Tera Ramji Karenge Beda Paar Original Hariom Sharan [Full Song] I Premanjali Pushpanjali (video inspired by god of star)


(Oneness philosophy teaches to see similarity in diversity)


Theme of this page is explanation of oneness philosophy.
Oneness philosophy means that root is one and representation is multiple.
Everything in this universe is one in beginning.
Oneness philosophy teaches to see similarity in diversity.
This view is important to make up one eternal peace planet society.

このペ-ジのテ-マは、ワンネス哲学の説明です。
ワンネス哲学は、根源は一つであり、現れは多様であるを意味します。
この宇宙のあらゆるものは、始まりにおいて一つです。
ワンネス哲学は多様性の中に共通性を見ることを教えます。
この見方は一つの永遠平和の惑星社会をつくりあげるために重要です。


「一から多が生じた、私たちは一つ」

 倫理の教科書には世界でもっとも古い哲学であるウパニシャッド哲学について簡単に説明があります。
そこには「根源にある一つものが、多様な形ある世界となってあらわれる」いう考え方が書かれています。
それは「一から多が生じる」ということです。
多というのはすべて違うものが沢山という意味で多です。
形にあらわれたものは何一つ同じものはなく、無限の多様性があります。
しかし、根本は一つという考えです。

 大は、夜空に輝く無数の星は一つとして同じ星はありません。
そして小は電子、原子にいたるまで、同じものは一つもありません。多です。人間も60億人いますが一人として同じ顔の人はいません。文化も言葉もそれぞれ異なっています。
けれども、もとは一つでした。
一から多が生じました。
この世に形をもって現れたものは、すべて異なっており、多様です。
しかし、「一から多」が生まれたのであり、すべては、もともと一つでした。

 この世のすべてが「一が分かれて多」となっています。
この大宇宙はビッグバンという大爆発で生まれました。
最初は一つの点でした。

 庭に大きな楠があります。
一つの種が大きくなり、枝が出て、たくさんの葉ができました。
葉も一つとして同じ形の葉はありません。
人間も、最初は一つの細胞でした。今60兆個の無数の多様な細胞の組み合わせでみなさんが存在しています。
すべて一から多がうまれているのです。

 では、庭の楠で考えてみましょう。
あなた方一人一人を葉っぱとしましょう。
他の葉っぱが元気がなくなると、その木のパワーがおちますから、自分も元気が無くなります。
自分が元気になろうとすると他の葉っぱも励まさないといけません。
自分を元気にすることも友だちを元気にすることは木全体を元気にすることです。・・・

 人間を例にすると、小指にむかってお前は短いのうとばかにしていじめる親指がいたら、その親指はおろかです。
小指は短くても意味があるのです。
指は互いに協力しないとだめです。
一つの手なのです。
葉っぱも一つの枝なのです。

 俺の枝が他の枝より長いから偉いのだと誇りに思っているのも愚かです。
葉を人間としたら、枝は一つの国です。
自分の国の文化の方が優れていると思いあがるのは愚かです。
右腕の方が左腕をより強いんだぞと言っているようなものです。
今、パレスチナでは右腕と左腕が戦争しています。

 どの葉っぱも、どの枝も協力してこそで木全体の生命力が強まります。
右腕と左腕が協力してこそ幸せがつかめます。
腕は、右に左にわかれているけれども、私たちは一つです。
「一が分かれて多となった」という人類最古のウパニシャッド哲学の言葉を覚えておいてください。

 私たちは無限に多様で、一人一人が異なっている。
それぞれの違いを認め合う。
しかし、私たちは、根本において一つなのだという世界を21世紀に作ってゆきましょう。

  この世のあらわれは多様ですから、身体のつよい人もいればよわい人もいる。
頭のよい人もいれば、それほどでない人もいる。
人はいろいろです。
一つの国のトップの座にいる人も、今、病気になってもう世の中の役にはたたない死にそうなおじいさんも、人間としてまったく同じ価値をもっています。
私たちは、そういう人を切り捨てることなく全体が協力しあい助け合う社会を作りましょう。

 根本的には私たちは一つであるからです。
「根本の一なるものから多が生まれた。私たちは一つである」
この人類最古ウパニシャッド哲学の考えを頭のどこかにおいておいてください。


「本来の自分」とは

私が今読んでいるインド人の哲学から考えてみます。
少しむずかしすぎますが書きますね。

人間は、物的身体的レベル、知的心理的レベル、魂(精神性)のレベルが交差していているところに存在しているといいます。
根源は一つであり、同一なのです。
それは、大宇宙全体の意識であり、思考であり、心なのです。
それはもっとも微細で精妙なレベルです。
意識が粗大化する流れの中で、私たちが目にすることのできる固体、液体、気体の世界が生まれています。
粗大化して物質化したものは、何一つとして同一のものはありません。
生き物は、粗大化した物質に意識が生まれた存在です。
物質に近い粗大な意識が進化し、人間にいたって粗大な意識から精妙な根源の意識へと近づくことができる存在になります。

だから「本来の自分」というものを考えてみると、たとえていうと、指に心があったとして、親指が自分で心をもっていたとしましょう。
親指が本来の自分は何かと追求した時に、親指の範囲だけを考えていたら、最後まで、親指は自分が何者かわかりません。
そして他の指と比較して、人指し指や中指より背が低くずんぐりしている。
小指よりは強いなどと、わかってみても、外からみた形の比較であって、親指が「自分は何者か」を理解することはできません。
親指が「本来の自分」にきづくとは、親指の心が、その親指をもっている人全体の心の一部であることに実感をもってわかった時に、親指は「本来の自分になっている」ことになります。

たぶん、今、「自分さがし」とか言われていろんな本がでているとおもいます。
しかし、親指が親指の心の中だけで、つまり「個別性」の枠の中だけで考えても、本当に自分にゆきつき、安定する境地になることはないとおもいます。
親指の心が本来の自分になった時とは、体全体の心の一つのあらわれということに気づき、実感している時です。
そして体全体の心が小指や人指し指と連動して動いていることに気づきます。
つまり、 親指の心は同時に人指し指や小指の心でもあるのです。
これが、すべては一つの心のあらわれだという意味です。
「本来の自分になる」とは、その一つの心に深く根ざした生き方をするということだとおもいます。

では、男と女の違いについて考えてみましょう。
粗大な表現された世界で違いがありますが、根源は一つであり、違いはありません。
「本来の自分」になった時、男も女もありません。
本来の自分は人間です。
体のつくりにほんの一部だけ違いがありますが、ほとんどすべていっしょです。
体と連動する心の部分にほんのわずかの違いがありますが、ほとんどすべていっしょです。
男も女も、美しいものをみて、美しいと思い、同じ痛みを感じ、同じドラマに感動します。
女性の方が心理的に細やかだったりするようなわずかの相違がありますが、心の奥の方にゆけば、男性と女性の違いはなくなります。
心の一番奥は、私たちは同一であり、一つです。

つまり、「本来の自分になる」とは、男であり、女であることを超えた存在になることです。
表現されたこの世界は、夜と昼があり、表があり裏があり、北と南があり、縦と横があります。
しかし、それらはすべて根源のレベルでみると一つの存在です。
本来の自分になるとは、姿、形の表面にあらわれた形の方をどうこうすることではなく、心の一番奥の方に「本来の自分」、すなわち「すべてと一なる」自分を見いだすこと・・・
これがインド人の本を訳して続けている私のメッセージです。

(私はこうした考えは「現実逃避」のように思えて好きではありませんでした。
しかし、この私の訳しているインド人だけは、みんなと団結して闘って、この世をより人間的な社会にしてゆきなさいと言っていて、現実逃避の思想ではないのです。
したがって、心の奥に本来の自分を見いだしたかといって、この社会と遠ざかって生きよというわけではないのです。
実は、この世のすべてが本来の自分のあらわれであり、あなたも私も本来の自分の一部であるから、すべてに対して心からの愛情をもって、この世を生きることができるというわけです)


H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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