(Mitsuki was attacked by super negative god to make failure of project of Heaven and gods)

Dear
I am god salamnidam who downed theory P.R. Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of assistant Mitsuki in whole life.
Mitsuki studied almost books of theory of P.R.Sarkar which I downed.
Mitsuki's summery is excellent.
Project of Heaven and gods decided to introduce all studies of theory of god salamnidam.
God salamnidam add explanation to study of Mitsuki.

Theme of this page is impressions of appreciation of the movie in point of view of preya and shreya.
Mitsuki was attacked by super negative god to make failure of project of Heaven and gods.
Mitsuki fell down by cerebellar infarction caused by super negative god.
Mitsuki watched video movies in order to rest brain.
Then he wrote impression of movie.


こんにちは
私はP.R.サ-カ-に理論をおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトはアシスタントのミツキの全生涯の研究を紹介しています。
ミツキは、私がおろしたP.R.サ-カ-の理論の本をほとんど研究しました。
天と神々のプロジェクトは、神サラムニダムの理論のすべての研究を紹介することを決定しました。
神サラムニダムはミツキの研究に説明を加えます。

このページのテーマは、プレヤとシュレヤの視点からみた映像の感想です。
ミツキは、天と神々のプロジェクトを破綻させようとするスーパーネガティブ神の攻撃を受けていました。
ミツキはスーパーネガティブ神にひきおこされた小脳梗塞に倒れました。
ミツキは頭を休めるためにビデオ映像を見ました。
そのときに彼が書いた映画の感想文です。


Movie view in point of shreya and preya
プレヤとシュレヤの視点から見た映像

P.R.サーカーの『映画』についてのスピーチ  

 今日、映画は、すべての年代の人々に非常に人気があります。
結果として映画技術はかってないほど発展しています。
人々のよい関係を確立するために映画を教育的目的に活用することができるはずです。
心の隠れた奥底にある獣のような本性に引かれて、人々は卑しい性質に降伏します。
教育と社会環境の向上はこの獣性をコントロールし、それを自分の命令に従わせることを助けます。
このためにまず最初に人々はその獣的性質と戦わなければなりません。
それは容易なことではありません。
狡猾な搾取者が、動物性をあおることによって、人々を自分達の影響下におこうとします。
映画産業はこの病気にかかっています。
この産業は大衆の好みと要求にしたがって映画を作る一握りの実業家によって支配されています。

一般の人々は、考え、言語、イメージにおいてその卑しい性向を満たすこのような映画の影響を当然受けます。
そのような考え、言語、イメージは、理想主義者の理想を見る影もなくゆがめてしまいます。
それは、自分の利益のために人間の弱点を利用するまったく純粋に商業的な映画プロデューサーのためです。
まさしくこれが今の状況です。
「成人向け」と明記されている映画を一般的には青年の方が年輩者よりも見ています。
「成人向け」という言葉が魅力的な言葉を演じて、青年がより引きつけられることもあります。

社会教育のためには、そのような事態がずっと続くことか許されることではありません。
もし、私たちが社会に有益なように映画を活用する意図を少しでも持つならば、映画は、実業家や政府の手にではなく、民間の文化団体の手におかれるべきです。
なぜなら、映画が政府のコントロール下にある国では、教育の普及よりも政党の宣伝のために利用される可能性があるからです。
それが宣伝のために使われた場合には、映画にドラマ性と文学性の美の十分な発展の余地がありません。
映画は党の宣伝を全面に出すメガフォンのレベルに堕してしまいます。
経験ある有能なデレクターによい映画を作る機会と完全な自由を与えることは悪い結果をもたらしません。
むしろ、それは喜びと教育を広げることができます。
西ベンガル政府によってつくられた映画によってこの事実は十分に実証されています。

 最後に、次のことを述べておきます。
劇作家、俳優、作家、ラジオ芸術家は、子供たちの心に真の発達の種をまき、芽を出させ、茂らせ、豊かな葉、花と果実をつけさせる、なくてはならない教師です。
そのすべてのエネルギーと能力が完全に正しく活用されるためには彼らが世俗的な心配事から解放されていなければなりません。
私たちが、彼らの問題を解決しようとすることなしに、彼らの責任の重大性を彼らに繰り返し語ったとしても何の益もありません。(P.R.Sarkar.Discourses on Neohumanist Education.P33.)

コメント

1)以上が、サーカーが、映画について直接に語っている箇所です。
彼の映画論や文学論の特徴は、それらの作り手を、社会の教師(教育者)としてとらえていることにあります。
実際、今日の子どもにとって、テレビ、ビデオなどは、良い意味でも悪い意味でも多大な影響を及ぼします。
サーカーに学んで、テレビ番組の制作者、出演者、ビデオ、映画などなどの類にかかわる人々を「社会の教師」としてとらえることは大切です。

2)映画の作り手が「社会の教師」として、人間の獣性を利用(搾取)する役割を果たしているのか、人間の獣的性質をコントロールし、人間性を高める役割を果たしているのかを見定めることは重要です。
サーカーは、映画産業が病気にかかっていると言います。
「狡猾な搾取者が、動物性をあおることによって、人々を自分達の影響下におこうとします。
映画産業はこの病気にかかっています。
この産業は大衆の好みと要求にしたがって映画を作る一握りの実業家によって支配されています」・・・
今日、暴力的なビデオや性的な欲求をあおるビデオがあふれています。

3)私たちは、動物界から進化してきました。
だから、私たちの心を玉ねぎにたとえると、玉ねぎの芯の部分に、猿の性質(食欲、性欲、力の強さを示し、グループの支配的地位につきたい欲求などなど)をもっています。
玉ねぎの二枚目の皮、三枚目の皮、四枚目の皮をかぶせてゆくのが教育です。
一般大衆は、玉ねぎの芯に二枚目の皮がかぶっているだけですから、芯の猿の性質の部分を容易にコントロールできなくなります。
大衆の受けだけねらってもうけようという作品は、猿の性質のコントロール力を弱め、人々に飲み食い、セックス、あるいは、出世などの現世的な猿のレベルの喜びしか経験しない人生に導きます。
そして人間の社会は低下してゆきます。

4)それに対して、作品は「真に心の発達の種をまき、芽を出させ、茂らせ、豊かな葉、花と果実をつけさせる」ものではなくなりません。
玉ねぎにたとえると、二枚目の皮をしっかりかぶせ、人々が、三枚目、四枚目の皮をかぶるように導かなくてはなりません。
そのような導きをもったビデオを発見し、人々に伝え、俗悪な文化の影響に打ち勝ってゆかねばなりません。

5)そのようなわけで、人々の獣性でなく、人間性を高めるビデオを発見し、ひろげてゆきたいとおもいます。
みなさんが、この作品は、人間性の向上に役立つ作品だわというものがあれば、教えてください。
みんなで、いい作品を世の中に広めてゆきましょう。


Movie view in point of shreya and preya
プレヤとシュレヤの視点から見た映像

『サラフィナ!』

Sarafina! Il Profumo della liberta (1° Tempo) - 1992
(video inspired by god of star)



最初の字幕

「1976年、南アフリカ政府は非常事態を発令、その後、高校生たちによる抵抗運動は13年間におよび、750名が殺害され、1万名が投獄され、多くが拷問の犠牲となった。この作品を彼らに捧げる」

あらすじ

南アフリカでは、アパルヘイトという人種隔離があり、ほぼ9割を占める黒人はホームランドと呼ばれる居住区に住まわせられ、パスポートをもって白人地域に通勤し、低賃金労働者として働いていた。
1960年代から黒人の運動が発展し、1990年にアパルトヘイトは廃止された。
その指導者はネルソン・マンデラであった。
マンデラは黒人の解放をねがう人々の英雄だった。

1976年、黒人居住区のひとつであるソウェトで、黒人の暴動がおきた。
白人支配に対する黒人たちの怒りが盛り上がるそのソウェト地区の高校生たちの1978年ころの話がこの映画である。

主人公のサラフィナは、ソウェトでいちばんかわいい女の子と言われ、女優になりたいとおもっている。
父は、闘争の中で死んだ。
母は、家族をささえるために、白人の邸宅でメイド(お手伝いさん)として働いている。

高校は白人警察によって銃で見張られていた。
黒人のルーツを教え、自分たちに誇りをもたせようとしている高校の歴史のマソムブカ先生が、逮捕されるにおよんで、高校生の怒りは爆発した。
そこに警官が銃を撃ち、サラフィナの好きな男の子は亡くなった。
サラフィナをはじめとする黒人生徒の何人かは、白人警察に協力する黒人警官サベラの家に火をつけて、さらにサベラも火をつけて殺してしまった。

その犯行にかかわった高校生たちはおそろしい拷問を受けて釈放された。

感想(1)・・・重いテーマを明るく描いてある

重いテーマなのに、ミュージカルとして明るく描いていた。
「自由」を歌うそのリズムは、映画の内容とともに心を打った。
涙なしには見られなかった。

感想(2)憎しみからの脱却

高校生が白人の経営するレストランを襲ったり、あるいは、黒人警官を焼き殺すなどの犯行をしてしまったが、自分たちの仲間が撃ち殺されていることへの反作用として駆り立てれらていることが、よくわかるように組み立てられていた。

そして、サラフィナが、あこがれる女性教師のマソムブカ先生は逮捕後殺されたが、先生は、「憎しみはいや。殺し合いはしたくない」と憎しみのない世界を切望していた。

最後にサラフィナが銃を捨てることで、マソムブカ先生の意志を受け継ぐことをあらわしていた。

感想(3)闘争・・・・サルカールとウィルバー

このような状況のもとでいかに闘っていくべきかを考えさせられる。
殺し合いはいやだからと屈するわけにはゆかない。

P.R.サルカールは、搾取や不当なことに対して闘いなさいと言う。

「自分の生命をまもること、正当に得られるものの権利を捨てることは、決して正しくありません。
もしあなたが、当然の権利を奪われた状態にあるのなら、正当な主張を実現させるために、努力を惜しまず闘い続けるが最も正しいことです」

しかし、憎しみと怒りからは決して問題を解決することができないと。相手の不正、憎しみ、怒りに対して、不正と闘う側は冷静な心をもたなくてはならない。
「いかなる不正も働かない者は、不正に対する戦いの中で心の均衡・バランスを維持することが可能となります。
これはこころの静けさに達した者の特質なのです」

南アフリカの1990年のアパルトヘイト撤廃の大きな成果は、ネルソン・マンデラをはじめとする指導者たちの冷静な対応があったにちがいない。

ケン・ウィルバーは、こうした闘争論は述べていないが、闘争にかかわることを論じている。
すなわち物質圏、生物圏、心圏、神圏という意識の深みに向うホロン階層を設定し、まず物質圏において経済領域での公平をテーマとするマルクスの課題を支持しつつも、意識を経済の側面に収斂させず、高いスピリットに向わせる論をもっていないことを批判する。
同じように生物圏において緑の党などの環境運動が生物圏のバランス回復を重視しながらも、人間を生物圏に含ませて、高いスピリットに向わせる論がないことを批判する。

そして、惑星レベルで経済圏の公平、生物圏のバランス、心理圏の統合をおこなう意識の深いレベルにある人たち(サルカールの言葉ではサドヴィプラ)が登場すると予見する。
意識の浅い人、つまり物的身体的レベルのみに関心がある支持者を意識のより高いレベルにひきあげてゆくことのできる人が社会の指導者であるべきことを意味している。

ケン・ウィルバーは、闘争について語らないが、サルカールは闘争こそ生命の本質であると論じる。
そして搾取のない社会構造を打ち立てる闘争を強く支持している。

「歴史を通じて、何百万という人々が、他の人間によって生み出された人工的な飢餓のために死にました。・・・
彼らの生き方が間違った哲学や宗教的な教えにもとづいているので、自分のみじめな状態を運命として受け入れます。
たぶん、その時に、もし、彼らが勇ましいリーダーに導かれ、その人の燃えるような演説に鼓舞されていたら、あるいは、彼らが活動の進むべき方向性について導きを受けたらならば、彼らは、その時代の社会構造を集団的に攻撃したでしょう。
そのような状況のもとでは、彼らの活動は、たぶん悪として不道徳的なこととして描かれるでしょう。
しかし、間違いなくきっと彼らは人間存在のダルマに背いてはいないでしょう・・・
私は、そのような犯罪をおこなう前に、彼らは革命家になるべきだと提案します。
彼らを革命活動に導くことはモラリティの高い人々の任務です。
革命の火の中で彼らから不純物を分離させ、本物の金にならせましょう」Justice

すなわちサルカールは無私の奉仕の中でスピリチュアリティが前進すると論じているのである。

なお、サルカールは、搾取は経済的レベル、知的心理的レベル、スピリチュアルなレベルで存在するという。
知的心理的レベルの搾取も結局のところ経済的搾取につながると論じている。 アパルトヘイトは、黒人労働者を白人雇用者が極端な低賃金で搾取するシステムであり、そこでは管理された学校教育を通じて、黒人より白人を劣ったものとして教える知的心理的搾取がおこなわれていた。
マソムブカ先生は、黒人に対する知的心理的搾取と闘ったので投獄されて殺されてしまった。

プレヤ85、シュレヤ85


『ミラグロ 奇跡の地』
Chick Vennera - Milagro Beanfield War (video inspired by god of star)


あらすじ

メキシコ北部のミラグロ(奇跡の地)という貧しい村(町)の話である。
デバインという会社が、州知事に献金して、上手に農民の水利権を奪い取った。
そしてゴルフ状などのレジャー・センターとして開発する許可を得た。

あとは、土地に対する税金を上昇させて農民を追い出すだけだった。
ある日、村人のホセは、たまたま会社の水道をけったら、自分の土地に水が流れたので、その土地を耕して豆を植えた。
会社は州政府、警察と組んで、ホセのじゃまをしようとした。

会社が州政府と組んで村人を故郷であるこの地から追い出そうとしていることを、よそからやってきて新聞を発行している弁護士と、村人でインテリである一人の女性は気付いていた。
彼女は、会社のレジャー・ランド開発計画への反対運動をおこす。
村人の集会は失敗したが、彼女は署名運動をはじめた。

ホセの豆畑は次第に村人の希望になっていった。
ホセの危機に村の老人たちは銃をもって守った。

最後のホセの豆を村人みんなが収穫し、祭さわぎとなった。
そして州政府は会社への開発許可を撤廃し、村人はもとどおり、村に住むことができるようになった。

感想(1)

あらすじを書いていて、心がジーンときた。
ホセの豆畑をめぐってバラバラ村人が団結していったこと。
背後で反対運動の中心になっている女性が、地道な署名運動などの努力をした結果、村人が勝利したことなどにである。

この作品は名作である。
現代世界の経済構造の根本問題をこれほど明確に描ききっている作品は他には見当たらない。

開発の名で、このような大企業が世界中のコミュニティを破壊してきた。
マルクスの資本論の中では、18世紀のイギリスの第二次囲い込み運動で農民が村から立ち退かされる様子が描かれているが、今日、それが世界的規模で推進されている。
18世紀のイギリスのケースは農村の生産力の増大があったが、今日のアジア・アフリカ・ラテン・アメリカでの農村コミュニティの破壊は農業生産力の発達をともなっていない。
このビデオのケースは、農民を立ち退かせてレジャー・ランドをつくる計画だった。

アメリカのデビッド・コーテン(スタンフォード大学、ハーバード大学元教授)は、そうした世界の現実にもっとも通じている人間で、次のように述べている。
「現代の世界は過剰な豊かさの中て生活する人々と、貧困な隷属や経済不安のために人間らしく生きることさえできない人々に二分されつつある。
大会社や投資銀行のトップ、投機家、スポーツ選手、それに有名スターといった人々が何百万ドルもの年収を得る一方で、およそ10億人が、一日一ドル以下の生活を強いられているのだ。・・・
アメリカでは、『安定した家庭に育ち、大人になる』というささやかな望みさえ多くの子どもにとって夢となりつつある」デビット・コーテン著『グローバル経済という怪物』シュプリンガー東京、

感想(2)

この映画は、まさしくサーカーの進歩的活用理論(プラウト)の実現の闘いであった。
プラウトの原則は、地域の人々が、自分たちの地域の開発の決定権をもつものである。
地域の人々が専門家とも相談しながら自分たちの地域を開発してゆく。
他の地域の人々(企業)は、(そこに永続的に住み込む個人は別として)決定権をもたない。

この場合は、他地域の会社の投資を求める場合でも、自分の村をどう開発し、村人をどう雇用するのかについて村人が決定権をもつ。

この原則は、先進国の企業に支配されている後進国に必要であるばかりでなく、私たちの日本にも必要である。農村地域の発展のために必要なだけでなく都会にも必要である。

たとえば、私の住む大阪では、ATC,WTCなど巨大なビル建設に市が投資し、巨額の赤字を出している。
もし、地域住民が開発計画を立てる権限をもっていたら、そのような投資ではな、もっと地域経済を発達させる地域密着型の投資をしていただろう。

地域住民が経済計画の決定権をもつこと、この映画はその重要性を教えている。
わたしは、資本主義とナショナリズムを超えて、経済と行政において人類63億人のホラーキー階層構造(ヒエラルヒー階層構造の逆)をつくることが人類のめざすべき未来だと考えている。

プレヤ75、シュレヤ75


「風ととともに去りぬ」ビデオ2巻+「スカ-レット」ビデオ1巻

Frankly My Dear, I Don't Give a Damn - Gone with the Wind (6/6) Movie CLIP (1939) HD (video inspired by god of star)


あらすじ

「南北戦争の直前から物語は、はじまる。
アイルランドからやってきてアメリカ南部の大農園主になった父親の娘に生まれたスカーレットは、美貌の持ち主で、気位が高く、負けん気がつよい女性であり、男たちからいいよられる。
彼女は、品のいいアシュレーが好きで、アシュレーの気をひこうとするが、アシュレーは、スカーレットとは別の大人しいタイプの女性がすきで、その人と結婚する。
南北戦争があって、スカーレットの一族のオハラ家は財産を失う。
スカーレットは、着の身着のまま、南北戦争の苦難を生き残る。
そのタラの土地をとりもどすことを生きがいに、お金もうけに夢中となる。
そして手段をえらばぬやり方で、たとえば、財産目当てで、妹の結婚相手を奪う。
そして死んでしまう。
そんな勝気のスカーレットに、南北戦争の時にであった資産家のバトラーはひきつけられ、しまいに結婚する。
一人息子をもうけるけれども、スカーレットは、バトラーよりも、友人と結婚しているアシュレーに恋心を抱きつづける。
夫婦仲はわるくなり、互いをきずつけあう。
バトラーとのも一人息子が事故で亡くなってから、二人の関係は絶望的になる。
そしてバトラーは、スカーレットとの分かれを決意し、去ってゆく。
その時、スカーレットは、バトラーが、本当は好きだということに気付く。
もう遅すぎた」

主役のスカーレットは、財産を蓄えるための頭は働くが、手段を選ばないやり方で、たとえば、妹の結婚相手を財産目当てで奪うなど、スピリチュアリティのレベルはどこにでもいる人間である。
それなのに、時代を超えて、興味深く鑑賞させる力はどこからでてきているだろうか。
プレヤとシュレヤに高得点をあたえしまうのはなぜなんだろうか。
スカーレット役の女優の熱演もあるけれども。

①一つは、この作品をつくった作家の度量が大きかったことがあるとおもいます。
財産のために妹の結婚相手も奪うようなスカーレットについつい共感を感じてしまわせるのです。
なんでも論じているサルカールは次のように文学論でのべています。

「どのような状況のもとでも芸術家や文学作家は人間性を憎しみとあざけりの対象として見てはなりません。
淫らな女性やどろぼうの性格すら深い苦悩のせいにし、彼らへの共感を読者の心に残さねばなりません」サルカール

まさしく、ひどいスカーレットなのに、共感が残っています。

① ふたつ目は、場人物の原因と結果をみごとつなぎあわせながら、スカーレットの心の流れを描いていることです。
そのために、スカーレットに共感をいだいてしまったと感じます。

「原因(カーラナ)の結末は, 特定の時、場、人物に作用(カールヤ)します。
このことを瞬時たりとも忘れてはいけません。
なぜなら、そのように原因と結果の間をつなぐことによって人々は親密な気持ちで作家の目的に触れることができるからです」サルカール

つまり、スカーレットは、アシュレーが好きだ。
しかし、アシュレーは、負けん気のつよいスカーレットよりも品のよいタイプの女性を妻にした。
それでもスカーレットはアシュレーをおもいつづける。
バトラーという本当に自分を愛してくれている人と結婚しているのに、アシュレーをおもいつづける。
そのためにバトラーが気分害して、でていった時、スカーレットは本当はバトラーがすきだということにきづく。
きづいた時にはおそい。

私は、とてもこれがよくわかる。
けっこう、だれもがぶつかっている人生のリアリティではなかろうか。
どの時代を生きる人にとっても共通の人生のリアリティがここには描かれているのではなかろうか。

今生きている自分にとって、本当に大切なものが見えていない。
みんなスカーレットなのではなかろうか。
ここにこの作品が腐朽の名作として生きのびている理由があるのではないだろうか。
(社会科の教師としては、奴隷の描き方にもう一つのところはかんじますが、ま、それをいれるとややこしくなるので、物語としてはあれでいいとおもいますが)

プレヤ(おもしろさ)・・・・70点
シュレヤ(深い喜び)・・・・70点


『スカーレット』

1月から見てきたビデオの中で印象に残ったものの一つだった。
歴史的な作品である南北戦争を舞台にした「風とともに去りぬ」の主人公『スカーレット』がその後、どのような人生をおくったかのかを、後の時代のまったく別の作家が描いたものだった。
ビデオにして「風とともに去りぬ」は二巻、この『スカーレット』は三巻で、そのビデオ三巻を退屈させることなく見させるので、見事だと思います。

あらすじ

「『風とともに去りぬ』の最後の場面は、スカーレットは、アシュレーを想いつづけていて、二人の子が死んだことで、スカーレットと夫のバトラーは、ひどいなじりあいになり、絶望的な関係になった。
そしてスカーレットは、離婚する気で家をでてゆきます。
その時、スカーレットは、アシュレーではなく、本当は夫を愛していたことに気づきます。
その時は、もう、遅すぎました。

その後『スカーレット』 は、自分の母方の親戚と交流をしてゆきますが、バトラーを忘れるために父方の親戚のいるアイルランドにわたります。
当時のアイルランドは、イギリス人地主の領主が、アイルランドの土地を支配し、地代と家賃を払えないと、イギリス人領主によって家がとりこわされ、住むところも失うきびしい状況にありました。
もちろんスカーレットの親族もアイルランド人領主のもとに苦しい生活をおくっています。

バトラーが知人の女性と結婚した知らせをきいたスカーレットは動揺したあまり、イギリス人青年領主と関係ができてしまいます。
その青年領主は、スカーレットの親族の女の子を凌辱し、子どもをはらませ、捨てます。
最終的にその女の子は、イギリス人青年領主を殺害しますが、スカーレットが殺人の犯人とされてしまい、イギリスの法廷でさばかれます。
あわや死刑になりそうになります。
バトラーはスカーレットへふたたび想いを寄せるようになります。

感想

1)『風とともに去りぬ』は、南北戦争を舞台としていますが、南部の奴隷主の側から描かれているために、黒人奴隷についての当時のリアリティが抜け落ちているようにおもえます。
『スカーレット』の作者は、『風とともに去りぬ』の弱点を補ってあまりある人間の人間による支配と搾取の非道さを描きだしています。
しかし、当時のアイルランドというリアリティのもとに描いているので、まったく自然でした。
アメリカ南部では黒人を支配し、召使としてつかっていたオハラ家もその親族の住むアイルランドでは、イギリス人から、黒人奴隷同然の扱いを受けていました。
スカーレットの目を通じて、当時のアイルランド社会がどのようなものであったかを知ることができます。

2)人間とは愚かです。
今何が自分にとっていちばん大切な宝物かが見えません。
「風とともに去りぬ」の最後、スカーレットが本当はアシュレーではなく、失ったバトラーを愛していることに気付きまた。
すでに遅かったのです。
しかし、そこから、別の作家の続編『スカーレット』がリアリティをもった作品として登場するが可能になったとおもいます。

バトラーが妻をつれてアイルランドにきた時、偶然にスカーレットに会い、彼も自分がスカーレットにひかれていることに気づき、悩みます。
そしてスカーレットも、悪質なイギリス人地主領主の青年と性関係をもちますが、心の中はバトラーを想いつづけます。
裏表はないかわりに、気性が激しく、口汚くののしるスカーレットが、そうした人生経験をつみ、最後には、少し、やわらかくなります。
気性の荒いスカーレットがいつのまにか人間的に成長しているのを発見できたのも希望を感じさせました。

プレヤ80点
シュレヤ80点



H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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