Om Mani Padme Hum - relax& meditation - Tibet Mantra (video inspired by god of star)
(Crime is done as correct not punishment)
Dear
I am god salamnidam who downed theory P.R. Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of assistant Mitsuki in whole life.
Mitsuki studied almost books of theory of P.R.Sarkar which I downed.
Mitsuki's summery is excellent.
Project of Heaven and gods decided to introduce all studies of theory of god salamnidam.
God salamnidam add explanation to study of Mitsuki.
Theme of this page is that judgement of crime can be done by human but punishment of crime cannot be done by human.
Crime is done as correct not punishment.
こんにちは
私はP.R.サ-カ-に理論をおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトはアシスタントのミツキの全生涯の研究を紹介しています。
ミツキは、私がおろしたP.R.サ-カ-の理論の本をほとんど研究しました。
天と神々のプロジェクトは、神サラムニダムの理論のすべての研究を紹介することを決定しました。
神サラムニダムはミツキの研究に説明を加えます。
このペ-ジのテ-マは、罪の判断は人間によってなされることができけれども罪を罰することは人間によってはなされえない、です。
罪は、罰ではなく矯正としてなされます。
サーカーの司法論(犯罪と裁判制度)I am god salamnidam who downed theory P.R. Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of assistant Mitsuki in whole life.
Mitsuki studied almost books of theory of P.R.Sarkar which I downed.
Mitsuki's summery is excellent.
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God salamnidam add explanation to study of Mitsuki.
Theme of this page is that judgement of crime can be done by human but punishment of crime cannot be done by human.
Crime is done as correct not punishment.
こんにちは
私はP.R.サ-カ-に理論をおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトはアシスタントのミツキの全生涯の研究を紹介しています。
ミツキは、私がおろしたP.R.サ-カ-の理論の本をほとんど研究しました。
天と神々のプロジェクトは、神サラムニダムの理論のすべての研究を紹介することを決定しました。
神サラムニダムはミツキの研究に説明を加えます。
このペ-ジのテ-マは、罪の判断は人間によってなされることができけれども罪を罰することは人間によってはなされえない、です。
罪は、罰ではなく矯正としてなされます。
1)善悪について
(1)時,場所、人によって変化する善悪の観念
何が犯罪であるかは人々のもっている善悪の感覚によってで決められてゆきます。
サーカーは善悪の観念はそれぞれの国の宗教と信念に根をもっていると言い、次のような例をあげています。
「たとえば、イギリスの人々は、慣習的に自殺は重大な犯罪の一つであると信じています。
インド人の慣習的信念によれば、自殺は罪とみなされまが、重大な罪ではありません。
そして日本人はまったく自殺を罪だとはみなしていません。
これら三つの国の刑法が違うのはそのためです。
日本では、自殺も自殺未遂も犯罪に含まれません。
だから、どちらも処罰に値する罪ではありません。
今日、インドでは、自殺未遂は犯罪です。
しかし、自殺自体は犯罪ではありません。
だから、自殺未遂だけが処罰を受ける罪です。
そしてイギリスでは、自殺未遂も実際の自殺もどちらも犯罪です。
それゆえ、どちらも処罰に値する罪とみなされます」
(注、1961年の自殺法で英国の法律では自殺は犯罪でなくなりました)(Justice)
このように、善悪の観念は、場所、時代、人によって変化する相対的なものです。
したがって自分たちの善悪の観念を絶対のものとする考えは間違いです。
サーカーは、善悪の観念の違いに寛容でなくてはならないと主張します。
「さもなければ、彼らの極端な不寛容は、広がっている宗教や美徳を守るという名目の下で中世におこなわれたように、世界全体で人間の血を浴びせる結果となります」(Justice)
したがってどのような政府も特定の宗教的経典に従うべきではないと言います。
この考えは宗教国家を打ち立てようとする動きへの批判でもあります。
(2)サーカーの定義する不道徳、善悪の観念
善悪の感覚は、時、場所、人の変化に規定される心理的表現だとするならば、サーカーは、罪、善悪どのように考えるのでしょうか。
「私の意見では、善virtueは、心を拡大してゆくことに役立つものです。
その助けによって、世界universe(表現されたこの宇宙のこと)はだんだんと単一性oneselfの不可分の部分になります。
そして悪viceは、心を狭く利己的にすることです。
そして善行に従事している人物の心がそれに向かって進んでいる領域が天国です。
そして罪人の心が、狂った逆上の中で走り回っている領域が地獄です。
様々の宗教の教典の中に含まれている考えを議論する必要はありません」(Justice)
さらに、サーカーは、罪とは不道徳な意図にもとづく行為であり、不道徳とは「個人やグループの利益のために、他の個人やグループや社会の他の部分を搾取(利用)することを意図したり、その自己保存の権利を奪おうと意図すること」とも説明しています。
またサンスクリット語のプンニャ(善)とパーパ(罪、悪)について次のように説明しています。
「プンニャ(善)とは集合的利益に役立つこと、集合体のスピードを加速することです。
集合体のスピードを遅らせることがパーパ(罪、悪)です」
「ヤーマとニヤーマの指示(すなわち道徳性の根本原理)にそって振る舞うことが、プンニャ(Punyaすなわち善virtue)です。
それに反して振る舞うことがパーパ(Papaすなわち罪、悪)です」(Talks on Prout)
(3)法律は社会的必要性にもとづくべき
サーカーの善悪についてのこれらの定義は、いずれも時、場所、人を超えたより普遍的なものです。
しかし、法律のためにはより具体的なレベルでの規定が必要になります。
その場合、特定の人や特定の時代の善悪の観念の絶対化は避けなければなりません。
法律の基礎をなす原理は、社会的な必要にもとづいているべきで、個人やグループの善悪についての特定の観念にもとづいてはならないとサーカーは言います。
「法は社会的必要性に根拠があるべきであって自分の司法システムや法典を国家権力の助けで、専横的に押しつけることができると考えている人々は、時、場所、人のいかんにかかわりなく間違っています」(Justice)
2)矯正システムとしての司法制度
(1)刑罰システムではなく矯正システムとして
サーカーは、司法システムは、刑罰システムではなく、矯正システムであるべきだと強調します。
どんなによい司法システムであろうと欠陥は必ず存在し、罰として行なわれたならば、懲罰を課せられた人々の心に復讐の念が生じます。したがって罰としてではなく矯正として実施されるべきだというのです。
「道徳的な観点からも、もし、社会的な清浄を維持したいと願うならば、人々は、懲罰的な処置ではなく、矯正的な処置をとる権利だけをもつべきです。
人間存在のあらゆる脈動をコントロールする法が、人々を罰する唯一の権威です。
他にはありません。・・
これらの措置は懲罰的ではなく、矯正的なものであるべきです。
司法制度に欠陥があったとしても、矯正的方法だけがとられたとしたら、その時は、誰かがひどい目に会う可能性はありません」(Justice)
人間は他の人を罰する権利をもっていませんが、矯正する権利は誰もがもっているというというのがサーカーの考えです。
「社会的な観点あるいは人間的な観点からは、あらゆる人が、他のあらゆる人のふるまいをただす権利を持っています。
これはあらゆる人間の生まれながらの権利です。
どんな学者も、自分が接することになった人の欠点を正す人々の権利に異議を差し挟むことはできません。
この権利を認めることは、社会の健全さのために不可欠です」(Justice)
(2)行政と矯正(司法)システムとの違い
行政システムは、国の枠組みを強化する厳しい規律が必要であるのに対して矯正システムとしての司法制度は、温情的であるべきだと次のように言います。
「行政システムと矯正システムには基本的な相違があります。
行政システムにおいて社会の枠組み、あるいは国stateの枠組みを強化するために必要とされる厳しい規律disciplineは、司法システムには必要ありません。
むしろ、司法システムは、理性的で、寛容で、ヒューマニスティックな考え、そして心優しい感情にもとづくべきです」(Justice)
すなわち法の執行としての行政システムは、万人に対して公平に例外なく執行されなくてはなりません。
たとえば、徴税や飲酒運転について誰かが温情で不公平に扱われることがあってはなりません。
しかし、犯罪を司法の場で裁く場合は、諸事情が勘案され、機械的な法の適用とはなりません。
(3)誤審を防ぐために
もし、間違った判決が下されたら、無実の人が苦しめられることになります。
裁判官も間違う可能性があります。
「裁判官は、完全な確信をもって、ある人が有罪であり、ある人は無罪であると言うことはできません。
彼らの評決は、目撃者の証言、証拠、弁護士の議論にもとづくものです。
彼らは、目撃者が本当のことを言っているのかどうか、あるいは証拠が本物であるかどうか確かめる余地がほとんどありません。
老練な弁護士は、その弁論によって卓越した裁判官すら困惑させ、しばしば裁判に勝利します」(Justice)
目撃証言や証拠が本物であるかは刑事の仕事として重要です。
そのためには刑事の仕事量が増え、刑事の数を増やし、十分な数の刑事をもつ必要があると主張します。
「しかし、単に刑事の数を増やすことで、この問題が解決するだろうと期待することはできません。
なぜならば、もし、腐敗の種が警察組織自体の中に潜んでいたらならば、実質的にそれらを根絶することは不可能でしょう。
たとえば、もし、刑事がどん欲からワイロを受け取ったならば、被告人もしくは告訴人は結果として損害を被るでしょう。
国が充分な数の刑事をもつことが必要ですが、政府が大量の熟達した刑事を募集することは不可能です。
それゆえ、刑事によって行なわれた捜査について、目撃者が本当のことを言っているか、証拠が本物であるかどうか、裁判官によって再度、確かめられることが必要です」(Justice)
当然、裁判官も適切な判決を下すためには十分な数の能力のある裁判官が必要です。
陪審員制度も取り入れるべきだと次のように主張します。
「陪審員を選ぶ唯一の基準は、正直であることです。
教育上の資格や社会的地位は考慮されるべきではありません。・・・
裁判の最終的な責任が陪審員よりも裁判官にあることが望ましいです。
だから、裁判官は、性格の強い人々の中から注意深く選ばれるべきです。
一般的には、裁判官の数は、警察や刑事の数よりも少なく、その給料は高いです。
だから、適切な努力をもってすれば、国が必要とする有能な裁判官を確保することは不可能ではないでしょう。
地方自治体は、陪審員を選ぶ責任を与えられるべきです。
実業界の人, ブローカー、政党指導者、政党職員は、陪審員になる資格をもつべきではありません」(Justice)
サーカーは、中世のムスリムの裁判官であるカージーのやり方を支持はしないが学ぶべき点があると言っています。
それは裁判官であるカージーが自らも、変装して犯罪調査などを行なった点です。
それについて次のように言います。
「そのような努力は、裁判官により大きな責任をゆだねることになります。
だから、その人数と給料を増やすことが必要となります。
これに加えて、彼らが自分たちの調査結果や実験にもとづいて判決を下すことが出来るように、彼らの権限を増やすことも必要です」(Justice)
裁判官の人数と給料を増やすとともに裁判官の資質について、時々、人々を代表する機関によって監視、報告がなされるべきだと次のように述べます。
「他者に対する裁きの席に座ることを許された人々は、その知性、熟考の能力、道徳的資質の低下が生じてないかどうかを見るために厳密に監視されなくてはなりません。
時々、必要な時、裁判官の品性と行為についての報告が人々を代表する機関によって求められるでしょう。
飲んだくれの人、疑わしい品性の持ち主、なんらかの反社会的活動にかかわっているもの、そうした裁判官は、他者について裁きを下す権利はありません」(Justice)
しかし、どのように公正な裁判を確保しようと努力しても、間違った判決になる可能性は残ります。
そこで判決の執行までの司法システムは矯正システムであらねばならないとサーカーは、強く主張します。
3)犯罪の五つのタイプ
サーカーによれば、犯罪に五つのタイプがあります。
①生まれつき犯罪傾向をもった人の犯罪、②習慣により常習化した犯罪傾向をもった人の犯罪、③環境の中で犯罪傾向を身につけた人の犯罪、④貧困の結果として犯罪⑤一時的な出来心の犯罪です。
適切な判決を下すためにこれらの犯罪のタイプについて調査にもとづく考察を必要とするとサーカーは考えます。
以下、サーカーの提起する犯罪の五つのタイプについて詳しくみてゆきます。
(1)先天的に犯罪傾向をもった人の犯罪
私たちは通常、あらゆる人が無垢で正しい心に成長する資質をもって生まれると考えています。
しかし、サーカーは、きわめて少数ながら、身体と分泌腺の問題のために生まれながら狂った心をもって生まれると述べます。
つまりサーカーの考えでは、心は脳神経と分泌腺を通じて働きますから、脳神経と分泌腺構造に問題をもって生まれると心は狂ったものになります。
ハンドルが故障している自動車に乗った運転手のように故障した身体に乗った魂ということです。
この先天的犯罪傾向をもった人の中には二つのタイプあります。
まず、その第一のタイプです。
「その第一のグループは、穏やかな人々ですが、正直であること、他の人によいことをすることは彼らの本性に反しています。
彼らは、ウソをつき、他人を傷つけることから悪意ある喜びを引き出します。
善悪の区別を理解できません。
そして自分たちの限られた知的心理的能力によって行動します。
彼らは知的心理的には未発達ですが、他の知的に未発達な人が、その先天的な純粋性ゆえに、受けているいたわりと同情を受けることができません。
彼らは、単純なものごとを理解するために長い時間がかかります。・・
両親や教師の誠実な努力にもかかわらず、彼らは教育を身につけることに失敗します。
成人期に達する以前に、その卑しい性向をあらわします。
彼らは、一般的に、武装強盗ではなく、こそどろのタイプになります。
彼らは悪い性質をもっていますが、反社会的な活動を公然と実行する勇気はもっていません」(Justice)
先天的犯罪傾向をもつもう一つのタイプについて次のように言っています。
「生まれつきの犯罪者の第二のグループはもっと危険です。
人生を通じて終始、彼らは、激した残酷さや激さない残酷さを示して愉しみます。
彼らは他者を殺したり、傷つけたりする生まれつきの傾向をもっています。
彼らは犯罪一味のメンバーになり、殺人やその他の恐ろしい行ないを犯します。・・・
彼らは、同情や良心はただの弱さだとみなします。
同情や良心の重要性は彼らに理解できません。・・・
犯罪をおこなう時点では、彼らの知能を十分に示します。
骨学、心理学の知識によって、警察と大衆に対処する時のふるまいによって、彼らの知能を証明します。
たとえ、彼らが健全な環境に生まれたとしても、このタイプの生まれつきの犯罪者は、結局は、犯罪の人生をおくります。
この種の本性をもった女性は、貞節な生活を送ることがまったくできません。
彼女たちがよい夫をもったとしても、彼女たちは、売春婦になることがあります・・・
仮によい環境に生まれたとしても彼らはそれを完全に受け入れることができません。
自分のひねくれたメンタリティを満足させるために、誤解から自分のやさしい父親を毒殺するかもしれません。
あるいは自分の愛する母親の心臓を刺すかもしれません。
普通の人間の行動についての見方から、このような生まれながらの犯罪人を扱うことは極端に困難なことです」(Justice)
サーカーはきわめて少数ながらこのような先天的な犯罪傾向をもつ人の存在を認めています。
現在では、被害者の家族感情とその罪の大きさから彼らは死刑になります。
しかし、サーカーによれば、彼らの脳神経と分泌構造に欠陥があるのであり、その罪の重さに驚いて死刑にすることは、病気を治すことができないから死刑判決を下すようなものだと考えます。
したがって、このような犯罪者は矯正されるべきであり、生理学的治療や心理学的治療を刑務所で受けるべきだと考えます。
そして現段階では難しくしても心理学者、医師、社会学者の協力のもとに矯正と治療がめざされるべきだと次のように提起します。
「心理学者は、心の病気を診断し、その原因を説明するでしょう。
そして可能な限りその治療の援助にあたるでしょう。
医師は、その病気が生理学的な異常によって引き起こされている限りにおいて、薬や手術によって病気を治療する責任があります。
それから社会学者は、犯罪者が再生した後、社会復帰の用意を整えなくてはなりません。・・・
もちろん、現在の時点では、心理学者や社会学者の一致した努力にもかかわらず、患者は、完全に回復することができないかもしれません。
なぜなら、心理学は未発達だからです。
さらに、医師も、心の病のもとになっている生理学的な異常を取り除くために必要な技術をまだ獲得していません。
そのうえ、社会学の科学は登場してきたばかりで、とてもゆっくりと発達しています。
しかし、私たちは、生まれながらの犯罪人に対して以上のような措置をとらなくてはなりません」(Justice)
精神性の実践とヨーガも効き目があるとして次のように言っています。
「もちろん、精神性の実践を通ずるならば、より早く治癒することができます。
そしてヨーガの方法によれば、それよりやや長くかかります。
しかし、そのために適した環境が必須です。
それゆえ、刑務所の環境は、清潔で人間味のあるものにしなくてはなりません」(Justice)
このサーカーの主張は現代ではとても受けいれられるものでありません。
被害者家族の心情を重視してより懲罰的な刑を課す要求が高まっている時代です。
しかし、犯罪者についての心理学や生理学が発達し、ネオ・ヒューマニズムの精神が普及した時、受け入れられる日がくるかもしれません。
(2)心のコントロール力の弱さから習慣化した犯罪者
普通の人間は、自分のもっている卑しい性向を内面的なモラルにもとづいてコントロールしています。
しかし、自分の心の弱い人は、次の三つの条件のいずれかがあるところでは、反社会的活動に走ってしまいます。
そしてそれを習慣的につづけているうちに札付きの常習犯になってしまいます。
三つの条件とは (1) 道徳的なレベルの低さ(2) 心の力を伸ばす努力がなされない (3)社会的コントロールがゆるんでいる、です。
このような道徳的には悪いことと分かっていて心の弱さから行いをコントロールできず、常習的な犯罪者となった場合には、先天的な犯罪者の場合と違って、ヒューマニスティックな措置よりも刑法の条文どおりの措置によって厳格な刑務所の規律と心理療法が与えられることが矯正に役立つと次のように述べています。
「もし、習慣的犯罪者は、適切なモラル教育とモラルの強さを得る方法、厳しく統制された社会環境を与えられるならば、容易に治すことができます。
だから、習慣的な犯罪者の審理の間、裁判官は、ヒューマニスティックな感情よりも、刑法の条項によりいっそう集中すべきです。 ・・・
彼らは、いくからの判断力のセンスをもっているので、心の病を根拠に自動的に容赦されるべきではありません。
彼らは無実を装う能力も持っています」Justice
このような犯罪者がいかにして生まれるのかについて重要なことを述べています。
「このタイプの犯罪者の性質は、しばしば、モラルの教育、あるいは、心の強さをいかに身につけるかについての導きなしに、きびしく服従を強いた間接的な結果として形成されます。
たとえば、両親の中には、自分の子どもにモラル教育を授けることをせず、そして心の強さを獲得し、いかに高潔な生活を送るかについて援助しない人がいます。
かわりに、彼らは、自分の子どもを殴ります。
後に反社会的な活動に加わるのは、そのような両親の子どもです」(Justice)
世界の多くの戦争、罪をおかしたコミュニティのリーダーはたいていこのタイプの犯罪者からでてきているとサーカーは言います。
このタイプの犯罪者は裁判にも圧力をかけようとするので用心が必要だとも言います。
(3)環境による犯罪者
①環境の影響
適切な環境が与えられたら罪を犯さない性格をもった理想的な人間として尊敬されることができたはずなのに、適切な環境がなかったために罪を犯す人が第三のタイプです。
例として次のようことをあげています。
「悪人の父親の感じやすい正直な息子が、父親の虐待への恐れから反社会的活動へ加わることを強いられます。
これは、やがては彼の性質の一部となる習慣を生み出します」
「売春婦の娘は、貞淑な生活を送るためのベストを尽くした努力にもかかわらず、絶えがたい母の悪習と環境の強制力のために社会的に見捨てられた生活を送ることを余儀なくされます」・・・。
「両親や保護者が生まれつき悪い人であれば、彼らは家族の他のメンバーに自分の病を伝染させようとします。
数日前、私は、新聞で、上層の中流階級の女性が、近所の家から自分の息子に服などを盗ませるように仕向けていたのを読みました。
盗みをしたら映画のチケット代を与えていました。・・・
彼女の家族は経済的に困っていないことがわかりました。
自分の息子に強制力を加えて、その女性は、自分の心の病を彼にうつしていたのです」
「自分の家族だけおいしい飲食物を味わって、自分の召使には品質の劣る食べ物を提供する人々がいます。
使用人は、その後、どん欲から盗みの習慣を身につけてゆきます」
サーカーは、このような環境の結果として犯罪者になっているが、まだ常習化していない犯罪者の場合は、裁判官は刑法の条文にあまり重視すべきではないといいます。
年齢にかかわりなく、徹底した調査の結果、状況の強制力が反社会的活動への参加を引き起こしていることが判明したら社会学者と心理学者の助力で、その状況から彼らを切り離すことは裁判官の義務だと言います。
ところが、それが常習化してしまっていたら、周囲の状況の変化だけでは良くならず、刑法の条項に従った矯正処置も必要だと言います。
②悪い仲間の影響
悪い仲間とつきあうことで犯罪者になる場合も、環境の強制力の結果ではないけれども、広い意味では環境の結果といえます。
サーカーは、7才から70才まで年齢を問わず、どんな人でもその人がつきあっている仲間によって常に影響を受けていると言います。
つまり良い人たちの影響が優位にあるところでは悪い人は少しずつ良くなってゆくし、その逆は悪くなってゆきます。
悪い仲間とのつきあいをやめるように言われたらほとんどの人が反発します。
しかし、サーカーは、子供時代の遊び仲間は選ぶように次のように述べています。
サーカーは、次のように述べています。
「もし、両親や家族の年配者が喧嘩っ早ければ、常に付き合っているためにその子どもたちも喧嘩っ早くなります。
同様に、もし、一家の女性が非常に批判的な性質をもっていたら、年配のものからどのように非難するかを身につけて子どもたちは常に批判的になります。
もし、子どもたちが、学校で、年上の子どもたちとあまりに密に交際していたら、堕落する傾向になることもあるでしょう。
しかし、彼らが自分の年齢の子どもの間にいる時は、一般的には、純真に楽しく遊ぶでしょう。
子ども時代の仲間は、大きな注意を払って選ぶべきです。
しかし小さな子どもたちには選ぶ力はありません」(Justice)
映画やテレビの中には犯罪や愛の低俗な表現などがあり、そのふるまいをまねようとする願望を引き起こします。
これは悪い仲間とのつきあいと同じ意味を持ちます。
「映画愛好者の多くは、スクリーンに出てくるキャラクターが実際の知り合いであるかのようにイメージします。
しかし、彼らはこれらのキャラクターをまねようとする時、映画の中で描かれている世界よりも本当の世界が違うことに気づきます。
もし彼らの家族の結びつきが弱かったら、あるいは、もし彼らが自分自身の保護者であるならば、もしくは自分を鼓舞する高い理想をもっていないならば、彼らを悪い影響力から救うことは、不可能ではありませんが、極めて難しいことです」(Justice)
サーカーは、仲間の影響から犯罪に走った犯罪者は、付き合っている仲間の影響力に正当な考察が加えた後にのみ矯正的処置がとられるべきで、常習犯に変容していないかぎり、彼らが悪い仲間を捨てるとすぐに正常な善良なふるまいに戻るだろうと言います。
しかし、習慣化した常習犯になっている場合は、その人が悪い仲間そのものになっているので、厳しい措置が必要だと言います。
(4)貧困による犯罪者
①飢えによる犯罪
最低限の生活必需品が満たされている国々を除いて、世界中のほとんどの犯罪は、貧困の結果としてなされたものだとサーカーは言います。
世界中どこでも飢餓に襲われた地域では犯罪が増え、経済状態がよくなると犯罪が減るのは、大部分の人間は犯罪者ではないことを示している。
したがって貧困から生きるために犯罪に走ってしまった場合、その因果関係に裁判官は関心をもつべきだと言います。
もし、裁判官が犯罪だけを見て、貧困の問題を見ないならば、その人を本物の犯罪者にしてしまうと次のように言います。
「そのような犯罪者は、いいものを食べて、いい服を着ているいわゆる『正直な人々』よりももっと正直であるかもしれません。
しかし、単に基本的な生活必需品の生産と分配のシステムの欠陥ゆえに、投獄され、犯罪者として烙印を押されます。
獄中での悪い仲間のために、そして刑罰による羞恥と嫌悪と恥辱に打ち勝ち、刑務所から解放された後、次第に習慣的な犯罪者になってゆくでしょう。・・・
良心を無視して、貧困のために繰り返し罪を犯している人々は、ついには習慣化した犯罪者になります」(Justice)
このようにサーカーは、飢えから盗みや強奪の犯罪をおこなった人は、法律にかなったやり方で彼の必要を満たすことは社会の義務だと考えます。
そして貧困という原因を見ずにその犯罪の大きさに焦点をあわせて処罰したら、彼らを一掃悪に追いやることになると考えます。
さらに、貧困のために家族が崩壊し、子供たちが生きるために反社会的勢力の慰みものになり、ついには泥棒、強盗、ちんぴら、すり、職業的乞食団の手先になった場合、その犯罪の真の責任は社会にあると考えます。
罪があるとしても、自分を正直者と思っている利己的で卑しい人の罪よりは小さいと言います。
②飢えをもたらす社会構造との闘い
そしてサーカーは、飢えをもたらすような社会経済構造の変革の努力が必要だと考えます。
「歴史を通じて、何百万という人々が、他の人間によって生み出された人工的な飢餓のために死にました。
道を歩きながら、疲れてとぼとぼと歩く足が崩れました。
そして人は地面の上に哀れな固まりとなって倒れました。
けれども、その人は盗みを我慢しました。
水準の高いモラリティは、その人が生存のための最後の自暴自棄の努力をしなかった理由の一つですが、それだけが理由ではありません。
餓死しつつある人々は、とりわけ、もし、ゆっくりと自分たちの活力を失いつつあるなら、闘うための道徳的勇気をもちません。
確実に死ぬということを知っているので、死の腕の中に逃げ場を求めます。
彼らの生き方が間違った哲学や宗教的な教えにもとづいているので、自分のみじめな状態を運命として受け入れます。
たぶん、その時に、もし、彼らが勇ましいリーダーに導かれ、その人の燃えるような演説に鼓舞されていたら、あるいは、彼らが活動の進むべき方向性について導きを受けたらならば、彼らは、その時代の社会構造を集団的に攻撃したでしょう。
そのような環境のもとで、彼らの活動は、たぶん悪として不道徳的なこととして描かれるでしょう。
しかし、間違いなくきっと彼らは人間存在のダルマに背いてはいないでしょう」(Justice)
このように飢えて死にゆく人々が革命家に鼓舞されて、自分たちを飢えに追いやっている社会構造を攻撃したらならば、悪として、反乱として描かれるだろうが、サーカーは、それは人間のダルマにそった生き方であり、不道徳的なことではないと言います。
むしろ、モラリティのある人々は、彼らを犯罪の道に進ませる前に、革命活動の道に導きなさいと言います。
「それでもなお、道徳的な視点から、私は犯罪行為を支持できません。
私は、そのような犯罪をおこなう前に、彼らは革命家になるべきだと提案します。
彼らを革命活動に導くことはモラリティの善い知識をもった人々の任務です。
革命の火の中で彼らから不純物を分離させ、本物の金にならせましょう」(Justice)
だから、貧困のために犯罪者なった人々の矯正手段については、彼らに革命の着手を勧めるしか対案はないとサーカーは考えます。
解決は、個々の国だけでなく世界全体でも、しっかりした経済土台の確立にかかっています。
もし、貧困に対して誰かの落ち度があるとするならば、世界の指導者たちだとサーカーは言います。
人々を極端に困難な状況の中に追いやることで、普通の人々を野獣に変容させる人々こそ裁判にかけられるべきだと言います。
③耽溺による転落
しかし、すべての貧困が経済構造から生み出されるわけではないことも正当にサーカーは指摘します。 すなわち富裕者たちが心の問題を忘れるために酒や麻薬などに走ったりして、富を失い、借金を抱えて、貧窮し、そのあげく犯罪に走る場合です。
その場合の罪は、社会構造には責任がなく、自分のおこないに責任があります。
そうした犯罪者の矯正には耽溺しているものについて治療が必要だと言います。
「しかしながら、経済構造が貧困の結果なされた犯罪の唯一の原因というのは間違った考えです。
富裕な人々の中にも自分の心の問題を忘れるために、あるいは本能を満足させるために、酒、麻薬、性的放蕩にひたり、贅沢な暮らしや暴飲紡織などにふけっている数多くの例があります。
そのようなことにふけったために、彼らは自分の富を失い、ついには悪い習慣のためのお金を都合するために借金を作ります。
最終的には、借金を返済することができなくなり、社会に有害な影響を与える多種多様な犯罪活動に手を染めてゆきます。
欠乏は明らかにそのような罪の表向きの原因です。
それは完全に自分で作り出したものですから、社会には、この種の罪に責任はありません。
この種の犯罪者を立ち直らせるためには矯正的措置をとることが必要です。
彼らを立ち直らせるためには、その耽溺の治療が必要不可欠です」(Justice)
(5)出来心による犯罪
出来心から、すなわち一時的な衝動からやってしまった犯罪です。
これは、「ある状況のもとで突然現れ、短時間で正常にもどるある種の心の病」だとサーカーは言います。
「彼らは盗みの後、気が引けて、盗んだ財産を持ち主に返そうかと悩みます。
彼らは、窃盗、誘拐、酒飲み、頽廃的活動にふけることを突然やってみたくなります。
しかし、よく考えれば実際にはこんなことに彼らが少しも個人的な利益を持っていないことがわかります」(Justice)
出来心による軽い罪は情状酌量できますが、重い罪のものなら、出来心からふとやってしまった犯罪だからといって情状ではできないとサーカーは考えます。
(6)犯罪者でないのに自分が犯罪者と思い込む心の弱い人
無実の人を犯人にしないために、心が弱いために自分を犯人だと思い込むタイプの人に気をつけなさいとサーカーは述べています。
警察の強要で無実の人が犯人として自白するケースがよくあります。
警察に落ち度がなくても、このタイプの人も自白しているかもしれません。
「もし、実際には泥棒ではない人が、常に盗みと盗みに用いる様々なテクニックについて考えていたら、その人が実際に泥棒である印象を人々にもたせるように話し始めることがありえます。
残忍な殺人を目撃した後、時々、そのような弱い心の人々は、自分自信を犯罪者であるように思い始めます。
そしてそのような考えの影響を受けて、彼らは、衣服、死体、身体の一部、家の中のものなどを隠します。
そして他人の犯罪の手口を述べ始めます。
『私はこんなふうにその人を引きずりました。
私はこんなふうに彼を突き刺しました』などと言うでしょう。
そのような状況では、警察がその人を犯罪者とみなしても、目撃者の証言と証拠から裁判官が彼を有罪としても、誰も驚きません。
そのような場合、内密の取り調べ、警察の熟練、裁判官の洞察力、この三つのいずれかにわずかの欠陥があったら、たいていの場合、無実の人が処罰されることになります」(Justice)
(7)残虐な犯罪をおかす人
サーカーは残虐な犯罪は、次の要素のいずれかによって引き起こされると言います。
1. 中毒や極端な興奮による判断力の喪失
2. 財産や富への嫉妬
3. 自分の信望への深刻な打撃、あるいはいずれかのリプripusの影響(※リプとはとりあえず、悪い心の傾向と理解しておいてください)
4. 女性をめぐる争い
5. 意見の深刻な相違
時、場所、人の要因によって、その人の悪い性向が数年後に表現されることがあるし、数分で表現されることもあるとサーカーは言います。
すなわち、その場で凶行に及ぶこともあれば、何年後かに凶行に及ぶこともあるということです。
4)厳しい刑罰と死刑
(1)矯正システムの一貫としての強い処罰の措置を保持することは必要
罪を犯したあと自責の念も示さない犯罪者、環境的要因が犯罪に至らしめたとは思えない犯罪者、心の病気の症状を示さない犯罪者に対してサーカーの主張する矯正的措置が本当に意味をもつのか疑問が湧きます。
サーカーは、そのような場合、裁判官が矯正的措置でなく罰を課すことは、道徳的な見地から支持せざるをえないと言います。
しかし、強い処罰の措置も矯正システムの一貫としてとらえよと次のように言います。
「けれども、自分の下部の性向の奴隷となっている意志の弱い人々が、時、場所、人によって生み出された状況の影響力の結果として、罪を犯し、さらに犯し続けていることを知る時、彼らに、悪行に気づかせ、より高い性向を発達させ、心を強くする方法について学ぶことを援助することは社会の義務ではないでしょうか。
そして、そのように目覚めさせることが、罰のプロセスではなく、矯正としてなされることの確保も、社会の義務ではないでしょうか。
もちろん、矯正システムの一部として強い処罰の措置を保持することは必要なことです。
さらに、もし、刑罰がふるまいを矯正するうえで重要な場をしめるならば、人々は、処罰されることへの恐れから、自分の下部の性向にしたがって日々を送ることを避けるでしょう。
この状況的影響力の結果として, 不正直な人々が正直な生活すること強いるでしょう。
そして社会は大いに恩恵を受けるでしょう。
自分の卑しい性向に屈してきた人々は、社会の制裁措置で良くなる機会を得るでしょう」(Justice)
そのためには刑務所は犯罪者を矯正する能力がなくてはなりません。
看守は裁判官に劣らず高い能力が必要とされると次のように言います。
「監督者は心理学を学び、社会に対する本物の愛をもった教師であるべきです。
それゆえ、看守は裁判官よりも低い能力の持ち主であるべきではありません。
このポストに採用する人を大学で得た学位や上司を喜ばせる能力によって決めることは、もっとも有害です」(Justice)
もし、看守が犯罪者に不適切な対応をするならば、刑務所の中でいっそう犯罪的傾向と意地の悪さを発達させて、社会に害を及ぼしてゆくことになります。
(2)死刑廃止について
サーカーは、特別な場合をのぞいては死刑を廃止すべきだと言います。
その理由の第一は、この世に完全なものはありえず、司法システムも過ちをおかしうる不完全なものだからです。
「この相対性の天地万物に完全なものはなにもありません。
だから、世界の司法制度が、過去、現在、未来にわたって決して完全ではありえなかったことはまったく当然なことです。
それゆえ、この不完全なシステムにもとづいて誰も極刑(死刑)を与えられるべきではありません」(Justice)
第二の理由は、治療と矯正措置の機会をすべての人に与えるべきだという観点からです。
生まれつきの犯罪者のところで述べたようにひどい頭痛に対して首を切ってその頭痛を治すようものだからです。
「すべての個人が、犯罪人であろうとなかろうと、自分のおこないを矯正するチャンスを与えられるよう主張できます。
だから、プラウトの法律構造においては、誰もが自分の性格と行いを矯正する十分な機会を与えられるべきです。
もし、ある人が極刑を宣告されたら、その人は矯正する余地を失います。
だからプラウトは、この種の罰を非難します」(Justice)
しかし、戦争のようなきわめて特殊な場合に死刑を正当化する状況が生じる場合もあると言います。
「ある人が悪魔になって、集合的利益に背いて進み、そこに矯正の可能性がない場合、極刑を正当化する状況が生じるかもしれません。
たとえば戦争中は、この例外が時々許されるかもしれません。
しかし、一般的には、私たちは原則として極刑を支持すべきではありません。
処罰は犯罪に対して適切なものであるべきです」(Justice)
死刑を廃止して終身刑をという意見があります。
サーカーは、国がそのような人間に食べ物、衣服を提供し続けるよりも、むしろ彼らからふさわしい労働を受け取り、まともな人間に治療、矯正して出所してから、国は彼らに雇用を保障するべきだと次のように言います。
「死刑をやめて、その心の病を治療する国の設備に送るのではなく、終身刑にしなくてはならないと議論する人たちがいます。
しかし、終身刑は、刑務所を超過密にしてしまうかもしれません。
国がそんな多くの人に食べ物と衣服を提供することが可能でしょうか。
むしろ、私は、『どうしてそのような犯罪者が国に頼って生活すべきなのか』と問いたい。
国は彼らからふさわしい労働を受け取るように取り計らうべきでしょう。
そして刑を終えた後、彼らがまともに暮らすことができるように、彼らが雇用を見つけることができるように、国は誠実にその手だてをとるべきです」(Justice)
5)政治性癖と罪
サーカーは、今日、政治にふける性癖がひろがっていることも、犯罪に導く背景の一つだと言います。
権力への願望のために純粋な奉仕精神を失うからです。
「中傷、嫉妬、派閥心、怠惰、大言壮語などはすべて、状況によっては人々を大犯罪者に変える社会的欠陥です。
これらの人間の欠陥は、現代社会に強く現れています。
その理由は、政治にふける性癖です。
政治は、今日、ただ権力への願望を満たすことと関連しています。
無私の奉仕との関連のすべてが失われてきました。
もしも、人間の心をとらえている権力への願望が縮小しないならば、政治への不健全な性癖が現代社会から取り除かれないでしょう」(Justice)
贈収賄事件などよく耳にする政治家の犯罪だけでなく、寛容に他人の意見に耳を傾けないとか、権力と名声を打ち立てるために高度な知性を売渡すことなども含めてサーカーは論じています。
私たちも、この社会で、不道徳な政治家たちが、奉仕精神の育成を唱えるという欺瞞を目にしてきました。
6)犯罪者の家族
犯罪者が刑務所に入れられることで、家族の生計が失われて、困窮して生きてゆくことができない場合、家族が犯罪者にならなくてもすむような配慮を国がする必要があるとサーカーは述べています。
「もし、犯罪者が重大な罪で刑務所に入れられると、扶養家族にどういうことがおきるでしょうか。
彼らはそれから先もどうにかして生計を立てて生きてゆかなくてはなりません。
男の子はスリ団に加わるかもしれません。
女の子は売春に走るかもしれません。
言い換えれば、一人の犯罪者を罰しようとして、10人以上の犯罪者が生み出されるかもしれません。
だから、一人の犯罪者に判決を下す時、その家族の経済状態を考慮に入れなくてはなりません。
そして国は彼らがまともに暮らしてゆける手段を提供すべきしょう」(Justice)
サーカーの司法システムの視点は、報復、懲罰を意図したものと刑罰の形は同じであっても、本質的に矯正であり、いかに社会から犯罪者の数を減らするかで一貫しています。
したがって困窮化した被害者の家族の国家の支援も当然のことですが、犯罪者の側の家族も困窮化している場合は犯罪者とならないように援助が必要だと言うのです。
懲罰の観点から司法システムを見る人からは思いもよらない主張です。
7)犯罪的性向の予防の重要性=スピリチュアルな理想の必要
「『予防は治療に勝る』という格言は、人生のあらゆる側面に適用できます。・・・・
今日の文明化した人々は、矯正的措置をとって犯罪者の心の病気を予防するよりも、まず人間の中に生じる卑しい犯罪的性向を予防することにもっと関心をもつべきです」(Justice)
では、犯罪的性向を予防するためには、何が必要なのでしょうか。
サーカーは、次のように述べます。
「大多数の人々は生まれつきの不正直者でないことは本当です。・・・
身体の様々の分泌腺によって引き起こされた欠陥には相違がありますが、私はこの状態を集合的努力によって矯正できないとは思いません」(Justice)
私の解釈では、この身体の分泌腺の引き起こす問題とは、たとえばカッとなって激怒した時は、ノルアドレナリンというホルモンが過剰に分泌し、それを抑えるセロトニンとのバランスが崩れた状態です。
サーカーは怒りだけでなくあらゆる人間の感情や性向が身体の腺の分泌にかかわっていると考えます。
もし、人生の目標としての幸福が、粗大なものではなく、精妙なものであれば、目標に至るプロセスで生ずる分泌腺の引き起こす問題を克服してゆくことができると考えます。
たとえば、幸福がお金の獲得だったらノルアドレナリンとセロトニンのバランスをくずす局面に出会いますが、心を無限に広げること自体が目標だったら、そうはなりません。
だから、人々の持つ人生の目標が精妙なものであり、心の拡大を導くものであるならば、人々がもっている多様な思想やイデオロギーは調和してともに進むことができるし、個人と社会が調和しながら進んでゆくことができ、犯罪は減少してゆきます。
したがって、サーカーは、「単一性 oneness」「精神性=スピリチュアリティ」の思想こそ、あらゆる人々に普及させて、犯罪の予防に役立てるべきたと考えます。
「この単一性 onenessの思想は、基本的には、精神性(スピリチュアリティ)の考えです。
個人的に、集合的に、人間は、至高性the Supreme を、そして至高性を最高の真実として体得するための道を受け入れなくてはならず、これを人間生活の最高の目標として認識せざるを得ないでしょう。
そうしない限り、人類は、健全でよく考えぬかれた社会進歩のためのどんな活動プランも実行できないことに気づくでしょう。
どんな刑法も社会的な法も、それがどんなによく考えぬかれていても、社会を解放することはできません。
精神性の理想なしには、社会的、経済的、道徳的、文化的、政治的な政策や綱領も人類を平和の道に進ませることはできません。
人類がこの根本的な真理を早く理解すればするほどベターです」(justice)
8)世界政府による人類全体の刑法
サーカーは、「人々に認められたグローバルな組織」すなわち世界政府によってすべての人類に適用する普遍的な刑法を作るべきだと主張します。
そしてそのグローバルな組織に裁判を実施する最高権威を与え、それぞれの地域の内政に干渉する力を与えるべきだと次のように主張します。
「地理的な要因によって引き起こされた社会問題をのぞいて、すべての複雑な社会問題の解決は、すべての人類に適用できる普遍的な刑法を施行することによって見いだすことができるというのが私の心からの信念です。
異なる法律が、様々の人々、国々、コミュニティを拘束しているのは望ましいことではありません。・・・、
私は、法律はグローバルな組織によって起草されるべきで、さらに人を裁いたり、裁判にかけたりする最高権威がその組織に与えられるべきだと主張します。
もし、そのグローバルな組織が、国々の内政問題に干渉することを控えるならば、力のないグループや個人は、彼らが自由であるという書面による保証があったとしても、実質的な奴隷の生活を送ることを強いられるでしょう」(Justice)
すなわち世界政府の司法機構は、各地の信仰や慣習を尊重しつつも、人間の基本的価値に反したものについては、その地域の慣例においては罪でなくても、世界共通の刑法では罪として裁きます。
たとえば、アフリカのある地域で女子割礼があると言われていますが、それを罪とすることもできます。
(補足)先天的犯罪傾向の持ち主とは
サーカーは、罪にいたる原因として次の五つをあげ、実際にはその複合から実際の犯罪に至ると見ています。
①先天的(二つのタイプがあります。こそ悪的なものと冷酷残忍な凶悪犯罪)
②心のコントロール力の弱さからの習慣化、
③環境的な問題から、
④貧困から
⑤一時的な出来心からです。
一時的なでき心からであっても常習化しますし、環境(状況)に強いられてより凶悪化することもあります。
問題は、①の先天的な原因です。
著者は、この記述によって「生まれながらの犯罪者がいる」という観点を世に広まることを望んではいません。
サーカーのネオ・ヒューマニズムの「すべての人間、すべての生命、すべての存在が尊い」という感情を身につけたスタンスからアプローチする場合は問題が生じませんが、一般の人々のレベルでこれをうけいれた時に容易に「生まれながらの犯罪者」のレッテルをはって差別、排除の可能性がでてくるからです。
サーカーは、先天的な原因で悪いことをする人はきわめてまれであり、圧倒的多数は正常に生まれついていると述べています。
そのきわめてまれな人の中の残忍で凶悪な犯罪に至った人について、人々は驚愕して死刑にします。
しかし、その人は、実は身体構造に問題があるのであり、普通の無害な人間になるように治療すべきであり、人類の科学はそれを可能にするところまで近づいているというのがサーカーの主張です。
人間以下の身体構造に生まれついた人間を治療して人間にするのが、文明の名に値するというのです。
楽しんで自分の親や兄弟すら殺せる冷酷残忍なメンタリティは、身体構造の欠陥に起因しており、不幸にも「人間以下の人間」として生まれたと見るわけです。
いわば、その人の魂は、ブレーキとハンドルが狂った欠陥ある自動車に乗って人を殺してしまったわけですが、自動車なら廃棄処分にしたらすみますが、人間の仲間に生まれた以上、そのブレーキとハンドルをなおしてやって「人間以下の人間」から「人間」として生きるようにしてやることが正しいことではないのかという考えです。
サーカーは、生まれつき(先天的な問題)と述べていますが、遺伝的なものだとはまったく述べていません。
生理学的、医学的な問題だとしています。
身体構造、すなわち思考を掌る分泌腺に問題があると見ています。
栄養学者や医師による科学的な研究は、栄養や有毒ミネラルの蓄積などと犯罪との因果関係を明らかにしています。(例、A.G.シャウス、『栄養と犯罪行動』大沢博訳ブレーン出版)
したがって、思考を掌る分泌腺の問題は、サーカーのいうように「先天的」にだけではなく、生まれてから後にも「後天的」に身体に摂取したものの影響から生ずるケースがあります。
したがって、筆者の考えは、サーカーの「罪にいたる五つの原因」のうちの①の「先天的」な原因は、「生理学的」な原因として後天的な原因にも含みをもたせる方がより正確であると思います。
ただし、たとえばアセトアルデヒドを分解する酵素を先天的にもたず酒に弱い人がいるように、有害ミネラルを除去する酵素の力が先天的に弱い人もいます。
したがってこのケースも大きくみれば、先天的とも表現できます。
しかしその酵素が弱いからといって有害ミネラルが思考の分泌腺に異常を必ずひきおこすわけではありませんから、「先天的」というのは不正確であり、「生理学的」な原因とすべきだと考えます。
サーカーの提起は問題提起であり、科学的に検証されて、より正確な表現として社会に流通する方がよいと考えています。
この司法論の中で、サーカーがもっとも言いたいことは、不道徳的な人間を正しい人間に矯正してゆく権利はすべての人間がもっている権利だけれども、懲罰する権利はもっていないということです。
サーカーは厳しく重い刑罰を肯定しているけれども、その厳しさは、あくまで懲罰ではなく、「正しい人間」に矯正するために必要だという位置づけからです。
だから死刑にしてしまっては、頭痛を治すのに頭を切り取るようなものだということです。
◎引用文献
P.R.Sarkar,Dialectical Materialism and Democracy,Prout in a nutshell Part6
P.R.Sarkar,Discourses on Prout, Prout in a nutshell Part4
P.R.Sarkar,Sadvipra Boards, Prout in a nutshell Part18
P.R.Sarkar,Social Defects in Gandhism, Prout in a nutshell Part 21
P.R.Sarkar,Spirit of Society, Prout in a nutshell Part 9
P.R.Sarkar,Talks on Prout, Prout in a nutshell Part15,
P.R.Sarkar,Various Forms on Exploitation, Prout in a nutshell Part18
P.R.Sarkar,Elevating Backward Classes , Prout in a nutshell Part15,
P.R.Sarkar,Justice, Prout in a nutshell Part2,
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods