From Moon to Sun - New Age Music Classic Song by Marcome (video inspired by god of star)


(I downed theory of education which raise up quality of ectoplasm)

Dear
I am god salamnidam who downed theory P.R. Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of assistant Mitsuki in whole life.
Mitsuki studied almost books of theory of P.R.Sarkar which I downed.
Mitsuki's summery is excellent.
Project of Heaven and gods decided to introduce all studies of theory of god salamnidam.
God salamnidam add explanation to study of Mitsuki.

Theme of this page is that raise up quality of ectoplasm is education.
Raise up of quality is fundamental theme of education.
Education of today makes down quality of ectoplasm.
This is not education.
I downed theory of education which raise up quality of ectoplasm.


こんにちは
私はP.R.サ-カ-に理論をおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトはアシスタントのミツキの全生涯の研究を紹介しています。
ミツキは、私がおろしたP.R.サ-カ-の理論の本をほとんど研究しました。
天と神々のプロジェクトは、神サラムニダムの理論のすべての研究を紹介することを決定しました。
神サラムニダムはミツキの研究に説明を加えます。

このページのテーマは,思念体の質をあげることが教育である,です。
質をあげることが教育の根本問題です。
今日の教育は思念体の質を下げています。
これは教育ではありません。
私は思念体の質をあげる教育理論をおろしました。

サーカーの教育理論

1)統合的人格の形成

(1)教育とは外的客観性の内的主観性への変容

 サーカーは教育について次のように説明しています。

 「教育は、外部の物質性physicalities の同化吸収、転換、変形を意味します。
物事に関する知識が、あなたの心の中の領域に転換されてきます。
この外的客体性の内的主観性への変容が、教育です。
だから、教育は、外的客観性の内的主観性への変容です」(Talks on Education)

 どういうことでしょうか。
サーカーの心理学によれば、心は、心の材料から成り立っています。
私たちが外的客観性であるバラの花を見たとしましょう。
心の材料は二つの部分にわかれます。
一つは、心の材料がバラの花の形をとる部分です。
それは内的客観性です。
そしてもう一つは、バラを見ている仕事をしている心の部分です。
これは主観的部分です。
バラの花の内的主観化による同化吸収とは、目を閉じても心の主観の部分が、心の材料を変形させてバラの像を再現できることです。

 したがって、バラの花をただ見せただけでは、まだ教育ではありません。
これが「バラの花です」と教えることによって、心の主観の部分が、心の材料をつかってバラの花を心の中に再現できるようになった時に教育がなされているのです。
次にチューリップを見せた時、バラの花の像を心の主観の部分が心の中に再現することによって、チューリップとの比較もできます。
それゆえ「教育は、外的客観性の内的主観性への教育です」

 同様に他の人に知識を理解させる(教える)ことについて次のように述べています。

 「シクシャ"shiksa"は、ヴェーダの言葉で『他の人に理解させる』という意味です。
『他の人に理解させる』ことを心理学的に解釈すると、内的主観化によって客観性(対象性、物性)objectivityを同化吸収させることです」(Talks on Education)

 Subject(主観、主体)とObject(客観、客体、対象)の意味が理解できている人には理解が容易です。
料理番組があるとします。
料理方法がobjectivity(客観性)です。
その料理番組を見ている人が、その料理方法を理解して吸収する過程が、内的主観化inner subjectivisationです。
心の主観的部分が調理方法を心の客観的部分に投影しながら、実際に調理ができなくてはなりません。

 「内的主観化」とは学んでいることを実際に身につけることを意味します。
試験の時によい点がとれるだけでなく、本当に学んだことを生かすことができることを意味しています。

(2)三領域の統合的発達

 ここでは、外的客観性として物的身体的領域に例をとりました。
しかし、人間存在にとってのリアリティは、三領域あります。
物的身体的領域と知的心理的領域と精神性(スピリチュアリティ)の領域です。

 「外的客観性」とは、犬、太陽、原子、細胞など「肉の目」で観察可能な物質領域に属すものだけではありません。
友情、信頼、任務、意義、など「知の目」でしか理解できない知的心理的領域に属す言葉もあります。
小説のストーリーの理解も「肉の目」が必要ですが、理解するのは「知の目」です。
また美しい音楽は、物的領域にある空気の振動を通じて、スピリチュアリティ(精神性)の領域を振動させ、感動を与えます。
音楽をマスターして奏でることができるようになることも「外的客観性の内的主観性への転化」だと考えられます。

 「教育の目的は解放することです。
教育の真の意味は三辺の発達です。
人間の存在の三つの領域すなわち身体、知的心理的、精神性の同時の発達です。
この発達は人間の人格の統合を高めるものです。
これによって天賦の人間の可能性が目覚めさせられ、適切に活用されます」(Some Hints of Intellect)

 このサーカーの観点からすると教育は、身体的側面、知的心理的側面、精神性の側面の三領域の均衡と発達を同時に追求するものでなくてはなりません。
身体だけ発達して、知性と精神性が発達しなかったら人間構造をした獣になります。
知力だけ発達したら、「洗練された知的悪魔」になります。
精神性だけ発達して知性が低下した最悪のケースはカルト団体です。

(3)「客観性へのアプローチ」と「主観性へのアプローチ」

 サーカーは、教育における「客観性へのアプローチと主観性へのアプローチ」という言葉を用います。
今日普及している西洋型近代教育は、客観性へのアプローチを主としているが、主観性へのアプローチが欠落しているというのです。

 サーカーは、近代教育の客観性へのアプローチを肯定した上で、主観性へのアプローチの導入の必要をとなえています。
この二つのアプローチとはどういう意味でしょうか。

 客観性へのアプローチとは、心の流れが、精神性の領域⇒知的心理的領域⇒物的身体的領域への方向にあるものです。
精神⇒心spirito-psychic、心⇒物・身体 psycho-physicalなどです。(注)

 (注)psychic
psychicを、「霊」と訳している本は多いですが、サーカーの場合、明らかに知的心理的領域を含んでいます。
知の方に重点がある場合は、知⇒物・身体の流れをintellecto-physicalとも表しています。
 たとえば、物質界を解明している科学者の思考の流れは、知⇒物的アプローチであり、客観性へのアプローチです。
念じるものに心は近づきますから、その場合見ているものは部分ですから、心は断片化します。
一なるものの顕現(一者の多者への顕現)としてこの世界を見ることによって心の断片化を防ぐことができます。

 主観性へのアプローチとは、心の流れが物的身体的領域⇒知的心理的領域⇒精神性の領域に向かうものです。
身体⇒心physico-psychic、心⇒精神性psycho-spiritualなどです。
知⇒精神性intellecto-spiritualもあります。

 音楽、美術、書道などの芸術は、知的心理的領域から精神性の方向の流れを引き起こすことを目標にしています。
主観性の方向に流れているので主観性へのアプローチです。
ただし、正確に対象を描写することを練習している段階の美術の学習は客観性へのアプローチです。

 身体⇒心理的な心の流れを考えてみましょう。

 「私たちは、適切な身体的文化を通じて学生の身体⇒心理的physico-psychic側面を発達させなくてはなりません」(Talks on Education)

 サーカーは、身体⇒心の流れの例として「ヨーガのポーズと食事、遊び、スポーツ」などの身体的文化をあげています。
ヨーガだけでなく、太極拳、体育の授業のストレッチ、ダンスも身体⇒心的の流れです。
活動した後の爽快感は、身体的変化の心理的影響です。

 サーカーは心⇒精神性の流れ(主観性へのアプローチ)を促進する主なプラクティスとして瞑想(黙想、座禅)を考えています。

 なぜ、瞑想が主観性へのアプローチでしょうか。
「私は花を見る」を考えてみましょう。
心の材料の一部は「私」になり、「見る」という活動をします。
心の材料の一部は「花の形」をとります。
客観性へのアプローチは、外界の「花」と対応するように心の材料が「花の形」をとることです。

 主観性へのアプローチは、目を閉じて、「花」を消します。
「見る」をやめます。
心の材料は「私」だけになります。
その時、「私は存在する」という感覚が残り、心のさらに内奥の「見つめている私=個体意識」が主観となります。

 その時、心のすべての材料が「私」に収縮することによって、心の活動と結果をコントロールする「私」が強化されます。
「私」の統合力が強化されます。
沈着冷静な人格が形成されてゆきます。

2)地域の人々の内面的特質に応じた教育

(1)プラーナ・ダルマ(内面的特質)

 プラーナ・ダルマとは、それぞれの地域の住民の内面的な特質です。

 「プラーナ・ダルマという言葉は、ある人物を他の人から区別する人物の基本的特徴を意味しています。
各々の人間が自分自身の特徴を持っているのと同様に、特定の地理的、歴史的、文化的環境におけるある特定の種属raceの全体もまた他のものから区別するある特徴を生来的に持っています。
これらの特質は住民全体の内面のふるまいに具体化されます。
そしてそれらは心の特定の傾向、外面的な行動の表現、人生と社会に対する態度、全体として異なったものの見方を形作ります。

 世界の種属の諸系列を見ると、異なった種属は、人生に対するアプローチなどで、お互いに異なっているという事実が明らかになります。
それは内面的多様性です。
内面的な陶冶の徐々なる発展が、生活様式と教育から直接に生じてきます。
この内面的な陶冶がプラーナ・ダルマと言います。
ある種属の活力ある表現がその顕在化の特定のコースを取る時、その顕在化のコースがプラーナ・ダルマです」(Talks on Education)

 サーカーは、一方で人間の心の根源は一つであり、同一であるということを繰り返し強調しています。
しかし、他方で、生活と文化、教育の中で人間集団の心理の流れに特質(プラーナ・ダルマ)が形成されると考えます。(注)

(注) 種属
「race」を「種属」と訳しました。
raceの意味は本来「人種」ですが、サーカーの英訳の中でつかわれているraceには文化的社会的意味がこめられています。
しかし近代的なnationとは明確に違い、かつ人種という生物学的意味ではないので、「種属」としました)
 個人が内面的特質をもつように種属もそれぞれの内面的特質をもっています。
サーカーによれば、その内面的特質であるプラーナ・ダルマは否定されるべき克服の対象ではなく、最大限尊重しなくてはなりません。
したがって、それぞれの地域の人々の心理の流れ(プラーナ・ダルマ)にそった教育制度を組み立てることが必要です。

(2)プラーナ・ダルマにそった教育を

 たとえば、サーカーは、インド人のプラーナ・ダルマは精神性を深めるという主観性へのアプローチであると言います。

 植民地化以前のインドの教育システムは、精神性の知識を深化させる主観性へのアプローチが主であり、それによって高い水準の行動、敬意と謙譲の態度を身に付けさせていた面があったとサーカーは、その肯定面を評価します。

 ところがイギリスの植民地主義者はこのインドの人々のプラーナ・ダルマを無視し、イギリスの教育制度を導入しました。
イギリスの教育制度は客観性へのアプローチを基礎にして主観性へのアプローチを完全に否定するものでした。

 「それは、インド人でもなく、普通の人でもなく、役にも立たない奇妙なグループの人々を生み出しました。
これらのいわゆる教養のあるインドの人々は、習慣、振る舞い、思考、謙遜と人格的健全さにおいてインドの大衆から完全に乖離していました。
それがいわゆる教養ある人々とインドの村人との溝が拡大した理由です。
これらの巧妙な方法を用いることによってインド人の一部が、肌の色はインド人であるのに態度はヨーロッパ人になりました。
そしてこの集団はインドにおける英国人の支配を永続化させる道具となりました」(Talks on Education)

 しかし、同時にサーカーは、植民地化以前のインドの教育の弱点が主観性へのアプローチのみであり、客観的アプローチに欠けいてたことがインドの弱点であったとも考えています。
したがって、イギリスが持ち込んだ客観性へのアプローチを支持します。
その上で、人間性の腐敗、低下を克服するために主観性へのアプローチの再導入を提案します。

 「プラウトは時計の針を元にもどすことを望んではいません。
プラウトは西洋の教育制度を否定しません。
しかし、英国の支配の時代に、西洋の教育制度は、道徳性、敬意、高い水準の振る舞いをインドの学生に教えることにまったく失敗しました。
そのことが、プラウトの教育制度において、私たちがインドのすべての村でアーシュラム(道場)をスタートさせる必要を強調している理由です。
もし、これがなされるならば、英国によって持ち込まれた腐敗した傾向は早い段階で抑制することができます。
インドが独立してから後は、・・・教育制度の改革のすべての試みは失敗し、国民をさらなる堕落の方向に導きました。
これは、インドの教育専門家がインドの人々のプラーナ・ダルマにそった教育制度を改革することできなかったためです」(Talks on Education)

 日本も西洋型教育、すなわち客観性へのアプローチを明治以後、導入してきました。
インドと異なり、江戸時代の寺子屋や実用的学問が示すように、日本の大衆教育はもともと客観性へのアプローチをもっていました。
日本の大衆のプラーナ・ダルマには、インド人ほどの精神性への関心はありませんでした。
それが明治以後の近代化のために西洋の実用的学問を吸収しやすかった背景にあると考えられます。

 しかし、知的なリーダー層は違いました。
禅宗はもちろんのこと、江戸時代の官学である儒教知識人は「静座」という主観性のアプローチの実践をおこなっていました。

 明治になり、前近代的迷妄が一掃される時、「静座」という主観性へのアプローチも知識人から放棄されました。
以後、社会に影響を与える日本の知識人の主流は「主観性へのアプローチ」を放棄し、「客観性へのアプローチ」のみとなりました。

 今日、教育荒廃が進み、モラルとスピリチュアリティの低下の点では目をおおうものがあります。
その原因を平和と人権を教えた戦後民主主義教育にあるとみて国家主義(ナショナリズム)の教育を主張する人がいますが、それは「時計の針を逆にまわす」ことです。
荒廃は日本だけではありません。
世界が「客観性へのアプローチ」のみをおこなうようになったことに一つの原因があります。
主観性へのアプローチは一部の宗教団体の宗教行為とみなされるようになってきました。

 サーカーの観点を具体化すると「平和、人権、民主主義の教育」をネオ・ヒューマニズムの視点から引き継ぎつつ、主観性へのアプローチを日本の地域のプラーナ・ダルマにそった形で導入すること、そして客観性へのアプローチに従事している知識人層が、個人的に主観的アプローチを取り入れて、より高い精神性のレベルから社会に影響力を及ぼしてゆくことが前進への道です。

3)願望の質的向上としての成長

「教育とは古い心の構造を再形成することです。
そしてそれを認識 のもっとも高い状態にもってゆくことです。
最高の真実Supreme Veracityすなわち、もっとも高い状態に高めることです」(Some Hints of Intellect)

(1)三領域と人間発達の二重の視角

 サーカーの人間発達論には、二重の視角があります。 
 ひとつは、三領域の並行的な発達です。
すなわち物的身体的領域、知的心理的領域、精神性の領域における同時的な発達です。
それぞれの領域内でバランスがとれた発達が大切です。

 もうひとつは、切実な関心事が、物的身体的願望(カーマ)から、知的心理的願望(アルタ)へ、そして精神性の願望(ダルマ)へと高まることです。

 それは物的身体的必要である「衣食住」などの物的願望、あるいは食欲や性欲などの身体的願望を否定して、知的レベルの願望や精神性の願望に進むという意味ではありません。
逆に、人は、「衣食住」という基本的生活必需品の心配をしないですむ時に、そして食欲などが満たされて、はじめて物的必要から解放され、切実な関心事が、知的なものへ、そしてスピリチュアルなものへと前進することができます。
したがって三つの領域で並行して発達することと願望の質的レベルアップは同時的に追求されなくてはなりません。

 ここでは、人が人を搾取(利用)することのない世界をつくるために切実な関心事すなわち「願望」のレベルアップの重要性について論じます。

(2)物的身体的領域の拡大と知的心理的領域における拡大

(イ)搾取的な物的身体的領域の拡大

 サーカーは、人間をふくめてすべての生き物が、他の生き物を利用(搾取)して生きていると言います。
他の動植物を食べて生命を存続させているということです。
人間も含めて、生き物は、自分と違う種の気持ちや利益は考えません。
虎は自分の子どもを思いやる気持ちもっていますが、牛を食べた時、牛の気持ちを思いやることはありません。
人間も同じです。
牛肉のステーキを食べながら、牛の気持ちを思いやっている人間はいません。
このことをサーカーは次のように表現します。

「物的身体的領域を拡大することがすべての生き物の固有の習性( = 生まれながらの本能) です。
その目的のためにある生き物が他の生き物を利用します。
そしてそのために他の生き物の利益のことを忘れてしまうことになります。
今、私は、それはすべての生き物に固有の習性であると言いました。
すなわち人間も動物も両方が持つ習性です」(Education and Neohumanism)

(ロ)搾取の方向と高まる方向のある心理的領域の拡大

 サーカーは、人間には、物的身体的領域だけでなく、心理的領域でも拡大する本能があると述べます。
心理的領域での拡大は二つの方向がありえます。
ひとつは、他者の利用(搾取)の方向であり、もうひとつは、精神性の領域に高まる方向です。
知的心理的領域における他者の利用(搾取)の例としては、知識を増やすことで知的領域を拡大し、傲慢となり、他人を劣ったものと見ることなどがあります。
他者を利用(搾取)して優越感をもちますから、他者が自分より知識が多かったら、劣等感になります。
民族的な誇り(優越感)も、自分より劣った他民族の存在を前提とし、利用(搾取)しています。
この心理的拡大の願望が精神性に向かう時、人間は他者を利用(搾取)することなく無限に心を拡大させてゆくことができます。

 「人間の場合には、もう一つの習性、もう一つの生まれながらの本能があります。
それが心理的領域においても拡大する習性です。
だから他の動物と違って、人間は物的身体的願望を精神性の願望に向けることができます。

 しかしこの心理的習性ゆえに物的身体的レベルだけでなく、心理的レベルにおいても他のものを利用することになります。
そして心理的レベルにおけるこの利用=搾取は、物的身体的なレベルにおけるよりもずっと危険です」(Education and Neohumanism)

(3)世俗教育の必要性とその限界

 サーカーは、普通の教育の任務は、動物と共通の物的身体的領域の拡大という人間の習性を、教育を施すことによって知的心理的願望に向かわせることだと次のように述べます。

 「私たちはこの物的身体的願望、すなわちこの物的身体的習性( 本能) を、正しい世俗の教育によって知的心理的願望に向かわせるべきです。
ただし、それで十分ということではありません。
その場合、心理的従属の恐れが残っています。
だから解決の道は精神性の方向に導くことです」(Education and Neohumanism)

 さきほど述べたように動物と違って人間には知的心理的領域での拡大の習性(本能)があります。
したがって容易に他者を利用(搾取)して優越感に陥ります。
他者に対する知的支配に向かって心を拡張させてゆきます。
これはヒューマニズムの「同情」の形もとって、心を拡大させてゆきます。
したがって、人間の持つもう一つの本能である心理的領域の拡大の願望を精神性の方向へ導くことが必要になります。

(4)物的拡大⇒知的拡大⇒精神性への転化

 したがって、いかに物的身体的拡大の本能を知的心理的願望に転化するか、いかに知的心理的拡大の願望を精神性の願望に転化させるかが問題となります。

 しかし、今日の教育システムは、それらの転化が適切になされるように組織されていません。
子どもたちは物的願望を肥大化させるテレビのコマーシャルに生まれた時からさらされており、財を最大限に蓄えた人が美化される環境にあります。
学校教育においては、他人に親切にしたり、奉仕したりする精神性の方向よりも、他人よりも高い点をとることの方が評価されます。
それは、サーカーの言葉では他者を利用(搾取)する知的心理的拡大にほかなりません。

 今日の教育にこのような弱点があるために、次のような問題をひきおこしているとサーカーは言います。

 「人々は声にだす領域においては非常に誠実です。
しかし、内側の世界には誠実さが少しもありません。
現代世界においておきていることはこのことです。
個人的存在と集団的存在の両方で、不釣り合いになって、バランスを失っています。
したがって私たちがもっとも必要としているのは適切な教育システムです」(Education and Neohumanism)

 外面だけでなく、心の内部まで誠実な人間を育てるための教育システムを現代世界はもっとも必要としているという指摘です。

 実際、私たちは言葉や態度という外側にあらわれた誠実さについての教育は受けましたが、同時に外側に対応して心の内側まで誠実であるべきことを系統的に教育を受けたことがありません。
精神性を高めたいという願望が生じた時のみ、心の内側まで誠実であろうという気持ちがわきます。

4)心の外側と内側の一致の重要性

(1)外面と内面の一致が社会の健全さをもたす

 サーカーは、心の内面とは別に外側だけとりつくった文化を身につけた人のあり方を批判し、外面と内面の一致の重要性を主張します。

 「偽善者の外面的な見かけは、心の内側の動機と天地ほどの相違があります。
洗練された人には内面と外面の一致があります。
このように内面と外面が一致してなされたもの、すなわち理性と礼節をもってなされたものは、社会の悪化ではなく社会の健全さをもたらすでしょう」(Sprit of Society)

 日本語に「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」という言葉があります。
表面の態度は丁寧だが、心の中では相手を軽くみていることを言います。
それは、内面と外面の一致しない偽善です。
また下心を隠しもって人に親切な行ないをすることも偽善です。
それに対して「真心をもって○○する」という日本語がサーカーの「内面と外面の一致」したあり方にあたると考えられます。

 サーカーは、「内面と外面の不一致」の政治家を例もあげています。

 「誠実な発達した人間であることを示すために、時々、人々は軍縮について語ります。
武器の製造と大量破壊兵器に対するチェックとコントロールが必要だと強く主張します。
しかし、その同じ人間が、心の中では他の人々を物的身体的領域で隷従させつづけるためにもっと悪質な兵器や破壊的な兵器を配備することを考えています。
それは野蛮であり、しかも非常に悪質です。
これが今日起きていることです」(Education and Neohumanism)

(2)二つのアプローチを教育システムに導入する

 心の内側と外側の一致した人間を育成するためには、知的心理的領域の拡大願望を精神性の方向にむけるしかありません。

 そのために次の二つのアプローチが必要だとサーカーは言います。
一つは、すべての人間、すべての生命、すべての存在が尊いというネオ・ヒューマニズムの理想に導くことです。
もう一つは精神性の実践(スピリチュアル・プラクティス)を教育システムの中に導入することです。

 「私たちは二重のアプローチをしなけれはなりません。
一つは正しい教育が与えられることです。
一般的な教育ではなく、ネオ・ヒューマニズムの理想にもとづいてなされるべきです。
これは人類の心を教育することに役立つでしょう。
もう一つは、適切な心理の再生のために精神性の実践が進められるべきです。
これが私たちにもっとも必要なものです。
他の選択肢はありません」(Education and Neohumanism)

 ネオ・ヒューマニズムの理想について再度、サーカーの言葉で確認しておきましょう。

 「他の人間に脈動する活力ある流れに対する関心が、ヒューマニズムの領域に人々を駆り立てます。
その同じ人間感情が宇宙のすべでの生物を含むまでに拡大した時、その時のみ人間の存在はその最終的な完成に至ったと言うことができます」(Devotional Sentiment and Neohumanism)

 そして、日本の教育にスピリチュアル・プラクリティスを導入するとしたら、特定の宗派や団体から独立した形で、その教育効果が学問界で科学的に確認された上で導入されるべきです。

 体育の授業の中で、ヨーガ、太極拳、ヴィッパーサナなどの身体的動作の部分だけが採用され、その中に黙想の初歩が導入される形になるかもしれません。

 ただし、その前に日本の指導的知識人が個人的に黙想を開始し、その効果を確認する必要があります。

◎引用文献
P.R.Sarkar,Education,Prout, in a nutshell Part1
Anandanivedita Avk ,Teach me to fly,1999,GURKULA PUBLICATIONS,West Bengal
P.R.Sarkar,Devotional Sentiment and Neohumanism,Discourses on Neohumanist Education
P.R.Sarkar, Some Educational Policies,Discourses on Neohumanist Education
P.R.Sarkar,Education,Prout in a nutshell Part1
P.R.Sarkar,Social Justice, in a nutshell Part1
P.R.Sarkar,Talks on Education,Prout in a nutshell Part18
P.R.Sarkar,Genius and Technician,Discourses on Neohumanist Education
P.R.Sarkar,Learned and Educated,Discourses on Neohumanist Education
P.R.Sarkar,The Practice of Art and Literature,Discourses on Neohumanist Education
P.R.Sarkar,Some Hints of Intellect,Discourses on Neohumanist Education
P.R.Sarkar, Be a First Class Person,Discourses on Neohumanist Education
P.R.Sarkar,Education and Neohumanism,Discourses on Neohumanist Education
P.R.Sarkar,Talks on Prout, Prout in a nutshell Part15,
P.R.Sarkar,Synthesis and Analysis,Discourses on Neohumanist Education
P.R.Sarkar,Human Search for Real Progress,Prout in a nutshell Part6,
P.R.Sarkar,The Ever-Expanding Domain of Microcosm,Discourses on Neohumanist Education
P.R.Sarkar,Awakened Conscience,Discourses on Neohumanist Education



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