星めぐりの歌 (video of this movie cannot be found) (video inspired by god of star)



『銀河鉄道の旅・・・宮沢賢治』緒方直人主演

あらすじ

宮沢賢治については、もう一つ同名のビデオを見たのと、中学生向きの伝記を読んだだけであるが、この映画から簡単に彼の生涯のあらすじを書くと次のようになる。

宮沢賢治(1896‐1933、明治29‐昭和8)は、東北、岩手県の貧しい農村地帯に生まれた。
稼業は祖父の代から金貸し(質屋)であった。
父は浄土真宗の信者であった。
大学へ行って、賢治は、日蓮と法華経の教えこそ正しいと考えるようになった。
そして、金貸しである点と浄土真宗である点で、父に激しく反抗した。
そして東京にでて日蓮系の国粋主義の団体である国柱会への住み込みの入会を申し込んだ。
しかし、相手にされず、東京の印刷会社で働いた。

そのころから、ファンタジックな小説をかき始めた。
妹が、彼の文学の最初のよき理解者だった。
東京で生活できず、家にもどっていた時、女学校にいっていた妹は、結核で死んだ。

その後、岩手の花巻農学校で農業を教えた。
しかし、それが一般の農民の仕事からかけはなれたものであることに気づき、農学校の教師をやめて、一農民になった。
そしてラスチ人教会という青年農民の親睦会をつくって、芸術を楽しんだり、肥料の使い方などを農民に指導し、教えた。

そのころ、父は議員に選出され、町の有力者になった。
町の人が賢治の悪口を言った時、父は「賢治は、変わったやつだが、あなたに迷惑をかけたか」と反論して、賢治をかばった。
実は、賢治の小説の出版も父からお金をだしてもらっていた。
しかし、その小説は売れず、生きて父に孝行することはできなかった。

台風がきた時、賢治が肥料の指導した稲は弱く、結果的に農民たちに迷惑をかけることになった。
教師をやめて一農民になってからは、まずしい農民と同じくらしをするのだと、家からもってきてくれた栄養のあるものも受け付けず、次第に身体をこわしていった。
肥料会社(正しくは採石工場の技師)に就職して仕事中、血を吐いてたおれ、自宅にもどった。
最後に父は賢治のことをえらいやつだとみとめてくれた。
しかし、最後まで、嫌悪し、そこから脱したいとおもっていた父の財のおかげで生き、父の寛容さの傘の下に生きた賢治であった。


感想(1)
「自分がよいこととおもっても他の人によいこととはかぎらない」

賢治が、善意の人であり、スピリチュアリティの領域ではレベルが高い人であることはまちがいないと思った。
しかし、知的領域では宗教的ドグマ、「科学」ドグマが若い賢治の頭の中にあった。

借りたいだけ農民にお金を貸すべきだと父に言った時に、父は賢治の言うとおりにしつつ、農民にたくさんお金を貸してあげるほど、その人は返せなくなって苦しくなることを指摘し、「自分が良いことだと思い込んでいることがまわりの人にとっても良いことはかぎらない」と父は諭した。

農民たちによかれとおもって、アドバイスした肥料で育った稲は台風にはよわかった。
台風のせいだから、賢治先生には責任はないと指導された若者たちはかばった。
しかし、肥料をつかって収穫は格段によくなるが、逆に台風などには弱かったはずである。
大学で学んだ農業の学問をマスターした善意で農民を指導しても、実態にあわなかった。

同じことは、国柱会の日蓮の教えを熱心に布教していたことについても言えた。
あまりに賢治が自分の宗教をすすめるので「本当の友情とは、相手の考えを尊重するもので、自分の考えを押しつけるものではない」と親友からたしなめられていた。


感想(2)
理想と現実のギャップの中で苦悩した人生

賢治は、スピリチュアリティの領域では、すぐれた芸術作品を創造した人として歴史に残った。
しかし、世俗世界での賢治の生涯は自分の理想と現実のギッャプの苦悩の中で生きた人生だった。

賢治は、農民たちに金貸しをしている父のもとで、学費、生活費をだしてもらって育った。
都会の富裕な階層ばかりの社会に生きていたら気づくことはなかったろうが、娘を売りにださないといけないような極貧の人々から利息をとって富裕な生活をしている父の職業にがまんできなかった。
父の職業に激しく反発した。
同時に、その反発は、父が浄土真宗の信徒であるがゆえに、それを激しく攻撃した日蓮教の支持につながった。
父と家族の前でこれみよがしに、日蓮宗の題目を大声でとなえるなどしていた。

映画では大地主制に触れてなかったが、私の知識から当時の東北農村について考えると、大地主制があった。
借金を返せなくなった貧しい農民の土地を吸収して大地主制が成立していった。
賢治の目には農業生産力の問題がうつっていたが、(もちろん、それも大切であるが)大地主制の搾取構造は目に入っていなかった。

しかし、賢治は、個人的に自分の富裕な存在が、農民の血をすすっている上になりたっていたことにきづいていた。
しかし、それは、最後まで個人的な嫌悪でおわっていた。
東京にでて国柱会で働こうと思ったのも、花巻農学校の教師をやめて、農民そのものになろうとしたのも、そして心配して母が栄養のある魚などの料理を届けにきてくれたのを拒否したもの、自分の身体を酷使して無理に無理を重ねていたもの、農民の搾取の上に自分と家族の生活が成り立っていることへの嫌悪であった。

そのような現実の世俗世界への嫌悪が、一方での化学肥料信仰と法華信仰による現実世界へのユートピア的アプローチとなり、他方で、大地のすべてに命と心を見いだし、空想の世界に心を走らせた。
そして貧しき農民たちと苦しむ人々を救いたいという熱情を生み出していた。
それは、善意と熱情にあふれていた。

映画の最後は、父と母が賢治の詩を朗読する

風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシズカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ

感想(3)
私が賢治の父だったら何を願うだろうか

安定した給与のある学校の教師をやめて、本当に、一人の貧しい農民になることは、なみの安易なヒューマニズムや同情で実行できることではない。
農民と苦しみをともにして生きる中で農民の役に立ちたいという強い情熱は、本物であった。
賢治の魅力は、心と言葉と行いが完全に一致した人生をおくっていることである。

そんな賢治のスピリチュアリティを、浄土真宗の信徒の父は、まるごと含んで超える大きな度量で見守ってくれていた。
賢治が学校の先生をやめて農民になったことを村人がバカにしたことを言った時、父は「賢治はたしかにやることはおかしいが、あなたに何か迷惑をかけたか」と反論し、賢治をかばった。
死後、家族は、賢治が「焼いてくれ」と言って死んでいったのに、彼の残した莫大な原稿を、たぶん自費で世に出版した。
当時、売れない賢治の本は出版社が扱うはずはなかった。
皮肉なことに賢治の嫌悪する父の財力が、彼を歴史に残る人とした。
この映画では渡哲也が演じた父が歴史に残る宮沢賢治を生み出したのだと思った。

私が親なら、ちゃんと栄養をとってほしかった。
ちゃんと休息をとってほしかった。
賢治は、まるで自らを罰するような生活をしていた。
バランスのとれた生活をおくってほしかった。
左上象限、個人の身体においてはプラマー(動的な均衡)がなかった。
四象限全領域でバランスのとれた人生をおくってほしいとおもう。


感想(4)
家業の金貸しは賢治のように嫌悪すべきか。

映画の中で若い賢治は父親に「金貸しの仕事をやめて、別の仕事につけ」と迫っていた。
それは祖父の代から築いてきた家業だった。

ヨーロッパのカトリック教の世界でも金貸しは賤しい仕事とされて、ユダヤ教徒がそれを担っていた。
本当に、賢治が考えるように父の仕事は、正しい正直な仕事でなく、他人を搾取するものだったであろうか。

サルカールは、お金を血液にたとえて、金融業(銀行)は、お金を人々の間で回転させつづける役割を果たすものだといい、もし、金融業を廃止する主張があるならば、それは暗黒の社会に導くだろうと言う。
逆に、金融業が、蓄蔵にはしっても、貨幣の回転を妨げ、問題をひきこすと指摘している。
まさしくバブルの時、大銀行が土地や不動産に投機し、地域で貨幣を回転させるという使命をおろそかにしたことが、今日の経済難の一員となった。

さて、賢治の家が、経営を維持するための正当な利息をとって、地域の企業や小経営に貸し付けをおこなっていたとしたならば、それは地域経済の活性化に役だつことだった。
そうした地域に密着した金融がなければ、地域経済の発展はありえない。
宮沢賢治の家が不当に利息をとっている今日のサラ金のようなものでなければ、地域経済にとって不可欠のものだったと考えられる。

東京で支配している独占財閥の金融資本が富を集中していた。
搾取の根源はそちらにあった。
宮沢賢治は、自分の家の家業を嫌悪していた。
父親に仕事をかえよと迫っていたように、彼の負い目として生涯を左右してしまった。
地域の農民が極貧であったことは、大地主制ときびしい気候条件のもとで生産制が低かったことにあったとおもわれる。


感想(5)ラスチ人協会のとりくみの評価

学校の教師をやめて一農民になった時、彼は、若い農民たちを組織して、ラスチ人協会をつくった。
農業技術についてとも学び、音楽などの芸術をともに楽しもうとしていた。
これは、賢治の四象限統合アプローチの萌芽であった。
右下象限、すなわち客観的な社会において、肥料による土壌の改善によって生産力を向上させ、農民の収入をアップさせることを追求していた。
サルカールの農業改革論は、大地主制のもとでも、協同組合化による生産力のアップをめざし、最終的に大地主制を解体してゆこうとするものである。
賢治にそういう視点はないとしても、右下象限の問題意識はあったことは確実である。
そしてラスチ人協会にあつまってともに学習し、文化的なとりくみをすることで、農民たちの間で間主観的世界を成立させ、深めようとしていた。左下象限である。

サルカールの三領域で考えると、まずラスチ人協会に結集した農民の生産力を肥料による土壌改良でアップさせる。
その経済的土台の上に、農業科学の学習で農民たちの知的領域を拡張し、音楽や自らの文芸作品によって結集した農民たちのスピリチュアルなレベルをアップさせようとしていた。
彼のその三層構造の追求は、わたしたちが、受け継ぎ、発展させてゆくべきものであるとおもう。


感想(6)ウィルバーの四象限から宮沢賢治の考察

法華経の仏教思想を根幹としていた宮沢賢治は、「左側象限」の人であるという限界性の中にあった。
しかし、彼は、農民の貧困という「右側下象限」の問題をなんとかしたいとおもった。
しかし、仏教思想は、右側象限を真に解決する方向性はもっていなかった。
そこにとても良心的でスピリチュアリティの高い宮沢賢治が苦悩の生涯をおくらざるをえなかった理由がある。

(日蓮は、災害がおきるのは、法然の浄土宗が広がっているからだ、南無妙法蓮華経の題目をひろげないといけないと考えた。
これは、まったく的はずれであり、右側下象限の問題の解決を左側象限にもとめる混同をおかしていた。
妙法蓮華経(法華経)は、左側象限の真理をあきらかにしたインドの仏教書である。
しかし、当時の仏教の課題の一つが国家の鎮護(右象限)であったために、日蓮は、左側象限の真理である法華経を広めることで右象限の課題の解決が可能だと勘違いしていた。
この宗派が社会運動をする時、政教分離がむずかしい根拠は宗祖のこの勘違いにある)

賢治は、農民の貧困という右側下象限の深刻な問題に真に気づいていた。
仏教思想では、その解決は、個人のレベルで現世から離れて僧侶として生活するか、貧困という物的領域は幻影であると悟って主観的に個人的に解脱するかにある。
すなわち仏教は右下象限の真の解決策はもっていないのである。

最初、賢治は、日蓮のように、南無妙法蓮華経の布教によって、すなわち左側象限から、右下象限にアプローチしようとした。
そして、右下象限に、肥料などの近代的な農業科学の応用による生産力の向上による科学的アプローチをし、前進を開始した。
しかし、大地主制という構造的搾取の問題があり、それはあまりに大きい問題であり、賢治の視界に入ってこなかったばかりではなく、入ってきたとしても当時の賢治の思考では対応できなかっただろう。 

四象限における賢治の位置を具体的に少し説明しよう。
サルカールは、文学、芸術の創造をサーダナー(スピリチュアル・プラクティス)と位置づける。
まさしく、賢治は、左上象限においては、前進し、貴重な芸術的成果を生み出していった。
インドの経典であり、天台宗、日蓮宗の経典である法華経の読解も彼の右上象限の前進に役だっただろう。

しかし、右上象限については、すなわち、自分の身体のバランスについては、親が心配してつくった栄養のある食事を拒否したように無視し、そして健康を失っていった。

左下象限については、ラスチ人協会をつくったように、仲間ととともに芸術を楽しんだり、自分の芸術を世に出版したり、内面世界の共有化の方向性があった。
しかも、その内容は、ナショナリズムや人間中心主義などの狭い感情を克服し、心を拡張し、未来につがなるものであった。

しかし、右下象限については、生産力的観点はあったが、肥料という自分が大学で学んだ当時の化学の限界の中にあった。
サルカールの協同組合論のように、社会的に生産力をみてゆく視点はなく、ましてや、搾取構造をとらえて、問題の解決をさぐることは目にうつらなかった。

左側象限の究極を説いている教えである妙法蓮華経を布教しても、右下象限の問題の解決にはつながらないのである。

私たちが、賢治の苦悩を超えて、四象限統合的アプローチを生きてゆくには、仏教的限界と近代思想の限界を超える必要がある。


感想の補足 賢治の人生から継承すべきもの

国柱会への住み込みが断られてよかったと思った。
国柱会とは、「日蓮宗の僧侶から還俗した田中智学がはじめたもので、石原莞爾,宮沢賢治らが入会,会員は急速に増加した。
その後田中は政治的な運動に傾き,国柱会も日蓮主義と〈国体主義〉を唱える国家主義的な運動に傾いた」
(平凡社の世界大百科事典の「国柱会」の項目より)
すなわち、国柱会は石原莞爾を生み出した団体であった。
彼は、世界最終戦をとなえ、その第一段階として、満州とモンゴルの制圧をとなえ、侵略的日本に道を開いたイデオローグの一人であった。

宮沢賢治は死後、彼の文学で有名になったのであり、そのような方向に彼が進まなかったことは幸いであった。
むしろ、賢治の残した文学的業績は、普遍主義的でネオ・ヒューマニズム的なものであり、石原莞爾らのナショナリズムと無縁であった。

極貧の人々を救いたいという強烈な熱情については、石原莞爾も同様であったはずである。
石原莞爾は、農民の解放を帝国主義的な拡張にもとめていったが、宮沢賢治は、自分の地元で農民たちの生活の土台を安定させ、そこに知的向上とスピリチュアルな向上が可能になる世界をつくろうとした。
賢治の方向性は正しい方向性をしめしていた。
ここには賢治が侵略的なイデオローグになる方向性はまったくなかった。

ただし、賢治には日本が朝鮮半島や台湾を植民地搾取していることへの疑問はおろか、当時の日本がさらなるアジア侵略の開始の方向に進みつつある認識はなかったはずである。

私たちは、賢治がふみ出そうとした三層構造(経済的土台の上に知的活動、スピリチュアルな活動を発展させる)のアプローチの萌芽を継承し、発展させ、かつ搾取構造を認識し、彼の念願だった極貧の人々をこの地上から無くす課題の実現を、「多様性おける統一」「相違のもとでの統一」のもとで追求しなくてはならないとおもう。


  This video depicts life of person who had strong desire to save those exploited.
Living with strong desire to save human beings , although he lived irrelevant life, his works are loved by many people.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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