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(Education should not be served without humanity)

Dear
I am god salamnidam who downed theory P.R. Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of assistant Mitsuki in whole life.
Mitsuki studied almost books of theory of P.R.Sarkar which I downed.
Mitsuki's summery is excellent.
Project of Heaven and gods decided to introduce all studies of theory of god salamnidam.
God salamnidam add explanation to study of Mitsuki.

Theme of this page is that education should be served to humanity.
Education should not be served profit of money.
In this age education is distorted by nation state and capitalist system.
Education should not be served without humanity.


こんにちは
私はP.R.サ-カ-に理論をおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトはアシスタントのミツキの全生涯の研究を紹介しています。
ミツキは、私がおろしたP.R.サ-カ-の理論の本をほとんど研究しました。
天と神々のプロジェクトは、神サラムニダムの理論のすべての研究を紹介することを決定しました。
神サラムニダムはミツキの研究に説明を加えます。

このページのテーマは,教育は人間性に奉仕されるべきである、です。
教育はお金の利益に奉仕されるべきではありません。
今の時代は、教育は国民国家と資本主義システムによって歪められています。
教育は人間性以外に奉仕されるべきではありません。


サーカーの教育論

序)教育は人生に巨大な影響を与える

 サーカーは、教育があたえた心理的環境はその人が死ぬまで巨大な影響を与え続けると次のように述べます。

 「どのように教育を授けるかははつねに重要で切実な問題でした。
環境の影響は人間の心に巨大なインパクトを与えます。
その中で生まれ育った環境は人生の最後の日すなわち死の段階まで巨大な影響を与え続けます。
 与えられた教育のタイプに応じてその人の心理的環境が形成されます。
それは物的身体的環境よりもより強力に人生に影響します」(Some Hints of Intellect)

 保護者も含めて教育に携わるものは、教育が刻みつける心理的環境は「人生の最後の日まで影響しつづける」ことを肝に命じて子どもに接しなくてはなりません。
 まず、子どもに直接的な影響を与えてゆく「教師」「保護者」「マスコミ」「教育政策」についてのサーカーの考えを見てゆきます。

1)教師論

(1)教師の問題点

①脅しで授業を成立させようとする教師

 今日の子どもたちの荒れの状況の中で、生徒を授業に向かせるのに脅しを駆け引きにつかわざるをえません。

 「今日、教師の多くは生徒を授業に向かせるのに脅しを駆け引きに使います。・・・
脅しである程度うまくゆくように見えます。
しかし、最終的な成果としては何も生み出しません。
 生徒が両親や教師を怖がって学んでいる内容は、その怖さが消えるとすぐに忘れられてしまいます。
その理由は、学習と恐さが不可分の関係にあるからです。
怖さがなくなると得た知識もなくなります。
 威張りちらしている教師が教室を去ると生徒たちはほっとため息をつきます。
数時間以内に、彼らが覚えたことはかすみはじめます」(Education)

 身近でこんなことがありました。
小学校五年生の学級が崩壊し、新着任の担任が病気になった後、担当した女性のベテラン教師は、初日から問題児童から暴力をふるわれます。

 そこで、彼女は「警察に言い、裁判に告訴するわよ」といって実際に翌日クラスで診断書を見せたそうです。
しかし、脅しは効果をあらわし、クラスは鎮静化したそうです。

 問題の子たちになんらかに心理的圧力をかけるために、ある程度脅しを使わざるをえない局面があります。
 「しかし、最終的な成果としては何も生み出しません」というサーカーの言葉は、肝に命じておく必要があります。

 高校では、進級や留年で脅して、勉強させることは多々あります。
サーカーはそのようにした得た知識は役立たないと次のように言いいます。

 「試験に不合格になる不安から、生徒は一生懸命勉強し、本を夢中に調べて、1時間で十日間の勉強をします。
しかし、試験が終わって、フットボールのゲームや映画を見ているうちに不合格への不安がなくなり、学んだことのほとんどを忘れてしまうのです」

②知識への渇望を引き出そうとしていない教師

 したがって、知識への渇望を引き出すこと、そして、その渇望を癒すことこそ本物の教育だとサーカーは言います。

 「脅しによって教育はできません。
知識への渇望が引き出されなくてはなりません。
そしてその渇きを癒すために本当の教育が与えられなくてはなりません。
その時にのみ、教育は費やした時間に相応しいものとなり、生徒の身体と心と理想を発達させることができます」(Education)

 しかし、生徒に知識への渇望を目覚めさせようとしている教師は少ないと次のように指摘します。
「生徒に知識への渇望を目覚めさせようしている教師が何人いるでしょうか。
『教育は利潤を生むビジネスにすぎない。私たちが何を期待されているというのか』と言う教師までいます。
これでは教師としての責任を果たすことはできません。・・・
 教師が子供や学生の心に知識への渇望を引き起こすかわりに、学生に解熱剤を飲ませるように知識を強制的に飲ませたとしても、持続的な社会の利益にはなりません」(Education)

 またサーカーは、知識への渇望を引き出し、その知識をいかにして得るかの方法を教えた後で生徒から知識を引き出しなさいとも言っています。

③枝葉末節なことで生徒の頭を混乱させる教師

 教師は、試験を課すものとしての自覚をもって、「知識の範囲と知識への渇望の程度」のみを考慮すべきだと次のように述べます。
「学生は学校に行き、試験に合格するために席に座ります。
試験を課すものはこの事実を心に止めるべきです。
彼らは『学生のうちこれこれのパーセントだけが合格する』などという厳しい立場をとるべきではありません。
 試験を課するものは学生のもっている知識の範囲と知識への渇望の程度のみを考慮すべきです。
iに点がなかったり、tに横棒がなかったりする学生について悩むべきではありません」(Education)

 私は、 「iに点、tに横棒」は、a、b、cを教えるレベルの試験では、必要なことだと考えます。
より高次のレベルの知識についての試験においては、 iに点を忘れたことをもって×にするかを迷う必要はないということだと思います。

④自分の言葉に無節操な教師

 教師自身が子どもの範でなくてはなりません。

 「多くの教師は自分の言葉に対して無節操です。
またタバコの害悪について議論した後、外に出てすぐにタバコを吸いはじめる教師もいます。
これは極端に悪い例です。
 もし教師が、タバコについて何も言わずに、吸うならば、それはそんなに悪くありません。
 しかし、この場合のアプローチは当然学生を無節操になるように助長しています。
『タバコはおいしいに違いない、教師は自分たちだけで楽しむためにそれを奪うのだ』と生徒は考えるでしょう」(Education)
このような教師は私たちの社会でも見かけます。

⑤痛烈な言葉で、心を傷つける教師

 生徒の態度の悪さを注意する時、次のようなケースも多々見かけます。

 「数多く心理学の本を学んだ後でも、意図的に攻撃的な注意をして生徒たちの感情を傷つけているケースが多くあります。
その生徒の悪い習慣を矯正しようとするかわりに痛烈な言葉で彼らの心を責め立てます」(Education)

 「意図的」ではないけれども、痛烈な言葉で生徒の心に傷をつけてしまう教師はよく見かけます。

 生徒の行いへの注意に対する侮蔑の言葉などに教師が同レベルで反応してしまって、生徒の心を矯正することが目的であることを忘れてしまっているのです。

 また、能力の低い子の心を言葉で責めたてて傷つけることもあります。

⑥教師集団の対立に生徒を巻き込む教師

 教師集団の中に派閥的な争いが生じることはよくあることです。
教師集団の内部にとどまらず、生徒に対する時にまでその争いが表面化するならば、教育にとっては最悪のことになります。
サーカーは次のように言います。

 「多くの教育機関で、二つ以上の教師の派閥があり、それぞれの派閥が学生を自分の陣営に引き込もうとします。
教師は、他の陣営の教師に敵対することを言うことで生徒の心に軽蔑の感情を育成しようとします。
結果として無規律の感情が学生の心に生じます。

 『今ごろの学生は法と秩序を重んじない』とこぼしても無駄です。
もし、学生に規律を教えるべき人たちがその義務を適切に履行しないならば、学生の無規律は学生の落ち度なのでしょうか」(Education)

 またサーカーは、教師間の派閥争いだけでなく、政治的な抗争に学生を巻き込むことも批判しています。
ただし、学生が政治的社会的意識を高めてゆくことは積極的に支持しています。

(2)教師の任務 

 教師の任務についてサーカーは次の三点をあげています。
①知識へのインパクトを与え、知識への渇望を引き出すこと、
②社会生活における制限を教えること、
③集団的な努力の様々の側面について指導すること。

 すなわち、教育の仕事の基本は、①学習活動②社会生活のルールとモラル③集団的な協力や助け合い精神、この三つです。
 しかし、サーカーは、今日の教育にモラルの水準を高めることに欠陥があると述べます。

 「今日、モラルの水準には問題があります。
それは現在の教育システムに欠けています。
あなたがたは、新しい社会秩序を生み出すべきです。
それゆえ、まず様々の生活分野の知識を多く得るべきです。
そして知的水準とともにモラリティを向上させることです。
もし、あなたがモラリティを持っていたら、すべての人があなたを尊敬するでしょう。・・・
モラリティをともなう知識の獲得に導く教育は平和的な社会を築くことになります」(Education)

 それではモラリティをともなう知識の獲得に導く教師像とはどのようなものでしょうか。

(3)教師の資質

 サーカーは、知的水準の高さがそのまま教師としての資質の高さではないと考えます。

 「第一に、教師は注意深く選ばれるべきです。
高い学問的資質のある人物が必ずしも教師にふさわしいわけではありません。
教師は次のような資質をもっていなくてはなりません。
 すなわち「誠実さ(integrity)、人格的強さ(strength of character)、正しさ(rightousness)、社会奉仕のセンス(a sense of social service)、無私の利他性(unselfishness)、インスピレーションの力のある人(inspiring personality)、指導力(leadership capacity)です。
 彼らはサマージ・グル(社会の指導者) です。
ここに誰でも教師として受け入れることはできない理由があります。
教師は果たすべき役割が極めて重要ですから彼らの職業人としての水準はきわめて高くなければなりません。」(The Importance of Education)

 これらの教師の職業人としての資質のうち、サーカーの教育論を深めたアメリカ人のアナンダニヴェディタの「人格的強さ」と「インスピレーション力」について説明を紹介します。

 まず[人格的強さ]です。心の統合力、安定性のことです。彼女は人格的強さについて次のように説明しています。

 「すべての教師に試練の時がやってきます。
とくに問題のある家族をもつ子どもたちは、どのようにボタンを押すか知っています。
どんなに心の安定した落ち着いた教師であろうと、何人かの子どもたちがことを起こします。
 最悪の瞬間に、辛抱と愛をもって踏ん張ることのできる教師は、状況を一変させることができます。
 それは強い内面的な確信によってのみ可能です。
弱い人物は、子どもとのやりとりの中で理想を維持できません。
扱いにくい子どもたちが否定的なやり方で教師の注意をひこうとします。
教師が優しさをストップする前にどこまでできるか試します。
その時、子どもとのやりとりは不快なものになり、感情が表面に出てしまいます。
そのような瞬間に愛を与えることは、子どもにとっては、たいした扱いを意味します。
しかし、教師にとってはたいへんな負担です。
 心の安定性の高い教育者だけが、大きなストレス状態のもとで、愛情と忍耐を維持できます。
教師が問題のある子どもに心の安定性を示すとき、その子どもが向上するだけでなくすべての子どもたちに有益です。
それは教師の責任のもとにすべての子どもたちに安らぎと安定感を与え、その他のことについても信頼を高めます」Anandanivedita Avk,Teach me to fly,Gurukura Publications,1999

 さらに[インスピレーションをもつ人]inspiring personalityとして成長するために彼女は次のように述べています。

 「インスピレーションをもつ人になるために、ネオ・ヒューマニストは、毎日の規則正しい瞑想が不可欠だと考えます。
ここで、瞑想とは、愛である無限の意識の表現として自分自身を感じるようになる過程をさしています。・・・
 継続的な瞑想の実践は、より鋭い洞察力や集中力といった多くの利点をもたらします。
心はより穏やかになり、子どものニーズにより応えることができるようになります。
また瞑想は、心のバランスがとれている必要性を自覚させます。
そして、日々、気力を回復する方法でもあります。・・・
 ネオ・ヒューマニズムと瞑想は、人格的変化、社会的変化を引き起こす触媒として働きます。
誠実な努力をする人は沈滞しません。・・・
毎日の生活の中で個人的にネオ・ヒューマニズムの信条に従い、それを実行することは、インスピレーションの力を高めます。
インスピレーションは、知識的な情報を得ることとは違います。
インスピレーションは別のものを燃え立たせます。
 内面深くインスピレーションの力を高めた教師は、他の人の心の琴線に触れます。
そして良いことがおこりはじめます」Anandanivedita Avk,Teach me to fly,Gurukura Publications,1999.

 子どもたちとの教育上のやりとりの中では、たくわえた知識ではなく、即座にこの場で何が必要なのかを判断する直観力が必要となります。
この直観力を高める方法は、一つは毎日短時間、瞑想することであり、もう一つは、自分も含めて、すべての人間、すべての生命を一つのものの多様な現れと感じるネオ・ヒューマニズムの信条をもつことです。
この二つは教師としての資質すべてを向上させます。

2)教育実践上の留意点

(1)教育を与える際の三原則

サーカーは、教育を与える際に三つの原則をふまえるべきだと次のように言っています。

①教育は事実にもとづくこと

 「第一は、教育は常に事実にもとづいていなければならないことです。
教育の中になんらかのドグマや狂信、なんからのタイプの地域的排外主義や人種的排外主義があってはなりません」(Some Hints of Education)

 これは教師の職業倫理としても第一に来るべきもので、強調してしすぎることはない原則です。
まずほとんど全員の教師が心がけていると考えられます。

②生徒の心に知識への渇望を目覚めさせること 

「第二の原則は、教育は常に生徒の心に知識への渇望を目覚めさせねばなりません。
生徒自身が問いに対する答えを求める根気強い要求によって周囲に圧力を生みだすでしょう。
たとえば『答えは何ですか』『それば正しいですか』のように。『私は知りたい。宇宙全体がどうなっているか理解したい』というような願望が生みだされるべきです。
そのような知識への渇きが生徒の心に生みだされなくてはなりません」(Some Hints of Education)

 この第二原則は誰もが建前としては認めますが、実践的にそれができている人は少数と思われます。
一般的には「興味・関心を引き出す」という言葉で言われます。
しかし、興味・関心は、授業を成立させるための一時的な興味・関心を含みます。
サーカーの言う「知識への渇望」とは、生徒自身が問いの答えをもとめてやまない、より永続的な強い知識への切望を意味しています。

③バランスのとれた心の維持

「 三つ目の教育の原則は、教師と学生が取るに足りないことなどに影響を受けず確固としたバランスのとれた心を維持すべきことです。
これが教育の三つの目の原則です」(Some Hints of Education)

 この第三原則は、教育の重要な原理としては一般に認知されてないと思われます。
日本の教育の現場の学級崩壊などの現状を考える時、教師と生徒の双方の心のバランスの確立の追求は必須のものとなっています。
心のバランスの確立にあたってサーカーの教える瞑想は重要な手がかりです。

(2)生徒と教師の暖かい関係

サーカーは、 強いられた静粛ではなく、教師と生徒の間での暖かい信頼関係の確立が学ぶ場での自由で率直な考えの交流を可能にすると次のように述べます。

 「生徒は、児童期、思春期、青年期、老人期を問わず、教師にとってすべて異なった時期の子供であり、教師自身もまた生徒と同じく子供であるということを心に止めておく必要があります。
もし、教師が生徒から距離をおいて、常に強いられた静粛さを維持しようとしたら、生徒と心地よい暖かい関係を作ることはできません。
もし、相互の親愛の感情が生まれなかったら、自由で率直な考えののやりとりはできません。
暖かい関係の欠如は、厳しい教師、口ぎたない両親が死んでしまうことを多くの子供たちに願わせることになります」(The Importance of Education)

(3)年齢にふさわしいアプローチ

サーカーは、心は発達してゆくものであり、年齢によって特質があり、それぞれの年齢の心理にかなった教育的アプローチする必要があると説きます。

①児童期には、遊びとファンタジー

 児童の心は遊びと物語(ファンタジー)に引きつけられるという特徴をもっており、遊びとファンタジーを通じて知識の渇望に目覚めさせることができるとサーカーは次のように述べます。

 「子供たちは、自然に遊びに向かう傾向を持っています。
したがって遊びを通じて知識への渇望を目覚めさせるべきでしょう。
子供は遊びを通じて教育されるべきです。
また子供たちは自然にファンタジーや物語に耳を傾けるものです。
物語を通じて子供たちは容易に様々の国々の歴史と地理を学ぶことができます。
 そしてそれによって人生でいかに普遍主義(UNIVERSALISM)を実行するかの教訓を最初に学ぶことになります。
ほとんどの子供たちが遊びと物語が好きです。
そこでこの二つが活用されるべきです」(Education)

②青年(前期)は夢と理想主義

 青年期については次のように述べます。

 「未来への夢は、最初に青年期の心に結晶します。
したがって青年期は、狭い心にとらわれることなく、理想主義の方法を通じて教えられるべきです」(Education)

 ここでいう青年期とは、日本では中学生の時期(青年前期)をさしていると思われます。
すなわち小学生までの時期は、ファンタジーを扱います。
中学生の時期には、物語の中でも夢や人間のあるべき理想のこもったものを子どもたちに与えてゆくべきだということだと考えます。
それが子どもの心に理想主義を育てます。

③後期青年期は、理想主義と現実主義のブレンドを

 そしてサーカーは、青年後期は、理想主義のものを与えつつ、現実主義の作品とも触れさせてゆくことを勧めます。
青年後期の心理の特徴には、ある程度現実主義的傾向があるからです。

  「けれども後期青年期は、幾分か現実主義に傾いています。
そこで彼らの場合、純粋な理想主義では不十分です。
そのような若い大人を教育するためには理想主義とリアリズムの調和あるブレンドが必要です」(Education)

 以上、サーカーによれば、子どもの心理の特徴にそったアプローチの方法は、ファンタジー→理想主義→現実主義という順になります。

(4)画一的平等を主張する理論の間違い

 教育実践において、時々、極端な平等主義を私たちは耳にします。
たとえば、教育現場において男子と女子をまったく区別せずに画一的に扱う主張が一部にあります。
一時、運動会の一位、二位、三位という順位すら否定するような意見もありました。

 サーカーによれば、このような画一的平等の主張は、多様性が自然の法則であるという世界の根本原理に反しているがゆえに人間の幸福に貢献しないと次のように言います。

 「人間の平等を口達者に主張してきた理論もありました。
耳にはいくぶんか心地よく聞こえますが、いざ実施となると人々はこの理論は無力でした。
この哲学者たちの根本的な原理が世界の現実の根本に反していたからです。
 それは『多様性は自然の法則である。均一であることは絶対におきない』ということです。
世界は多様性に満ちています。
変化に富む形や色、多様な種類と表現があります。
このことを決して忘れてはなりません」
 (Devotional Sentiment and Neohumanism)

 なお、サーカーは、機会均等の平等を支持します。
そして財産所有の極端な格差を否定し、それを是正することを主張しますが、ある程度までの格差は当然であると考えます。

 すなわち社会への貢献度の高い人が一般の人より収入が多いのは当然であり、一般の人々の収入を高めて、収入の高い人の差を縮めてゆくための永久的な努力が必要だと言います。
すなわちそこには、宇宙の存在原理としての格差があります。

 絶対平等と画一はこの世ではありえないことであり、その理念を実践に移すならば人間社会に害を引き起こすとサーカーは考えます。
それは教育実践においても然りです。

(5)モラル教育を普遍主義(=すべてへの愛)に結びつけること

 サーカーの教育論は、道徳性(徳育)も重視します。
しかし、サーカーの徳育は、特定の集団への帰属意識であるナショナリズムではなく、普遍主義と結びつけられます。
すべての人類、生命、天地万物への愛と共感を育てる教育です。
この普遍主義と結びつけられた道徳教育こそが現在求められているものです。

  「私たちの教育システムでは、モラル教育と理想主義を教えることを強調します。
哲学と伝統だけでなく道徳性の実践はすべてのレベルの教育課程でもっとも大切な主題です。
それと同時に普遍主義の感覚を子供に目覚めさせる必要があります。
エチケットと上品な行いだけでは十分ではありません。
真の教育は、天地万物への愛と共感を育くむ方向に導くものでなくてはりません」(Some Educational Policies)

(6)教育は知識を普及し、権利意識の発達を促すこと

 既得権益をもつ人々は、人々が知識を得て、権利意識を身につけてゆくことを好みません。
たとえば、環境問題、公害問題を例に考えると人々が知識を得て理解力をもたなければ、運動は発達せず、人々の健康と自然環境を守ることはできません。
既得権益をもつ人々はあらゆる領域で正確な知識が広がることを妨げようとします。

 「既得権を持つ人々は人間の無知を利用してきました。
そして社会のあらゆる領域すなわち社会的、経済的、心理的、精神的領域を深く支配してきました。
彼らは人間の全活力を吸い尽くしたいと思っています。
 既得権を持つ人々は無知な人々が知恵の光明を見いだすことを望んでいません。・・・
迷信にとわれた人が独断的な信仰から解放されることを望んでいません。
人類が精神的知識を得、科学を完全に理解し、光輝く世界に向かって進歩する機会を得ることを望んでいません」(Social Justice)

 したがって知識を教える教育は、生活のあらゆる領域で、権利意識を普及させることを担っています。
すべての人が最大限に発達してゆく機会を保障される権利があります。
この権利にいかなる差別もあってはなりません。

3)両親(保護者)論

(1)両親の問題

①両親に必要な「自制心」と「よき判断力」

 両親のあり方が、子どもへ絶大な影響を与えることは言うまでもありません。
では両親にはどのようにあるべきなのでしょうか。
サーカーは次のように言っています。

 「健全な世界観を身につけさせるために子供にもっとも必要なことは確固とした理想主義です。
そのために両親は二つの美徳だけを必要とします。
それは自制心とよき判断力です」(Education)

 ここで述べられている「確固とした理想主義」とは、普通の言葉になおせば、「前向きの心」です。
自分の子どもに「前向きの心」を育てるためには、「自制心」と「よき判断力」が必要だということです。

 次にサーカーがあげている「自制心」と「よき判断力」の無い親のケースを紹介します。
②子どもを怯えさせる親
「子供の心を怯えさせることで何かをやらせる方法は・・・しばしば両親によって有害な形で行われています。・・・
子供がミルクを飲むのを嫌がったり、眠らなかったりする時、悪魔や恐ろしい幽霊のイメージを使って子供を脅します。
 最初は恐怖というものを知らない子供の前で恐怖のパノラマが演じられます。
こうすることで両親は一時的には得るものがあるかもしれません。
 しかし、子供になされたその有害な影響はいつまでも消えません。
その子供が思春期に達した時期でさえ、幽霊の観念が心を去りません。
幽霊は、人生の永久の同伴者となってしまうでしょう」(Education)

 ここでは幽霊のイメージをつかって子どもを怖がらせて指示にしたがわせようという両親をあげています。
ときどき、霊にとりつかれて苦しむ人がでてきますが、ここでサーカーはその原因を幼児期に聞かされた幽霊の恐怖が無意識下にあると指摘しています。

 幼児を連れてスーパーで買い物している若い主婦の中には、幼児に悪態に近い叱責をしている人を見かけます。
自分の子どもを粗暴なやり方で扱っているその姿も子ども怯えさせている例に入ると考えられます。

③子どもにうそをつく親
平気でうそをつく生徒がいます。
その背後に子どものうそをついている親の姿が浮かびます。

 「両親が旅行やショーを見にでかける時、あるいは楽しい行事や外出に招待された時、子供は両親についてゆくとむずかり、ぶつぶつ言い始めるものです。
そのような時、多くの親は、良心の呵責もなしに嘘を言います。
なんとかだまして出かけてしまいます。
何がおきたか子供が理解した時、彼らは嘘を言うこと、両親に対して目的や行動を隠すことも学んでいます。
彼らは次第にもっと多くの嘘をつきはじめます。

 両親は、様々のやり方で子供たちを欺きます。
苦いものを甘いものだと言って、また不愉快なことを愉快なことだと言います。
そして子供が愉快に過ごすことを邪魔します。
しかし、子供たちは、親の禁止を無視し、好奇心から詮索し、本当のことを知ります。
両親が自分たちを欺いていたことを知ります。

 その結果として彼らは両親だけでなく、友人やクラスメートまで欺くようになります。
子供たちは、自分の両親から嘘をつき方、だまし方をまず学んでいるのです」(Education)
 この描写は、私たちの社会の親の何人かにもぴったりあてはまると推測されます。

④命令する親
 社会の中で命令する立場にある大人は、家庭でも命令口調が習慣になり、それが子どもに悪影響を及ぼすとサーカーは次のように述べています。
 「役所や警察で中級、上級の地位にある親は他の人に仕事をさせ、部下の監督を監督しなければなりません。
そこでしはしば丁寧なしゃべり方を忘れてしまい、乱暴な言葉を使い、命令調の言い方が習慣になっいる人がいます。
 そのため、子供は抑制をもったしゃべり方を学ぶ機会を持ちません。
そのような子供は友人グループの中でさえ、優越感を持つようになります。
将来の生活で、彼らが人々を愛し、社会環境に適応することがひどく困難なことになります」(Education)

⑤子どもを抑圧、虐待する親
 様々の理由から親が心のバランスを崩し、自分の子どもにあたりちらし、家庭が無秩序になるケースについてサーカーは、次のように述べます。
 「両親が貧困などのために平穏な心を失ってしまい、理由なく子供を抑圧する家庭がかなりあります。
当然、子供は両親を尊敬しなくなります。
そして家庭はさらに無秩序になります。
両親はさらに一層の不穏に苦しむことになります。
 教育を受けていない親や不十分な教育しか受けていない親が、時々ひどい言葉を使ったり、暴力を振るったりして自分の子供を虐待しています」(Education)

 日本でもこの種の児童虐待が増え、虐待で死ぬ児童まででてきています。
事態は深刻です。

⑥友好的に意見を調整できず衝突し合う親
私たちは時々とても頑固な生徒に出会います。
その理由についてサーカーは、次のように述べています。

 「大人の家族の中で意見の違いが生ずることは当然です。
その時、大人は、互いの意見をよく考えながら、意見の違いを調整すべきです。
 不幸なことに、友好的な合意に達するのに必要な心の気質を欠いている大人がいます。
互いに相手の意見を配慮せずに自分の考えを誰に対しても納得させようとします。
結果は常軌を逸した強情さの爆発です。
大人は、自制心を失い、ひどく低俗なやり方で振るまいます。
 子どもの心への影響は悲惨です。
子どもたちはこのようにして年上のものから強情さを学びます。
もし、子どもが大部分の時間を一緒に過ごす母親やその他の人たちが、頑固な人であったら, 無視された子供たちは、多くの場合、著しく頑固になります。
そして長い間、周囲との心理的不安定をかかえて生きていくことになります。
 他方、たまにあるケースですが、子供の願いや希望が満たされているケースの場合は(もし、両親が非理性的でないなら) 子供たちは頑固さを身につける機会を持ちません」(Education)

 相手と意見の調整をはかることができず、一方的に自分の主張をとおそうとする我の強い親は多数存在すると考えられます。
両親の一方が譲っておさまっている場合もあるでしょう。
しかし、両方が譲らなかったら最悪の影響を子どもに与えることは容易に理解できます。

(2)両親(保護者)の責任

①子どものモラルと精神性を高める責任

 サーカーは、子どものモラルと精神性を高める責任のほとんどは両親(保護者)にあると考えます。

 「子どもの心のありようは、すでに学校生活を始める前に家族環境によって形づくられています。
彼らがどんなに学校でたくさんのことを学んだとしても、その家族の影響から自由になることは大変難しいです。・・・
彼らはためらわずに年長者の世界の見方を身につけてゆきます。
それゆえ子供たち世界を熟知させる第一の責任は両親もしくは保護者にあります」(Education)

 家族は生まれてきた子供の身体的、心理的、精神的な成長に責任を持たなくてはなりません。

②反社会的な心を育てた罪

しかし、子どもの親の年代は仕事や活動で忙しく多くの問題を抱え、バランスのとれた生活を維持しにくい状態にあります。
それでもサーカーは親としてのまちがったあり方から反社会的な心を育てることは罪であると次のように述べています。

 「もし、両親がその義務を実行しなかったら、私は次ように言わざるをえません。
『彼らは社会に生活しながら、反社会的な心を育てた罪がある』と。
子供たちに犯罪的な心理を身に付けることを助長することで、彼らは、警察に不必要な苦労をさせることになります。
ちょっとした配慮がたなりいために、子供たちは、人間の姿はしていても完全な人間にはなれないことになります」(Education)

③不道徳な両親の子どもを道徳的な市民に育てる責任は全体としての社会にある。

 サーカーは、必要な場合は子どもを不道徳な親から切り離し、社会がその子を健全に育てる責任を負うべきだと次のように述べます。

 「子供のモラルとスピリチュアリティの教育について責任はほとんど両親が引き受けなくてはなりません。
不道徳な両親の子供が道徳的な市民として育つようにすることは全体しての社会の責任です。
もし、可能ならそのような子供は両親の不健全な環境から切り離されるべきです」(Education)

 ここでサーカーが提起している不道徳な親から子どもたち切り離すことは、日本では児童養護施設が果たしています。

(3)なぜ、両親が心のバランスを失っているのか。

 サーカーは、子どもの教育についての両親の責任の大きさに言及しました。
しかし、両親が心のバランスを崩さざるをえない状況に共感することも忘れません。

 「今日の両親は次のように言うかもしれません。
『私たちは、人生との格闘で疲れてしまった。
心からの気配りと優しさで子供たちの心を形成する余力がありません。
私たちの心の優しい細やかな感覚は、生活の厳しい現実で干上がってしまい、自分の子どもの面倒まで見る余裕がどこにあるでしょうか。・・・』」(Education)

 サーカーによると教師が直面している問題は「より大きな社会問題の一つの反映」であるにすぎません。
教師には子どもの心の荒廃と取り組む責任はありますが、荒廃の原因自体には責任がありません。
家庭が心のバランスを失い、子どもの道徳的、精神的成長の責任を果たせていないことが学級崩壊など荒廃する教育現場の背景にあると考えられます。

 それについては、経済、政治、社会、文化の総合的観点から考察しなくてはなりません。
ここでは、心のバランスを崩す社会的背景についてのサーカーの指摘を一つだけ紹介します。
それは、今日の社会で、善がなし遂げられているかどうかは二次的で、スピードがまず第一に重視されていることです。

 「現代の物的世界においては、どこでも時、場所、人の限界を克服する精力的な努力がなされています。
それはあたかも人類が髪の毛を無理やり前方に引っ張られているかのようです。
まずスピードが主として考慮されます。
なんらかの善がなしとげられているかどうかは二次的です」(Education)

 戦後60年間の日本の急速な経済成長や最近のIT革命は、日本の社会と自然を一変させました。
なんらかの善がなされているかは二次的で、ひたすらスピードが仕事の場でも学業の場でも重視されてきました。
そしてサーカーは、社会の各領域の変化のスピードにアンバランス(不均衡)があることを指摘しています。

 「このように様々の社会的潮流はその前進運動の中で調和あるペースが維持できません。
ある潮流はずっと進んだ発展を遂げています。
しかし、他の潮流は後ろで遅れています。
これは、関連してあっている一つの社会構造のある部分を切り離すように動かす原因となります。
そして一旦、分離した他の部分は一つになろうとします。
そして全体構造の崩壊に導きます。・・・
不調和は今や社会で普通となっています。
 生活の様々の動向に関する私たちの心理の世界に確立した印象はあまりに不自然に互いに分岐してしまいましたので、人間の心の自然が害されてしまいました。」(Education)

 現在の日本で言えば、経済的社会的アンバランスは激化しつつあり、知的心理的領域でもアンバランスがひどくなっています。

 たとえば急速な情報化が進むなかで、中高年層が労働者や貧しい層の人々がコンピューター普及についてゆけません。
その変化のスピードについてゆけないことは悪ではないのに中高年の労働者は肩身が狭くなり、人生経験豊かで善悪の分別の高まった年輩層の発言力は落ちてしまいます。
そこには知的心理的アンバランスがあります。
それは、社会全体の教育力の低下にもつながります。

4)教育政策

(1)教師の生活の保障の必要

 サーカーは、教師が家計を心配することなく教育にうちこめるように給料を保障すべきだと次のように述べています。

 「どの国でも教師の給料は、裁判所や行政府の公務員の給料より高くはないとしても、それと同じくらいです。
過去の聖者は寺院の寄付、王からの土地、定期的な祭祀の謝礼の贈与を受け取っていました。
彼らは家族の生計を助けるために家庭教師をしにあちこちの家にゆく必要はありませんでした。
なぜなら政府が直接に世俗的な問題については責任を負ってくれていたからです」(Education)

(2)教育に関する決定権を教師自身がもつ

①教育政策を政治家が決定するのではなく、教育者が決定する

 サーカーは、理想的な教師を生み出すためには、教師を教えるマシーンにするのではなく教師が教育政策を決定する権利をもつ必要があると述べます。

「単に給料が上がることが自動的に理想的な教師を生み出すわけではありません。
なぜなら、今日、世界中の多くの国々で(そこでは教師はかなりいい生活をすることができていますが、それにもかかわらず)教師は自分たちが教育政策を策定する権利を持っていません。
むしろ教育政策は、一般的に政治家によって決定されます。
政治家のほとんどは教育の体験を持ちません。
もし、教師が理想的な人間を育てることに責任を持っているとするならば、教師を教えるマシーンにするのではなく教師自身に教育政策を策定する権利を与えなければなりません」(Education)

 政治家が教育改革を叫び、教育が政争の具になっています。
それは政治の教育への介入を前提としています。
現場で経験を蓄積してきた教育者が教育政策の決定権をもつべきだというこの主張は重要です。

②政府から教育は自由であるべき 

「政府は教師に政府の社会的政治的要求を提案するかもしれません。
しかし、教師が政府の提案を受け入れるか受け入れないかは自由であるべきです。
教師は干渉を受けるべきではありません。
もちろん、教師が国民の安全や全体としての社会の善のために、政府の政策を支持するならば、その実行に積極的であるべきでしょう。・・・
しかし、教師は、政治的利益に迎合してはなりません。
教師は、教育にあたってより高い理想を持ちつづけていなければなりません。
教師でない人々に学校の管轄内でおきる教育上の事柄に対する干渉を許してはなりません」(Education)

 たとえば、入学式、卒業式で「国旗」「国家」の掲揚が各学校に強制されていますが、これは、ここでサーカーが指摘している「学校の管轄内でおきる教育上の事柄への干渉」と言えるでしょう。
どのような入学式にするか、卒業式にするかは、あくまで現場の教師集団の決定権に属する問題です。

③教育が財力に支配されないこと

 政治権力だけなく財力によっても教育が支配されるべきでないと次のように述べます。

 「多くの国々で富裕者であるがゆえに学校経営者として重要なポストが与えられている人々がいます。
財力ゆえのポストです。
このようなことは、国家が教育の責任を果たしていない国々でのみ生じています。
そのような富裕者は・・不必要に教育の事柄に干渉します。・・・
そのような状況のもとで働いている教師が、どうして生徒に対する行き届いた注意深い目を持ちつづけることができるでしょうか」(Education)

④有能な教師からなる委員会が運営すべき

 サーカーは、政と財の干渉から教師は自由であるべきであり、教育政策、教育にかかわる一切は有能な教師からなる委員会が運営すべきだと考えます。

「教育政策の枠組み、教育制度のコントロール、教育に関する一切の活動は、有能な教師からなる委員会で運営されるべきです。
この委員会は、十分な自由とその義務を実行する権威を享受すべきです。
教育はすべての政治的干渉から自由でなくてはなりません」(Education)

 このようにサーカーは、繰り返し、政治権力、財の力、政治団体や社会運動による教育への介入、支配をきびしく批判します。

 教育者でない人を含む教育委員会によって行政的に自由主義史観の歴史教科書が現場に押しつけられることも生じています。
サーカーのいうように経験ある教師に教育にかかわる一切の決定権をあたえることが必要です。

⑤ 政と財から独立して運営されるべき

 教師の不祥事がよく報道されるようになってきています。
サーカーは、職業倫理に反した行いに対しても、「直接に教育に携わっている人々」がこのに対処すべきだと考えます。
「このような一握りの教師の職業倫理に反する行為のために教育の仕事全体があざけりの対象となってきました。
真の教育者は、職業倫理に反する行いに対して真剣に対処するべきです。
これは直接に教育の仕事に携わっている人々にのみ可能です。
学校の視察官にはできないことです」(Some Educational Policies)

 大阪府では「不適格教員審査委員会」がつくられました。
しかし、その人選をみるとたとえば、自由主義史観とリンクしてナショナリズムのキャンペーンをはっている新聞社の編集委員が入っているなど、教育に携わる人間によって対処すべきというサーカーの主張とはまったく逆行した動きとなっています。

 教育へのヴァイシャ(財)の直接的な影響力が強まりつつあります。
教員をうどん屋に配置転換した大阪の私立高校が報道されました。
公立学校においても一般社会を知らない教師に接客態度などを学ばせるとして一般の企業やデパートなどで研修させることが行なわれています。
さらに東京都や大阪府の公立高校の校長に一般企業の元幹部を採用するということまで生じています。
一般企業の仕事も尊い仕事であることにかわりはありません。
しかし物的財の蓄積にその人間の優秀性が測られるヴァイシャの心は、スピリチュアリティの向上にもっとも遠い地点にあるものです。
まさしくお金で動いている世界を教師に見せて、あるいはヴァイシャを直接学校運営の責任者の地位につけてヴァイシャのイズムを浸透させているわけです。

 今、もっとも必要とされているモラリティとスピリチュアリティ向上の追求にそれらのことはまったく役立たないでしょう。
サーカーによれば、教育の経験のない彼らは「教育が何であるかを知りません」

 さらに付け加えるならば、サーカーは、社会教育に大きな役割を果たしている放送網なども教育に携わるものによって運営すべきだと主張しています。
一部の職業倫理に反する教師の報道によって経験ある有能な教育者が重要な社会の財産であることを見失ってはいけません。

(4)無料であるべき教育費

 サーカーは初等中等の教育費は、無料であるべきだと考えています。

 「教育のある人とない人を区別する架空のラインをなくし、不合理な区別を取り払うために人間の尊厳が認められなくてはなりません。
世俗的知識と精神的知識は光や空気と同じように無料でなくてはなりません。
流れ続ける湧き水のように社会を活動的な状態に保たなくてはなりません。
それは各人と社会全体の限りないインスピレーションの源泉であるべきです」(Social Justice)

 さらに過去の聖者の生徒が衣食住まで公金から保障されていたことを評価します。

 「過去の聖者は寺院の寄付、王からの土地と定期的な祭祀の謝礼の贈与を受け取っていました。・・・
そのような聖者は彼らの生徒(弟子)たちに衣食を与えていました。
その為のお金は公金や崇敬する人々の寄付でまかなっていました」(Education)

 そして高等教育についても、才能ある学生が研究活動を生活苦から研究をつづけることができない場合は政府が財政援助をすべきだと述べています。

 「有能な学生が、もし、貧しければ、特別な便宜が提供されるべきです。
高等教育の後、才能ある学生は、政府の財政的援助のもとに研究活動をする機会を得るべきです」(Some Educational Policies)

(3)ナショナリズム教育の克服

①新興独立国のナショナリズム教育の間違い

 サーカーは、ナショナリズム(国家主義、民族主義)の教育に反対します。

 「新しく独立した多くの国々で、国民の陶冶のために教育制度が作りなおされようとしています。
もし、この変革が生徒の必要を考慮に入れないならば、与えられる教育は民族的なものであっても、ヒューマンなものではありえません。
地域主義(プロビンシャリズム)、宗派主義(コミューナリズム)と同じように民族主義(ナショナリズム)も子供の心に非常に有害です。
子供の透明な判断力は,かなりの程度、これらの感情によって汚されます。
新しく独立した諸国では『自分の国の産物だけがいいものです。私たちは他から何も学ぶ必要がない』というような誤った考えがいつも聞かれます」(Education)

 まさしく、ほとんどの新興独立国でナショナリズム教育が実施されてきました。
それは地域紛争を助長する土台になります。

 サーカーは、全人類的アイデンティティに立った上で、地域固有の文化を擁護し、それを抑圧するものと闘うべきだとするスタンスです。

②世界の人々の相互接触と理解を促進し、民族主義的熱情を弱める

 サーカーは、ナショナリズムの偏狭さを少しでも和らげるうえで、世界の人々の相互接触と理解の機会を提供してゆくことを重視します。
子どもたちが、世界の他の地域の人々から切り離された意識をもたず、同じ人間が様々な地域に住んでいるという自覚を高めるためにです。

 「教育システムの提唱者が民族的排外主義に取りつかれている時は、しばしば、民族的性格の維持の名目で、その国の生徒を世界の残りの部分から隔離しつづけようとします。
 人々の相互の接触と理解のための機会を提供するきずなが強化されるべきであることを常に念頭におくべきです。
それは弱められてはなりません。
というのはここに集団の福利への種子が横たわっているからです」(Education)

 最近、公的レベルでも民間のレベルでも、韓国や中国などの隣国と学生、児童の相互交流が活発となっています。
このサーカーの視点からすると大きな意義があると考えられます。

 異文化理解という視点ではなく、私たち人類の文化をより広く理解するというサーカーの視点が広がるならば、より有益なものとなるでしょう。

③当面は世界語として英語教育を世界中で重視する

 サーカーは、世界中の人が相互理解を進めてゆくために歴史の現時点では、母語の教育とあわせて、世界市民としての感情を培うために英語教育を世界中で重視すべきだと言います。

 「世界中の人々がコミュニケートできるために、『共通語、世界語』が必要です。
そしてその言語の教授と学習はすべての国で等しく重視されなければなりません。
もし、次の三点、(1)広く話されているか、(2)容易に理解できるか、(3)十分な表現力をもっているかを検討するならば、英語だけが世界語の資格があります。
世界中の人が英語を英国人だけの言語と考えていません。
むしろ、思想のコミュニケーションのための共通言語として開かれた心で英語を受け入れています。
そのことはどの母語にも害を与えていません」(Education)

 それぞれの地域の人々のあらゆる母語を尊重しながら、英語を人類統一のリンクとしてつかおうという構想です。

 ただし、英語が永遠の世界語となるh言っているわけではありません。
 「もちろん、遠い将来、その時代の必要に応じて英語に代わる別の世界語を選ぶかもしれません。
英語が世界語としての地位を永久に維持できるわけではありません」(Education)

 そして、サーカーの構想では、生徒の学習の過重負担を避けるために英語とそれぞれの地域の母語の二つに言語学習のみを必修とします。
そして学生が知識欲に目覚めた時、その他の言語の学習についても選択科目として用意しておくべきだと言います。

 「けれども、民族主義的感情がある程度制限できるならば、英語と母語以外の二つ以外の言語は教育課程から削除できます。
もし、学生がこれらの二つの言語を通じて学習し、知識欲に目覚めたならば、やがて、それに駆り立てられて、他の三つの言語だけでなく、十も二十もの言語を学習するかもしれません。
学校や大学でも、可能な限り多くの外国語の選択科目が用意してあることが望ましいことです。
そのような政策は誰からも批判を受けないでしょう」(Education)

 なお、ここでは、子どもの過重負担を避けるために「二つの言語」の学習とありますが、別の個所では、母語、適切な古典語(インドの場合はサンスクリット語)、英語の「三つの言語」を学習させるべきだとも述べています。

 加えて、サーカーは「政府や法廷の仕事などの実際的分野では母語が使われるべき」と述べています。

(4)中等教育から職業教育を導入する

 中等教育からそれぞれの個人に適した職業教育を導入すべきであると述べています。

「中等教育( インドでは8 、9 、10年級) の期間に、学生たちの自然の性向とそれぞれの才能にそって、職業教育が導入されるべきです」(Talks on Education)

 日本では中等教育は、中学であり、後期中等教育が高校です。
職業は多様にあり、ここ言う職業教育とは、実際にその職業についての訓練にあたるものではないと考えます。
 様々の職業について知り、自分に適した職業を発見させる教育の導入、あるいは多様な職業の基礎にあたるものについてたとえば農業、工業、商業の基礎的な部分を実践的に教授することなどだと解釈します。

(5)幼児教育の重要性

 サーカーはモラルとスピリチュアリティ(精神性)の教育は幼児教育からはじめよと説いています。

 「人間形成は主として幼児期になしとげれらます。
もし、すでに泥棒や罪人になってしまった場合、そのような人物に大学の教育は役にたちません。
人は子供の時代に作られます。
もし、人生の人格形成期に教育の基礎を受けたら、人は人生の艱難辛苦、試練の牙にもかかわらず立派に自分を維持できます」(Education)

 したがって、サーカーは教育に取り組むにあたって初等教育から始めるべきだと考えます。

 「私たちはアーナンダ・ナガルに一つの大学を設立し、世界中に数千の幼稚園をつくりました。
最初の段階は大学よりも初等教育から始めることが望ましいです。
適切な教育システムなしに単に高校や大学を開校することはその目的に役立たないでしょう。
むしろ、世界中の子供たちの中に精神性の衝動を生み出すためにこの新しい教育システムで数千の幼稚園や初等教育をはじめなくはなりません」(Talks on Education)

(6)底辺層の人々を高める努力の必要

 サーカーは、社会の様々の集団が自分たちの利益のためにだけ社会問題にアプローチし、社会の底辺層の問題の解決のためには尽力していないと次のように論じています。

 「まだ人間は社会を悩ます現実の病弊の方を見ていません。
様々の職業集団が、単に個人やグループの利益のために団体を作ります。
結果として彼らはすべての社会問題を自分たちの利益の観点から解決しようとします。
そして彼らは社会の底辺層の人々の問題の解決の援助はしません。
人々を社会のトップから引きずりおろすために費やされるエネルギーの一パーセントすら、底辺の人々を高めるために使われません。
これは大きな悲劇です」(Social Justice)

 日本でも新自由主義的改革で「勝ち組、負け組」「強いものが生き残る」という資本主義の論理がむき出しになりつつあります。
経済だけでなく教育にもその流れが及んできています。

 公立小学校も学区をはずして自由に競争させるという動きもあります。
富裕層は授業料の高い私学へ子どもを行かせ、底辺層の人々の子どもを公立小学校に集中させ、隔離することで、自分たちの子どもを安心して学ばせます。

 このような動きの背景にはいじめにあわず、学力もつけてやりたいという保護者の当然の願いがあります。
しかし、この方向は「教育問題を自分たちの利益の観点から解決しよう」というものです。

 教育問題についても社会の底辺層の人々をモラルと精神性まで含めて全体的に高める援助の中で取り組む必要があります。
各地域の教育行政の中心にある人々は何人トップの大学に合格させたかだけでなく、底辺層の全般的向上のために教育において何ができるか真剣に考えなくてはなりません。 

 「私たちの集合体の中でただの一人も、軽視されたり、無視されたりする人がいないように常に注意深くあらねばなりません。
ただの一人の少年も少女も自分に関心をもっている人がいないと感じることのないようにすべきです。
ただの一人も『私が食べ物を得るか得ないか誰も心配しない』と考えることのないようにしましょう。
あなたは特にこのことを心に留めなくてはなりません」(Genius and Technician)

(7)男女交際について

 サーカーは男女の自由な交流を支持します。
男女の交流を抑制することはかえって抑圧された願望、不健全な好奇心をひきおこし、社会の清浄を汚してゆくと考えます。

 「男女の自由な交りに関する社会的あり方について考えている人達の間には様々の見解があります。
自由な交りの最終的結果が無規律な社会であることは容易に理解できます。

 けれども他の願望を否定する時と同じように社会的交流が無いことは抑圧された願望、不健康な好奇心を生み出します。
これは不義の交わりに導くこともあります。
それも最終的には社会の清らかさを掘り崩してしまいます。
 社会的交流を妨げる制度は人間の心を抑圧する企てにほかなりません。
不義の交わりのあるところでは、男性に対する唯一の害は道徳的堕落ですが、女性にとっての損害はずっと大きいものとなります。
蔑まれて社会の外に投げ出されることもあります。
このように一方では男女が社会的に交わることは自由でなくてはなりません。
しかし他方では、よく考え抜かれた自制の慣習が社会的交流を導かなくてはなりません」(Social Justice)

 この文章のつづきでは、イスラム教徒のように娘を隔離して守ろうとすることはもはや不可能な時代にはいっている、とインドの社会を念頭に指摘しています。
日本の社会では、男女の交際が社会的マナーや自制心を失うところまで至ったものも見られ「よく考えぬかれた自制の慣習が男女の社会的交流を導く」ことが課題となっていると考えられます。

5)「社会の教師」としての番組や映画の制作者

(1)社会の教師としてのサーヒティヤク(作家)

 サーカーの教育論の特徴の一つは、テレビ番組などの制作者たちを「社会の教師」として位置づけ、子どもの心の発達に責任を担っていると考えていることです。

 「劇作家、俳優、作家、ラジオ芸術家は、子供たちの心に真の発達の種をまき、芽を出させ、茂らせ、豊かな葉、花と果実をつけさせる、なくてはならない教師です。
そのすべてのエネルギーと能力が完全に正しく活用されるためには彼らが世俗的な心配事から解放されていなければなりません」(The Practice of Art and Literature)

 たとえば、ラジオについて次のように語っています。
私たちはテレビと読み替えて問題を考えることができます。

 「ラジオは、上手に作られた物語によって教育的役割を果たす可能性があります。
ラジオ放送は、子供の心を知っているサーヒティヤクが書く魅力的で教育的な物語で子供たちの耳と心を大いに喜ばせることができます」(The Practice of Art and Literature)

(2)映画と商業主義

 サーカーはよい映画がすぐれた教育的役割を果たすと論じています。

 「今日、映画はすべての年代の人々に非常に人気があります。
結果として映画技術はかってないほど発展しています。
よい人間関係を確立するために映画を教育的目的に活用することができるはずです」(The Practice of Art and Literature)

 ところが、サーカーは映画産業の商業主義が作品に否定的影響を与えていることを指摘します。

 「映画産業は大衆の好みと要求にしたがって映画を作る一握りの実業家によって支配されています。
一般の人々は、考え、言語、イメージにおいてその卑しい性向を満たすこのような映画の影響を当然受けます。
そのような考え、言語、イメージは、理想主義者の理想を見る影もなくゆがめてしまいます。
それは、自分の利益のために人間の弱点を利用するまったく純粋に商業的な映画プロデューサーのためです」(The Practice of Art and Literature)

(3)政治と商業主義から独立した運営へ

 したがって、サーカーは、放送や映画産業が、政治と商業主義から独立して運営される必要があると主張します。
そのために、「放送網の運営を非政党の教養ある教育関係者の委員会に委ねること」そして、映画は、「民間の文化団体の手」で製作されるべきだと論じています。

 「もし、私たちが社会に有益なように映画を活用する意図を少しでも持つならば、映画は、実業家や政府の手ではなく、民間の文化団体の手で提供されるべきです。・・・
 経験ある有能なディレクターによい映画を作る機会と完全な自由を与えることは悪い結果をもたらしません。むしろ、それは喜びと教育を広げることができます」(The Practice of Art and Literature)

 さらにサーカーは、シナリオ作家、俳優、作家などの「社会の教師」が、富裕者や権力に迎合せずに安心して良心的な作品がつくることができるためには、家族の生計などの世俗的な心配事から解放される必要を指摘します。

 「社会の教師」の生活が安定するように支援が必要であり、社会の役に立つすぐれた才能ある芸術家たちを支えてゆく必要があると述べています。 



H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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