犯罪にかかわるときの内的葛藤について次のように上手に描いています。
「はじめて武装して強盗を働いた人は、あまり心理的に動揺し、罪の現場に戻ることに抵抗できません。
そのために警察に捕まってしまいます。
しかしながら常習犯が、そのような犯罪をし、振動を生み出す時、悪い行いは、サンスカーラの束の振動と完全に調和しています。
そういうわけで、邪悪な人々は、身体と心にまったく混乱を引き起こさずに警察に捕まることになしに罪を犯しつづけます。
もし、よい人が悪い道に従い続けるならば、その場合には、内的な葛藤の欠落の中で、神経の猛烈な緊張の可能性が次第に減少します」(Superstitions About Death)
3)反作用のあらわれ方の調整
①反作用のあらわれ方を変化させることは可能
サーカーは、反作用の総量を変化させることは不可能だが、反作用のスピードを変化させることはできると言います。
強い反作用が短時間で表現される場合と弱い反作用が長時間にわたって表現される場合がある。しかし総量はどちらも同じです。
「心を常態に戻す反作用のスピードを速めたり、遅くしたりできる可能性はあります。
たとえば、心を常態に戻すのに一ヶ月かかる反作用はタントラの助けで、反作用のスピードを速めたり、送らせたりすることで、一日で終わらせることもできるし、一年かけることもできます。
しかし、反作用を完全に除去することは決してできません。
ある人が一ヶ月以内に返すつもりで百ルピー借りたとします。
返却の延期を貸し主に頼んで、一年、あるいは二年に延ばすことは可能かもしれません。
お金の返却期間は延ばすことはありえます。
しかしお金の返却は避けられません。
同様に、日に五ルピーの割合で一ヶ月百五十ルピーを使おうとして自分の口座のクレジットを利用する人は、百五十ルピーを一日で使うもしれませんし、もともの条件に従って一ヶ月でそのお金を使うかもしれません」」(How Should Human Beings Live in This World?)
ではサーカーがあげている反作用のスピードを調整する例についてみてみましょう。
②反作用のあらわれを長期間にする場合
内面的な苦しみをタントラすなわち精神性の実践によって軽減することができます。
しかし、それで反作用の体験をのがれることができたと思うのは勘違いで、その時には弱い苦しみが長くつづいくのだとサーカーは言います。
「苦しむ期間がタントラの実践の助けでこのように伸ばされるなら、その結果、その人は強い苦しみを感じずにすみます。
それでその人は、グラハシャーンティによって(すなわち運勢の影響を中和することによって)行い(カルマパラKarmaphala) の経験は避けられ、止まったと間違って結論づけます。
たとえば、腕の骨折の苦しみを被らなくてはならないというある人の未来がが見えたとしましょう。
腕の骨折は、グラハシャーンティ(運勢の影響を中和させること)の助けでストップできるかもしれません。
しかし、心の苦しみの量は変化させることができませんし、取り除くこともできません。
苦しみは長期間にわたる数多くの小さな事件に分散させることができます。
たとえば、彼の手にひっかき傷ができて、のちに病気になるかもしれません。
彼は腕を骨折する運命での心の苦しみと同じだけの苦しみの量まで分割して苦しむことになります。・・・
百ルピーを借りた人が、一度に返却することは、苦しくても、同額を数回の少額の分割払いで返却する場合は、まったく苦しまないということはありうることです。
苦しむ期間がタントラの実践の助けでこのように伸ばされるなら、その結果、その人は強い苦しみを感じずにすみます。」(How Should Human Beings Live in This World?)
③反作用のあらわれを短期間にする場合
これまでに人に喜びをあたえてきたら、同じだけの喜びの反作用が返ってきます。
その反作用としての喜びの総量は、ゆっくり少しずつ味わうこともできますが、いっきに大きな喜びとして味わうこともできます。
サーカーは青いサファイアの石を身につけて、宝くじ当選や昇進の喜びとしていっきに味わうことができるが、実はそれによって反作用のあらわれとしての喜びの総量が味わい尽くされてしまっていて、あとに喜びは残っていないと言います。
「反作用の体験の期間を伸ばすことが可能であるように、この期間を短くすることもできます。
たとえば、ある人々は青いサファイアのような様々の石を身につけています。
それは反作用の体験のあり方を変化させます。
これによって人は、幸運にも宝くじの抽選にあたるとか、仕事で昇進するとかが可能かもしれません。
このすべてのことはグラハシャーンティ (運勢の影響を中和させること)によって起きたと信じるかもしれません。それは実際にはそうではありません。
運命や行為の帰結の体験量は変化しません。
他の人に幸福を与えるある人の行為は、心の尺度で同じ程度の幸福がその人に生じるとすでに説明しました。
この幸福と喜びの体験量は変化させることはできません。
それを経験するために必要な時間を引き延ばしたり、縮小できるだけです。
もう一度預けた百五十ルピーの金を使う例をあげましょう。
日に五ルピーの割合で一ヶ月過ごすつもりのお金を出費の期間を短くして一日で使ってしまい、残りの29日をまったく残さないとういこうこともありえます。
グラハシャーンティ(運勢の影響を中和させること)によってもたらされた変化もこれと同じです。
たとえば、青いサファイアの影響によって、宝くじに当選して得た1000ルピーは、長い期間の分割でその人が得る予定の彼自身のお金です。
このお金は一度の払いで受け取っており、残りの分割払いとのバランスを持ちません。
それにもかかわらず一度に巨額を得たことは、グラハシャーンティ すなわち青いサファイアを身につけたことが運命を変えたとその人を信じさせます。
実際は、運命、すなわち反作用の体験 (Karmaphala) を決して変えることはできません」(How Should Human Beings Live in This World?)
④悪いおこないを良いおこないで埋め合わせることはできない
悪い行いに対して、その分だけよい行いをして悪い行いの埋め合わせをする。
サーカーは、そのような反作用の調整はできないと次のように述べています。
「悪い行いのために集積した結果は、良い行いを蓄えることによって埋め合わせたり、洗い流したりできると信じている人がいます。
彼らによれば、悪い行いも良い行いが同じ量であれば、バランスがとれて、経験されるべきことは何も残りません。
このようなことはおきませんし、ありえないことです。
すべての行い、すなわちそれが良い行いか悪い行いかに関係なく、心に変形を引き起こします。
心が、通常の形を取り戻そうとする過程の中で、その変形は、同じだけの逆の反作用によって取り払われます。
それゆえ、悪い行いによって引き起こされた変形は、良い行いによって取り払うことは出来ません。
それは心をより変形させるだけでしょう。
あらゆる行いに対して独立した同じだけの逆の反作用があります。
あらゆる変形が独立した反作用によって取り除かれる時、良い行い、悪い行いの帰結は、それぞれ別に経験することになるでしょう。
悪い行いの帰結と良い行いの帰結は、それぞれに別々に経験することになるはずです。
これは、プラクリティの法則です」(How Should Human Beings Live in This World?)
たとえば、ある人をいじめて苦しめて、別の人に親切して喜ばせたとして、いじめた人に与えた苦しみは少しも消えるわけではありませんから、ここでサーカーが言っていることは論理的です。
4)苦しみの原因
①行いの反作用の帰結には本人に責任がある
サーカーは、火の中に手を入れれば火傷するように反作用の体験は、神に一切責任はなく、自分の側の責任だと次のように述べます。
「論理的に、行いの反作用(カルマパラKarmaphala) の体験は逃れることができないことが証明されました。
そうであるゆえに、私たちの行いの帰結の対して神(バガヴァーナBhagavana) を責めること、あるいは、その帰結の結実からの解放を求めて祈ることはばかげたことです。
行為を遂行した人は反作用も持たざるをえません。
火に手を突っ込むと確実に火傷します。
その手の火傷に対して神を責めることは、無知で愚かなことにほかなりません。
燃やすことは火の性質です。
火にふれるものは何でも燃えます。
同様にあらゆる行いが反作用持つというのは、プラクリティとその性質の自明の法則です。
神(バガヴァーナ) は、それに対して少しも責任がありません。
行った人に責任があります。
行った人が反作用の責任を負います。
行為とその行為の帰結も人間に責任があります)(How Should Human Beings Live in This World?)
この引用につづけて、サーカーは反作用の原因は自分の過去の行いにあるので、「どうして自分は不幸なのか」と神を責めること、「私の願いをかなえてください」と「受験合格」「お金もうけ」そのほかもろもろの幸運を祈って神に願うこと(=神に自分に対するえこひいきを願うこと)、「神は偉大だ」と神を称賛すること(=神におべっかをつかうこと)などは、単なる時間の浪費で無益なことだと詳しく論じています。
すなわち喜びの増大、苦しみの軽減をもとめて、神を祈り、祈願、懇願し、称賛することは、すべて意味のないことだと言います。
喜びは自分が過去に与えてきた喜びからきており、 苦しみは自分が過去に与えてきた苦しみからきているからだと考えます。
②自分の苦しみはすべて自分に責任があるのか
ここで筆者は疑問をもちます。
本当に苦しみは、すべて本人の過去のおこないの帰結であり、本人にすべて責任があるのでしょうか。
たとえば、広島原爆の後遺症で苦しむ人々の苦しみ、そのような戦争被害は今日も止むことなく続いています。
最近ではニューヨーク・テロの犠牲者と関係者の苦しみと嘆き、そしてそれに続くアフガニスタン報復戦争での無実の被害者の嘆き、パレスチナでも血を血で洗う報復学校の中で増えつづける犠牲者たちの嘆き、あるいは、水俣病公害患者たちの苦しみ、あるいは、現在の経済不況の中で倒産したり、首切りされたりした人々の苦しみ。このような政治的経済的社会的な原因から来る苦しみに出くわした人々は、その人の過去に自分が他の人に与えた苦しみの帰結を味わっているのでしょうか。
もし、自分の味わっている苦しみすべてが、自分が以前に他人に与えた苦しみの帰結であるならば、社会的な問題に起因するこれらの苦しみもその人の味わうべき適切な苦しみということになってしまいます。
しかし、サーカーは、2巻の「宿面的輪廻論批判」のところで述べたように社会的な原因による苦しみに、過去の行為の反作用とみるような見方を強く批判しています。
もう一度引用しましょう。
「そのような誤った論理の提唱者は、公正さを装いながら、踏みにじられてきた人々が陥っている屈辱、食物、衣服、薬品の不足、極端な暑さ、寒さ中での生活などは運命づけられたもので、過去の行為の反作用としておきた運命だと納得させようとします」
「彼は、近代社会ではギーターにある作用と反作用についてのカルマヴァーダの教義がより広く普及されるべきだと論じていました。
その理由は彼によるとこういうことです。
もし、人々が作用と反作用の教義を正確に理解できたら、社会のごみためで苦しい生活を送る無数の人々が、そのみじめな状況について資本家を責めなくなり、不運をあきらめて甘受するだろうというわけです。
なんと危険な考えではありませんか」(Social Justice)
したがってサーカーが社会的な原因による個人の苦しみを作用と反作用から論じることを誤りだとみていることは明白です。
では、「苦しみの原因をすべて以前の自分の行為の帰結とする議論」と「社会的な原因から来る苦しみを自分の行為の帰結とみる危険な議論」の二つは、どう論理的整合性をもって説明できるでしょうか。
ここのところが論理的に説明できなければ、容易にサーカーの後継者たちが、この「危険な」議論の中にはまってしまいます。
この点についての現段階での筆者の理解を述べておきましょう。
③全人類の福利に貢献しなくてはならない理由
サーカーによれば、あらゆる行いが心に変形を生じます。
心の中で考えていることも、心に変形を生じます。
「もし、わたしたちが他人について無慈悲に考えるならば、私たちは、心の反作用もしくはそこからの報復に耐えねばなりません。
それが何であれ、心の中のふるまいにも反作用がおきるはずです。
反作用はもともとのふるまいの性質にそっておこります」(Cakra and the Dheya of the Microcosm)
したがって、自分も社会の一員として社会的責任をもっていながら、戦争や公害やリストラなど社会的な原因で苦しむ人々を「自分の過去の行為の帰結を受けているから仕方ない」と心の中で冷たく考える人間は、あるいは社会的問題に無関心な人間は、その冷たい思考自体から報復を受けてしまいます。
全人類、全生命、全存在がかけがえのない尊いものという感情を身につけること、それは同時にひとつの普遍意識、純粋意識(パラマ・プルシャ)への愛にあらわれですから、自分も含めた単一の全存在であるパラマ・プルシャへの愛にほかなりません。
全人類の幸せを願い、全存在への愛をもって、その苦難の解決のために尽くすことは、カルマ・ヨーガです。
ヨーガとは、普遍的な単一性の中に自己の心を溶け込ませる努力です。
したがって、戦争や公害やリストラなどもろもろの社会的な原因で苦しむ人々を、その人個人の過去のサンスカーラのせいだとして自分は無関係を決め込むことは、そのこと自体が心に変形を生じ、後にその反作用を受けることになります。
④個人の心の作用・反作用のレベルと集合的作用・反作用のレベル
サーカーは、苦しみの原因をすべて以前の自分の行為の帰結としてとらえながら、「社会的な原因から来る苦しみ」については、個人の過去の行いの反作用ではないとしています。
では、戦争や公害や経済問題などから来る被害をこうむって苦しんだ場合は、個人の行いの作用・反作用からきているのではないとすればどこからきているのでしょうか。
筆者の現段階の解釈を述べます。
サーカーは個人の心のレベルに加えて、集合的心理のレベルを設定して論じています。
私は、サーカーの集合的心理論から作用・反作用を見ることによって個人の責任も見ることができるのではないかと考えています。
サーカーは集合的心理についてに次のように述べています。
「数多くの客体化された人間の心から生じている集合的心理は、社会的不平等、経済的搾取、政治的抑圧、宗教的偏屈さ、文化の(性的)倒錯、個人と社会の包括的な堕落を引き起こします。
粗大な心理的パブラは、社会の没落を引き起こすと同時に、個人の心と集団の心の堕落をひきおこします」(Neo-humanism Is the Ultimate Shelter)
ここでは、集合的心理が、社会的不平等、経済的搾取、政治的抑圧、宗教的偏屈さなどを引き起こしていると述べています。
精妙な心は、心に半径をもちません。
しかし、粗大な客体化した心は、「我が社」「我が民族」「我が国」「我が宗教」という枠(ドグマ)を設定し、その枠内に帰属意識をもった集合的心理を生み出します。
この粗大な客体化した集合的心理体は、他者とみなしたものに不平等、不正、残虐行為を行ないます。
宗教テロリストは、自分の宗教を信じるもの以外へのテロの残虐さをその粗大な心は感じません。
アメリカ国家の旗のもとにアフガニスタンに報復戦争を行なって無実の人が殺されても、アメリカ・ナショナリズムのドグマにおかされて粗大な心となっているアメリカ人にはその残虐さを感じません。
ここでは、作用と反作用の原理が集合的心理のレベルにあらわれています。
時間をおいて、その行為への反作用が生じるでしょう。
粗大化し、客体化したその集合的心理体が、精妙化して、心からドグマの枠をとりはらい自分の集団と相手の集団が同じ一なるものであることを知る時、作用と反作用の原理が働くことをやめるでしょう。
これらの客体化した集合的心理体の作用・反作用の中でなされる引き起こされる罪から生じる被害について、個人の過去の行いの帰結だと論じることは、真の原因を免罪するばかりか、問題の解決を遅らせ、罪を犯す人々を増やしてゆきます。
個人の心に働く作用・反作用の原理は、心が精妙化して大宇宙の心に一体化するまで働きます。
同じように粗大化、客体化した集合的心理の作用・反作用の原理は、全人類の集合的心理体となった時に働くことを止めます。
「それ(精神性の真髄)は、集合的心理体collective psychic mindすなわち全人類の集合的エクトプラズムにおいて起きます。
その時、人類の世界的な思考過程がまったく新しい転換を遂げるでしょう。
それはまた人類の集合的精神 collective spiritを強化するでしょう。
全体として人間は、強力な精神性の力持つようになるでしょう。
その段階においては、エセ・ヒューマニスト戦略は役立たないでしょう。
この最強の精神性の武器 ( ブラフマーストラBrahma'stra)の前には他のあらゆる武器は、完全に無力になるでしょう」(Neo-humanism Is the Ultimate Shelter)
筆者は青年期に「苦しみの原因を社会的にみてゆくべきだ」とする社会科学的な視点を身につけました。
自分自身が他人に対して与えた苦しみが、その反作用として自分自身の苦しみになるというような個人に責任のすべて課するような議論は、社会問題から人々の目をそらすものだと考えて批判的でした。
しかし、実際に人生を生きてきた中での実感としてサーカーのこのサンスカーラ論による苦しみ論も人生の一面を正しくあらわしているように思えます。
しかし、社会的に苦しみの原因をみてゆく視点は重要です。
個人の苦しみの原因すべてを個人的な問題としてとらえ、社会的な背景を見ない議論が現在も多くあります。
サンスカーラ論と類似の因果応報などの理論は、苦しみの原因を個人の問題だけに還元させます。
社会科学は、苦しみの原因を社会的な問題に還元させます。
サーカーは、苦しみの原因として個人的レベルと社会的レベルの双方を適切に統合した新しい視点を提供しています。
そして苦しみの原因の単なる分析に終わらず、心理的領域の精妙化と統合化により普遍的世界をつくってゆく根本的な解決の展望を指し示しているように思えます。
5)サンスカーラのくびきからの解放
サンスカーラ(反作用の潜在力)は、過去の行いの帰結であり、心の奥のボールのへこみですから、そのへこみがもとにもどるまで消滅することはありません。
そしてサンスカーラが消滅するまでスピリットの解放(プラクリティの束縛からのプルシャの解放)はありえません。
「すべてのこれらの潜在的な反作用が表現されるまでは、解放と救済は不可能です。・・・
良い行いも悪い行いも、行いのすべての反作用が汲み尽くされる までは、人は、何百の生を生きても救済を達成できません。
丁度、金や鉄の鎖で縛られた人々が束縛の痛みを感じるように、人々は、良い反作用、悪い反作用を経験している人々は、それを受けねばならないでしょう。」(SUPERSTITIONS ABOUT DEATH)
このようにサーカーによれば、行いのすべての反作用の潜在力が汲み尽くされるまで真の救済はありえません。
では、スピリチュアリティのゴールをめざす人間はどうしたらいいのでしょう。
①もっとも罪深いものにも慈悲心をもつ
与えた苦しみは、与えた側の元因の心に反作用の潜在力を生みます。
では、苦しみを与えられた側は、心の変形をこうむりに元因の心に反作用の潜在力を生まないのでしょうか。
私の解釈では、やはり与えられた側も「心に変形を引き起こします。
心が、通常の形を取り戻そうとする過程の中で、その変形は、同じだけの逆の反作用によって取り払われます」(How Should Human Beings Live in This World?)
したがって、幼児期に児童虐待を受けた親は、自分の子ども対して、児童虐待をしてしまいます。
自分の子どもの心にサンスカーラを刻んでしまいます。
さらに自分も未来に必ず刈り取らなくてはならない苦しみのサンスカーラの種をかかえることになります。
サーカーはどうすればいいと言っているのでしょうか。
嫉妬と憎悪を慈悲心に変え、怒らないことによって怒りに打ち勝ちなさいと次のように述べています。
「あなたの憎む人が逆境に苦しんでいる時、通常あなたは彼を気の毒に思いはしません。
しかし、最も罪深いものに対してさえも、あなたは慈悲心を持つべきなのです。
あなたは彼を気の毒に思わなければなりません。
最も堕落した者、最も罪深い者、最も不運な者でさえも軽蔑してはなりません。
もし誰かを憎むような事があれば、あなたは心理的精神的に後退するでしょう。
ブッダは説きます。
『真実(サティヤ)によって虚偽に打ち勝ちなさい。
寛大さによって貧欲に打ち勝ちなさい。
怒らないことによって怒りに打ち勝ちなさい』・・・
もしもこの技があるならば、あなたはどんな闘争においても勝利を修めるでしょう」(Mental Equpoise)
②人々に平穏と安らぎを与える奉仕
与えたものは戻ってきます。
したがって、喜びを人に与えれば、自分に喜びが返ってきます。
しかし、サーカーは喜びの帰結を味わうためにその貯金するために人に喜びを与えるとは、スピリチュアリティの前進にはつながらないと考えます。
他人に与える喜びは、分け隔てない無限の奉仕精神から出るものでなくはなりません。
そして本当に他の人々に与えるべきは、喜びという心理的情動ではなく、心の平穏と安らぎです。
「実のところ、人間は喜びも悲しみもいずれも欲しているのではありません。
人は、心の平和と静けさを求めているのです」(Mental Equpoise)
もし、人々に与えるものが平穏と安らぎであるならば自分にもどってくるものも平穏と安らぎです。
相手に与える喜びが自分に返ってくると計算するのではなく、自分が普遍意識(パラマ・プルシャ)であると念じ、自分も含めた単一の全存在であるパラマ・プルシャの表現である全人類、全生命、全存在への無限の愛をもって、その苦悩の解決のために尽くすことは、カルマ・ヨーガでした。
この無私の奉仕精神こそが、人々に平穏と安らぎを与え、プラクリティの束縛を受けることなく、自らのスピリチュアリティの前進を可能にするものです。
③精神性の実践がサンスカーラの束を減らす
サーダナー(瞑想などの精神性の実践)は、自分の心からプラクリティの原理の束縛をとき、純粋意識(プルシャ)に近づくことを目標とします。
したがって、精神性の実践をする人は、痛み、苦悩、喜び、歓喜までもこの人生で早く体験するべきだとサーカーは次のように述べています。
「解放を実現しようとして直観的実践 (Sadhana) を実行している人々が、可能な限り短期間で反作用を完全に体験してしまおうと喜び、痛み、幸福、苦悩を急いで体験するのはそのためです。
解放 (Mukti)を願う人々は、この生でそれを欲します。
そこで彼らは、未来の生に何も残らないように潜在的な反作用(サンスカーラ)にそって急速にすべてのことを体験します。
そして彼らはプラクリティの束縛から解放を得ることができます」(How Should Human Beings Live in This World?)
プラクリティの束縛からの解放を実現するとは、作用・反作用の拘束から心が解かれることですから、すべてのことに平穏、冷静な心もって対処する人間が生まれます。
④ブラフマを恒常的に観念化する
サーカーは、①ブラフマを観念化すること、②ブラフマの顕現に奉仕することが必要だと考えます。
「ブラフマについての不断の観念化によって、すなわち最高存在に身をまかせることによって、不断の奉仕によって、その人の反作用の潜在力(サンスカーラ)を完了させるべきです。
そして自分をパラマ・プルシャの中に打ち立てるべきです。
この方法であなたは永遠の至福を実現するでしょう。
これが正しい道です」(SUPERSTITIONS ABOUT DEATH)
最高存在(ブラフマ)の観念化とは、自分も含めてこの大宇宙のすべてが、宇宙の根源にある精妙な普遍意識の現れだと見ることでした。
そのように見る時、すべての人類、すべての生命、すべての存在は尊く大切なものに感じられ、それらへの無私の奉仕の願望が生じてきます。
したがって、その心からは、たとえば、他を傷つける行為は生まれませんから、新たなサンスカーラ(反作用の潜在力)は生じることはありえません。
サンスカーラの束はその心から徐々に減ってゆきます。
(補足)反作用の潜在力(サンスカーラ)の発現は一時的
悩んでいる人のために、「悩み」には必ず終わりが来るという部分も紹介しておきます。
どんな悩みも永久には続きません。
必ず終わりがきます。
だから、今、悩んでいる人も安心してください。
必ず、今の悩みは終わりがくるのです。
なぜ、終わりがくるのかは、過去のおこないの反作用ですから、過去のおこない自体が一時的な限りあるものだからです。
同様に喜びについても一時的な対象に拘泥するなといいます。
永遠の喜びの方を追求せよと言います。
「カルマプハラKarmaphalaすなわち活動の帰結は、喜びであれ、痛みであれ、一時的です。
あなたが、どんなに罪を犯そうと良い事をしようと、それは永久的ではありません。
だから、あなたは、罪の行為、良い行いの帰結を際限なく楽しんだり、苦しんだりすることはありえません。
個体実体は、個体の助けによってのみ活性化します。
そしてその活性化すなわち活動のプロセスは、長い間ひとつの個体のみにそれ自身をかかわらせることができませんから、いかなる活動も際限のない喜びと際限のない苦しみの原因にはなりえません。
それゆえ、一時的な対象の追求は、あなたに永続的な幸福を与えることができません。
ブラフマは永遠の実体です。
ブラフマ・サーダナーでお世辞を言うことによってだけではブラフマに達することは不可能です。
心が終始、外側の対応に没頭している時、ブラフマに達することは不可能です」(SUPREME BENEVOLENCE AND MUNDANE PLEASURE)
ここでは、心が外側の世界への対応のみに没頭している時、永続的な幸せに達することはできないとのべていますが。
「のみに」という言葉に注意してください。
外側の世界に目をむけることを決して批判していません。
別の箇所で、サーカーは心が内側の世界のみに没頭していても、だめだと述べています。
内側と外側の両方へのバランスをとったアプローチが必要なのです。
内側の世界と外側の世界はひとつの世界です。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods