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(Culture of second type is conquered only by making up first type culture)

Dear
I am god salamnidam who downed theory P.R. Sarkar.
We project of Heaven and gods introduce study of assistant Mitsuki in whole life.
Mitsuki studied almost books of theory of P.R.Sarkar which I downed.
Mitsuki's summery is excellent.
Project of Heaven and gods decided to introduce all studies of theory of god salamnidam.
God salamnidam add explanation to study of Mitsuki.

Theme of this page is that diversity of culture should be respected.
Culture links I consciousness of non-presence and makes up collective body of human beings.
Culture has two type.
One is to make human mind wide.
Second is to impose shackles to human mind.
Culture of second type has been made by manipulation of negative gods.
Culture of second type is conquered only by making up first type culture.


こんにちは
私はP.R.サ-カ-に理論をおろした神サラムニダムです。
私たち天と神々のプロジェクトはアシスタントのミツキの全生涯の研究を紹介しています。
ミツキは、私がおろしたP.R.サ-カ-の理論の本をほとんど研究しました。
天と神々のプロジェクトは、神サラムニダムの理論のすべての研究を紹介することを決定しました。
神サラムニダムはミツキの研究に説明を加えます。

このペ-ジのテ-マは、文化の多様性が尊重されるべきである,、です。
文化は非顕在の私意識をつなぎ、人間の集合体をつくります。
文化には二つのタイプがあります。
一つは、人間の心を拡張していくものです。
二つ目は、人間の心に枷を課すものです。
二つ目のタイプの文化はネガティブ神の操作によってつくられてきました。
二つ目のタイプの文化は,一つ目のタイプの文化をつくることによってのみ克服されます。


サーカーの文化論

1)人類の文化は一つ

(1)表現は多様でも人類の文化は一つ

 サーカーは、人間生活の表現として文化は多様性であるけれども、内面的には人類の文化は一つであり、外見的相違を強調するよりも、文化の共通の諸要素を助長するように主張します。

 「人間生活の多様な表現の総計は、サンスクリティ(文化) と呼ばれています。
表現のあり方は、ある集団の人々と他の集団の人々とでは異なっているかもしれません。
ある人々は手で食べます。
ある人々はスプーンを使います。
また箸を使う人もいます。
しかし、誰もが食べなくてはなりません。
それゆえ、人間の文化は、一つであり、分割できません。

 ヒンドゥー文化、ムスリム文化、インド文化、ヨーロッパ文化というような表現を用いることは不合理なことです。
これらの党派的な考えを抱いている人々は、人類の幸いを祈る人ではありません」(Interplay of Culture and Civilization)

 食べるという行為の表現の表現は多様です。
パンを手でつかみ、ごはんを箸で食べ、コーヒーをスプーンでかき混ぜます。

 それは、食べるという一つの人間活動の洗練された表現が地域によって多様な現れ方をしていることにほかなりません。

 食以外の人間活動の表現にも同じことが言えます。

 「外見上、文化は地域による相違があります。
しかし、人間社会の地下水脈での文化的流れに違いはありません。
違いは外面なもので、内面的なものではありません。
文化は、世界中で一つです。
全人類のこれらの共通の諸要素(すなわち言葉の本当の意味での文化)が、常に助長されるべきです。
外見的な相違が助長されてはいけません。
このような相違を助長する人々は、人間の進歩を危うくする分裂的な傾向を促します。
コスモポリタンな文化観を確立するために私たちは、婚姻や社会・経済的な融合を通じて、外見的相違を取り払わなくてはなりません」(Talks on Prout)

 このようにサーカーは、表面にあらわれた文化の外見的相違を助長することは間違いだというだけでなく、社会的、文化的な融合を通じて外見的相違も取り払うことをめざすべきだと述べています。

(2)すべては私たち人類の文化であり、異文化は存在しない

 文化について一般に普及しているとらえ方はサーカーのものとまったく異なります。
たとえば、最近、盛んに「異文化理解」という言葉が使われるようになりました。
異なる文化の国の人々を理解しようという意味です。

 これは文化が国によって異なっていることを前提としています。
もちろん異文化の中に共通のものを見いだそうとする視点があるならば、サーカーと共通します。
しかし、「異」なるものを理解しようとすることですから、最初から共通性よりも「異」を見いだし、受け入れようとするものです。
それはあくまで自分の文化に対して他者を設定するものです。

 自分の所属する文化と他者の異文化の間を区分した上での理解においては、永久に自分の心の枠の中に「異」文化が入ることはありません。
たとえば、戦争中には敵国や支配下においた地域の文化を研究しますが、異文化理解というとらえ方は、それらと本質的に異なることはありません。

 人類の一員というアイデンティティをもつならば、アメリカの文化もヨーロッパの文化もインドの文化もアフリカの文化も中国の文化も朝鮮の文化も世界中の文化がみな「私たちの文化」なのです。
地域的な特質はありますが、国境線を引いた特定の国民文化や民族文化は存在しません。

 江戸時代の藩にアイデンティティをもった人にとって、その人が仮に備後の国の人だったら、津軽じょんがら節も河内音頭も沖縄舞踊もすべて「異」文化に感じたでしょう。
今日の日本人としての統一された感情で見る時、それらすべては「異」文化ではなく私たち日本人の文化です。

 同じように私たちが人類社会への帰属意識をもつならば、人類のすべての文化表現は私の文化です。
それを好んで取り入れるか取り入れないかは様々であっても、人類の文化は一つであり、その表現が多様なのだという観点が、人類を一つにまとめる統合の道だとサーカーは考えます。

  (3)ナショナリズムの文化観を超えて普遍主義へ

 以上のように考える時、教育現場で推進するように指導されている「異文化理解」という言葉はふさわしくないと考えられます。
異なるものとして「異」を設定するならば、理解をしても、それは最後まで「異」の認識に留まるでしょう。
異ではなく、せめて「諸文化」理解という表現に変わらなくてはなりません。
人類の諸文化をわがものとして味わえる人材こそ育ってゆかなくてはなりません。

 サーカーは次のように言います。 

 「普遍的な社会は一つの文化をもちます。
その文化は、根本にヒューマニズムの価値をもっています。
普遍的な人間社会は、ただ一つの人間感情をもっています。
その感情は、人々を喜びで笑わせ、悲しみで涙を流させます。
彼らは他の人々を助ける社会を形成し、平和的に生き、平和的に死のうとします。
これが人間的な文化です。
私たちはこの文化の根本を促進すべきです。

 それは、人と人、そしていわゆる『民族nation』と『民族』とを結びつける絆です。
自己分割self- dividingの傾向は、既得権益をもつ人々が生み出すものです。
彼らは社会の悪魔です。
彼らは洗練されたサタンであり、戦争挑発者です。
私たちは、かれらの活動に対して不断に容赦のない闘争を開始しなくてはなりません」(Discourses on Prout)

 今日、サーカーの言う人類を分割する悪魔的傾向は、各宗教グループの原理主義の潮流、そして歴史修正主義などの自民族中心主義に現れています。
彼らは国民文化、国民道徳、国民の歴史を強調し、人類の間に分裂と対立を持ち込みます。
このような潮流に対して、諸宗教、諸民族の寛容と共存の人類の共同社会をめざす「多様性における統一」という考えが普及する必要があります。

 人類の文化(サンスクリティ)は、一つであり、その表現が多様とみる見方は、まさしく「普遍的かつ個性豊かな文化の創造」という日本の「教育基本法」の文化概念と通じるものがあります。
教育基本法には「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」とあります。

 ナショナリズムの病にかかっている政治家や学者たちは、その「普遍的」教育理念に攻撃を加え、「日本の文化と伝統」と「異文化理解」の言葉の挿入を主張しています。
私たちは、これらのイズムを克服し、サーカーが主張するようにヒューマニズムにもとづく一つの人類文化を追求してゆく必要があります。

(4)地域固有の文化的表現の尊重

 サーカーの普遍主義は、地域固有の文化的表現の発達を軽視するものではありません。
逆に地域固有の服装、言語、芸術などの文化的表現は、人間性に美しさと豊かさを加えているだけでなく、その人々の集団的強さも提供していると考えます。
その地域の文化、言語、文字などを崩そうとするどんな試みも心理的搾取の一形態と考えます。したがって地域固有の文化的表現の多様なあらわれのすべてを尊重することを重視します。

 花園は様々な花が咲いてこそ美しくなります。
同じように文化表現の多様性によってこそ人類社会はより美しく豊かになるとサーカーは言います。

 「統合の本当の精神は、普遍的イデオロギーにもとづいて多様性の中に統一を確立することにあります。
すなわち多くの多様な部分を等質的全体性の中に統一することにあります」(Talks on Prout)

(5)あらゆる言語は、すべて私たちの言語

 文化に加え、言語についてもサーカーは同様の観点を述べます。
すなわち人類の言語表現は一つであり、その表現が多様であるにすぎない。
それゆえ、あらゆる言語は、他者の言語ではなく自分たちの言語である。
そしてすべての多様な言語表現の尊重とあわせて、人類の共通言語を発達させるべきだと。

 「今日のシステムでは、英語が世界語に値いします。
それが科学的で広く話されているからです。
この事実を否定する政府があるとしたらそれは大きな愚です。
私たちは考えを相互にやりとりするための共通言語lingua francaを採用すべきです。
しばらくの間、その目的のために英語が世界共通言語として受け入れられることになるかもしれません。

 しかし、私たちは世界の言語すべてを私たち自身の言語と感じるべきです。
どの言語も(その土地に)固有のものだとか、外国のものだとか、ナショナルなもの(民族国家のもの)だとして扱われるべきではありません。
そして世界語を外国語として扱い、その普及に水をさすべきではありません」(Talks on Prout)

2)エセ文化との闘い

(1)性向と本能の表現の洗練が文化

 生活の多様な活動の表現が文化でした。
食文化について考えると、食べるということ自体は、動物と共通のことです。
しかし、犬が食べるのは文化ではありません。
人間が動物とどこが違うのでしょうか。

 「食べることはすべての生き物に共通した必要不可欠なことです。
しかし、人は、どんなにお腹が空いている時でも、犬のように食卓に駆け寄り、周囲をまったく無視して自分だけ座って食べることはしません。
空腹が、理性の力を越えないかぎり、人は食べる前に手を洗います。
これは文化の一部です」(Sprit of Society)

 文化とは人間がもともともっている性向と本能の表現を、洗練した、より精妙な方法で表現することです。
この洗練が文化です。
したがって、文化を身につけた人とは、動物と共通する獣性のあらわれをより洗練された精妙な形で表現する人のことです。

(2)人間性を悪化させる文化と高める文化

 しかし、人間性の劣化を助長するエセ文化があります。
人間は高まろうとする性向と低下しようとする性向の両面をもっており、その低下する性向を表現する文化をエセ文化と言います。
サーカーはこのようなエセ文化を阻むことはできないので、人間性を高めるような文化を創造するよう次のように呼びかけます。
「私たちは高める性質を助長し、悪化させる性質を抑制すべきです。
この世界の一部には、ポルノ写真のように悪化させるものがあります。

 私たちが、それらを阻むために何か積極的なことをすることなしに抗議しても阻むことはできません。
もし、私たちが何か積極的なことをするならば、人間の心に新しい動きを生み出すでしょう。
ポルノ写真やその他の悪化させる諸傾向は、完全に抑制され、阻止されるでしょう。 

 これを私たちの活動方針とすべきです。
私たちは、新しい文学、新しい本、新しい音楽、新しい歌を作らなくてはなりません。私たちは文化的な動きを生み出さなくてはなりません。」(The Rule of Rationality)

(3)エセ文化は搾取者が人々の意識を麻痺させる手段

 サーカーは、人間性を低下させるエセ文化と闘うことなしに人類は政治的経済的社会的搾取からの解放の闘いを推し進めることはできないと次のように言います。
「心理・経済psycho-economicの領域で、人々を麻痺させる方法の一つは、文化的搾取(利用)、すなわち低俗な 映画やドラマを良き人々に提供することです。
ご存じのように、心は、自分自身を堕落させる傾向をもっています。
心は、上に向かうよりも下に向かう方が流れるのがより容易です。
だから、もし、儲けをあげるために低俗な映画やドラマが人々に提供されるならば、人々の背骨は砕けます。
彼らは麻痺してしまいます。

 麻痺し背骨のない人々は、将来、文化的搾取あるいは他のタイプの搾取に対して決して立ち上がることはできません。
知的に彼らは完全に死んでいるゆえに、決して立ち上がることができません。
頭を上げて抗議する能力は永久に押しつぶされてしまいます。
どのようにして彼らはふたたび頭を上げることができるでしょうか。
文化的領域におけるこの搾取は、エセ文化を広めることによってなされています。
すべての正直な高潔な理性的な人は、このエセ文化と闘わなくてはなりません。
そして他の人もエセ文化と闘うように鼓舞しなくてはなりません。
もし、このことがなされなかったら、人類の未来は、封印されるでしょう。
人類が政治的自由、社会的解放を求めて闘うのは適切なことです。
しかし、もし、彼らの文化的バックボーンが破壊されていたら、彼らの闘争すべてが、何もできずに終わるでしょう」(Exploitation and Pseudo-Culture)

 なお、今日、グローバル資本主義経済のもとで、無分別な消費主義と頽廃的なエセ文化が、文化的表現の地域的固有性を堀崩させつつあります。

 エセ文化との闘いは、人類文化の多様性の維持であり、一つの人類としての文化的表現の地域的固有性を大切にすることでもあります。

(補足)文化について

(1) 文明」と「文化」についてのサーカーの用語法

 サーカーの使う「文明」と「文化」という用語は、サンスクリット語に由来し、私たちが用いている意味と違うので注意が必要です。

 サーカーの用語法で「文化」(サンスクリティ)とは、信念、習慣、芸術などを含む多様な人間の活動の表現です。
たとえば、草笛だけが楽器だった原始の時代に対して、今日では多様な楽器による表現が発達し、より多様な表現活動が可能になってきました。
その多様な表現が「文化」です。

 それに対して、共通の風俗、習慣、礼儀作法の存在を「文明」(サッビャター)と呼びます。
したがって「文明」の有無は、その社会の人間らしさや理性のレベルが問題となります。

 「文化的表現と文明は、同義語ではありません。
生活の様々な表現に抑制と合理性のあるところには、文明があります。
具体的な例をあげましょう。
食べることは文化的な生活表現です。
食べすぎは悪いと合理的に考え、それを自制する人々は、文明化していると言えます。
 人々の文化的表現は数多くあります。
多様な表現をコントロールできない人々は、文化的には進んでいるが、文明化していると言えません。
もし、文化的に進んだ人々の表現に合理性、理性、抑制が欠落していれば、必ずしも文明化した人々とはいえません。
 同様に、いわゆる『文化的に遅れた人々』が必ずしも社会的に遅れているわけでもありません。・・・
冷静に検討すると、彼らが生活表現の少なさのために文化的に遅れていたとしても、かなりの社会的進歩をなしとげていることがありうることが明らかになるでしょう。
アフリカ人のケースがそれです」(Interplay of Culture and Civilization)

 西洋的な「文明」の概念なら、アフリカの奥地は、文明の発達していない野蛮、未開の土地であり、ヨーロッパは、進んだ「文明」をもっているということになります。
しかし、サーカーの用い方では、先進諸国では「文化」すなわち人間活動の表現は多種多様に発達していますが、かならずしも「文明的」には高い位置にあるとはかぎりません。

(2)すべての人に有益なサンクリスティ(文化) 

    このようにサーカーは、多様な人間活動の表現を「文化」(サンスクリティsam'skrti)と呼びます。
ただし、サンスクリティとは、あらゆる人間集団に有益な文化を意味します。
他の人間集団には有益でない文化は、サンスクリティではなく、クリシュティkrs't'i(文化)と呼びます。

 たとえば、ヒンズー教徒の客人に「すき焼き」でもてなしたとすれば、不快を与えますから、その場合「すき焼き」はサンスクリティ(文化)ではありません。
クリシュティ(文化)です。

 サンスクリティとクリシュティについてサーカーは次のように説明しています。
「文化は、あいまいな用語です。・・・
他の人々にとっては有益とみなされないかもしれなない生活表現が、クリシュティKrs't'iすなわち文化と呼ばれます。
たとえばイギリスの家族は、もてなしのために、インド人の客に彼らが好まない牛肉を出すかもしれません。
 サンスクリティsam'skrtiという言葉も文化を意味します。
それは、良い意味で使われ、すべての人にとって有益な場合です」(Talks On Prout)

 したがって、クリシュティとしての文化は、ある集団と他の集団では違っています。
しかし、サンスクリティとしての人間の文化は、共通であり、一つです。

◎引用文献
P.R.Sarkar,Interplay of Culture and Civilization, Prout in a Nutshell Part8
P.R.Sarkar,Talks on Prout, Prout in a nutshell Part15
P.R.Sarkar, Sprit of Society, Prout in a nutshell Part9
P.R.Sarkar,Discourses on Prout, Discourses on Prout in a nutshell Part4
P.R.Sarkar The Rule of Rationality, Discourses on Prout in a nutshell Part12
P.R.Sarkar, Exploitation and Pseudo-Culture,Prout in a nutshell Part8



H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

appeal of gods of star

all H.P. of project of Heaven and gods

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