ZERO UNIVERSAL : E?LEVEZ VOTRE TAUX VIBRATOIRE AVEC LA MUSIQUE DE LA SOURCE (video inspired by god of star)


(When you read this discourse, you can understand what neo-humanist education is)

Dear
I am god salamnidam who downed theory P.R. Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of assistant Mitsuki in whole life.
Mitsuki studied almost books of theory of P.R.Sarkar which I downed.
Mitsuki's summery is excellent.
Project of Heaven and gods decided to introduce all studies of theory of god salamnidam.
God salamnidam add explanation to study of Mitsuki.

Theme of this page is education of neo-humanism written by assistant Mitsuki.
When you read this discourse, you can understand what neo-humanist education is.
I recommend you to read by translating.


こんにちは
私はP.R.サ-カ-に理論をおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトはアシスタントのミツキの全生涯の研究を紹介しています。
ミツキは、私がおろしたP.R.サ-カ-の理論の本をほとんど研究しました。
天と神々のプロジェクトは、神サラムニダムの理論のすべての研究を紹介することを決定しました。
神サラムニダムはミツキの研究に説明を加えます。

このページのテーマは,アシスタントのミツキによって書かれたネオ・ヒューマニストの教育です。
あなたがこの論文を読むとき,ネオ・ヒューマニストの教育とは何であるかが理解できます。
私はあなたに訳して読むことを勧めます。


ネオ・ヒューマニズムの視点からの今日の人間危機の考察

はじめに 今日の人間危機

 今年(2000年)、連続して青少年による凶悪犯罪がおきています。
5月1日、愛知県の高校3年生が「人を殺す経験がしたかった」と近所の主婦を殺害しました。
5月3日には、佐賀の17歳少年によるバスジャック事件がおき、犠牲者がでました。
6月21日には、岡山の野球部の高校3年生が2年生をバットでなぐり、自宅へ帰って母親を殺害し逃亡しました。
8月14日には、大分県で、高校一年生の少年による隣人一家6人を殺傷し、3人が死亡するという事件がおきました。

 青少年犯罪だけではなく、大人の犯罪も保険金をかけて我が子を殺すなど耳を疑いたくなるような犯罪が登場しています。

 20年くらい前、アメリカでは、すでにこのような犯罪が報道されていました。
「何年かたったら日本もアメリカのようになるだろう」と話題になっていました。
予想通り着実に日本はアメリカ社会の後を追って凶悪犯罪多発型の社会になりつつあります。
またそしてストーカーなど性にかかわる新しいタイプの犯罪も増えています。

 このような状況をどうとらえ、どこに展望を見いだすべきなのでしょうか。
それを考えるために独自の新しい世界観を創始したインド人のP.R.サーカー(注1)の観点を紹介し、その観点から私たちの抱える問題がどう見えてくるのかを紹介することが本稿のねらいです。

第一章 サーカーの提起するネオ・ヒューマニズムと精神性の向上

(1)ネオ・ヒューマニズムとは 

 ネオ・ヒューマニズムとは、ヒューマニズムが人間に対する愛であるのに対して、その人間に対する愛を特定の民族を越えて人類全体の愛へ、そして動物、植物、非生物、一切のものへの愛へと拡大させ、無限大の愛の心を持つことをめざすことです。

 すべての生命をいつくしむ心は、インド古代思想(ウパニシャッド哲学)に出現しました。
インド以外にも、世界中で原始時代には、アニミズム、すなわちすべての山や木に精霊がやどっているというより原始的な考えがありました。
インド古代思想はそれを普遍的な梵(ブラフマン)として精緻な哲学理論としました。
ブラフマンとは、あらゆるものがそこから生まれた絶対的な根源です。
無限の宇宙全体を形作る原子や素粒子などの精妙なレベルでこの世界をとらえるならば、個別の存在、あなたや私やあの木やあの星は、精妙なる根源的存在(ブラフマン)が粗大化して形にあらわれたものと見ることができます。
サーカーは、これをネオ・ヒューマニズムの世界観の根幹に据えます。(注2)

 サーカーの弟子の教育者アナンダニヴェディータは言います。
「ネオ・ヒューマニズムは、この広大な宇宙の背後に、すべての個別的実体を結びつける、単一もの、愛するもの、普遍意識Universal Consciousness の存在を信じます。
あらゆるものが単一のもの、無限意識の現れであると理解した時、人々は他のものを愛する優しさを伸ばしてゆきたいと思います。
ネオ・ヒューマニズムは、人間に対するヒューマニストの愛を他のもの、すなわち動物、植物、無生物にまで広げます」(注3)

 したがって、ネオ・ヒューマニズムの観点から教育と人間発達を考えるとき、個別的存在を全宇宙を貫く無限の意識(ブラフマン)の一表現と見るゆえに、個別的存在としての狭い制限された心をいかに宇宙大、無限大までに拡大してゆくかということが中心課題となります。

 西洋ルネッサンスは、古代ギリシャ・ローマ文化の再生からはじまり、人間中心主義、ヒューマニズムを生み出しました。
それは、停滞したカトリック中世文化を打ち破る力になりました。
同じように、P.R.サーカーの提起するネオ・ヒューマニズムは、あらゆる存在と生命を大事にした古代インドの思想のルネッサンス(再生)ということができます。

(2)人間存在の3つの領域と精神性の向上

 P.R.サーカーは、人間は3つの層の重なるところに存在していると考えます。
すなわち物的身体的physical 領域、知識心理的psychic,intelectual,mental 領域、精神性のspiritual領域の3つです。
デカルト以来の西洋近代哲学においては、この前二者のみが存在しているとし、どちらをより根源的ととらえるかで唯物論哲学陣営と観念論哲学陣営に分かれたことは周知のとおりです。
サーカーの哲学と私たちの常識としている哲学との違いは、人間存在に3つ目の領域すなわち精神性spiritualityを設定することです。

 スピリチュアリティ=精神性とは何でしょうか。
私も、あなたも、あの木も、あの星も、全宇宙を構成する精妙な存在(ブラフマン)の形を変えた表現です。
すなわち、あなたの心の奥底も私の心の奥底も全宇宙を構成する精妙な存在である無限の意識とつながっていると考えます。
ですから、精神性の向上とは、個別の身体的存在と知的心理的存在の中に制約されている狭い心を、自分を全宇宙につながる存在だと認識することで、無限大に広げてゆくことです。
サーカーは精神性(スピリチュアリティ)を次のように定義します。
「精神性と宗教は同義語ではありません。
むしろ、それらはまったく別個のものです。
精神性は、大宇宙と小宇宙をつなぐ終わりなき努力です」(注4)
この努力の中で、本当の愛と献身の精神が育つと考えます。

(3)精神性の向上をともなわずには、真の進歩と幸福はない。

 人類は、空を飛び、水に潜り、月に達し、遠くのものを見たり、聞いたり、遠くのものと話したりすることができるようなりました。
それは物的身体的領域の限界をこえて大きな「進歩」を成し遂げてきたことを意味します。
また知的心理的領域においても、たとえば遺伝子の暗号を解くところまで「進歩」してきました。
しかし、この物的身体的領域の「進歩」には環境問題などに典型的なように必ずマイナスの側面がつきまとっています。
そして知的心理的領域の「進歩」においても、発達した分だけ、未開人が経験することのない精神的な病に苦しむようになりました。

 サーカーは、次のように物的身体的進歩が心に問題を引き起こす側面を指摘しています。
「物的身体的領域における『進歩』におきることは、生活の変化の速さが、神経に影響するより大きな勢いを得ることです。・・・
当然の帰結として物的身体的科学の進歩に比例して、心臓と心の病は同じ割合で増大するでしょう。
いわゆる多くの文明化した人々が、神経が緊張下にあるために眠ることができないということが注目されるようになっています」(注5)

 さらに知的進歩についても、心に病を引き起こすことを述べています。
「知的進歩は、心に強く影響します。
神経システムと心は同じではありません。
神経細胞は物的身体的なものです。
それゆえそれと関連するどのような病気も物的身体的です。
私たちが狂気 madnessと呼んでいるものは、神経の病気か心の病気か、あるいはその両方によるものです。
知的分野における進歩は、情緒の大きな不調和をもたらします。
そしてそれゆえ狂気insanityを増やすことになります。
そして社会に狂った mad 人々が著しく増えます。
このことから知的進歩は、進歩ではないことがより明確です」(注6)

 サーカーは、真の進歩は唯一、精神性にあると考えます。
「精神性の領域においては反作用の潜在力がないために、そこには妨げがなく、前進運動があるのみです。これが真の進歩の性質です」(注7)

 近代自然科学の進歩や社会科学の巨大な進歩がありました。
しかし、その先頭を走っているアメリカ社会は早くから病んでいました。
その病みは日本社会に伝染し、幼児期から老年期まで、犯罪の多発だけではなく、年に3万人以上の自殺者、10人に1人と言われている不眠症に苦しむ人々となってあらわれています。
私たちの社会は人間の真の幸福を実現するところにはほど遠いところにいます。
したがって、サーカーの観点からするとこれは真の進歩ではありません。
サーカーにとって、人類の幸福を前進させることが真のプログレス=進歩であるがゆえに、精神性の向上をともなってはじめて真の進歩と言えます。

第二章 私たちの社会の子どもや大人は、なぜ狂ったのか

(1)物質的パブルムは心を粗大化させる。

 サーカーの述べている言葉の中から、私たちの社会の病みの原因を示唆するものをとりだして考えてみます。
まず、犯罪や罪を生み出す原因についてです。
サーカーは、「罪の3つの原因」というスピーチの中で、貧困だけでなく、富裕も罪を生み出す背景であると述べています。
どういうことでしょうか。

 サーカーは、心が求める対象という意味でパブルムという概念を使います。
そして心の求める対象が、物的身体的パブルムであれば、心は粗大化し、粗野になり、心の求める対象が精妙なものであればあるほど、心は精妙になり、繊細になり、やさしくなると考えます。
したがって、たとえ愛を説く宗教であっても、物質でできた偶像を拝ませ、物質的な天国像をイメージしているならば、心は粗大化し、粗野になり、自分の所属する以外の宗派に不寛容となり、衝突をひきおこすことになります。

 したがって、生活が、貧しく、生きてゆくために必要な食料、衣服が十分でない場合は、心の求める対象は物的身体的パブルムとならざるをえません。
そのために心は粗大化し、粗野になります。
貧困ゆえの粗野な人間、貧困ゆえの犯罪は、ここから生じると考えます。

 ところが、サーカーは、富裕も人の心を物質的にし、粗大化すると述べています。
それは、その人が、自分の物的必要、知的必要、精神性の必要を満たしてなおかつ余りある財(非活用の冨)を手にしている時、その余った財は、結局、物質的欲望を満足させるために使われるからだと考えます。

 「第二の原因は、過剰に蓄積した物的身体パブルムと知的心理的パブルムの非活用です。
物的身体的富の過剰な蓄積のあるところでは、いくつかの問題が生じます。
人間は、それほど多くの物を必要としません。・・・
過剰に蓄積したケースにおいては、それを活用するチャンスはほとんどありません。
それゆえ、・・・過剰な蓄積があるところでは、非活用 が生ずるでしょう。
 過剰蓄積があるところでは、人々は、自分の上品な性向よりは、自分の卑しい性向にふけることによって富を濫用する傾向があります。
それゆえ、私がすでに明らかにしたように、古代の王と太守のほとんど、そして貴族と今日のなすべきことを持たない富裕な人々のほとんどは、全体として、邪悪で、卑劣な心の持ち主です。
さらに、知的関心、精神性の関心をもたない政府の官僚もまた卑劣な心の持ち主になります。
 私たちは、率直に判断しなくてはなりません。
もし、過剰に蓄積した物的身体的パブルムと知的心理的パブルムが活用されないなら、自然に罪に向かいます。
もし、人々が、発達した知性をもっていても適切に導かれなかったら、・・、
その人々は洗練された悪魔になり、他の人に苦しみを与えます。・・・
過剰蓄積した物的身体的パブルムと知的心理的パブルムの非活用は、罪人.になる第二の原因です」(注8)

 つまり、サーカーは、衣食住が足り、余分の財をもっている時、もし、精神性の高い知性に導かれないなら、その財の使い道は、自分の心を粗大化させる方向に流れてしまうというのです。

 この視点から、最近、驚くべき犯罪を引き起こし、注目されている高校生の年代のパブルム(心の求める対象)を考えてみましょう。
適切なクラブ活動などで自分の技能、体力の向上を目ざしているものは、心理的力を高めて、自分の物的身体的限界を超えようとしていることですから、上向きの動きです。
しかし、アルバイトでお金をもうけて、バイクなどを買おうとしている心は物的身体的パブルムにとらわれていることで、次第に心は粗大化し、粗野になります。
過度に化粧にとらわれる生徒の心もこの理屈でいうと物的身体的なものに向かっていますから心は粗大化し、粗野になります。
目立たぬ子で、家に帰って粗暴なマンガやエロ本や俗悪なビデオをみている生徒も、心の中は粗野になります。
日々のテレビ番組も、視聴率が大事ですから、人々の物的身体的パブルムに照準をあわせて作られています。
高校生だけでなく社会全体の心の粗野化を促進しています。

 高校生は、物的パブルムにとらわれてゆくようにしむけられている文化状況の中にあります。
知的精神的パブルム、すなわち知的関心をひきだし、精神性の向上の願いを引き起こすような教材を意識的に準備したり、行事を組み立てたりして、彼らの心の中に、粗大から精妙に向かう運動を引き起こすことをめざすことが必要です。

(2)リンパ液がホルモンや精液の原料であるとするサーカーの仮説

 最近、医学研究の中には、心と身体を統一的に見てゆこうとする総合医学、全体医学が発展してきています。
しかし、その動きは全体の一部にとどまり、人間に関して研究している各学問は、依然として心と身体とを切り離して、それぞれの分野を研究しています。
サーカーは、バイオ心理学という心と身体を統一的にみてゆく学問分野を提起しました。
その中で、彼は心身の相互作用が行われる基本的な要素として「心、網状組織、腺、神経細胞、リンパ」の五つがあると提起します。
そして人間の資質の形成にリンパ腺の発達が大きくかかわっていると考えます。

 サーカーは、「リンパ液の重要性」 について次のような発言をしています。
「リンパ管は各器官や腺にリンパ液を提供します。
そして余分のリンパ液は脳にいきます。
そして頭の中の神経細胞のための栄養物を提供します。
リンパ液が活性化した腺に届くとホルモンが作られます。

 精巣のリンパ腺は精巣が働きはじめると同時に機能しはじめます。
精巣のための原材料は、その場所にあるリンパ腺で作られたリンパ・ホルモンです。
リンパ液は精巣で精子に変化します。
リンパ液が太陽神経叢に届くと愛の精神と子供に対する愛着心が発達します。
女性の体では卵子が卵巣で作られます。
他のいくつかのリンパ液は身体と身体的魅力を維持するエネルギーとして役立ちます。
また女性の場合には一定部分が乳に転化します。
 もし、リンパ液が継続的に規則正しく供給されなかったら、太陽神経叢は正しく機能できません。
精神性の向上をめざして修養している人の場合は、太陽神経叢へリンパ液が十分に分泌します。
したがって、子供への愛は至高存在への愛に転化するのです。
すなわち個別存在への愛は至高意識に対する愛に転化するのです。
リンパ腺はこのように心理的な変化をもたらすのです。・・・」(注9)

 以上のようにサーカーは、リンパ液は、脳の神経活動、愛情を司る網状組織など身体の各所のホルモン分泌と精液の原料として働くと考えます。このサーカーのリンパ液論は、彼の言うところの直観科学によるものであり、近代科学によって未だ証明されていない仮説にすぎません。(注10)

 しかし、人間の感情が各種ホルモンの分泌によって司られていることは科学的に証明されています。
たとえば、怒りや恐い時に分泌されるノルアドレナリン、アドレナリン、満足感情を生み出し、怒りをおさえるセロトニンなどかなりの数のホルモン(脳内においては神経伝達物質)が明らかになっています。

 そしてこのホルモンの原料となり、かつ精液の原料ともなるのがリンパ液だとサーカーは考えるわけです。
もし、このサーカーの仮説が正しいとすると、もし、ある人が、朝から晩まで家にこもって俗悪なエロビデオをばかり見ていたとするとリンパ液は精液の原料として使われ、脳の理性的な活動のためのホルモン(神経伝達物質)の原料が足りなくなることになるわけです。
このメカニズムをもう少し詳しく考えてみましょう。

(3)心の求める対象(パブルム)とホルモン分泌=人間形成

 パブルム(心の求める対象)には、物的パブルム、物的知的パブルム、知的パブルム、知的精神的パブルムがあります。
物的パブルムとは、文字どおりに物への欲求です。
食欲や性欲など身体的な欲求も含まれます。
知的パブルムにはいろんな種類ものがあります。
読書は知的パブルムですが、読む内容により大きな相違があります。
エロ本を読んで好色を刺激され、身体的欲求を引き起こすものは、知⇒物的パブルムです。
純粋に好奇心で推理小説を読むならば、知的パブルムです。
心が浄化されるような芸術的作品を読むならば、知⇒精神的パブルムです。
すぐれた芸術作品などに感動して、我執のない無私の愛に憧れるならば、それは精神的パブルムです。

 心のもとめる対象(パブルム)が、どのようなものであるかによってその人の精神性の高低を規定します。
同時にそれはホルモン分泌によって規定されます。
すなわちどんなに高い精神性を実現しようと思っても、愛や精神をつかさどる腺や脳神経の部分のホルモン分泌の材料=リンパ液が不足するならば、それは不可能なことです。

 具体的に考えてみましょう。
性的興奮をするような写真などをいつも見ていると、目から心へ、そして性腺に影響し、精液が製造されます。
そうするとリンパ液が過剰に精液の製造に用いられて、理性的に判断するためのホルモンにまわすリンパ液の栄養分が脳に不足し、非理性的となるわけです。

 連続幼女殺人事件のMの部屋の中には山とエロビデオが積まれていたと報道されていました。
そして彼は一人で部屋の中にいたというのです。
一日中エロビデオをみて、彼の性腺は刺激され続け、精液を製造します。
脳にゆき、理性的判断のために使われるべきべきリンパ液内のミネラル分などが精液として過剰に消費されて、狂気に至ったと考えられます。

 性の自由化はどんどんすすんできました。
各家庭にビデオがあります。
そのビデオを使って、子どもは隠れてエロビデオを見ることができます。
こんなことができるようになったのはつい最近のことです。
最近、ストーカーの人数が増大していることも、その原因の一つにこのような背景があると推測されます。
最近、中学生たちによる5000万円恐喝事件が報道されましたが、彼らも仲間でエロビデオを見ていました。
エロや暴力ビデオとホルモン分泌と心の科学的な関係が調査される必要があります。

 テレビのコマーシャルをはじめ、性的な刺激があふれている現在の文化は、早期の性的成熟を促し、脳の発達に大切なリンパ液を早期から精液の方にまわして、理性の発達を妨害している可能性があります。

(4)精神性の高い人格性へと高まるために 肉食をやめ、菜食、葉緑素を摂取すること。

 このように心が、物的パブラムに駆り立てられたら、物的な欲望を刺激するホルモン分泌が活発となり、高い愛や精神性を支える腺のホルモン分泌が不活発になるとサーカーは考えました。
では生活必需品に困らず、その気になれば、物的パブルムに駆り立てられる必要のない私たちが、どうしたら物的パブルムに駆り立てられることから解放され、より高い精神性をもって生きてゆくことができるでしょうか。

 そのためには、自分の心が高い精神的なものを求めるように意識的に努力することはもちろんのことですが、以上のサーカーの議論からするとホルモン分泌の材料であるリンパ液が十分に分泌されるようにリンパ液の原料となる栄養素を摂取することが必要ということになります。

 サーカーは葉緑素はリンパ液の原料ではないけれども、リンパ液の産出を促進する役割を果たすと言います。
「もし、男性が、動物性タンパク質を過剰に摂取したらリンパ液の量が減ります。
そして精子に転化するリンパ液の量が増えます。
これは知性の発達の遅れに導きます。・・・
食事と心と知性の関係に注意を向けるべきです。
肉食者は、穀食者よりもより頭の回転が早く抜け目がないかもしれませんが、一般に知性は劣ります。・・・
 菜食主義者はより多くリンパ液を作ります。
なぜなら、彼らは草や緑の野菜から葉緑素を沢山得るからです。
彼らの脳が非菜食主義者よりも発達する理由はここにあります。
動物性タンパクばかりを摂取し、緑の野菜を摂らない人はリンパ液の不足に苦しむことになります。
動物性タンパクはほとんど葉緑素を含まないからです。・・・
 多くの葉緑素を含む食事をするならば、リンパ液が最大限まで生み出されます。・・・
 リンパ液は動物タンパクからも作られます。
しかし、動物性タンパク質は人間の体に多くの熱を生みだすので、リンパ液はすぐに精子に転化するのです」(注11)

 すなわちサーカーは、葉緑素を含む野菜、海草類を食べるならば、リンパ液が十分に作られる、そのため野菜、海草類を食べる人間の方が肉食をする人間よりも知性が高いと言うのです。
ここでの知性は、IQの知能という意味ではなく、精神性に導かれた知性の高さ、道徳性などの側面の判断力を指しています。
このサーカーの仮説が正しいとすると、現在の文化だけでなく、今日の私たちの食生活そのものが、精神性、道徳性を低めていることになります。

(5)瞑想、静かな環境、よい仲間は、リンパ液の産出を促進する。

 さらにサーカーは、その他のリンパ液の産出を促進する要因をあげています。
「リンパ液の大部分が失われてしまう人もいます。
それは知的に欠陥があるからです。
しかし、精神性の修養をする人は、そのリンパ液の大部分が彼らの体の中に残るために知的欠陥に苦しむことはありません。
これが、精神性の修養する人が、普通の人々よりも知的水準が高い理由です。
 肯定的要素や否定的要素は、触媒としてリンパ液の製造に重要な影響を及ぼします。
肯定的な心理的物的環境は積極的な触媒要因です。
そして否定的な心理物的環境は否定的な触媒要因です。
たとえ食べ物に気をつけていたとしても、環境が否定的であれは、それは知的心理的な進歩に有害です。
映画館、売春街、繁華街は否定的な物的環境です。
人々の間に広まっている悪い議論、悪い本、悪い考えも、否定な心理的環境です。
もし、前向きの議論があるならば、肯定的な心理的環境が作られます。
これはリンパ液の製造を助けるものです。」(注12)

このように瞑想による精神集中や静かな自然環境や良好な人間関係は、リンパ液の十分な産出を促すが、「映画館、繁華街」「悪い議論、悪い本、悪い考え」は、否定な心理的環境としてリンパ液の産出を妨害するとしています。
もし、そうだとするならば、まさしく私たちの社会では、地方の農村にいたるまで知的心理的進歩のために有害な文化があふれています。

(6)筋肉運動とリンパ液の循環

 仮にリンパ液が十分に産出されたとしても、リンパ液がスムーズにリンパ管を通じて循環し、身体の各箇所でのホルモン分泌の材料とならなくてはなりません。
血液が心臓をポンプとして循環するのに対して、リンパ液の循環は、筋肉の運動によって循環してゆきます。
したがって、リンパ液が循環するために、筋肉運動が不可欠です。

 机に向かって一日中パソコンばかりして運動不足になると風邪をひきやすくなります。
リンパ液は免疫システムでもあるので、筋肉運動不足によるリンパ液の循環の悪化は、免疫能力の低下をも促すのです。

 しかし、人格形成におけるリンパ液の重要性というサーカーの観点に立つならば、筋肉運動不足によるリンパ液の循環不良は、単に免疫機能に影響を及ぼすだけではありません。
ホルモン分泌とかかわっているために知性や情動面にも影響を及ぼしかねません。

 筋肉運動をせず、しなやかな身体を作らなかった場合にどうなるでしょうか。
たとえば、意気消沈した時、肩をおとして歩きます。
その意気消沈した気分が回復しても、肩を落とす姿勢がそのまま残りがちになります。
すると今度は、その姿勢が、逆に意気消沈した心を維持することになります。
身体の姿勢が、リンパの循環に影響をおよぼし、ホルモン分泌に影響を与えるからです。

 サーカーは、ヨガの指導者としてヨガ体操も教えました。
ヨガのポーズは、筋肉の屈伸によりストレッチと同じくリンパ液の循環を促進するほか、さまざまの内分泌腺に刺激を与え、バランスのとれたホルモン分泌を促します。
ホルモン分泌のバランスの乱れからくる人間性の心理的ゆがみ(たとえば、意気消沈して落ち込んでいたり、おこりっぽかったり、横暴だったり、わがままだったり、臆病だったり)を是正できると考えます。
実際、ヨガをすると他の体操ではあじわえない爽快感を味わえることもあります。

 30~40年前までのように子どもたちが、空き地や野原で群れて、身体を動かして遊ぶことはなくりました。
とくに最近では、長時間ファミコンの前に座っている子どもも増えています。
それは、以上の議論からすると、免疫システムの性能の低下だけでなく、子どもたちの精神性の低下の背景にあるということになります。

(7)小括 

 以上、私たちの社会の子どもや大人が、なぜ狂ったのかについてサーカーの観点からまとめると、次のようになります。
第一に、社会全体が貧困な時代から高度経済成長の時代を通じて物質的パブルムに駆り立てられてきた。
そして今日もなおも、社会環境は、物質的パブルムを駆り立てるものから脱却できていない。
物質的パブルムにとらわれた心は粗大化し、粗野になり、凶悪なものから軽いものまで数多くの罪を生み出している。
第二、性的描写に社会がいっそう寛大となってきた。
さらにビデオなどの普及でエログロ文化は発達途上の子どもの心を一層むしばむものとなっている。
知性の発達に使われるべきホルモンの原料のリンパ液が精液の方に消費されてしまい、知性の低下をもたらしている。
第三に、リンパ液の産出の妨害する肉食が一層ひろがり、リンパ液の産出を促進する菜食が全体として減っている。
また食品添加物など身体の浄化を妨げるものは心にも悪影響を及ぼしている。
第四に、リンパ液の産出を促す精神性向上のために良い落ち着いた環境が失われている。
第五にしなやかな身体をつくる筋肉運動に欠ける環境で、リンパ液の循環が悪くなり、ホルモン分泌のバランスも崩しやすくなっている。
したがって、よりよい社会を作るためにはこれらの点を克服する必要があるということになります。(注13)

第三章 サーカーの社会理論から見た今日の人間危機と教育

(1)進歩的活用理論

 サーカーは、1960年代より進歩的活用理論(Progressive Utiliazation Theory PROUT)という新しい経済社会理論を提唱しています。
それは、各地域が農業、工業などの自立的再生産構造をもち、その上で各地域の余りあるものを自由に交換するバランスのとれた経済体制です。
そして中央の本社や国が地域の経済開発を決定する権利をもつ中央集権ではなく、地域の人々が決定権をもつ地方分権経済、企業の労働者が企業の共同所有者となり、労働者が経済決定権をもつ経済民主主義などです。

 すでに見たようにサーカーは、いろんな箇所で、先進国では多くの狂った人間がでてくると述べています。
次の「均衡経済の原則」という1986年におこなった講演の中でも、最近の日本社会で連日のようにおきている狂気の犯罪の発生を予見するかのような発言をしています。
「過剰な工業化の有害な国内的帰結は、人々の個人的、社会的、国民的な健康に影響を及ぼすばかりか、次第に個人と集団の心の悪化をもたらします。
ほとんどすべての生命の表現を害し、破壊するある種の心の病が流行するかもしれません。
これは現在起きていることではありません。
しかし、必ず近い将来おきるでしょう。」(注14)

   農業が衰退し、過剰に工業化、都市化した社会は、均衡の崩れた経済であるために健康の悪化だけではなく、心も悪化させると言うのです。
サーカーのプラウト経済論によれば、たとえば東北地方など地方の人々が大都市に出稼ぎなどをしなければならないような状態は、既得権益をもつものが自分のどん欲の追求に走り、地方にバランスのとれた自立した再生産構造を創出する努力を怠った結果です。
したがって、それぞれの地方に農業と農業関連の工業などがバランスよく存在し、地方が経済的に自立すること、そして大都市圏ではむしろ農業の復活をはかることが必要となります。
それは同時にエネルギーや食料の外国依存をやめ経済的に自立することでもあります。
そして同じように経済的自立した世界各地域が対等に協力しあう体制をめざします。

 このような農業と工業やその他の産業のバランスのとれた自立的再生産単位としての地域が作られるとき、地域社会の復活と自然環境の保護がなされ、現在見られる破壊的な心の持ち主が登場せず、情緒の落ち着いた人間が育つ基盤ができるわけです。

(2)教育が権力への愛と経済的どん欲から自立すべきこと

 サーカーの弟子の教育者であるアナンダニヴェディータは、教育が権力や経済的営利追求の僕になっていることを批判して次のように書いています。
「教育の目的は、新らたな知的、精神的成長のための雰囲気を育むことです。
不幸にも教育は隠された利害をもつ諸個人の支配下にある現状を維持するものとなっています。
権力への愛は、利害を隠すために教育を犠牲にするよう指導者を駆り立てています。
適切な導きと運動があれば、子どもたちは、その先行者を乗り越えて、より高いレベルへと進んでゆきます。
教育が権力の犠牲になる時、教育的水準は低下し、子どもたちの発達はひどく妨げられます。
 家庭生活も教育と同じく外部の集団の影響を受けます。
先進国では、家族は仕事のためにしばしば引っ越しします。
大家族(=核家族の反対の言葉)は人間関係を維持して互いに支え合うことが難しくなります。
子育ては孤立した営みになります。・・・
 大企業はさらに行き過ぎた物質主義に家族を引きずり込むことで健全な家庭生活のあり方を崩壊させています。
就学年齢前の子どもでさえ、商品のブランド名を知っていて、両親にファーストフードをせがみます。
狡猾な商品の宣伝があらゆる年代の人に浴びせかけられています。・・・
たいていのメディアは、冨と力が成功の物差しであるというメッセージを伝えています。
家族が、倫理性、精神性において向上することを支援するような内容はほとんど見いだすことができません。
したがって、この雰囲気のもとでは、家庭も学校も、子どもの成長を適切に守り、支えることにしばしば、失敗します。」(注15)

 このように指導者の権力への愛や大企業などの経済的どん欲が、地域経済を破壊し、地域の教育力を奪い去っていることを指摘します。
各地域にバランスのとれた経済構造を打ち立てることを根本目標としつつ、教育の面でもサーカーは現場の教師に大きな権限が与えられるべきだと次のように主張しています。
「世界中の多くの国々で、教師は自分たちが教育政策を策定する権利を持っていません。
むしろ教育政策は、一般的には政治家によって決定されます。
彼らのほとんどは教育の体験を持ちません。
もし、教師が理想的な人間を育てることに責任を持っているとするならば、教師を教えるマシーンにするのではなく教師自身に教育政策を策定する権利を与えなければなりません」(注16)

 すなわち教育が企業の営利とどん欲、そして政治権力から独立する時に、真に教育は、他の人々に奉仕する責任感を育て、人間の可能性の実現の機会を十分に提供するものとなるというのです。
サーカーは、上意下達の中央集権構造が経済をゆがめていると考えます。
同様に彼は、教育においても現場から離れたところで教育政策を決定して下部に押しつけるシステムは、社会の真の福利の前進の妨げとなると考えます。

第四章 道徳性を高める教育的働きかけの思想と方法

(1)不道徳な人間をどう道徳的に高めるか。

 すでに論じたように、サーカーの考えでは、物的領域と知的領域の進歩だけでなく、それが精神性の進歩をともなってはじめて社会が進歩したと言えます。
学校教育の中でも不道徳な人間を社会に送り出さないという重要な使命があります。
では、いったい目の前に数多く見いだす不道徳的な青少年たちにどう私たちは対処したらいいのでしょうか。
サーカーは次のように述べています。

 「今日の社会では多くのささいな犯罪があります。
もし、あなたが彼らを罪人と呼び続けるならば、彼らは、心に深くコンプレックスを持つようになるでしょう。
『私は罪人だ、私は嫌われものだ、私は卑劣な不道徳な人間だ、私には未来がない』と彼らは考えるでしょう。
このようなことをしてはいけません。
むしろ、あなたは彼らのよい資質を発見し、それをほめなくてはなりません。
ほめることは、彼らがその特性を磨くことを励まし、美徳の道に進ませるでしょう。
彼らは自分の邪悪さよりも自分の良い資質に専念するでしょう。
その結果、次第に彼らの罪深い傾向を減少させるでしょう。
最終的に、どんな罪も犯さなくなる日が来るでしょう。・・・
 しかし、もし、このような罪人が無視されるならば、彼らの進歩は阻まれ、いっそう罪深くさえなるでしょう。
もし、彼らが繰り返し罪人と呼ばれ、もし、彼らが社会的処罰を受けさせられるならば、彼らの罪をおかす習慣はいっそう増大でしょう。・・・
そして悪の道にあまりに固執するようになり、いつの日か社会の大きな重荷になるでしょう。
ほとんどの人々は人間の基本的な心理を知らないので、いわゆる罪人が社会のより大きな重荷になってしまうように行動しています。・・・
あなたは彼らがすぐに彼らの中に眠っている気高い資質を発達させるように激励すべきです。
これは正しい心理学的なアプローチであり、矯正の現実的な道です。」(注17)

 このサーカーの言葉は、私たちが青少年の問題行動に対処する時に参考になります。
ささいな問題行動をおかしている人を非難、叱責ばかりしているとよけい悪い人になります。
どんな人でも生まれつきよい資質をもっているはずです、そこを見つけてほめなさい。それ以外にその人をよい道に導くことはできません。
処罰、非難、叱責ばかりしている人は、主観的にはその人をよい道に導いていると思っていても、実は、社会の重い荷物を育てているのです。
私たちは、そのような間違った行いに反対し、よい点を評価することで罪人たちを正しい道に導くべきです。
こうサーカーは説いているわけです。
ただし、犯罪について処罰すべきことを否定しているわけではありません。

 どのような罪人でも良い資質を見つけてそれを認め評価すること、それ以外に人間を矯正する道はない。
これはよく説かれる一般的な教育の原則ですが、実際に教育者として青少年に接する時も、心にゆとりがなく、心が狭くなっている時は、そう心がけても、このようなねばり強い態度はなかなか難しいことです。
サーカーは、教師が心のバランスを回復して安定した気持ちで青少年に接することができるように毎日短時間の瞑想を勧めています。
教師自身の精神性の向上があって、はじめて生徒の精神性を高めることができると考えるわけです。

(2)サンスカーラ論

 近代の哲学によれば、人間の苦しみは、その人を取り巻く外部環境からやってきます。
もちろん、それは正しい見方です。
貧困や戦争、公害などを考えればすぐに理解できます。
しかし、内面的な苦しみは、その人自身の過去のまちがった行動に起因しているとサーカーは考えます。

 彼は、それを説明するのにサンスカーラ(反作用の潜在力)という概念を用います。
サンスカーラとは、その人が過去におこなった行為の束です。
心の奥にボールの球があるとします。
たとえば、誰かの心を傷つけたとします。
そのおこないで相手が苦しんだ分だけそのボールにへこみが生じます。
それがサンスカーラ(反作用の潜在力)です。
ですから、必ず、時期がきて適切な環境が整った時、ボールのへこみはもとにもどります。
すなわち相手を傷つけた分だけ自分に戻ってくるというのです。
後で、その人や別の人に親切にしたからといって、その親切によって傷つけた分のサンスカーラが消えるわけではありません。
親切にした分は別のへこみとして形成されます。
したがって、人間は、過去に自分に無害なのに多くの人を苦しめていれば、必ず、将来、その分量だけの苦を受けることになるのです。

 サーカー自身の言葉で見てみましょう。
「あらゆる行いには反作用があり、その行いをした人物はその行いの反作用を体験することになります。この法則は変えることができません。
そしてこの法則を変えようと祈ることは、ただ時間を浪費しているにすぎません。
祈りは運命を変えることはできません。
反作用の体験は避けることができません」(注18)

(3)道徳性向上のために身につけ、教えるべき五つの原則(ヤーマ)

 サーカーは、精神性の向上をめざすものは、アヒンサー、サティヤ、アステーヤ、アパリグラハ、ブラフマチャリヤの五つの原則を守って生きるべきだと考えます。
これらは総称としてヤーマ(注19)と呼ばれる道徳的原理です。
道徳的高さなしに、精神性の向上は実現できません。
この五原則とは、次のような意味です。
子どもたちに分かりやすく話す際の参考にサーカーのサンスカーラ論をふまえた説明を加えておきます。
(1)アヒンサー=考え、言葉、行いで害無きものに苦しみを与えない。
(この原則を守り抜いたならば、その人のそばではすべてのものが敵意を捨てる。)
(2)サティヤ=常にやさしい心で真実のみを話す。
(嘘を言わないというこの原則を守り抜いたならば、その人の考えや言ったことが実現するようになる。)
(3)アステーヤ=他人のものを一切自分のものにしない。
(この原則を守り抜いた人は、求めずして望むものがかなえられるようになる。)
(4)アパリグラハ=必要以上の快適さや快楽を追い求めない。
(この原則を守り抜いた人は、深刻な問題に苦しむことのない人生を送る。)
(5)ブラフマチャリヤ=自分も含めて、すべてのものは無限の宇宙の表現の一部であると考える。
(この考えをもって生きるならば常に正しい人と正しい人生を過ごすことになる。自分の見ているもの、聞いているものがより美しく見え、より充実した人生となる。)

 このような道徳原則を完全に守って生きる人間をサーカーは、サドヴィプラと呼びます。
そしてこのモラリストたちが、社会のリーダーとして押し出される時、社会は精神性の向上を伴って真に進歩してゆくことができると考えます。

終わりに
「今日の人間は、かなり知的な進歩をとげています。
しかし、外部の世界との調整が欠けています。
今日、教育のある人々の中に、多くの精神の病=心理的な混乱に苦しむ人々が増えつづけている理由はここにあります。
内部の世界のスピードと外部の世界のスピードの間に調整がないからです。
スピードだけでなく律動にも調整不全があります」(注20)

 サーカーは、一般の人々に毎日短時間の瞑想をすることを勧めています。
しかし、精神世界にのみのめり込むことを欺瞞であると強く批判します。
この現実世界に生きている以上、この現実世界に対する人間としての責任を果たすことを求めます。
通常、瞑想家というのは現実世界から逃避する形で心の平安を求めます。
しかし、彼は、まったく違ったタイプの精神性の指導者です。
心の奥への探求と外部世界への探求は、両方がバランスをとれていなくてはならず、心の奥=精神性の向上の探求を怠って外部世界のみを追求していると次第に心は物質的になります。
その逆は幻影の追求で欺瞞になります。
どちらもバランスを崩します。
なお、外部世界への追求の原理を、彼はサマサマジャ・タットヴァ(社会的平等の原理)と述べて、個人的な私利、どん欲を越えるべきことを主張します。
個人的私利、どん欲を越えて生きる時、心の奥に向かう精神性はいっそう高まるという関係にあります。



注1、ネオ・ヒューマニズムの提唱者 P.R.サーカー(1921~1990)・・・(略)
注2,汎神論的ネオ・ヒューマニズムとサーカーの哲学
サーカーは、宗教を根拠なしに信じるドグマとして批判するが、ブラフマンを神と考えている。したがって、あなたもわたしもあの木もあのねこもあの星も神のあらわれとして見るわけである。このような神の見方は汎神論である。サーカーの復元したこのウバニシャッド哲学だけではなく、西洋近代のジョルダノ・ブルーノ、スピノザ、そしてヘーゲルなどのドイツ観念論哲学も汎神論である。唯物論か観念論かの枠組みで論ずれば、本文では第三の論だと紹介しているが、明らかに観念論である。
 しかし、サーカーの哲学は唯物論的観点をも包含うる巨大な哲学構想である。すなわち大宇宙の展開を前半と後半の二つの過程に分ける。前半は、大宇宙の根源の精妙な普遍意識が次第に粗大化し、この多様な物質世界として表現する。後半は、粗大な物質が発展して次第に意識が発達し、最終的に大宇宙の意識に融合してゆく過程である。大宇宙の展開の後半の側面を考えれば、物質から意識が生じているがゆえに唯物論である。しかし、前半の過程は意識から物質が生じているがゆえに観念論である。
注3Anandanivedita Avk., Teach me fly. Gurukula Publications,West Bengal,1999.p.5 
注4 、P.R.Sarkar, Human Society is one and indivisible 3 17 June 1979 Calcutta,Prout in a nutshell part7,Orient Press, Calcutta,1987,p.35
注5,P.R.Sarkar, Human Search for Real Progress,Prout in a nutshell part6,Manasi Press,Calcatta,1987,p.50
注6, Ibid.,p.51
注7, Ibid.,p.52
注8 P.R.Sarkar, The Three Causes of Sin, Prout in a nutshell part8,Orient Press, Calcutta,1987,p.6-7   なお、サーカーは、本文で紹介した罪の二つの原因の他に罪の第三目の原因として、変化に対応しない保守的な心をあげています。すなわちは、この有限の世界(物的身体的領域と知的心理的領域)は、ありとあらゆるものが生成、発展、消滅をくりかえすダイナミズムの中にあります。保守的な心はこの変化をつぶそうとします。それは自分自身の自滅であり、同時に他人を傷つけることになるがゆえに罪の原因であるというわけです。
注9 P.R.Sarkar,Bio-Psychology,Calcutta,3,June 1987,Discourses of Neohumanist Education,Ananda Marga Publicaitons,1998,p.263
注10 サーカーは、帰納法と演繹法を基本とする近代科学の方法に直観科学という方法があると主張します。直観科学とは高いレベルの瞑想によって真理に認識する方法です。サーカーは、ドグマを根拠なしに信じるなと繰り返し述べ、事実にもとづいて科学的合理的に判断せよと述べています。したがって、従来の研究についても調べた上で、瞑想によって向上した直観力によって、より総合的な全体把握の仮説を提起しているものと考えます。したがって、このサーカーのリンパ液論を単なる瞑想家が言っていることとして無視することはできないと考えます。
注11,P.R.Sarkar,Discourses of Neohumanist Education,p.264
注12,Ibid.,p.265-266
注13,ホルモン分泌の及ぼす人間の心の発達への影響について
 サーカーの研究者でもあるオーストラリアのシン医師の研究からホルモン分泌の発達と人間の心のかかわりをまとめておきます。「1)子宮の六週間目の胎児の時、ごく微量の男性ホルモン、女性ホルモンによって男性のふるまい、女性のふるまいの青写真ができる。ジェンダー特有のふるまいは、この段階のホルモン分泌によって決定される。2)三歳~五歳から副腎のアドレナリンが分泌するようになる。これは子どもの活動性とヴァイタリティを向上させる。3)同じく三歳~五歳から下腹部の性腺が微量のホルモンを分泌しはじめる。その結果、子どもは、怒り、どん欲、従順、愛、友情の特徴を示し始める。4)男子の下腹部にある前立腺も機能を開始する。過剰だと憂鬱と意気消沈を引き起こす。分泌不足は、過度の恐怖感と幻覚を引き起こす。この年頃の内気と羞恥心は、前立腺のホルモンの作用である。5)思春期に入ると、脳にある松果腺と脳下垂体の活動が活発になる。下腹部にある性腺のホルモンも活発になる。理性が発達し、この現実世界の愛着、関心が強まる。愛と同情の心も行動の中にでてくる。しかし、環境が悪くて松果腺と脳下垂体が発達を妨げられると、残酷さ、憂鬱、妄想を引き起こす。6)同じく十代半ばに喉にある甲状腺、副甲状腺が成熟する。そのホルモンの過少分泌は、自己肥大でケンカ好きな虚栄心をもった横暴な性格をもたらす。適度な発達は愛と自立心の感情発達させる。」Dr.J.Singh,Biopsychology,A new science of body,mind and soul, Gurukula Publications,west Bengal,1998,p.91-96
注14,P.R.Sarkar,Principles of balanced economy,6 April 1986,Calcutta,Proutist Economics,Ananda Marga Publications,Calcutta,1992,p.36
注15,Anandanivedita Avk.Op.cit.,p.7-8
注16,P.R.Sarkar,Discourses of Neohumanist Education,p.15
注17、P.R.Sarkar, No more exploitation, 4,January 1979 Patna , Prout in a nutshell part8,Orient Press, Calcutta,1987,p.12-13
注18、Shrii Shrii Anandamurti,,AnandaMarga Ideology and Way of life in a nutshell part1-4,Ananda Marga Publications,Calcutta,1988,p9-10 このShrii Shrii Anandamurtiとは、サーカーのヨガの指導者としての名前。
注19、P.R.Sarkar,Discourses of Neohumanist Education,p.243
注20、Ibid.,p.228



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