Om Mani Padme Hum (2 hours) (video inspired by god of star)


(You are universal being)

Dear
I am god salamnidam who downed theory P.R. Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of assistant Mitsuki in whole life.
Mitsuki studied almost books of theory of P.R.Sarkar which I downed.
Mitsuki's summery is excellent.
Project of Heaven and gods decided to introduce all studies of theory of god salamnidam.
God salamnidam add explanation to study of Mitsuki.

Theme of this page is that I consciousness does not belong to specific human group.
I consciousness of human is exist in non-presence world.
I consciousness of human repeats human life in various area of earth.
This is truth.
You are universal being.


こんにちは
私はP.R.サ-カ-に理論をおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトはアシスタントのミツキの全生涯の研究を紹介しています。
ミツキは、私がおろしたP.R.サ-カ-の理論の本をほとんど研究しました。
天と神々のプロジェクトは、神サラムニダムの理論のすべての研究を紹介することを決定しました。
神サラムニダムはミツキの研究に説明を加えます。

このページのテーマは、私意識は特定の人間グル-プに属していない、です。
人間の私意識は、非顕在世界に存在しています。
人間の私意識は地球の様々な地域で人生をくりかえしています。
これが真実です。
あなたは宇宙的存在なのです。


「脱構築」の知識人とサーカー

前書き

 ポスト構造主義の知的潮流は、既成の観念の「脱構築」をめざします。
中でも「国民国家」概念の「脱構築」は、サーカーの論じるネオ・ヒューマニズムとユニヴァーサリズム(普遍主義)への一歩になりえます。
さらに彼らの追求しようとする普遍主義は、サーカーの人類の一員としての自覚、ナショナリズムと地域センチメントの狭隘さの克服の方向につながります。

 この知的潮流の「国民国家」批判と人類の統合論を紹介することでサーカーの考えを浮かび上がらせたいとおもいます。

1)「国民国家」を乗り越える知的作業

(1)「日本国民」という実体はあるのか、

 サーカーは、一方で、私たちが一つの人類であると意識を広げてゆき、他方で、世界連邦政府の樹立を提起しています。
藩に分かれた諸国を廃藩置県によって一つの日本にしたように一つの世界政府を樹立する以外に、ネイション(国民国家)を超える道はありません。

 サーカーの地点まで達してはいませんが、ネイションという実体を前提とした議論への疑義が日本の知識人からもでてきています。

 たとえば、高橋哲也は、日本人の誇りを育てる自由主義史観を批判するとともに、自由主義史観を批判する側についても、祖先がおかした戦争加害に対する「日本人」としての贖罪感情も「日本人」を前提としているゆえに批判します。

 この場合、どちらも血統という「実体」を保持した日本人を前提としているわけです。
実際、日本人たる単一の実体は存在しません。
日本国籍を取得した在日朝鮮人はもちろんのこと、アイヌ、沖縄の人々を考えれば、多数派エスニック・ジャパニーズはありえても、日本人として一括することはできません。 (高橋哲也「歴史/修正主義」岩波書店)

 ここでは高橋哲也が、今日のグローバリズムの中で、その強化がはかられようとしている日本人(国民国民)という概念の「脱構築」を試みていることだけ確認しておきます。

(2)「国民国家イデオロギー」によってつくられた「国民文化」

 西川長夫は、国民文化なるものは、国民国家イデオロギーによって生み出されたものだと次のように論じます。
たとえば日本文化、イギリス文化、フランス文化などと言うけれども、そのようなものはあるのだろうかと問い、「人麻呂は亡き妻をしのんで歌をつくったのであり」、茶道も華道も、・・・文化を作ってきた人々は、それぞれの自己表現を試みたのであって、日本の文化的表現を試みたのではなかった。
だからそれは自分のための私文化であった。
それを日本文化と人々が意識するのは、そのように位置づける国民国家イデオロギーの諸言説によって生み出されたからだ、と考えます。すなわち、単一の均質な日本人が存在しないのと同様に日本文化も虚構だと論じます。(西川長夫「国境の越え方」平凡社)

 西川長夫が、このように自明のものとしてあった国民文化を俎上にのせ、文化がナショナリズムに利用されることに批判を加えたことは評価できます。

 しかし、西川長夫は、サーカーのように人類社会の形成と世界政府の樹立の方向性を持っていません。
文化を私文化と把握するだけでは、文化が人間の心を拡張してゆく可能性を積極的に位置づけることができません。
むしろ「日本」文化から「私」文化として狭い領域に縮小させています。

(3)「国民国家」意識のドグマの枷を超える道

 芭蕉は「私」を表現したから、「私文化」であって、「日本文化」でないと西川長夫は言います。
しかし、芭蕉の心の内奥の「私」は、人類に共通する「私」です。
芭蕉の句の誕生地は日本ですが、その句は、日本文化、私文化という前に、味わう能力がある人間には国籍にかかわらず心に染みるでしょう。
つまり人類の文化表現の一つなのです。

 帰属アイデンティティは西川長夫のように「日本」の領域から「私」の方向に小さく縮小する方向に進むべきではありません。
自分の所属する帰属アイデンティティの領域を人類、あるいは無限の大宇宙の地点にまで拡大する方向にこそ「国民国家」を真に越える方向があります。

(4)人類の文化は一つであり、「異文化」は存在しない

 西川長夫が、日本の文化現象を「日本」文化から個人の「私」文化に位置づけたのに対して、サーカーは、人類のあらゆる文化は「人類」文化であり、人類である「私たち」の文化であると位置づけます。
スプーンで食べる人、ハシを使って食べる人、手で食べる人、その食べ方の多様性は文化表現の多様性です。
しかし、食べるという行為は一つです。
食べるという行為の表現に多様性があるのです。
そこに優劣はありません。
どの文化表現も人類の文化表現であり、人類の一員である私たちの「人類」文化なのです。

 今日、「異文化理解」が善意のもとで教育的に促進されています。
しかし「異文化」はありえません。
「異文化」というのは分析的で区別をもうける観点です。
異文化といった場合には、それは私たちの文化ではありません。
それはオリエンタリズムの響きをもちます。

 沖縄料理であるゴーヤ・チャンプルを私はつい最近まで知りませんでした。
しかし、今、私の食文化です。
もし、沖縄を別の国だという「区分」の目でみたら、それは私の文化ではなく、沖縄人の文化、異文化です。
沖縄を同じ日本だと意識していますから容易に私の文化と感じます。

 同じように、もし私たちが人類社会への帰属意識をもつならば、人類のすべての文化表現は私たちの文化です。
それを好んで取り入れるかどうかは別として、人類の文化は一つであり、その表現が多様なのだという観点が、人類を一つにまとめる統合の道です。

(4)「移民」文化が「国民」文化概念を打ち破るのか

 西川長夫は、故郷を離れて移動を余儀なくされた人々の経験の中に次の時代の可能性を読み取ります。
「『移民』の文化を押し進める時、領域的な国家や文化概念は変容し、あるいは解体せざるをえないだろう」と述べます。
それには一面の真実があります。
デリダ、スピヴァク、サイードなど領域的な国家、文化概念に「問い」を投げかけている人たちは、広義の移民の人たちです。
彼らはその境遇から、「国家」「国民」とは何なのかを自問せざるをえませんでした。

 そしてまた、西川は、欧化と呼ばれた文化受容の動きが「普遍化」「世界化」「人類の共通の部分」を生み出し、それが人類の未来につながる可能性があるとも論じています。

 サーカーも、人類の文化交流が狭い国民国家意識から、人類意識へつながる可能性を見ます。
西川長夫との違いは、サーカーが、すべての人の心の奥底にある「私」が人類共通のものと見ている点です。

 それゆえ、「移民」という人類社会の中の特定グループの文化に未来の展望を見いだすのではなく、すべての人に向けて人類社会の形成を論じることができます。

2)人類の統合へ

(1)「オリエンタリズム」

 パレスチナ出身でアメリカに在住したエドワード・サイードは、「オリエンタリズム」で有名になりました。
西洋人のオリエント(東洋)像は、西洋の知識人たちの言説の積み重ねの中で生み出されたものであり、その中身は西洋中心のエスノセントリズム(サーカーの言い方では地域センチメント)に染め抜かれており、オリエント(東洋)支配を推進することに役立ちました。
そのことを西洋人の膨大な量の言質を調べながら実証しました。

 そして西洋、東洋に人類を分割してみる見方自体が人間らしく生きることを妨げると指摘しています。

 「オリエンタリズムは・・・・・区分しようとするものの見方一般が、本来かかえこんでいるものなのである。・・・・・
見かけ上、人間的現実が分割されているのはまぎれもない事実である。
しかし、人間的現実を画然と幾つかの文化・歴史・伝統・社会に、はては幾つかの人種にさえ、分割して、しかもその分割の結果にもかかわらず人間らしく生きることが、はたして我々に可能なのであろうか」(サイード「オリエンタリズム」平凡社)

 このサイードの言葉にはサーカーの「人間社会は単一であり分割できない」とまったく同一の思想が語られています。

(2)分割的見方から統合的スタンスへ

 そしてここでサイードの述べる「区分しようとするものの見方」をサーカーは、「分割的analysis」見方と表現し、「統合的synthesis」見方と対置しています。
それは分析と統合という研究の方法論の意味ではありません。
人類社会の分裂を強化する見方なのか、統合と統一を強化する見方なのかという意味です。

 サーカーは分割と統合について次のように説明しています。
二人兄弟がいて、兄が学校に行けず教養がなく、弟は学校に行って高度な教養を身につけた。
その場合、兄は教養がなく、弟は教養があるという外的相違を見ることを「分割的見方」と言い、二人とも同じ両親の子供であるという側面を見ることを「統合的見方」と言います。
統合的見方とは、統合と統一を促進する見方です。
サーカーは、統合の道を進むしか人類の福利の道はないと言います。

 ただし、サーカーは、「見かけの現実にもとづいて人類社会を区別する」分割の道を否定していますが、「東洋」と「西洋」にそれぞれの文化的特質があることを認めています。
彼によれば、ある自然風土と歴史と文化に規定されて、その地域に住む人々に共通の心理的特質=ダルマが生じます。
たとえばインド人は幼少時から神の存在を信じる傾向があり、それは歴史的文化的な背景からそうなっていると言います。
サーカーのスタンスは、西洋も東洋の両者の長所の統合の道を進もうということです。

 なお、サイードも、「文化と帝国主義」を書いた段階では、文化の「混淆=ハイブリッド」の意義をとらえ、サーカーの「統合の道」と類似の思想に達しました。

(3)普遍主義

 「知識人とは何か」の中でサイードは「知識人とは普遍性の原則にのっとっておこなう」「国際関係において首尾一貫した基準を守ること」(サイード「知識人論」平凡社)など、繰り返し、普遍主義を述べています。

 サーカーのネオ・ヒューマニズムにおいても普遍主義を発達させてゆくことが最大の課題となります。
しかし、サーカーの観点は、根源にある共通の「一」が、「多」として顕現しているという「多元的普遍主義」であり、多様性における統一をめざすものです。
リベラルな知識人によって提唱されている「多元的普遍主義」は、現実の国民国家自体を超えるビジョンはもちません。
サーカーのものは、一つの人類社会意識にもとづく世界連邦政府の樹立を展望する「多元的普遍主義」であり、国民国家の思考の枠内にある多元的普遍主義を「含んで超えた」レベルにあります。

まとめ

 「脱構築」の知識人は、今まで私たちが当然のものとして受け入れてきた「国民国家」「国民文化」「西洋と東洋」「男と女」などの「二項対立」の概念に挑戦しました。
そして、それらが、人類を分割し、優劣と支配、対立を生み出す思考の枠組みであることを暴露しました。
彼らは、人類に分割と対立をもらしてきたこれらの概念の目で見ず、同じ人間としてすべてを見ようとした点で今日における進歩的な思想です。

 しかし、しかし、この知識人たちは「根源が一つで、顕現が多様」という観点にまだ達しておらず、多様性の尊重と普遍性の重視を両立させる哲学に到達する必要があります。

 さらにネオ・ヒューマニズムの立場から付け加えると「自然と人間」という二項対立の脱構築に取り組む人が出てくることが必要です。
実は、自然と人間も根源は一つです。
自然も人間も一つのものであるという実感を育てる哲学の登場が必要です。
(2001年8月5日)



H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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