Ram Siya Ram .. Siya Ram Jai Jai Ram - Full Bhajan/ Aarti (video inspired by god of star)
(When you read meaning of goal as this, this discourse of Mitsuki is very important)
Theme of this page is way of life with being consciousness to reach supreme goal.
Supreme goal is to return back to parent god and live eternal life with gods of star.
When you read meaning of goal as this, this discourse of Mitsuki is very important.
このページのテーマは,究極のゴールへ達することを意識して生きる生き方です。
究極のゴールとは親の神のもとにもどり,星の神々とともに生きる永遠の生命になることです。
あなたがゴールの意味をこのように理解して読むとき,このミツキの論文はきわめて重要です。
(ともにサーカー、ケン・ウィイバーなどを研究している友人にあてた文章です)
Aさんのおかげで、精妙、粗大という言葉を私自身が雑に使っていることに気づきました。
結論を先に言えば、精妙、粗大は、どちらが悪で善とか、やさしいとかそうした価値概念は含まないものです。
ただゴールは究極の精妙さにあり、ゴールをたえず意識して、横道にそれてないことが大切だということだと思います。
精妙subtltyと粗大cudityという2つの言葉の概念について少し、私が誤解を与えるような書き方をしているのではないかということです。
すなわち、精妙さがやさしく、粗大の方向がやさしくないというような誤解です。
この五要素の物質世界では、サーカーはもっとも粗大なものが、固体物質であり、そこから液体⇒燃体⇒気体⇒空間(場)の順に精妙となります。
その次に精妙なのが心mindです。
心は、粗大な心(外側を世界をみている心)⇒精妙な心(記憶など)⇒元因の心causal mindの順により精妙となります。
元因の心はさらに3つの段階にわかれます。
そしてさらに究極の精妙性の段階はサティヤといい、そこには個別の心はなく、大宇宙の心と融合しています。
個別の心とは、この純粋意識に形質が賦与されてどんどん粗大化する中でなりたっています。
したがって真の自己を知るとは、自分の心の出発点である大宇宙の根源に立ち返り、自らの存在の根源が大宇宙の根源と合致していることを悟ることです。
以上、サーカーは固体物質を究極的に粗大な存在と把握し、サティヤを究極の精妙性において把握していることが理解いただけたと思います。
したがって、精妙と粗大という概念は、サーカーにとって良い悪いの善悪を含んだ概念ではありません。
形質(グナ)がどれだけ賦与されているかによって粗大さが決定されます。
もっとも個体物質が液体よりも悪いことをするわけではありません。
液体よりも気体の方がやさしいわけではありません。
粗大な心=すなわちこの目の前の世界をみている心が、精妙な心=すなわち昔のことを思い出している心よりもやさしくないわけではありません。
だから、精妙な方が粗大な心よりもやさしくて良いことをするわけではありません。
またサーカーは他国を経済的に搾取する時、粗大な物理的暴力よる支配が不可能な時代をむかえ、知的文化的な手段でより精妙な方法で他地域の搾取を企むという文脈でも粗大と精妙の概念を使っています。
物理的暴力よりも知的文化的な手段の方がましにしても、搾取がより巧妙になっただけであり、精妙な方が本当に慈悲深くやさしいこととは別の話です。
サーカーの論じ方は、心をサティヤの状態に至らしめるというゴールを常に意識し、瞬時たりともゴールを忘れるなということだと思います。
言い換えると、ゴールとは自分の心を無限大に拡大し、無限大に深くし、大宇宙の心の中に溶かしこむことです。
(ここで大宇宙の心という科学的に証明不能な言葉がでてきますが、心を純粋な心、心に境目をもうけない無限大に広げた心をもつことだと理解ししてください)
アートマン(個体意識)のブラフマ(大宇宙の心)への合一が最終目標です。
道に迷った時に道しるべにする北極星のようにこの目標を見失うな。
この目標を見失ってわき道にそれる時にあなたは悪の道に陥る。
そういう議論です。
北極星に近づく道程のどの時点でも、脇道にそれる可能性が常にあります。
ゴールの近くの時点がより精妙で、ゴールに遠い時点がより粗大です。
サーカーによれば、ゴールに接近するとテレパシーなどの超能力にでくわすことがある。
その時が一番危険だといいます。
つまりその能力を使って有名になろうとかなどの虚栄心がでてきて、それが悪の道への引き金になります。
だから、瞑想して精妙な心をつくれば、その人が善になるわけではありません。
粗大な物理的暴力も、強盗におそわれた人を救う時には善です。
物理的暴力よりも精妙な知的な力でも、人を苦しめるために用いることができます。
瞑想して心が精妙になれば、善に向かうというものではありません。
実際、瞑想をしてより精妙な心に到達したと思われるオウム真理教の麻原章晃 (松本千津夫)は、殺人まで指導しました。
サーカーによれば、普通に暮らしている私たちは誰もが「粗大な心」をもっています。
それは心の外の物質世界に向かう心です。
私たちが物質的肉体をもって生活している以上、心が物質世界に向かうことを避けることはできません。
サーカーは、この粗大な物質世界を精妙な単一の存在の表現として見ることで、心の粗大化をさけ、心を精妙にしてゆきなさいといいます。
心は念じるものの性質に近づくからです。
粗大な物的対象を精妙な単一存在の表現として見るならば、心は精妙化します。
なぜ、心を精妙にしてゆかなくてはならないかというと、人生の最高の目標がもっとも精妙な純粋意識の状態(サティヤの状態)にまで自分の心を到達させることにあると考えるからです。
心がより精妙であることがその人を悪の道、他者に迷惑をかけないことを保証するわけではありません。
ゴールに達する以前は、ゴールの方向を忘れるならば、どの時点でも道をはずれる可能性があります。
したがって、ゴールを意識し、ゴールに近づこうと常に願っている心の人が道をはずれません。
ゴールを意識しない人、北極星がどこにあるか意識にしない人にどの時点でも容易に悪の道にそれてゆきます。
したがって、もっとも大切なのはゴールです。目標を意識することです。
このゴールを意識する重要性は、部族主義やナショナリズムを考えるにあたっても言えます。
たしかに人類意識に向かう発展は、家族、部族意識を含んで超えてナショナリズムの国民意識に発達し、ナショナリズムからインターナショナリズムに、そしてその次にユニヴァーサリズムという人類意識へと「含んで超えて」順次的に到達するでしょう。
しかし、サーカーはゴールである1つの人類社会、1つの私たちを強調します。
ゴールを忘れる時は、部族間抗争で血を流します。
ナショナリズム間で血をながします。
部族間抗争で血をながすよりも、ネイション間で流す血の方が進歩しているとは言えません。
究極の解決(救済)をたえず念頭に置き、それを北極星として意識しながら、現状、現段階にあわせて一歩一歩歩んでゆくということだと思います。
Aさんのおかげで、ゴールを意識することの重要性がはっきり認識できました。
ゴールの意識のないところでは、絶えず脇道にそれ、悪への転落の可能性が忍び寄ります。
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