Mantra of Love and Bliss (video inspired by god of star)


(Shreya should be given though preya)

Dear
I am god salamnidam who downed theory P.R. Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of assistant Mitsuki in whole life.
Mitsuki studied almost books of theory of P.R.Sarkar which I downed.
Mitsuki's summery is excellent.
Project of Heaven and gods decided to introduce all studies of theory of god salamnidam.
God salamnidam add explanation to study of Mitsuki.

Theme of this page is that literature should be given to people with balanced two factors.
Balanced two factors are shreya and preya which mean bliss and pleasure.
Shreya means joy of closing parent god and preya means joy of this world.
Shreya is eternal joy.
Preya is temporary joy.
Shreya should be given though preya.


こんにちは
私はP.R.サ-カ-に理論をおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトはアシスタントのミツキの全生涯の研究を紹介しています。
ミツキは、私がおろしたP.R.サ-カ-の理論の本をほとんど研究しました。
天と神々のプロジェクトは、神サラムニダムの理論のすべての研究を紹介することを決定しました。
神サラムニダムはミツキの研究に説明を加えます。

このペ-ジのテ-マは、文学はバランスのとれた二つの要素をともなって提供されるべきである、です。
バランスのとれた二つの要素とはシュレヤとプレヤです。
シュレヤは至福を意味し、プレヤはこの世のよろこびを意味します。
シュレヤは親の神に近づくよろこびです。
シュレヤは永遠のよろこびです。
プレヤは一時的なよろこびです。
シュレヤはプレヤを通じて提供されるべきです。


サーカーの文学・芸術論

1)サーヒティヤ(文学)とは何か

(1)サーヒティヤ(文学)の二つの意味

 文学を意味する「サーヒティヤsahitya」は現在のインドで広く使われていますが、もともとはサンスクリット語です。
サーカーによると、二つの意味があり、一つ目の意味は、「生命の流れにそって『共に動くこと』」です。
したがって文学とは、心の流れのリアリティを描写したものであり、単なる作り話でもなく、空想でもありません。

 「文学は社会生活の表面上の作り事ではないし、幻想を綴ったものでもありません。
それは真実の生活の描写であり、心の内奥の外的表現です。
抑圧された人間の心のため息の大胆で力強い表現です。
文学は、その名前の尊厳と威信を守るために、動的な社会の流れと歩調を合わせなくてはなりません」(The Practice of Art and Literature)

 「サーヒティヤ」のもう一つの意味は「幸福welfareとともに存在すること」です。

 「サーヒティヤsahitya という言葉は、sa+hita=hitena saha と解釈されます。
それはヒタhita、すなわち『幸福』と共に存在するということです。
幸福な内的精神がないところでは、私たちはサ―ヒティヤという言葉を使うことはできません」(The Practice of Art and Literature)

 ただし、ここで使われているヒタhitaとは、スピリチュアリティど深まりによる「幸福」を意味しており、時、場所、人物によって変化してゆく世俗世界での相対的な「幸福」を指しているのではありません。

 「人類を絶対の真実に導くヒタhitaという側面は、すべての時代、すべての国々で同一です」(The Practice of Art and Literature)

 したがって、文学(サーヒティヤ)が「至福とともに存在する」ことであるのは、文学によって幸福(ヒタ)が提供されるからです。

(2)シュレヤ(至福)とプレヤ(世俗的喜び)の結合としての文学

 プレヤとは世俗的な喜びです。
シュレヤとは、スピリチュアリティの深まりの中で味わう至福のことです。
至福だけを表現した芸術は一部の人にしか理解されませんから、自己満足的なものになります。
だから文学は、世俗的な喜び(プレヤ)と至福(シュレヤ=スピリチュアルな喜び)を同時に提供するものでなくてはなりません。
だから、サーカーは文学はあふれる楽しみや喜び(プレヤ)を人々に与える形で提供されなくてはならないと強調します。

 「子供時代、思春期、青年前期には、きらびやかで表面的な芸術や文学を容易に受け入れます。・・・
作家の考えがどんなに良いものであっても、もし、あふれる楽しみや喜びを人々に与えることができなかったら、一部の人には受け入れられても、一般大衆には面白味がなく受け入れないでしょう」

 「喜びを通じてプレゼンテーションがなされたなら、そこでは人々は深い喜びの機会に恵まれます。
そしてその共感が、作家を読者の心と直接に結びます」(The Practice of Art and Literature)

(3)「芸術のための芸術」ではなく「奉仕と幸福のための芸術」へ

 このようにサーカーにとって、文学あるいは芸術は、世俗的な「喜び」とスピリチュアリティの意味での「至福」を同時に提供すべきものです。
喜びと至福の提供を目的としてない「芸術のための芸術」は否定されます。

 「それは、奉仕へのインスピレーションを提供することによって社会を真の充足と幸福に導きます。
『芸術のための芸術』という主張は受け入れられません。
むしろ『奉仕と幸福のための芸術』と言うべきです」

 「芸術創作の目的は、喜びと至福を伝えることです。
人々への至福の提供による奉仕者は、日々の喜びと悲しみ、笑いと涙の混じったありふれた出来事に超然として日常生活を送ることはできません。
この大地の子供たちは文学と不可分にかかわっている人々です。
そして作家もそのうちの一人です」(The Practice of Art and Literature)

2)ユガ(時代的)文学とタタスタ(川辺)文学

(1)二つのタイプの文学

 サーカーは、文学を二つのタイプに分類します。
「時代画期的な文学(Epochal文学=ユガ・サーヒティヤYuga Sahitya )」と「川辺の文学(Coastal文学=タタスタ・サーヒティヤTatastha Sahitya)」です。

 川は、時、場所、人によって変化する相対的要素の流れです。
川の土手、陸地の側は変化しない永遠の要素を象徴します。
川の中に立って時、場所、人の流れを描いたものが「時代的文学」です。
流れている川の現場を描き出します。

 ところが「川辺の文学」の作家は、変化しない永遠の要素である川辺に立って、川から離れず、作品を作ります。
そのため時代を超えて読み継がれます。

(2)タタスタ(川辺)文学

「優しく慈愛の心を育む文学は、川辺の文学(タタスタ・サーヒティヤ)と呼ばれ、私たちの歩みのずっと前方を進んでゆきます。
しかし、私たちとの関係が完全に切れてしまうことはありません。
川辺の文学は、私たちと一緒にあるのではありません。
しかし、決して遠く離れたところにあるわけでもありません。

 このタイプの文学はその時代の前方にあり、時代的文学(ユガ・サーヒティヤ)よりもずっと永続性をもち、特定の時代の必要を満たすことにあまり重要性をおきません」(The Practice of Art and Literature)

 サーカーは、川でも陸でもなく、川辺を強調しています。
川は、人、場所、時によって変化する相対的要素です。
陸地は、変化しない絶対的真実の領域です。
なぜ、「川辺」でなくはならないかについて次のように説明しています。

 「私たちは時代貫通的文学をタタスタすなわち『川辺』の文学と呼びます。
絶対の真実は、時、場、人物の領域を越えています。
また表現をも超越しています。
そこでは文学を創作することはまったく不可能です。
しかし、絶対の真実がその永遠の魂と個々の心とを結んだ黄金のラインは、時、場所、人物の相対的要素につながります。
それをある程度まで心の中の言語で表現できます。

 それが時代貫通的文学であり、タタスタ・サーヒティヤ「川辺の文学」と呼んでいるものです。
川でも岸でもなく、その両方に触れるラインは、タタすなわち岸辺です。
一時的なものと永遠のものとの二つの間の関係を維持しながら、この岸辺に立っていることをタタスタ「岸辺」と呼びます」(The Practice of Art and Literature)

 どの文学が「川辺の文学」にあたるとサーカー自身が直接に言及しているわけではありませんが、次の箇所は、彼がラビンドラナート(=タゴール)やシェークスピアを時代貫通的な川辺の文学としてとらえていることを示唆しています。

 彼らの作品は、大衆受けはしないが、芸術的鑑賞眼のある人から評価されるドラマであると評しています。

 「ラビンドラナートは真の詩人です。
そして彼のドラマは、時代の必要を軽視しているわけではありませんが、その時代に理解できる範囲の外に出ることを常に追求してきました。
したがって彼のドラマは、劇場ではめったに人気がでません。・・・
 しかし、彼の作品は文学と芸術の鑑識眼のある人々の惜しみない賞賛を受けました。
舞台上演では彼のドラマの精妙なニュアンスを正当に評価できない観客も、演劇の脚本の読者としては素晴らしい喜びを経験できました」(The Practice of Art and Literature)

 川辺の文学は、それが創作された時代の時、場所、人の要素の影響を受け、時代との関係を維持しています。
そして人々のスピリチュアリティの向上には貢献します。

 しかし、その時代の脈動的運動、すなわち政治経済社会の変化にはかかわって、その時代の社会の変革に直接的に貢献するようなことはありません。

(3)ユガ(時代的)文学

 川の流れそのもの、すなわちその時代の人々の生活を描いたユガ(時代的)文学について、サーカーは次のように説明しています。

 「それに対してユガ(時代的)文学の特徴は特定の時代の必要を明確な言葉で表現するところにあります。
それは集団的心理と手を携えて進み、問題の大小や重要度にかかわりなくその時代に悩む人間の心を伝えます。
このユガ(時代的)文学は時代の必要を満たすために創作されます。

 もし、この文学が、その時代の人々よりも動的になり一緒に進むという性格を失ったら、その誠実な慈愛ある意図にもかかわらず、事実上その価値を失ってしまいます。・・・

 良い文学は時代の必要に応えるために社会と調和して動くべきです。
文学は社会を導くものですから、スピードをコントロールしつつ、社会よりも一、二歩前方を進むかもしれません。
しかし、あまり前方を進むべきではありません。
後ろに動くことはもちろん論外です」(The Practice of Art and Literature)

 このようにユガ(時代的)文学は、時代貫通的なタタスタ(川辺)文学と異なり、その時代に根ざします。
社会よりも一歩二歩だけ前を進んでその時代の人々を導く役割を果たし、時代に抵抗し、時代を切り開きます。
「ユガ(時代的)文学を軽蔑する人は、タタスタ(川辺)文学の甘美さのすべてが、このユガ(時代的)文学の多くの形態、思考の豊かさの中に内在していることを知るべきです。
その時代を代表する芸術家の努力だけが、ひどい堕落や大きな崩壊に抵抗することができます。

 そこではタタスタ(川辺)文学の創作者は、ただもの言わぬ傍観者です。
彼らは道徳性を示し続けるでしょう。
しかし、活力あるヒロイズムの精神を目覚めさせる彼らの能力はかなり制約されます。

 ユガ(時代的)文学の創作者は、大地を掘って、道を作りながら進んでゆきます。
他方、タタスタ(川辺)文学は、山の頂上から、光景をスケッチし、時々、道を作る科学を説明します」(The Practice of Art and Literature)

 このようにユガ(時代的)文学はその時代に抗して道を切り開いてゆきます。
しかし、そうであるがゆえに時代が変化すれば存在根拠を失います。

 「社会がより動的になることで、ユガ(時代的)文学の影響の持続期間は減っています。
スピードにせまられて大変短い期間で消耗されます。
しかしそれを悔やむ理由はありません。
なぜなら、道を作る仕事は続いています」(The Practice of Art and Literature)

  3)文学と芸術創作の視点

 サーカーは、自ら児童文学を書き、晩年には2000曲以上の作詩作曲をおこない、自らも芸術創作の実践を行っています。
そのサーカーの述べる文学創作について触れた部分を紹介します。

(1)発達を切望している心の特質にそって

①現在の中に未来の種子を探る

 未来は現在の中に種子として胚胎しており、現在についての完全な描写を与え、やさしい心をもって未来への可能性を探りないさいと次のように言います。

 「過去、現在、未来は、作品の中で美しく織り合わせられねばなりません。
輝かしい将来の夢だけというのは十分ではありません。
将来のすべての可能性は、現在の胎内に種として胚胎していることを思い起こすべきです。
丁度、現在の開花が過去に蒔かれたものであるようにです。
したがって芸術家は、彼らの独創的な才能で現在についての完全な描写を与えるだけでなくて、慈愛の心をもって未来の可能性を探り続けなければなりません」(The Practice of Art and Literature)

 そして過去、現在、未来を描くにあたって、原因と帰結を完全に説明しきることが大切であり、原因と結果をつなぐことが共感的に作家の目的に触れることを可能にすると述べます。

 「作家が現在から未来にどのような可能性を提起するとしても、それは現在の健全な結果として示されるべきです。
この可能性を提起する時、その帰結がなぜそうなるのか完全に説明するべきです。・・・

 原因(カーラナ)の結末は, 特定の時、場、人物に作用(カールヤ)します。
このことを瞬時たりとも忘れてはいけません。
 なぜなら、そのように原因と結果の間をつなぐことによって人々は親密な気持ちで作家の目的に触れることができるからです」(The Practice of Art and Literature)

②心は発達を切望しているが、現れは多様

 サーカーは人間の心の本質的特徴は同一であると考えます。
そしてその本質的特徴とは、心の発達を常に切望していることです。

 「全人間存在は、心の発達を常に切望しています。
その発達の助けになるものを人々は心から歓迎します。
自分自身を表現する努力の中で遠くの友人を近くに呼びます。
 心の発達の妨げになるものについては、一時的には状況の圧力でそれに服するかもしれませんが、心が全面的に拒否するようになります。
そして、機会が訪れると、その支配から自分を解放するために反乱に立ち上がります。
 これはすべての時、すべての時代の人間の本性です。
このように、人間性に対して何かをしなくてはならない時は、人間の心の本質的な特質を維持しながら行わなくてはなりません」(The Practice of Art and Literature)

 このような心の発達を常に切望するという人間の特質はすべての人に共通だが、サンスカーラ(反作用の潜在力、後に説明)と環境の違いで心は異なって表現されるとサーカーは考えます。

 そしてその心の多様な表現を通じて,読者の感情に共鳴を引き起こすことができならば、心の発達を促してゆくことができると次のように言います。

 「もし、芸術家の心が、他の人の心情のもっとも奥深くに触れることができるならば、もし、芸術家の人間的感情が他の人の感情に共鳴を引き起こすならことができるならば、人々は、どの道が本当に自分たちの利益になるか、どの道が自分たちの可能性をも最大限に実現してゆくことになるのかを判断することができます。
 個人や集団の発達の可能性が明瞭に理解されない時、人間の心という資産はいつでも悪用されるでしょう」(The Practice of Art and Literature)

③心の多様な現れすべてに共感を残すように描く

 このように時、場所、人物の違いで心は異なった現れをします。
作家がそのような多様な心の現れを描くにあたって、どんな人間に対しても、たとえ泥棒であっても同じ人間の心の多様な表現としての共感を読者の心に残すように描きなさいと言います。

 「すぐれたプレゼンテーションは、作家が純粋な人間的感情を欠いていたら不可能です。
善人であっても悪人であっても、友であっても敵であっても、清純なレディであっても、淫らな女性であっても、すべて作家にとっては人間です。
作家は、彼らの心の熱望へ敏感でなくてはなりません。
そして彼らの内なる思考と感情に適切な表現を与えるようにしなくてはなりません。
作家は、彼らの幸せや悲しみ、希望や願いに描写を与えようとするでしょう。
そして人間の心情の表現としてのあらゆる大小の衝突や彼らの悩み多い生活の不調和を扱うでしょう。
 作家にとって職業や性向は重んじられも軽んじられもしません。
聴衆が熟読した後に個人的集団的生活をより意味のあるものにするように作品を提供するでしょう。
どのような状況のもとでも芸術家や文学作家は人間性を憎しみとあざけりの対象として見てはなりません。
淫らな女性やどろぼうの性格すら深い苦悩のせいにし、彼らへの共感を読者の心に残さねばなりません」(The Practice of Art and Literature)

 そして悪人であれ、敵であれ、淫らな女であれ、読者の心に共感を残すような描き方ができるためには、作家は、心に半径のある枠をもつ宗派主義やナショナリズムによってその目を偏見で曇らせないことが必要だと説きます。
「芸術家がそのような大きな心がないならば、人間性と世界を迷信の眼鏡を通じて見ることになります。
本当に人間と世界を熟知することはできません。
これらの迷信や偏見の眼鏡が彼らの視野を歪めるからです。・・・
 たぶん少数のおろかなものはしばらくの間は惑わされるでしょう。
しかし究極のところ、人々は、そのような文学の悪い影響を認識するようなり、避けるようになるでしょう。・・・
 一般的に言えば、宗派主義、地方主義、ナショナリズムへの盲信によって文学作家の視野が曇れば曇るほどそのペンからこの種の文学が流れでます」(The Practice of Art and Literature)

(2)世俗の愛と超越的な愛 

①文学と肉体的愛

 サーカーは、世俗の愛の場面ばかりを描く作家を無能であると批判します。
 「ボンベイ製の映画を見ると、若い世代は、いわゆる愛に忙しく他にすることがないように思えます。
まるですべての女学生が、礼儀正さ、上品さをすべて投げ捨てて、色恋ばかりの生活をしているかのようです。
実際、このような場面 ばかり描く文学作家や芸術家の心性は、無能以外の何者でもありません・・・

 詩、小説、映画、演劇などの領域で、現代の芸術家たちの一群が、人々の粗野な肉欲をあおりたてることに彼らの芸術的才能のすべてを使っていることは、非常に残念なことです」(The Practice of Art and Literature)

 しかし、同時にサーカーは現代文学が安っぽいエロチックな愛ばかりを描いているという批判に同調しません。

 「多くの人々が、大部分の現代文学は安っぽいエロチックな愛のささやきにのみ満ちているだけだと不平を言います。
しかし、私はその不満に同意できません」(The Practice of Art and Literature)

 それは、文学が、人生の悲しみ、喜び、希望、願望、衝動を描くことを使命としている以上、肉体的な愛をも描かざるをえないからです。
哲学的な意味での真実の愛、超越的な愛だけを伝えようとしても一般の人々の心には伝わらないからです。

②真実の愛(プレーマ)は物的身体的レベルを超えた無限のもの

 サーカーは、真実の愛は、物的身体的レベルを超えた無限のものだと考えます。
しかし、そのような真実の愛を芸術家が人々に伝えようとする時、人々は理解することができません。
それを理解できるだけの精妙な感覚を発達させていないからです。

 「プレーマ(愛)という言葉の深い哲学的含蓄がどうあれ、プレーマの本質は物質を越えたものであり、なんの限界も無いものです。
愛の神髄を理解した芸術家が、言葉、修辞、精妙な暗示を通じて人々に愛を伝えようとする時、彼らの芸術的天分の芳香が最高の表現に達します。
 しかし、それでも、これらの芸術家の創作物を大衆の文学や芸術として見なすことはできません。
なぜなら、その超越的感情を理解できる精妙な感覚がほとんどの人々に未発達であるからです。
 ラビンドラナート・タゴールの文学のところどころにこの物質を越えた愛を見いだします。
しかし、ラビンドラナートがその愛に表現を与えようとした時、彼は大衆に理解されませんでした。
ウパニシャッドのさわやかで優雅なシュローカ(頌句)の超越的思考もまた一般の人々には理解できません」(The Practice of Art and Literature)

③芸術は有限と無限をつなぐ努力

 したがって、一般の人々の理解できる有限の愛、世俗の愛の描写を通じて無限の愛、超越的愛の感覚を目覚めさせることが、作家にとっての課題となります。
「この崇高なプレーマ(愛)は、時、場所、人物の限界を越えた永遠の中に成立してきました。
無限の愛は有限の愛の究極の法悦の表現です。
芸術家たちが一般の人々の心に目覚めさせようとしているこの感覚こそ、純粋に超越的ではないけれども、芸術の領域にもっとも高い重要性を持っています。
 芸術家は有限と無限、世俗と超越との間のつながりを打ち立てようと専念します。
普通の知性の人に理解できる表現を通じて、それは次第に人間の心の温和さを超感覚的な夢の地に導きます」(The Practice of Art and Literature)

 したがって、芸術表現において無限の愛に向かう流れの中で肉体的な愛まで含めて描くことをサーカーは肯定します。

 「まったくの肉体的な愛は、哲学の見地からはまったく愛ではありません。・・
しかし、芸術家は、人生の幸せや悲しみを描写することが使命であり、人間の悲しみや痛み、希望や願望の衝動に表現形式を与えることを誓わされた存在であり、どうしてこの肉体的愛を否定できるでしょうか」(The Practice of Art and Literature)

(3)芸術表現における自然さと不自然さ

 演劇について論じたところで、サーカーは演技が自然な普段どおりの表現であるべきという考えに同意できないと次のように述べています。

 「多くの人々は、芸術は、普段に食べ、眠り、話すのと同じ自然なやり方で忠実に表現すべきであると考えています。
さもないとその芸術には欠陥があると考えます。・・・
しかし、この考えには全面的には同意できません」(The Practice of Art and Literature)

 日常の粗大な表現方法をとるか、非日常的な精妙な表現方法をとるかは、そのテーマによるとサーカーは述べます。
つまり粗大な考えの表現には日常の粗大な表現方法がふさわしいと言います。

 「テーマの性質によっては、それにふさわしい多様な演劇上の表現があります。
粗大な考えを表現するために、人は粗大な言語、粗大な身振り、日常の粗大な表現方法に訴えなくてはなりません」(The Practice of Art and Literature)

 そして精妙な感情表現には日常の表現方法ではなく特別の表現方法を必要とします。

 「(日常の粗大な表現方法)は精妙な感情を表現するために使うことはできません。
この場合には特定の言語、言葉づかい 、ジェスチャーが必要となります。
そのようにすることで演劇の美は容易に理解されるでしょう」(The Practice of Art and Literature)

 したがって、演技の自然さと不自然さに拘泥する必要はないと述べます。

 「芸術家の考えを生き生きとした表現にすることが最重要です。
そしてこれを達成するために必要な手だてが採られるべきです。
私たちは自然さと不自然さにあまり拘泥しすぎてはなりません・・・
 俳優はドラマの演技を成功させる言語と身振りの結び付きを十分に活用しなくてはなりません。
自然さを維持するために支離滅裂なセリフや身振りのない人物を登場させてはいけません」(The Practice of Art and Literature)

 心の内奥の精妙な部分の表現は、それにふさわしい形が追求されなくてはならないというのは、演劇にとどまらず芸術一般に共通すると思われます。

4)闘いとしての文学

(1)心の発達の切望に表現を与える

①人々の圧力に屈しない心

 サーカーにとって人間の心の特質は発達を切望していることにあります。
この人間の切望に表現を与えるためには洞察力と表現力と大胆さが必要だと言います。
そしてそのためには人々に群衆の圧力に屈することなく、搾取者に対する闘争を人々に呼びかけるべきだと次のように述べます。

 「人間性の真の性質のこのたゆまぬ流れに十全な表現を与えるために、洞察力、表現力、大胆さの三つがともに必要です。
理想的な文学の創造は、常に群衆の圧力に屈する状態にある人々にとっては不可能です。
その真の本性の表現のために、その活力を吸い取ろうとしている勢力に対する闘争を一般の人々へ高々と呼びかけるべきです。
大胆なヒロイズムのない声は、単に詩の形をとってすすり泣くつまらない詩です」(The Practice of Art and Literature)

②抑えきれぬ心情の発露のための大胆さと勇気

 そして表現力とは、技術の問題ではなく、心の内側にある抑えきれない心情の存在を意味しており、その心情の発露を大胆さと勇気をもっておこなう時に強い表現力が生じます。

 「ここで私が言っている表現力とは単に言葉に関する技術を意味しているのではありません。
むしろその人の心と心情の抑えきれない力を意味しています。
 大胆さと勇気の欠落しているところでは、ためらいがちな慎重さで自信のない歩みを進める傾向があります。
 支配的な社会的迷信と偏見、現存する宗教の鈍的停滞的縛り、宗派主義、地域主義 の政治的イデオロギーのプレッシャー、ナショナリズムの間違った誇り、狭隘な心をもった政治思想などのために怯えている言葉は、自立した思考を表現できません。・・・
 作家は雷のように自己を主張しなければなりません。
人々に刺激的な呼びかけをし、大胆な心と強い腕で不純なすべてのくだらぬ考えを退け、人間の解放を明確にしなくてはなりません」(The Practice of Art and Literature)

(2)闘争の中でこそ知性は覚醒する

①闘争を避けるならば表現も漠然としてしまう
 サーカーは、闘争をこの天地万物の存在の本質をなすとみます。
文学的表現においても闘争を避ける人生であるならば、表現も漠然としてしまいます。
作家自身の知性の発達のためにも闘争を避けるべきではないと言います。

 「力は衝突を通じて表現を見いだします。
闘争を避ける人生、闘争への衝動の弱い人生においては、表現も漠然として不明瞭です。
人間の知性は、様々の種類の自然、社会、心理、経済での闘争を通じて目覚めます。
知性の覚醒を追求する人々は闘争を恐れるべきではありません」(The Practice of Art and Literature)

②社会の動きとその問題を洞察し、たとえ一人でも悪い波に抗せよ

 芸術家は、社会の動きに内在する問題点を洞察し、何が社会に悪影響を与えているかを理解し、押し寄せる破壊の波に抵抗するべきだと次のように述べます。

「真の芸術家や文学作家は、筆やペンを振るう前に、社会が動いているそのありようを明確に理解すべきです。
すなわちなぜその方向に動いているのか、何がその内在する問題の根本的原因なのか、どのような考え方が堕落した性質を放出させ、社会に悪影響を与えているのか理解すべきです。
そして単に理解するだけでは十分ではありません。
芸術家は押し寄せる破壊の波に一人で抗しなければなりません」

 「社会が・・・展望を失ってしまったところでは、作家や芸術家は危険をおかしても前進しなければなりません。
手に燃えるたいまつをもって他の人々に道を示さなくてはなりません。
 人類を前進に導くにはすべての反対勢力に対するたゆみない闘争を必要とします。
社会の様々の分野で既得権を持つ人々は、率直にものを言われることに腹を立てて脅迫するかもしれません。それにひるむべきではありません」(The Practice of Art and Literature)

③知性が目覚めるのは妨害勢力との闘争を通じてである

 サーカーによれば、人間の心の特質である知的心理的発達の切望は、たとえ一時的に妨害勢力によって沈滞させられたとしても、次の瞬間には千倍もの力で妨害勢力を打ち壊すことになります。
それは芸術家自身が妨害勢力との闘争の先頭に立ち、人々の心の切望に表現を与えて知性を目覚めさせることで促進されます。

 「あらゆる歩みにおいても労働の温かい息と疲労が、真の表現を見いだしています。
誰もこの力に逆らう力を持ちません。
彼らの知的心理的な能力を沈滞させたい人々はしばらくの間はこの表現の力を妨げます。
しかし、その内的な活力の勢いは少しも衰えません。
次の瞬間、それは千倍もの力で妨害物のすべてを打ち壊してしまうでしょう。
知性が目覚めるのは妨害勢力に対する闘争を通じてであると述べた理由はここにあります」(The Practice of Art and Literature)

 ここで妨害勢力とは既得権益に奉仕し、間違った考えをふりまく人々、あるいはイズムやドグマの枠で人々の知性を縛りつける人々のことだと解釈します。

5)財力と権力に屈しないために

(1)富の女神に屈する学問の女神

 作家が自分の作品を売り出すために、広告技術のしっかりした出版業界に迎合した作品をつくらざるをえない状況があるとサーカーは言います。

 「作品の資質がどのようなものであれ、効果的な広告技術によって出版業がしっかり確立しているならば、本はよく売れるでしょう。
貧乏な文学作家は有名な出版社のドアで頭を下げることで屈辱を経験しています。
才能ある文学作家や芸術家は、しばしば、彼らのパトロンを喜ばせるものを作らざるをえなくなり、性に合わない仕事をしなければなりませんでした。・・・
同じようなことが今日でも続いています」(The Practice of Art and Literature)

 日本でも石川啄木や与謝野晶子といった卓越した芸術家が、財や政治に迎合せず、困窮した生活を送っていたというのは有名な話です。
今の日本では、文芸の教養をもつ層が広がっていますが、宣伝力をもつ出版社に迎合さぜるをえない状況はあると考えられます。

(2)社会の責任としての芸術家の生活保障

そしてサーカーは、芸術家が安心して暮らせるようにすることは社会の責務であると次のように述べます。

 「芸術家と作家は、社会のガイド( 導き手) です。
彼らが安心して暮らせるよう注意深く見守り、その生活を助けることは、社会の責務です。・・・
民主主義国家では、国民の代表としての政府は、この責任を引受けなければなりません。
政府が財政的に切迫しているなどの理由で、国家が芸術への支援に消極的であるところでは、民間の人々が直接に担わなくてはなりません」(The Practice of Art and Literature)

 サーカーは、歌手、ダンサー、器楽演奏家、脚本家、詩人などの経済状態について言及してその改善策を提案しています。
歌手以外の芸術家は、著名な一部の人を除いて経済状態はきびしいと述べています。 

(3)作家自身による出版協同組合

 サーカーは宣伝力のある出版社に作家が迎合する必要ないようにするために、作家自身による出版協同組合の設立を提案します。
「作家自身が生活の問題の解決の道を見いだすべきです。
自分たちで協同組合を作り、自分たちで本の出版をするべきです。
お金のない作家が個々にこのビジネスをやることは不可能で、望ましくもありません。
というのは、彼らが資本家的、物質的なものの見方をしてしまうようになるからです。
 理由なく常に政府を責めることも望ましくありません。
本の出版が政府の管理下に置かれるならば、作家にとってはいっそう有害です。
出版は完全に民間の手で維持されるべきです」(The Practice of Art and Literature)

 サーカーの著書も、自分の創始した団体であるアナンダ・マルガの出版部からしか入手できません。
サーカーが自分の本の出版を商業出版社と政治権力にまったく頼らなかった点で、彼は理論と実践を完全に統一させています。

(大沢在昌、京極夏彦、宮部みゆきの作家三人が、1990年代に「大沢オフィス」という会社を立ち上げて協力していることは、財力と政治力に迎合しない立場を確保している点で評価できるかもしれません)

(4)出版社の宣伝力に負けない良質の批評雑誌の普及

 本の売れ行きは、出版社の宣伝技術によって、あるいはエロ・暴力など低い人間の性向にあわせることでよくなります。
だから本の売れ行きは、本の良し悪しを示すものではありません。

 そこでサーカーは読者が判断できるように作家と作品を紹介した良質の評論雑誌が普及することが必要だと次のように述べます。

 「宣伝と広告のために、一般の人々はどの本が良くてどの本が良くないかを知ることができなくなりました。
世界のどの国にも発達した批評文学や批評雑誌がひどく不足しています。
宣伝の力と低い人間の性向を興奮させる力をもって一般大衆に粗雑な娯楽を多く提供する本は市場でよく売れます。
作家自身によって出版された本は、その善し悪しにかかわりなく、市場であまり売れない理由はここにあります。・・・
 本の売れゆきは、その善し悪しを判断する基準にはなりません。
それゆえ、本を選ぶことは読者、購入者、図書館の理事にとって重大な問題です。
良質の批評文献、批評雑誌が活用されないかぎりこの問題は解決しません」(The Practice of Art and Literature)

 では、文学と芸術の発達に貢献できる批評とはどうあるべきでしょうか。
サーカーは、次のような点にふれています。
①批評は芸術家をけなすものではなく、芸術家を援助するものであるべきこと。
②批評家は完全に文学と芸術に精通していること。生半可な知識による評論は、自分を高めようとしている誠実な芸術家を害することになる。
③作家として成功しなかった人は他人をずけずけと批評するようになる。そういう人から建設な導きは期待できない。
④作家に対する共感的な心をもって批評すべきであり、その共感の心が作家に察知される時、有益な批評となる。

6)精神性と芸術家

(1)一つの心の多様なあらわれ 

 作家が、味方であれ敵であれ、善人であれ悪人であれ、純潔であれ淫らであれ、読者の心に共感を残すように描くためには、その多様な心の持ち主が同一の特性をもつ人間の心の多様な表現であるという見方が身についていなくてはなりません。

 それは、一者=多者というOnenessワンネスの精神性のとらえ方をする時に可能になります。

 「ある人の心が他の人の心を知ることができなかったら、そして、多くの人々の心が一人の心によって理解されなかったら、どうして統一の確立が可能でしょうか。
 芸術家や作家の実践は、時代を越えて続いてきました。
そしてその目的は、多くの人々の中に『一なるもの(ONE)』を見ることです。
そして多くの人々を「一なるもの(ONE)」 への道に導くことです」(The Practice of Art and Literature)

(2)芸術家に不可欠な「精神性の渇望」

 したがって、サーカーは、作家に限らず芸術家としての成功するためには、精神性の道を進むことが必要であると考えます。

 「芸術家が正しい道を進みたいと思うならば精神的な向上をめざす者でなくはなりません。
繊細な芸術を生み出すことは、精神性の感情を身につけ、人生のゴールとして精神性の理想を受け入れない人々にとっては意味がありません。
世界のすべてを精神性の心で見る人々だけが、あらゆるものに至福と超越的実体を実感できます」(The Practice of Art and Literature)

 精神的な向上とは、一者(ONE)に近づくことです。
そして一者の視点から多者を見、精妙なる一者から粗大なる多者の世界を見ることができるようになることです。

 芸術の本質は、粗大さから精妙さに向かう波動を人々とともにすることです。
 したがって、精妙なる一者への精神性の理想を胸に抱いていない人は、才能があっても芸術創造には成功しないとサーカーは言います。

 「独創的才能をもっていても、精妙な実体を求めない人々は芸術創造に成功することができません。
そのような人々の思考過程は 帆の裂けた帆船のように漂流して進みます。
彼らの心が道をはずれていることは、そのすべての著作に反映します。
それは最終的には奇妙でグロテスクなものになります。
 その上、そのような芸術家は、個人生活においても破局がきます。
彼らの一時的な美的感覚と物的喜びを求める肉欲と闘いで、彼らの人格が精妙さと粗大の間で引き裂かれます。・・・・
 どんなに名声を博しても、そのルーズな性格のために人間としての尊敬と威信を得ることができませんでした」(The Practice of Art and Literature)

この視点から、芸術家の天分は、「独創的才能」と「精神性(一者)への渇望」の両方が備わっていることだと述べます。

 「天分をもった人は、意識しようとしまいと、強い生まれつきの精神性の渇望をもってこの世界の中に生まれます。
この精神性の渇望を持たない人々にとっては、その努力と苦労だけで芸術家になろうとすることは、全く無益です。
しかし、独創的才能のない人が、無限のものに対して精神性の衝動と願望を燃やすことができたとしても、その才能を発展させることは不可能でしょう」(The Practice of Art and Literature)

7)一つの人類社会の形成へ

①文化の発展と交流の意義

 私たちは今日のグローバル化の進展の中で、ナショナリズムと宗教原理主義などの高まりがあるとはいえ、同時にかつてない文化交流の深まりを目撃しています。
この文化交流とその影響についてサーカーは肯定的に次のように言及しています。

 「文化の発展もまた社会にかなりの変化をもたらしつづけてきました。
その変化は、多かれ少なかれ世界中ほとんどすべての国々で統一的におきています。
文化の発展を悪いものと考えることはできません。
ある社会の欠陥が他の社会に影響を与えるとしても、この相互関係は巨大な積極的意義を持っているからです。
人類は、無意識的であっても互いの協力を通じて次第に新しい人間文化を打ち立てています」(The Practice of Art and Literature)

 ここで「ある社会の欠陥が他の社会に影響を与えるにしても」とは、たとえば、ハリウッド映画、ファースト・フードに見られるようなアメリカ文化が、世界各地のそれぞれの地域文化を衰退させている傾向などを指していると解釈します。

 すでに文化論のところでふれたように各地域文化が個性を奪われ、劣等感を植えつけられ、心理的に搾取(利用)されないように闘ってゆかなくてはなりません。

 しかし、私たちは、テレビで流される日本の歌謡曲の中に沖縄のメロディーや韓国の音楽が私たちの文化としての市民権を得つつあることを目撃しています。
この相互関係は巨大な積極的意義があります。
それは、人類が、「無意識的であっても互いの協力を通じて次第に新しい人間文化を打ち立て」つつあることです。

②ネイション(国民国家)の分裂の限界を超えて、一つの人類の未来へ

 サーカーは国境を超えて一つの人類への道に進むことを次のように呼びかけます。

 「人類は抗しがたい速さで動いています。
今日、人間は様々の種類の分裂を生み出す作品を書いた人々を忘れたいと思っています。
 人類は、輝かしい未来に向かう全領域の見通しを明らかにしたいと思っています。 輝かしい未来とは、すべての個人や集団の利益、国と国家の領土的限界を越え、数多くの人々の運命をひとつ運命に変える未来です。
人類はもはや、いわゆる『神』の恩寵にすがりたいとは思っていません」(The Practice of Art and Literature)

 サーカーは、新しい『一つの統合された心』の振動の現れとして次の詩を紹介しています。
(1)詩人カール・サンバーグ(アメリカ)

世界には、ひとりの男だけがいる
それは、すべての男性
世界には、ひとりの女だけがいる
それは、すべての女性
世界には、ひとりだけしか子どもがいない
それは、すべての子ども

(2)詩人サティエンドラナート(アジア)

この世界の人類はひとつ
母なる大地の乳に育てられ
太陽と月の近くに住み
暑さと寒さ、飢えと渇きを感じる。
ともに緑の苗を植え、育てる。
すべてが、生活のためにもがき
すべてが、友と仲間、幸せな家庭を求める
すべてが、水におぼれる
すべてが大地に育つ
黒い肌、白い肌は、外面だけ
内側は、誰の血も赤い
身分の高低も、大も小も、
人工的差別はすべて、最後に砕け、埃となる。
眠る魂の中に愛が目覚め、真の人間が現れる
肌の色、人種の間に違いはない
存在すべてが、ひとつの「無限の意識」だから


(補論)児童文学創作の視点

 サーカーは、文学のジャンルとして演劇、ドラマ、短編小説、サスペンス、詩、児童文学、音楽、ダンス、朗読、建築、絵画、彫刻などの創作の視点について鋭い発言をしています。
自らも晩年に2000曲以上の作詩作曲をした他、児童文学も書いています。
ここでは児童文学についての言及のみを紹介しましょう。

①児童文学の意義

サーカーは、児童文学においては作家の責任と熟達は他の分野よりも一層重要であり、前向きの率直さや純真さをもって人生をどう生きるべきかを示さなくてはならないと述べます。
「児童文学(シシュ・サーヒティヤ)においては作家の責任と熟達が、ほかの分野の文学よりも重要です。
少年少女向きのあらゆる文章がすばらしい魅力を持つべきです。
それは澄み切った簡素さと開かれた心です。
児童文学の作家は、前向きの率直さや純真さをもって人生をどう生きるべきかを言語と思考を通じて説明しなくてはなりません」(The Practice of Art and Literature)

②子供の心の特質である未知、神秘への願望にそって

サーカーによれば、子供の心は視覚的想像において天空広くはばたき、神秘的なもの遠くのものにあこがれます。
そのようなあこがれ、願望に応える作品を作るべきであって、現実の厳しさを表現する必要はないと言います。
「子供の心は、空想的な心象に満ちています。
そこで文学も大きく広げた翼によって想像の天空を舞い上がらなければなりません。
しかし、作家はこの視覚的な上昇だけにふけるわけにはゆきません。
子供の心は、遠くのものに対する渇望、未知のものを知ることへの熱望を持っています。
神秘的な土地のイメージと色彩豊かな妖精のお話を描くことでそれを満足させなくてはなりません。
現実性と自然さはここではそれほど重要ではありません。
より重要なことは、子供の心を喜びの流れの中でそして単純なやさしい方法で子供がこの世に精通するように導くことです。
現実の厳しさは描かれるべきではありません。
子供は、現実の厳しさについて読んだり聞いたりすることを望みません」
「絵につづいて絵、色につづいて色、それらが言葉を伴わなければなりません。子供の心がそれを切望しています」(The Practice of Art and Literature)

日本のマンガは、子どもたちに受け入れられてきたのは「絵→色→言葉」に該当し、かつ、子どもの心を空想的心象に導いている点で、このサーカーの児童文化論に合致します。
そして「風の谷のナウシカ」などの一連の宮崎駿、高畑勲の作品、藤子富士雄の作品などがすぐれた児童文化として頭に浮かびます。

③子供の心の発達段階

サーカーは、年長の子どものための文学は、こっけいさ、風刺を入れるべきだが、小さい幼児は、単純さを原理にし、教訓めいたことを入れるなと言います。
「少し年長の子どもに対しては、すなわち十代前半の少年少女ですが、こっけいさや風刺があってこそうまくゆきます。
その中で子供たちは彼らの人格形成に役立つ理想を見いだすことができます。
しかし、比較的小さい子供たちにとっては、何が書かれるにしても、単純さが指導的な原理です。
言葉の遊び、華やかな の言葉、話の挿し絵や長い教訓的な説教を入れることはその作品をゴミにしてしまいます」(The Practice of Art and Literature)

④子守歌と視覚的イメージ

子守歌を一つの重要なジャンルとしてサーカーは次のように提起しています。
「子供の文学で軽視されてきた分野は、子守歌 です。
それは多くの場合、詩歌のカテゴリーの下に位置します。
子守歌には独自の特徴があります。
子守歌は、視覚的な状況を描きます。
子供たちの文学すべてが視覚的でなくてなりません。
しかし、子守歌の場面展開はより早いものです。
心の鏡に次々に映る絵を見ながら、 子供は眠りにつきます。
したがって子守歌の作曲家は、才能のある芸術家でなくてはなりません」(The Practice of Art and Literature)

そしてサーカーは、子守歌は、怠慢や恐怖感を子供の心に残すものはあってはならず、この世界と自然を愉快で魅力的なものとして感じるように創作しなさいと言います。
「怠慢や恐怖感が子供の心に生み出されるような作品は子守歌と見なすことはできません」

 さらに子守歌の中では人々の苦難のイメージも暗く表現されるべきではないと論じます。
「子守歌のリズムを通じて、抑圧された人々の疲れた長い苦難のイメージさえ、生き生きと表現されるかもしれません。
そして繁栄した社会の華麗さ比較されるかも知れません。
しかし、それも陽気な形で表現されるべきです」(The Practice of Art and Literature)

◎引用文献
P.R.Sarkar, The Practice of Art and Literature , Discourses on neohumanist education,



H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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