12 HOURS OF WIND, RAIN, THUNDER AND LIGHTNING (video inspired by god of star)


(When you see everything of this universe as brahma, that is as collective gods of star, your consciousness closes to gods of star)

Theme of this page is what is I consciousness.
I consciousness is in ectoplasm of parent god of star in documents of Heaven.
This is true.
In this article I consciousness of human is written in universal ectoplasm.
Universal ectoplasm means collective consciousness of gods of star.
This is same meaning.
We gods of earth did not know that soul of human is child of god of star.
I consciousness of god of star is in base of universe overlapping flow of Higgs particle.
All gods of star is one universal spirit.
All gods of star is overlapping whole universe.
I represent this as brahma.
When you see everything of this universe as brahma, that is as collective gods of star, your consciousness closes to gods of star.
This is salvation of soul.


このページのテーマは,何が私意識であるか,です。
天の文書では,私意識は星の神の思念体の中にあります。
これは真実です。
この論文では,人間の私意識は普遍的な思念体の中にあると書かれています。
普遍的な思念体とは星の神々の集合意識を意味します。
これは同じ意味です。
私たち地球の神々は,人間の魂が星の神の子であることを知りませんでした。
星の神の私意識は,ヒッグズ粒子の流れに重なる宇宙根底にあります。
すべての星の神々は,一つの普遍的意識です。
すべての星の神々は,宇宙全体に重なっています。
私はこれをブラフマと表現しています。
あなたがこの宇宙のあらゆるものをブラフマ,すなわち集合的な星の神々として見るとき,あなたの意識は星の神々に近づきます。
これが魂の救いです。


小宇宙(ミクロ・コスモス)論

はじめに

 サーカーは、大宇宙(マクロ・コスモス)と小宇宙(ミクロ・コスモス)を論じます。
日本語で「宇宙」と訳せば、この時空、気体、液体、固体からなりたっている天地万物を意味します。
したがって、「宇宙」は、コスモスの適訳ではありません。
マクロ・コスモスの表現は、大宇宙の背後に思考する実体を含んでいます。
天地万物は思考する単一の実体がイメージした結果です。
これは、証拠にもとつづいて論じる科学的見識からは認めがたい哲学の出発点です。
サーカーの基本哲学の最初は、天地万物の背後に思考する唯一の実体であるブラフマ(大宇宙の心)が存在することの論証にあてられています。

 ミクロ・コスモス(小宇宙)は、個々の人間の脳とその脳によって機能している心を意味します。
わたしたちの脳は、空間、気体、液体、固体からなりたっています。
最新の顕微鏡で脳を観察すれば、脳神経を構成する分子や原子、そして素粒子が見えるかもしれません。
そして心が怒れば、ノルアドレナリンが増大してゆく分子の変化の様子が「観察」できるかもしれません。
しかし、心が何に怒っているかは、「対話」によってその人が心の中で考えていることを聞き出さなくてはなりません。
同じことをマクロ・コスモスのレベルで考えてみましょう。
発達した電波望遠鏡や微細な宇宙線であるニュートリノの観測装置カミオカンデのような設備で、空間、気体、液体、固体からなる物質レベルの大宇宙は「観察」できます。
しかし、その背後に大宇宙の心の層があったとしても、ミクロ・コスモスの心が観察できないようにマクロ・コスモスの心の層は観察できません。
ミクロ・コスモスの心は対話によってある程度理解できます。
しかし、マクロ・コスモスはしゃべりませんから、「対話」的方法によっては不可能です。

 大宇宙の心の層は、唯一、瞑想によってとぎすまされた心による「直観」によってのみ可能です。
サーカーはそれを「直観科学」とよびました。
サーカーは、「論理と根拠なしには信じるな、知性が低下し、搾取を許すことになる」と考えます。
したがって大宇宙の心の層を確認するには、自らの心を集中させて、「直観的知性」を発達させ、体験的に確認するしかありません。

 (なお、筆者は、自分の直観によって大宇宙の心の存在を確認したわけではありません。
継続的な直観的実践で確認できたことは、この世の出来事をより精妙なレベルで理解できるようになるということです)

 誰もが、ミクロ・コスモスが物質と心で成り立っていることを認めています。
そこでサーカーは、ミクロ・コスモス(小宇宙)を論じることで、大宇宙にもその内側に心が存在していることを、論理的に証明してゆきます。
そこで、まずサーカーのミクロ・コスモス論から見てゆきましょう。

1)人間の活動は心が動かしている

 人間の活動は、五つの感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身)と五つの行為器官(発声、手、足、排泄、生殖)とあわせて十の器官(インドリヤ)によってなされます。
人間のあらゆる活動がこれらのインドリヤによってなされているように見えます。
しかし、サーカーは、実際にはそうではないと言います。

 「もし、心がその背後で働かなかったら、インドリヤ自体ではいかなる活動をすることもできません。
働いているのは心です。
10のインドリヤは、その働きが実行されるための単なる道具にすぎません。
心に起源をもつ活動が、インドリヤによってその外的表現を見いだすだけなのです」(What Is Dharma?)

 この本を見ているとしましょう。
もし、別の心配事があり、そのことに気をとられていると、目を開けていても読むことができません。
目の助けを借りて本を視覚化しているのは心です。
もし、心が働かなかったら、目は本を見ることはできません。
美しい音楽を聞いていても、心が別のことに集中すると音楽が聞こえなくなります。
空気の振動を受けて鼓膜が震えていても、心は音楽を聞いていません。
働いているのは心であり、インドリヤは、その外的表現を助けるにすぎません」(What Is Dharma?)

 では、心はインドリヤを用いてどのように働いているのでしょうか。
サーカーは、次のように説明しています。
たとえば、本を見ているとしましょう。
それは心が目の助けを借りて行なっている活動です。

 「心が本を見る時、実際に生じていることは、目の助けを借りて、心が本と呼ばれているものの形をとることです。
この心がとる形は、網膜に形成されるイメージによって様々です。
目を閉じた時でさえ、心は見ることができ、本のようになります。
しかし、心が機能しない時は、目は見ることができません。
だから、視覚的な知覚作用の間、本の形をとっているのは心です」(What Is Dharma?)

 このように心自体が見るもの、聞くものなどの形をとっているのだとサーカーは言います。
そして、心自体が形をとっているイメージを念頭に、次のようにチッタ、アハムタットヴァ、マハータットヴァという心の三つの展開部分を説明します。 2)心の三つの構成部分

 「本の形をとっている心のこの部分は、チッタすなわち心の材料と呼ばれます。
しかし、もしチッタが本の形をとったとしても、見るという仕事をするチッタより別の何かが必要です。
見るという仕事をする心の部分は、アハムタットヴァすなわち『何かをする私』です。
この場合は『見ている私』です。
しかし、もし『私』が存在しないなら、『私』は、何も見ることはできません。
だからこれら二つとは違うもう一つの心の部分がなくてはなりません。
この心の三つ目の部分は、『私』という感覚の部分で、マハータットヴァと呼ばれます。
この『私』感覚すなわち「自己の認識」なしに、いかなる行為も実行されることができません。
この『私』感覚、すなわち「自己の認識」は、マハータットヴァ(あるいはブッディタットヴァ)といいます。
これらの三つ(チッタ、アハムタットヴァ、マハータットヴァ)の集合名詞が心すなわちアンタカラナantakharana(内的心理力introversal psychic force )です。(What Is Dharma?)

 「花を見る」とは、感覚器官を通じて網膜に映った花を、心が見ていることです。
網膜には花が映っているだけであって網膜や目が見ているのではありません。
心の一部が見ている花の形をとるのです。
花の形をとる心の材料をチッタと言います。
そしてチッタに花の形をとらせてそれを見ているという仕事をしている心の部分がアハムタットヴァです。
ところが「私は」の心の部分がなかったら、「見る」という作用は生じません。
なんらの作用もしていない心は「私は存在している」というだけの感覚です。
この存在している「私」の役割をしている心の部分をマハータットヴァ(ブッディタットヴァ)と言います。
サーカーは、心はこの三つでなりたっていると言います。

 花を見るという活動を、サーカーは「ルーパ・タンマートラすなわち心的同化pcychic assimilation」(What Is Dharma?)と呼びます。
タンマートラとは、知覚する情報片のことです。
ある物体が放散する音、光、触覚、匂いなどの様々の振動を身体のインドリヤ(知覚器官)がキャッチして私たちの心が受け止めます。
ですからタンマートラとは伝わってくるある特色をもった振動片です。
サーカーの考えでは、心の材料のチッタがタンマートラの振動片の形そのものになります。
神経の振動による観念化によって心の中にイメージや像を生み出ます。
それがルーパ・タンマートラです。

 「チッタ自体は何の作用を行なう能力ももっていないからです。
アハムタットヴァ、すなわち働いている心の一部が、本を見ることを欲する時のみ、チッタは知覚器官、すなわち目と接するようになります。
波動の形で周囲に常に存在するタンマートラは、目を通してチッタにぶつかります。
それは外部世界へチッタを接触させる一種のドアを形づくります。
それからチッタは本の形をとります。
そしてアハムタットヴァは、チッタがとった形にそってそれを見分けます。
同様に、アハムタットヴァが何かを聞きたいと思った時、チッタを聴覚器官、すなわち耳と接触させます。耳は音のタンマートラを受け取ります。
それは、音の波動の媒介によって、常に身体の周囲に存在しています。
チッタは、このタンマートラの影響で、その音自体になります。
そしてアハムタットヴァはその音を聞きます。
これは、アハムタットヴァが望んだり、行なったりするどんな形にもチッタがなることを示しています。
チッタは、アハムタットヴァがおこなう活動を表現します。」(What Is Dharma?)

 チッタ、アハムタットヴァ、マハータットヴァ(ブッディタットヴァ)の三つの部分が心を構成していることはすでに説明しました。
チッタはアハムタットヴァの欲する形をとります。
アハムタットヴァが欲しないとチッタは形をとりません。
音楽を聴きながら何か別のことに夢中だとするとその音楽は聞こえてきません。
聴こうとしてはじめてチッタはその音楽の振動の形になります。

 だから、アハムタットヴァだけが、見ると聴くなどの活動をおこなうことができます。
しかし、「花を見る」=チッタ+アハムタットヴァですが、見るという作用をさせているものがなくてはなりません。
それは「私」感覚です。
「心の中のこの「私」感覚が、アハムタットヴァとチッタのそれぞれの役割を果たさせます。
仮にアハムタットヴァの影響下にチッタが本の形をとったとしても、この「私」感覚なしには、本を見たり、感じたりすることは不可能です」(What Is Dharma?)
「私」感覚、すなわちマハータットヴァがアハムタッヴァとチッタの背後にあるというここまでの議論は、理解が容易で誰もが納得できるものだと思います。

3)個体意識(アートマン)と心

 サーカーは、「私」の心のさらに奥に「私」の存在を知っているものがある。
それが、私の心を奥底から「見つめている」アートマン(個体意識)だと言います。

 「そこに心があることを知っている『私』があります。
心の中の『私』の存在は、心を超えるもう一つの別の実体があることを証明しているにすぎません。
見つめている実体であるこの『私』、あるいは心の存在とブッディタットヴァ(『私』感覚)の存在とを見つめているこの『私』は、アートマンすなわち個体意識と言います。
このように内観と集中した思考によってアートマン(個体意識)と心が二つの別の実体であることに気づきます」(What Is Dharma?)

 この箇所を理解する鍵は、マハータットヴァの「私」です。
黙想すると最初は、いろいろな映像や考えが頭に浮かぶでしょう。
チッタとアハムタットヴァが活動しているのです。
目を閉じてチッタとアハムタットヴァの部分を消します。
「私は存在している」感覚(マハータットヴァ)だけが、そこに残ります。
チッタ、アハムタットヴァまで展開した心をマハータットヴァのみに収縮させるのです。
そこには、作用を行なうアハムタットヴァはありません。
私の心は「私は存在している」という判断作用をしていないのです。
だとすると心の活動を停止しても、なおかつ「私が存在している」と感じているのはいったい何なのかということになります。
「存在」自体は何も感じません。
「私は存在する」と感じている意識を設定しなくてはなりません。
それが個体意識(アートマン)です。

 心は、チッタ、アハムタットヴァ、マハータットヴァ(ブッディタットヴァ)という三つの部分からなります。
この三領域の心の存在は、合理的な説明であり、誰でも目を閉じて「私は花を見る」から「花を見る」を停止して「私」感覚だけになるならば、経験的にも確かめることができるでしょう。
しかし、この「花を見ている私」という心の領域全体を「見つめている」個体意識(アートマン)があるという点まで来ると、頭で理解はできても実感的にはなかなか理解できないでしょう。
これら心の三つの部分を見つめている実体である個体意識(アートマン)の存在は、「実験、観察」あるいは「対話」によっても確認することができません。
サーカーは、自分が論証しているアートマンと心が別の実体であることは「内観と集中した思考」(黙想=直観科学)によって気づくことができると述べています。

 マハータットヴァとしての「私」感覚とアートマン(個体意識)としての「私」の二つの「私」とはどういうことなのかについてサーカーはより深く次のように論じます。

 「『私は存在する』と述べることは、この存在を見つめているものである『私』の存在を前提としています。
この見つめている実体が、アートマンであり、個体意識です。
その存在は、その人が自分のあらゆる活動によって示している存在の感覚によって立証されます。
『私は存在している』感覚が、アートマン(個体意識)ではないことは、この感覚が、自分のアートマン(個体意識)の存在を前提としている事実からわかります。
この感覚は、個体意識が、ただ意識のみであること、意識なしには存在は不可能であることを証明しています。
意識以外の何が『私』の存在を見つめているのでしょうか。
それゆえ、意識は、マハータットヴァ(ブッディタットヴァ)の感覚を生み出すために不可欠です。
つまりマハータットヴァは、アートマン(個体意識)なしには存在できません」(What Is Dharma?)

 個体意識である「見つめる『私』」と『私』感覚は、同じ『私』のレベルの違った段階です。
当然のことですが、別の人の『私』ではなく、同じ自分自身の『私』です。

 「見つめている『私』は個体意識アートマンであり、それは、それ自体をマハータットヴァ(ブッディタットヴァ)として顕現します。
そのようにしてそれ自体の存在を立証します。
見つめている実体(個体意識)が、『私は存在する』の『私』感覚にかかわっている時、マハータットヴァ(ブッディタットヴァ)と呼ばれます」(What Is Dharma?)

 マハータットヴァを「『私が存在する』という意識のある状態」だと考えるとわかりやすいと思います。
気絶やノンレム睡眠時、「私」の存在はなく、心は展開しません。
しかし、気絶中やノンレム睡眠中にも、「私」として顕現する種となるはずの実体がなくてはなりません。
そうでなくては気絶や睡眠から覚醒した後の「私」の同一性は保てません。
その実体が「意識」だと解釈します。
覚醒し、「私」の存在を感じる時、私の「意識」の途切れることのない流れがあることが明らかになります。
その個体の「意識」がアートマンです。
ただ見つめている実体である「意識」自体は自分の存在を感じることができません。
「私」として存在してはじめて自らを立証します。
「私」が何かを見ている時、その見ている私の心を見つめている「意識」が常に存在しています。(注)

(注)「意識」
 以上、サーカーは「意識」という実体を設定します。
この箇所だけ通常の「意識」という概念に近づけて説明しました。
しかし、一般的に使われている「意識」という用語は、まったくサーカーの用いる「意識」からかけ離れたものではありません。
「私」という「意識」は、サーカーの用いる「意識」の一部分です。
サーカーは「意識が人間の心に投影している」と言います。
ブラフマの無数の分岐であるアートマン(個体意識)が、人間の身体構造を通じ、心として投影展開しているのです。
いわば、「私」の心とは、人間の複雑な脳という場に個体意識が投影して展開しているものです。
アートマンと人体のどちらが欠けても人間の心はありえません。
通常は、心が覚醒しているか夢をみているかの状態の時だけ「意識」があると言いますが、サーカーの場合は、意識は常に消えることなく存在し、意識に適合する身体構造が復活した時、投影して心として展開するのです。

4)プラクリティ(形質付与力)とは 

 気絶やノンレム睡眠中にも存続している「個体意識」という実体は、覚醒して「私は存在する」という感覚になることによって、はじめてその存在を立証しました。
個体意識は、ただ単に意識ですから、「見つめる」だけで、何も行うことができません。
「見つめる」だけのアートマンに「私は存在する」という感覚を与えるものが必要です。
それがプラクリティ(形質付与力)です。
「私は存在する」感覚(マハータットヴァ)は、心の出発点ですが、その心を「見つめている」実体を含んでいます。
サーカーの説明を見てみましょう。

 「このように個体意識は、様々の作用を通じて自分を表現する力をもっています。
この力は意識ではありません。
さもないと、個体意識がマハータットヴァとして、すなわち『私は存在する』の『私』としてそれ自体を表現する必要はないからです。
『私は存在している』の『私』は、『見つめている実体』とは別のものです。
それゆえ、意識と力は、アートマン(個体意識)の中の二つの独立した実体です。
(中略)アートマンが自分をマハータットヴァとして表現するためには資質(形質、属性)を付与する力をもつ別の要素がなくてはなりません。
アートマンにこの資質(形質)を与える力が、プラクリティと呼ばれます。
言い換えれば、 アートマンが、マハータットヴァとして表現され、『私』の感覚を得るのは、アートマンに形質付与する力であるプラクリティによるものです」(What Is Dharma?)

 個体意識(アートマン)を燃料としましょう。
アートマンである燃料は、燃える力(プラクリティ)をもともと持っていますが、未だ燃えていません。
燃料に燃える力(プラクリティ)が影響し、火になります。
ここでは、火とは、マハータットヴァ(「私」感覚)です。
それがさらに燃えることで、すなわちプラクリティによって形質付与されることで、アハムタットヴァ、チッタへと心として展開するのです。

 ここでは、燃料をアートマンにたとえました。石油などの原料は、燃えるという属性(形質)が付与される以前にもその存在は、確認できます。
しかし、ただ「見つめている意識」だけのアートマンは、プラクリティによって形質付与されることで「私はある」という感覚となり、はじめてその存在を確認できるようになります。

 「意識は、プラクリティによって形質が与えられることでその存在を立証します。
言い換えれば、プラクリティは、個体意識(アートマン)に形質を与えて、個体意識に存在感覚を付与します。
どんな活動をするにもエネルギーが必要です。
プラクリティがアートマンすなわち個体意識に形質を与えるという活動をおこなう時、それは独自の力です。
それは個体意識に形質を与える原理的な力です」(What Is Dharma?)

 さきほどの燃料の例えを続けます。
燃料(アートマン)には原理的に燃える力(プラクリティ)が備わっています。
燃える力は、燃料にそなわっている原理的な力です。
アートマンは、燃える力(プラクリティ)によって燃えるという属性を付与されていない段階の燃料です。
だから、アートマンは、形質を付与されていない個体の意識の段階です。

 ここで、サーカーの議論は、決して個体意識とプラクリティの二元論ではないことに注意が必要です。
燃料には燃える力がもともとそなわっており、燃料から燃える力を切り離すことはできません。
燃料とは燃える力をそなえた材料のことです。
同じようにアートマン(個体意識)にはプラクリティ(形質付与力)が原理的に備わっています。

(注1)「意識」について
「意識」はサンスクリット語でプルシャといいます。
サーカーの使う「意識」は、私たちが通常につかう意識と区別することが必要です。
個体意識(アートマン)は、プラクリティによって形質付与されていない意識(プルシャ)の段階です。
形質付与されていない段階のプルシャもプラクリティ(形質付与する力)をもっています。
プルシャとプラクリティは、一枚の紙のように二つに分けることができません。
燃料の燃える材料の側面がプルシャで、燃える力の側面がプラクリティです。
しかし、その両者は一つのものであり、切り離すことができません。

オウム真理教団による坂本弁護士の殺害現場にプルシャ・バッジが落ちていました。
私の心に、プルシャは、血塗られた言葉として入ってきました。
しかし、「神」のためにたくさんの殺戮が行われてきました。
「階級闘争」のためにたくさんの殺戮がおこわれました。
「神」や「階級闘争」にその原因があるわけではありません。
同じように「プルシャ」や「瞑想」に狂気の集団になる原因があるわけではありません。
ここでは血塗られたプルシャの言葉を洗い清めて用います。

(注2)アートマンと形質付与
 アートマン(個体意識)はプラクリティによって形質付与されていないと書きましたが、実際にはわずかながらプラクリティによって形質付与されています。
完全に形質付与がとりのぞかれて、純粋意識に達した時は、ブラフマ(普遍的意識)に融合して、個体意識としては成り立たなくなります。
なお、サーカーは、普遍意識は至福の意識であり、人は最終的にその境地をめざすべきだと考えます。

5)個体意識が心として展開

(1)プラクリティは三種類の形質を付与する

 個体意識は、プラクリティに形質付与されることで心として展開してゆきます。
プラクリティは三つのタイプの形質(属性=グナ)を与える形で影響してゆきます。
すなわちサットヴァとラジャとタモの三つの形質(グナ)です。
サットヴァは澄みきって平静なイメージです。
ラジャは活動、興奮、変化のイメージです。
タモは、停滞化、固定化、鈍くなるイメージです。
プラクリティは、この三つの種類の形質を付与する力をもっている存在であり、三つが様々の割合で混合したグナ(形質、属性)を与える形で働きます。

 個体意識にサットヴァグナの形質が付与されて、マハータットヴァすなわち「私はある」感覚が生まれます。
マハータッヴァにラジャグナの形質が付与され、アハムタットヴァすなわち「私〇〇する」という活動が生まれます。
その思考活動の結果、タモグナの形質が付与され、心の材料が一定の形をとります。
それがチッタです。ではより詳しくのその過程をみてゆきましょう。

(2)個体意識からマハータットヴァへ

 最初、プラクリティは、個体の純粋意識にサットヴァグナの形質を付与します。
そこで「私は存在する」感覚(マハータットヴァ=ブッディタットヴァ)が生まれます。
それによって「ただ見つめる私」の存在も明らかになります。
サーカーの言葉です。

 「サットヴァグナの影響下に、個体意識がマハータットヴァ(ブッディタットヴァ)として自己を表現している」(What Is Dharma?)

 個体意識は、心の奥にある「ただ見つめている」実体です。
気絶した時や夢を見ていない眠りの時には、その存在を確認できません。
しかし、その実体が存在していることは確実です。
「私は存在している」という感覚とともに「意識」の存在も立証されます。

 思考実験してみましょう。気絶して、マハータットヴァ(「私の存在」感覚)が消えたとします。
しかし、アートマン(個体意識=「見つめている実体」)は消えません。
気絶から回復すると「私は存在する」感覚とともに、「個体の意識」も復活するからです。
逆は成り立ちません。
アートマンを消すと気絶から復活しても、「私は存在する」感覚がもどりません。
「私は存在する」感覚の前に何かが存在することは確実です。

 なおサットヴァグナとは、平穏で明晰な属性です。
したがって「私は存在する」感覚(マハータットヴァ=ブッディタットヴァ)は、澄みきった平静な属性をもっています。
思考活動を行っていない状態ですから、怒りや憎しみなどと無縁です。
実際、黙想して心を集中させて「私は存在する」感覚だけになると、心は平穏で澄みきった状態になります。

(3)マハータットヴァからアハムタットヴァへ

 さらにプラクリティが働くとそれは「私は○○する」という思考活動する私がでてきます。
マハータットヴァは、ラジャグナの形質を与えられて、「〇〇する私」であるアハムタットヴァとなります。

 「見る」を例に考えてみましょう。
あらゆる活動は存在を前提としています。
「見つめる実体」が、サットヴァの形質を付与されて「私」感覚になりました。
この「存在する私」が、ラジャグナ(変化・動性)の形質を付与されて、「見る」活動をおこなうのです。

 思考実験をしてみましょう。
「存在する私」が「見る」ことをやめても、「存在する私」は残ります。
逆に「存在する私」を消したら、「見る」ことはできません。
これは、「見る」ことをやめるとは、ラジャグナの形質付与を取り去ることであるから、そこにマハータットヴァが残るのです。

(4)アハムタットヴァからチッタへ

 さらにアハムタットヴァは、プラクリティによりタモグナ(鈍・停滞性)の形質を与えられます。
それによって心の材料の一部であるチッタが、見ている「花の形」自体になります。
どのようにチッタが花の形になるのかについてはすでに「心の三つの構成部分」のところで次のように説明しました。

 花の形を伝える振動片(タンマートラ)の影響で、心の一部であるチッタが振動し、花の形になります。
アハムタットヴァは、花の形をしたチッタを見ます。
私たちは、心の外にある実際の花を見ているつもりですが、実はチッタを見ているのだとサーカーは言います。
様々な形や音の振動情報が目や耳に入りますが、実際にはチッタは、アハムタットヴァが見聞きしようとしているものの振動の形をとります。
チッタの形はまったくアハムタットヴァに依存しています。

 「「これは、『私』が本を見る時、本のようになるのは『私』であることを意味します。
こうして、もう一つの『私』がタモグナの影響下にあらわれてきます。
知覚している間に、本の心のイメージの形をとっているのはこの『私』です。
本のようになっている、あるいは本の形をとっているこの『私』が、チッタです。
このようにチッタとして自分自身を徐々に表現しているのは個体意識です」(What Is Dharma?)

6)アートマンなしに心は存在しない

 アートマンは個体の「意識」であり、マハータットヴァは「存在」感であり、アハムタットヴァは「活動」であり、チッタは、活動の「結果」です。
「意識」なしに「存在」感はありえず、「存在」なしに「活動」はありえず、「活動」なしに「結果」はありえません。
その逆に「結果」のない「活動」、「活動」のない「存在」、「存在」感のない「意識」はありえます。
(気絶から覚醒するまで「存在」感覚はありませんが、その時間、同じ「私」の「意識」の連続性が背後に隠れています)
サーカーの考えでは、チッタまで含めて、心の三つの部分すべてが、個体意識への形質付与の積み重ねの中で成立したものです。
それは、「私」という「意識」が「存在」し、「活動」し、「結果」を生み出したものです。サーカーは次のように述べます。
「個体意識が、そのプラクリティの影響下で、漸次的にそれ自体をチッタとして表現し、その結果、心があらわれてくることが、論理と推論によって立証されました。
個体意識の存在は、心にとって不可欠です。
心は、プラクリティの形質を付与する影響力のもとに個体意識が漸次的に顕現したものにすぎません。
実際、アートマン(個体意識)の存在なしには、心が形成されることはありえません」(What Is Dharma?)

 なお、アートマン(個体意識)は常に心とともにあります。
この本を読んでいるあなたの心は、今、働いています。
この文字を見ています。
しかし、同時にあなたの心の中全体を見つめている存在があります。
それがあなたのアートマン(個体意識)です。
個体意識はあなたの考えていることすべてを見つめています。
そしてすべてを知っています。
アートマンがプラクリティに形質付与されて心が展開しているからです。

7)アートマンは単一の実体の分岐

 以上、アートマンが形質付与されることで個人の心が展開していることを見てきました。
すべての人が心をもっており、60億の人類すべてがアートマンをもっています。
したがって、アートマンは、60億個あるように思えます。
しかし、アートマンを車輪のスポークと考えてください。
60億のスポークすべてが一つの中心軸から出ています。
アートマンは単一の実体の分岐です。

 「すべてのアートマン(個体意識)の集合名詞が、パラマートマン、ブーマーチャイタニヤ、もしくはバガヴァーンです。(中略)
それは、私たちすべてのアートマンです。(中略)
バガヴァーンは、普遍意識、普遍的魂と呼ぶこともできます」(What Is Dharma?)

 ここでアートマンの集合名詞としてあげているパラマートマンは、すべてのスポークがささっている車輪の軸のことです。
60億人すべての「個体意識」というスポークの共通の軸ですから、それは「普遍意識」(バガヴァーン)です。
アートマンは英語の「ソウル(魂)」に近い概念ですから、軸は「普遍的魂」とも呼ぶことができるわけです。
そしてサーカーは、バガヴァーン・ブッダという言い方をしていますから、バガヴァーンとは、スピリチュアリティの修養を通じて、スポークの個別性を超えて車輪の軸までに達した心だと考えられます。
60億の人類は車輪の外側に近い人から、軸心近くまで達した心の持ち主など様々です。

 以上、アートマン(個体意識)の存在を立証し、アートマンの集合が単一のパラアートマン(普遍意識=普遍的魂)であることを説明しました。
サーカーは、ここまでの個体意識の立証によって普遍意識の存在を立証したとしています。
それは多者=一者の非二元の観点からすると理解できます。

 海洋に無数の氷山が浮かんでいるとしましょう。
海洋が、一者(普遍意識)で、氷山が多者(アートマン=個体意識)とします。
多者である氷山(個体意識)は、一者である海洋(普遍意識)の水分(意識)の一部分にすぎません。
氷山(アートマン)が溶けて水(純粋意識)になるならば、海洋(普遍意識)の水に融合します。
すなわちアートマンの個体性が消失して、意識だけになるならば、「普遍意識」の海と一体化します。

 そのような意味で「個体意識」の根源は「普遍意識」であるととりあえず理解しておきましょう。
そういう意味では、アートマンの存在の立証は、普遍意識の存在の立証でもあります。

まとめ

 身体と脳の神経ネットワーク構造をいくら微細に探求しても「私」とは何なのかを解明することはできません。
サーカーは、個体の心すなわちミクロ・コスモス(小宇宙)の構造を論じる中で、「私」が何であるかを分析しました。
同一の個体が「意識」だけのレベルから、意識をもった「私」の「存在」へ、そして「私」の「活動」とその「結果」へと心として展開していることを明らかにしました。
すなわちアートマンが、マハータットヴァ、アハムタットヴァ、チッタへとプラクリティの形質付与によって順次展開していることを論じました。

 大宇宙レベルの物的世界に対応する大宇宙の心の存在を論証してゆく上でこの小宇宙論が前提となります。



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