The Best of Mozart - Violin Sonatas Playlist Mix - Classical Music for Studying (Musica Clasica) (video inspired by god of star)
(Base of universe is unity of conflict between I consciousness of gods of star and time-space of flow of Higgs particle)
Theme of this page is what is universe.
I explain that base of universe is unity of conflict between prusia and prakriti.
This is same to documents of Heaven.
Prusia means consciousness.
Prakriti means flow of Higgs particle.
Base of universe is unity of conflict between I consciousness of gods of star and time-space of flow of Higgs particle.
Universe forms two process which is unity of conflict.
One is to make up various entity of presence world.
Second is that I consciousness of human come back to parent god in base of universe by raise up quality of ectoplasm.
We gods of earth represent this process as sainchara and pratisainchara.
このページのテーマは,宇宙とは何か,です。
私は,宇宙の根底は,プルシャとプラクリティの対立の統一であると説明しています。
これは天の文書と同じです。
プルシャは意識を意味します。
プラクリィティはヒッグズ粒子の流れを意味します。
宇宙の根底は,星の神々の私意識とヒッグズ粒子の流れの対立の統一です。
宇宙は対立の統一である二つのプロセスからなります。
一つは顕在世界の多様な実体をつくりあげるプロセスです。
二つ目は人間の私意識が思念体の質をあげることによって宇宙根底の親の星の神のもとにもどるプロセスです。
私たち地球の神々は,このプロセスをサインチャラとプラティサインチャラと表現しています。
大宇宙(マクロ・コスモス)論(前編)I explain that base of universe is unity of conflict between prusia and prakriti.
This is same to documents of Heaven.
Prusia means consciousness.
Prakriti means flow of Higgs particle.
Base of universe is unity of conflict between I consciousness of gods of star and time-space of flow of Higgs particle.
Universe forms two process which is unity of conflict.
One is to make up various entity of presence world.
Second is that I consciousness of human come back to parent god in base of universe by raise up quality of ectoplasm.
We gods of earth represent this process as sainchara and pratisainchara.
このページのテーマは,宇宙とは何か,です。
私は,宇宙の根底は,プルシャとプラクリティの対立の統一であると説明しています。
これは天の文書と同じです。
プルシャは意識を意味します。
プラクリィティはヒッグズ粒子の流れを意味します。
宇宙の根底は,星の神々の私意識とヒッグズ粒子の流れの対立の統一です。
宇宙は対立の統一である二つのプロセスからなります。
一つは顕在世界の多様な実体をつくりあげるプロセスです。
二つ目は人間の私意識が思念体の質をあげることによって宇宙根底の親の星の神のもとにもどるプロセスです。
私たち地球の神々は,このプロセスをサインチャラとプラティサインチャラと表現しています。
はじめに
ミクロ・コスモス(小宇宙)論において、個体の「意識」が形質付与力の作用によって「存在」し、「活動」し、「結果」となることを見てきました。
すなわちプルシャがプラクリティの形質付与力によってマハータットヴァ、アハムタットヴァ、チッタへと展開します。
マクロ・コスモス(大宇宙)においても同様の構造をサーカーは論じます。
結論から先に述べると「普遍意識」(パラマ・プルシャ)がプラクリティによって形質付与されて、大宇宙の「私」感覚(マハータットヴァ)が出現し、その大宇宙の「私」が思考活動(アハムタットヴァ)を行います。
そしてその大宇宙の思考の結果(チッタ)として、この物質世界が展開しています。
したがってこの物質世界の多様な天地万物は、一つの普遍意識を材料としており、「一」が「多」として顕現したものです。
1)直観力によってのみ把握できるブラフマ
サーカーは、大宇宙の根本材料をプルシャ(意識)であり、プラクリティは、プルシャに原理的にそなわる力だと考えます。
二つは独立した実体ですが、燃料と燃える力のように二つを分けることはできないように分離できません。
二つあわせたものがブラフマです。
燃える力をもった燃料の段階も燃えている火の段階もどちらもブラフマです。
ブラフマとはプルシャとプラクリティをあわせたものです。
「私たちの知っているプルシャは、ジニャーナ(知)、チャイタニヤ(意識)です。
これらの言葉から私たちはその本質は理解できますが、なんからの姿や形を視覚化できません。(中略)
だから、プルシャは抽象的な実体です。
そして主観的な表現の中でのみ私たちの心が理解することができます。
プラクリティは、この抽象的な実体に形質を付与する原理であり、エネルギー、力、原理としてしか理解できません。(中略)
それゆえ、ブラフマは、なんからの姿、形を持ちません。
それを描くことは不可能であり、どのように見えるかを言うことさえできません。
ブラフマは姿、形のないものでなくてはなりません」(What Is Cosmic Entity?)
では、プルシャやプラクリティの存在の認識はどのようにして可能でしょうか。
サーカーは、プルシャもプラクリティも、したがってブラフマも、集中した心によってしか理解できないと考えます。
小宇宙の物質レベルは「観察」で、小宇宙の「心理」レベルは「対話」で、もっと深いアートマン(魂)のレベルは、集中した心の「直観」によってしか知ることができませんでした。
大宇宙の物質レベルは観測、実験、観察によって解明が進みます。
しかし、大宇宙が心理レベルをもっていたとしたら、それは「観察」によっても「対話」によっても明らかにすることはできません。
ただ集中した心を用いてのみ認識が可能です。
そしてプルシャ、プラクリティ、ブラフマを把握できたとしても、他の人に言葉や数式で説明できません。
伝えるには心の集中の方法を教えて、相手の直感力を高める以外にありません。
2)意識(プルシャ)を材料としている全宇宙
サーカーの考えでは、この物質宇宙は、意識(プルシャ)が形質付与されて展開しているものです。
「一」なる普遍意識がプラクリティの形質付与力よって「多」なる世界として顕現しています。
それを理解するために再度、ミクロ・コスモス(小宇宙)論を振り返る必要があります。
小宇宙は、形質を付与されていない個体意識である(アートマン)がサットヴァグナの形質を付与されて、「私」感覚(マハータットヴァ)となり、それがラジョグナの形質を付与されて、「私は〇〇する」というアハムタットヴァとなり、さらにそれがタモグナの形質を付与されて、一定の形あるチッタとなります。
「私は花を思い浮かべている」としましょう。
チッタ(思考の結果)が存在しなくても(すなわち花を消しても)、アハムタットヴァ(思考活動)はありえます。
アハムタットヴァが存在しなくても(すなわち思うことを停止しても)、マハータットヴァ(すなわち存在のみの『私』)はありえます。
マハータットヴァが存在しなくても、アートマン(個体意識)は存在します。
逆にアートマンを消せば、マハータットヴァ以下、すべてが成り立ちません。
何ものにも依存していないものはアートマンすなわち個体意識です。
このことをサーカーは、アートマンをスチールにと心をスチール鍋にたとえて上手に説明しています。
「たとえば、スチールは、スチール鍋に形作ることができます。
しかし、それは、鍋が存在しないならば、スチールが存在しないことを意味しません。
鍋はスチールからできているので、スチールに依存しています。
しかし、スチールは、かりに鍋が存在しないとしても、存在しているものです。
それゆえ、スチールの存在は、鍋の存在から独立しています。
同様に個体意識はマハータットヴァから独立しています。
チッタからマハータットヴァへのすべての異なる諸形態は、これらのおのおのの形態が他のものに依存しているように、個体意識に依存しています。
しかし、意識まできた時、意識という存在は、これらのいずれの形態にも依存していないように見えます。
実際、私たちは、意識という存在が依存しているものを発見することはできません」(What Is Cosmic Entity?)
スチールは材料で、形質付与されて鍋や様々なものになります。
思考実験をするとわかります。
この世から鍋を消しても、スチールは存在します。
しかし、逆にスチールを消するとなべやその他のスチール製品は全部消えます。
同じようにプルシャ(意識)を消すと心は成立せず、心の活動の結果であるチッタは成立しません。
チッタは「意識」を材料としてそれに形質付与されて成立した存在です。
同じように大宇宙の物質宇宙(この世)は、大宇宙の心のチッタです。
スチール鍋が「チッタ」で、スチールが「意識」にあたります。
鍋の材料がスチールであるように、この物質宇宙の材料は「意識」です。
私たちの見ているもの、聴いているものなどなど、あらゆるものがプラクリティの形質付与力によって凝固した「意識」です。
3)ニルグナ・ブラフマとサグナ・ブラフマ
鍋などの製品に形質を付与されていないスチールの段階があるようにプルシャ(意識)がプラクリティによって形質付与されていない段階があります。
海洋の水をプルシャ(意識)として形質付与されたものを氷山としましょう。
形質付与されていない水が無限に広がるように形質付与されていないプルシャ(意識)が無限に広がっています。
形質付与されていない段階のブラフマをニルグナ・ブラフマと言います。
ニルとは無で、グナとは形質とか属性という意味です。
そして形質付与されて凍っている氷山にあたるものが、サグナ・ブラフマです。
サとは有です。
サグナ・ブラフマとは、属性のあるブラフマという意味です。
なお、サーカーによれば、サンスクリット語では、グナは何かを結ぶために用いるロープを意味します。
グナすなわち形質を付与することは、ロープで結ぶことを意味します。
サーカーは次のように説明しています。
「プルシャがプラクリティに影響されて、形質付与されておらず、プルシャが未表現のままであるブラフマの状態のプルシャは、ニルグナ・プルシャ(形質非付与意識)と呼ばれます。
そしてプラクリティによって形質付与されているプルシャは、サグナ・プルシャ(形質被付与意識)であり、それゆえ、サグナ・ブラフマは、プルシャがプラクリティに影響を受け、形質付与されているブラフマの段階のことです」(What Is This World?)
それでは、なぜ、ニルグナにおいては、プルシャはプラクリティによって形質付与されていないのでしょうか。
もし、プラクリティが眠っていては、形質付与させて、ニルグナからサグナにすることができません。
「ニルグナ・ブラフマにおいて、プルシャがプラクリティよりも強いというのがその唯一の理由です。
プラクリティは力強さに劣るので、プルシャに形質付与できないのです。
このようにプルシャとプラクリティは永劫にブラフマの中に存在してきたのです。
それゆえ、プルシャは本質的にプラクリティよりも強力です。
そして超越的存在です。
プラクリティはもともとそれにそなわっている原理的な力です。
プラクリティがプルシャよりも弱く、プルシャに影響して、形質付与できない状態が、ニルグナ・ブラフマです」(What Is This World?)
このように意識の凝集性が強く、プラクリティの形質付与力が作動しない状況ゆえに、ブラフマはニルグナにとどまります。
なお、人生の目標としてアートマン(個体意識)のブラフマへの融合をめざすとは、個体意識から形質である個体性をも取り除いてニルグナの状態に至ることをめざすことです。
目を閉じて心を観察すると、意に反して心は様々に動きます。
この意に反して心を動かしている力も、ラジャグナのプラクリティです。
ニルグナはプルシャがプラクリティよりも強い状態であるというこの箇所の説明は、意識の集中力強化がプラクリティの束縛からの解放になることを暗示しているように思えます。
4)サグナ・ブラフマと大宇宙の心(Cosmic Mind)の誕生
ニルグナ・ブラフマとは、プラクリティによって形質付与されていない無限に広がる純粋のプルシャ(意識)です。
意識の凝集の弱いところでプラクリティの形質付与がはじまり、サグナ・ブラフマが生じます。
ニルグナ・ブラフマの無限に広がる意識の中にサグナ・ブラフマがあります。
「ブラフマは無限です。
そしてその最高の状態はニルグナです。ニルグナ・ブラフマにおいて無限のプルシャ(意識)があまり凝縮していないところでは、プルシャはプラクリティの影響を受け、私たちはサグナ・ブラフマを見いだします。
その時、サグナ・ブラフマは確実にニルグナの中にあります。
アハムタットヴァは、海洋の中の巨大な氷山のようなものです。
気候の状況のアンバランスのために、海洋の一部が凍って氷山になったものです。
しかし、残りの水の部分はもともとの状態に留まっています。
それと同様に、プルシャがあまり凝集していないニルグナ・ブラフマにおいて、プルシャに対するプラクリティのために、プルシャは形質付与され、サグナ・ブラフマになります。
しかし、その残りはニルグナのままです。
それゆえ、サグナ・ブラフマはニルグナ・ブラフマの中にあるのです」(What Is This World?)
意識(プルシャ)がサットヴァグナの形質を付与され、大宇宙の「私」(Cosmic "I")が生じます。
大宇宙のマハータットヴァです。
さらにプラクリティのラジョグナの形質を付与され、大宇宙の「私が思考する」(アハムタットヴァ)になります。
さらにプラクリティのタモグナの形質付与により大宇宙が思考した結果(チッタ)が生じます。
チッタが私たちの生きているこの物質宇宙です。
サグナ・ブラフマとは大宇宙の「私」の存在、活動、結果の部分をさしています。
したがってサグナ・ブラフマとは大宇宙の「私」の心 (Cosmic Mind)にほかなりません。
5)根本五要素の出現
大宇宙の私(Cosmic "I")が思い浮かべた結果が、私たちが目にしている天地万物です。
「天地万物は、大宇宙の心Cosmic Mindの思考投影であるとすでに説明しました。
ラジョグナ(変化・動性)の原理が、サグナ・ブラフマのアハムタットヴァにおける思考の波を生み出します。
そしてその客体的対応物であるチッタは、粗大な天地万物の形をとります。
チッタは本質的には精妙です。
しかし、創造物のように粗大にならなくてはなりません。
粗大になるため、チッタは、漸次的に五つのタットヴァ(根本要素)の形をとらなくてはなりません。
その五つとは、ヴィヨーマ・タットヴァ (アーカーシャ=無空間)、 マル・タットヴァ (ヴァーユ=気体)、テジャス・タットヴァ(アグニ=燃体),ジャラ・タットヴァ(液体)、クシティ・タットヴァ (固体)です。
これら五つのすべては粗大です。
そして天地万物はこの五つの根本要素から作られてきました」(What Is This World?)
天地万物は、無空間、気体、燃体、液体、固体の順に登場してきたとあります。
大宇宙のアハムタットヴァが形質付与され、「無空間」となります。
無空間に形質付与され、気体が生じます。
無空間すなわち真空に形質付与するプラクリティというエネルギーが存在するのかという疑問が湧くとおもいます。
しかし、最近の実験で真空の中に新たなエネルギーが確認されました。
そして天文観測の結果、宇宙の無空間は拡大しており、無空間の拡大につれて新たなエネルギーも増えていることが分かりました。
普通なら、エネルギーは無空間の拡大につれて薄まるはずなのに、薄まることなくエネルギーが遍在しているのです。
そのエネルギーはサーカーの哲学では、無空間に原理的に備わっているプラクリティです。
無空間は形質付与されて、気体となります。
実際、実験でも真空にエネルギーを送り込むと陽子、電子が対生成・対消滅するそうです。
そして気体が形質付与されて、燃体となります。
燃体は形質付与されて液体となります。
液体は形質付与されて固体となります。
固体とはもうそれ以上はプラクリティによって形質付与されない究極の段階です。
サーカーは、この五つ、すなわち「無空間」「気体」「燃体」「液体」「固体」を、この天地万物の根本五要素と言います。
私たちの身体はこの根本五要素を組み合わせて成り立っています。
私たちの心の材料はこの五要素の世界をいくら微細に探求してもでてきません。
個体の心の材料はサグナ・ブラフマ(大宇宙の心)のアハムタットヴァの層を切り取って成立しているからです。
6)五要素とタンマートラ
根本五要素の出現に対応して音、触覚、形、味、匂い情報を伝える振動片である五つのタンマートラが出現します。
シャブダ(音)、スパルシャ(触覚)、ルーパ(形のイメージ)、ラサ(味)、ガンダ(匂い)です。
「惑星などの大気を越えて存在している何も無い空間は、ヴィヨーマ(アーカーシャ・タットヴァ)です。
それは無空間を意味していますが、私たちはそれを粗大といいます。
なぜなら、それはシャブダ (音)のタンマートラを含むからです。
科学者はそれをエーテルと呼びます。
無空間すなわちエーテルは、姿、形を持ちません。
重さもありません。
何も含みません。
それが何も無い空間と呼ばれる理由です。
しかし、音はそれを通じて伝わることができます。
音の波は伝わるための媒介なくして作り出すことはできません。
そのために、私たちは無空間のことを粗大と呼びます。
シャブダ・タンマートラのゆえに粗大です。
しかし、これは、それがシャブダ(音)のタンマートラというただ一つの要素しかもたないために粗大な領域でももっとも精妙な部分です。
それゆえ、この創造の中で形作られる一つ目の要素は、シャブダ・タンマートラとアーカーシャ・タットヴァ(エーテル体の要素)です」(What Is This World?)
この中で無空間は音のタンマートラを持つとあります。
音とは空気の振動であり、真空では伝わらないことは中学生でも知っています。
もちろんサーカーも知っています。
ここでは五要素という観測可能な物質世界のことを論じていますから、集中した心でのみ感じることのできるスピリチュアルな音ではありません。
それなのに、なぜ、サーカーは、無空間が音のタンマートラを持っていると言うのでしょうか。
気体の振動を音と定義すると無空間において音のタンマートラを設定することは不可能です。
しかし、科学者が無空間のエネルギーを確認できたということは、無空間が情報を発信したことであり、タンマートラの存在を示しています。
サーカーがここで述べている音(シャブダ)の定義は、より幅広いものとして理解する必要があります。
次に、この無空間が気体に転化します。
すなわち無空間が陽子、電子、すなわち原子に転化するのです。
このことについての次の記述は、サーカーは、音が空気の中を伝わるという常識を踏まえた上で、音が無空間を伝わると言っていることがわかります。
「アーカーシャ・タットヴァの形態をとった後、チッタは自分自身をヴァーユ(気体)として表現します。
ここでは、私たちは二つのタンマートラの存在を見いだします。
ヴァーユ(気体)は、音のタンマートラと触覚のタンマートラをもっています。
もし、空気がシャブダ・タンマートラを含まないならば、私たちは互いの会話を聞くことができません。
通常、音の波は、空気によって別の場所へ伝わります。
だから音のタンマートラの存在は不可欠です。
私たちは、触れることによって空気の存在を感じます。
だからスパルシャ(触覚)のタンマートラも存在します。
このように気体の要素(ヴァーユ)には二つのタンマートラがあります。
それに対してアーカーシャすなわちエーテル体のタンマートラは一つだけです。
それゆえ、ヴァーユすなわち気体の要素は、アーカーシャよりも粗大です。エーテル体の要素よりも後に出現しました」(What Is This World?)
以上、大宇宙の心の思考の結果であるチッタが無空間として出現し、それが気体に転化するとともに順次、タンマートラも増えてゆく説明をみました。
タンマートラが増えるとともにプラクリティの形質付与が増大し、精妙から粗大に向かうとサーカーはとらえます。
以後、気体が燃体に、燃体が液体に、液体が固体に転化するにつれてタンマートラが増えます。
●無空間は、音のタンマートラ
●気体は、音、触覚のタンマートラ
●燃体は、音、触覚、形のタンマートラ
●液体は、音、触覚、形、味のタンマートラ
●固体は、音、触覚、形、味、匂いのタンマートラ
をそれぞれ持っています。
大宇宙の心のアハムタットヴァが思考し、その思考の波が、チッタを、無空間⇒気体⇒燃体⇒液体⇒個体というふうに次第に粗大化させてゆきます。粗大化するにしたがって、その存在の情報を発するタンマートラが、一種類ずつ加わって、固体まで来ると五つのタンマートラでその存在を認識できます。
しかし、その五つの基本要素は、同じチッタの転化したものにすぎません。
そして固体以上には粗大化できません。
固体はチッタが粗大化した最終形態です。
この宇宙は精妙から粗大への旅を固体でもって完了しました。
まとめ
以上、無空間、気体、燃体、液体、固体の五つの要素からなるこの大宇宙の創造過程を見てきました。
大宇宙の根源にはプラクリティすなわち形質付与力を伴った普遍意識が存在します。
形質付与がなされてない段階ですからニルグナ・ブラフマです。
すなわち無属性のブラフマです。
サーカーはパラマ・プルシャ(至高の意識)ともいいます。
マハータットヴァ(大宇宙の「私」感覚)が出現し、それが思考しアハムタットヴァとなり、その思考の結果としてチッタ(無空間、気体、燃体、液体、固体)が生まれる流れは、「意識」が順次形質付与されてゆくことです。
大宇宙の根本材料は「意識」ただ一つであり、「一」が形質付与されて、「多」として展開しています。
意識(プルシャ)と形質付与力(プラクリティ)は不可分のもので、二つをあわせてブラフマです。
私たちが目撃している直径150億光年と言われているこの大宇宙は、無限のパラマ・プルシャにつつまれて、その中に浮いています。
そして私たちもまたその「無限の意識」のスープの中に浮いています。
私たちの身体もまた「無限の意識」が形質付与され、不断に空間になり、それが気体、燃体、液体、固体へと転化しつづけます。
細胞が短期間で生死をくりかえし、私たちの身体が死を迎えざるをえないのはそのためです。
私たちの地球は、生命の誕生によっていっそう華やかな「多」の世界が出現しています。
そして高度に発達した心をもった私たち人類が出現しています。
大宇宙論後編では生命の誕生から人類登場の意味までを見ることになります。
大宇宙(マクロ・コスモス)論(後編)
はじめに
地球上に60億人もの私たち人類が登場しています。
大宇宙の中の星の一つの表面が変化して私たちが登場しました。
どうしてでしょうか。
サーカーの考えをスピリチュアルに説明すれば次のようになります。
大宇宙の心、すなわちサグナ・ブラフマの『私』は、一人だけしかいません。
一人では、見ることも聞くことも何も体験できません。
「一」から無限の数の「多」になる必要があります。
そこで無限の数の「多」になるために固体にまで固まる必要がありました。
液体、気体、無空間は、無限の「多」に分けることができません。
意識が固体として固まっていては、「一」が「多」になれても、何も体験できません。
「見ること」も「聞くこと」も「感じること」も「愛すること」も何も体験できません。
様々の体験をするためには、個体に分かれた意識がホコリの粒から人間へと進化しなくてはなりません。
私たちは、より明瞭な意識が再現した存在へと長い旅をして現在を生きています。
その旅の行き着く先は、もともとの「一」です。
では、このことをサーカーの哲学的な説明にそってみてゆきましょう。
1)生命進化の歴史は、意識の明瞭化の過程
サグナ・ブラフマ(形質被付与最高実体=大宇宙の心)のチッタは、無空間、気体、燃体、液体、固体の順に粗大化してゆきました。
固体に達したチッタは、次に動植物の姿をとります。
プラクリティの影響が弱まり、不明瞭であれ、動植物の中に「意識」が姿をあらわします。
サーカーは、カーイー (初期の藻類)と呼ばれる地球の最初の植物生命体があらわれたといいます。
それはサグナ・ブラフマ(大宇宙の心)のチッタが粗大から精妙への旅を始めたことでした。
そしてそれはこの大地への意識の投影の始まりでした。
「カーイーは、非生命であるということはできません。
なぜなら、投影がどのようなものであったとしても、それは意識のいくらかの投影を示しているからです」(注)
(注)サーカーは、ここで地球の最初の植物生命体をカーイーとしています。
最近、地中深く岩石の中にも菌の存在が確認されています。
そのような微生命体について、サーカーは、マイクロヴァイタとして論じています。
「このあと、葉と花を持った植物が現れました。
その中に私たちは生命の明確なしるしを見いだします。
これらは、カーイーよりも、より明確な意識の投影があります。
それから、より低い動物が現れ、より高度な動物に進化しました。
その最後に人類が出現しました」(What Is This World?)
カーイー(原始的藻)が最初の植物生命だったというのは説得力があります。
サーカーはここではふれていませんが、実際、原始の藻の光合成によって大気中に充満した二酸化炭素が酸素に変えられ、動物の出現の前提となりました。
植物の進化と発展に対応して動物も進化を遂げました。
2)粗大から精妙への心の発達としての生命進化
「精妙さや粗大さの程度は、意識の投影の明確さの程度も示しています。
地球のもっとも原始的な生命のカーイーは、非常にわずかの意識しか示しません。
創造のもっとも進んだ形態の人類は、非常に明確に投影した意識を示します。
これは、カーイーがこの地球でもっとも粗大な生命であり、人間が最も精妙な生命であることを意味しています。
人類は、カーイーよりも精妙です。
この段階における創造の過程は、このように粗大から精妙です」(What Is This World?)
サーカーは、人間の心を三層に分けます。
粗大な心と精妙な心と元因の心です。
粗大な心は、この物的世界に対処している心です。
私たちは衣食住なくして、あるいは他の人々の関係の中でしか生きてゆけません。
それら外部世界と対処している心の層が粗大な心です。
精妙な心とは、外部世界と直接かかわらずに「思考」や「記憶」を司っている心の層です。
元因の心とは、『私』であり、その奥底にすべての『私』を記憶しています。(注)
(注)私は、これは、小宇宙論で紹介したチッタ、アハムタットヴァ、マハータットヴァに対応していると考えます。
元因の心の奥底とはアートマンです。
さて、この心の三つの層は、動物の進化の歴史の中で発達してきました。
最初の動物は、身体を維持するための「粗大な心」、思考や記憶する「精妙な心」、「私」感覚である「元因の心」は、きわめて未発達でした。
動物の心の進化の中で(もちろん心の発達には身体構造の発達が対応しています)「粗大な心」と「精妙な心」が発達し、思考や記憶も発達してきます。
そして元因の心の『私』感覚が発達した動物の中にあらわれてきます。
そして人間に至って『私』感覚に明確に「意識」が投影するようになりました。
3)天地創造の最後の段階に位置する人間
サーカーは、このような粗大から精妙に向かう生命発展の過程は、形質をもたないプルシャに向かうことです。
すなわちプラクリティによる影響下で形質付与されたプルシャが、次第に、そのプラクリティの影響から解放されてゆく過程です。
この過程は、最初は海の中のかぎられたわずかの世界を動きまわっていた原始生命が、空、海、地上を幅広く動きまわり、多様な存在形態に達して、その意識が大きく自由になりつつあることも含んでいるのかもしれません。
そして瞑想可能な存在となった人間において、意識は完全に精妙に達し、プラクリティの影響下から脱して完全に形質非付与実体の意識に達するものが出てきます。
「大宇宙の(コスミック)意識は抽象的で精妙です。
しかし、プラクリティの形質付与する影響力のもとに、それは、それ自身を創造として顕現しはじめました。
最初、精妙から粗大へ、次にふたたび粗大な形態から抽象的で精妙な形にもどります。
創造の最も粗大な段階がクシティタットヴァ(固体)です。
そこでは意識が非生命物体として存在します。
このように意識が粗大に進めば進むほど、大宇宙の意識の投影は少なくなります。
そして粗大から精妙へ進む時、それに応じて大宇宙の意識の投影はより大きくなります。
意識が人間において完全に投影されているように、これは、粗大から精妙への戻りの旅路で、意識が、大宇宙な(コスミック)意識に溶け込むことができるように人間を最終の住処としたことを示しています。
創造はサグナ・ブラフマの思考の波にすぎません。
創造の最終段階である人間は、当然、思考の波の究極の段階です。
このように人類は、最高に進化した存在であり、生命進化の究極の段階です」(What Is This World?)
4)長い旅をしてきた私
以上のようにサグナ・ブラフマすなわち大宇宙の「私」感覚がイメージしていることが、時空をはじめとする五要素として出現します。
そしてさらに大宇宙の「私」の思考の流れが進み、人間が登場しました。
「粗大な天地万物は、サグナ・ブラフマの心の念想の結果として形成されました。
そして人間はこの念想の最終ステップとして現れます。
ヴィヨーマタットヴァ(空間)の 形態は最初のステップです。
この創造の中で、多数の人類に加えて、動物、植物、五つの基本要素の物質の存在を見いだします。(中略)
現在、ブラフマの思考の波の最後の段階を形作っている人間も、その始まりでは、最初の段階の「空間」として存在したにちがいありません。
それらは、思考の波の進展で、次の段階の「気体」の段階に進歩したはずです。
しかし、「空間」の最初の段階はまったく消えることはできません。
なぜなら、「気体」は、「空間」なしには存在できないからです。
思考の波の最初の段階から第二段階に展開した時も、「空間」は存在しつづけます。
思考の波の第二段階としてはすでに過ぎたものである「空間」の置き換えに関する問題が、ここで生じます。
ありえることはただ一つです。
それは、ブラフマがさらに「空間」の形になることです。
もし、「空間」が補充されなかったら、創造の過程は完全に消滅してしまっていたでしょう。
一学年から二学年に生徒が進級する時、もし、新入生の入学が認められなかったら、一学年に生徒がいなくなるようにです。
そして二学年の生徒が三学年に進級する時、一年生が二年生になり、一学年には再び新入生が入ります。
これも、ブラフマの思考の波に適用できます。
「空間」が気体に転化し、「気体」が、燃体に転換する時、「空間」が「気体」に転化することによって生まれた無は、ブラフマの思考の波の中で新しい「空間」を生み出すことによって満たされます。
早く一学年に加わった学生は、早くその学年を修了します。同様に、ブラフマの思考の波は、個体意識を原始的な原生動物としました。
一粒のほこりも、進化における中間の段階として今日、非生命の物体としてありますが、いつの日か人間に転化することになるでしょう」(What Is This World?)
なんとサーカーによれば、私たち人間は、はじめ単なる空間であり、ほこりの粒だったのです。
この世に滅びて消滅するものは何もないと考えれば、あたりまえのことです。
私たちの身体構造を形成している物質が、「私」と「私」の心ではありません。
では「私」と「私」の心は、もとからあったと考えれば、無空間、そしてほこりの中に「私」はいたと考えるほうが自然です。
まとめ
なぜ、固体というプラクリティ(エネルギー)をそれ以上込めることが不可能な段階まで進む必要があったのでしょうか。
全体として一つで不可分の普遍意識が無限の数に分化して個体意識になるには固体まで進むしかなかったのだとサーカー言います。
固体を含む五要素の世界が現出することによって普遍意識は、無数の数の個体意識に分岐することができました。
「なぜなら、精妙なものを分割することは不可能だからです。
たとえば、火は、燃体の一種ですが、大地(クシティタットヴァ=固体)よりも精妙です。
火を二つに分割できるでしょうか。
二つのマッチを別々に擦ったら、二つの炎ができます。しかし、もし、二つのマッチを一緒にもっていたら、一つの炎となります。
二つのマッチによって生まれる炎を区別することは不可能です。
どんなに努力しても、私たちは二つのマッチによって生まれた炎を区別する線を引くことはできません。
炎は、個別の自己同一性を失って一つの単一の実体になります。
このように火を分割することは不可能です。
しかし、もし、両手に一杯のちりをいっしょに混ぜても、再び二つの部分に分けることは可能です。
このように、火と違って、大地は部分に分割することができます。
火は大地よりも精妙です。
しかし、空間や空気よりも粗大です」
このようにして個体の意識が登場しました。
個体意識は徐々に形質付与力から脱却し、次第に精妙化してゆきます。
個体意識を池にたとえると次のようになります。
最初、すなわち原始生命の心は、小さい池です。
しかも池の表面だけが澄んでいました。
進化の中で次第に池は大きくなり、池の半ばまで澄むようになりました。
人間において池の底まで澄むようになりました。
そして池の底の水の湧き出るところの水まで澄んで地下水のすべてとつながっているところまで見える人間があらわれました。
サグナ・ブラフマ(大宇宙の心)の創造の過程はこのように進んでいます。
そして最後に強調しなくてはならないことは、この創造の過程は、現在進行形であるということです。
ずっと昔に空間、気体が、形成されて、創造はもう終わっているというものではありません。
今、この瞬間も空間が生まれ、それが気体となり、・・・そして生命存在がより純粋意識に向っているのです。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)
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