映画=宮沢賢治 その愛(video inspired by god of star)



『宮沢賢治  その愛』

賢治=三上博史、父=仲代達矢、母=八千草薫

緒方直人主演の映画との比較。
前に感想文を書いた緒方直人主演の「宮沢賢治」は宮沢賢治が、宗教がかった変人にみえたのですが、仲代達矢がお父さんをやっている「宮沢賢治」のビデオの方は、ちゃんとした変人でない宮沢賢治が描かれていた。

あらすじ

このビデオは史実に忠実であるとの字幕があった。

大学を卒業して田舎にもどると列車に載せられて売られてゆく幼なじみの女の子がいた。
その父親が夜、宮沢家の質屋にきて、お金を払って、あずけてあった仏壇をもちかえった。
そのお金は幼なじみの女の子を売って得たお金だった。
父に家業の質屋をやめてほしいと言う。

賢治は鼻の病気になり、入院した。
そこの若い看護婦さんに賢治はほれて、親に結婚したいというが反対されて、あきらめる。

寺で浄土真宗の話をきくが、賢治は法華経にひかれる。
棚の上から日蓮の本が頭の上におちてきた。
賢治はそれをきっかけに、東京の日蓮宗の国柱会にゆく。
そこでは仕事はなく、近くの印刷屋につとめる。
父が東京まで様子をみにくる。
その時、日本女子大にいっていた妹が肺炎になったので、岩手の家にもどった。
妹は死んだ。

そのあと、故郷の盛岡農学校の教師になった。
自分が研究していた土壌学を教える。
文化行事で「飢餓軍団」を上演し、評判がよかった。

しかし、本当の農業の現実を知らないことに気付いて、教師をやめて、一人の農民になる決意をする。
宮沢家の所有する空き家を利用してそこに田畑を耕しながら、一人で住んだ。
そしてその自宅をラスチ人協会という青年の集まりのセンターにした。

ラスチ人協会では、土壌改良の学問を教える以外に音楽などの文化交流の場にした。
賢治は,農民はきびしい労働だけでなく、文化活動もすべきだと考えた。

ラスチ人協会にやってきた小学校の女性教師から交際を申し込まれたが、賢治は断った。
自分の大学の友人がやってきて、妹をお前の嫁にしてほしいと言った。
賢治はその子を気にいったみたいで、断らなかった。

台風で賢治の指導した村人の稲が倒れた。
賢治は自分の責任と感じた。
そして農業をやめて、肥料会社に就職した。
岩手の土壌改良が必要と考えたためである。
ハードな仕事の中で結核になり、若くして帰らぬ人となった。


感想(1)

この映画の宮沢賢治には好感がもてた。

好意をもった女性が二人、ふった女性が一人というあたりは普通の人間の賢治だった。
(もう緒方直人主演の方は、好意をもった二人の女性は描かれていないので、普通の人間のように見えなかった)

日蓮宗への執着は軽く描いていた。
たとえば、棚の日蓮の本が頭の上に落ちてきたことが東京の国柱会本部にゆくきっかけになったとか。
すなわち、宗教色ではなく、宮沢賢治自身のもっているヒューマニズムやスピリチュアリティが全面にでていた。

最初に、幼なじみの女の子が売られていったという事情を描き、賢治がなぜ父の家業に反発したのかが明確に描かれていた。
(緒方直人主演の宮沢賢治は、家業に反発する背景の描写がよわかった。
この映画の方は幼なじみの女の子を売った金で、宮沢の質屋にあずけたものをとりかえした農民が描かれている)

また学生寮の才能ある友人が貧困を批判する詩をつくったことに対して左翼的として退学させられたことに反発して教師につめよる正義感あふれる賢治も描かれていた。


感想(2) 宮沢賢治のネオ・ヒューマニズム

賢治は、虐げられた生活をおくっている東北の農民たちが、安定した生活がおくれるように願って、全力をそそいだ。
これは、「すべての人類に衣食住、医療、教育という生活の最小限の必要性を、雇用を通じて保障する」というサルカールのプラウト経済論のもとになっている人間愛と共通するものである。

農学校で上演した「飢餓軍団」という劇は、お腹の空いた兵士が隊長の勲章を食べてしまう話である。
勲章はビスケットなどでできていた。
すなわち、隊長の栄誉、名誉、虚栄よりも、下級兵士の命の方が大切だというメッセージがこめられていた。
(緒方直人主演の方にはこれはなかった)

病気になった妹に「注文の多い料理店」の話の構想を語っていた。
それは町からやってきて動物の狩りをして命を奪う人間を批判したものだった。
そこには動植物、すべての命あるものを大切にする賢治のネオ・ヒューマニズムのスピリットがある。
(緒方直人主演の方は、賢治の願いの所在が描かれず、空想の中に生きるちょっと変人の賢治像であった)

賢治の父は熱心な浄土真宗の信者であった。
私の父も熱心な浄土真宗の信者であった。
私は父から幼少のころ「一寸の虫にも五分の魂」を聞かされ、魚をとったら、「必要ないのに無益に殺傷するな」と注意された。
魚や森の生き物たちへの賢治のネオ・ヒューマニズム的信条は、私の体験からすると、賢治の父から受け継いだものであると推測する。
そのネオ・ヒューマニズム的精神を理論化したものが、インドの仏典であり、天台宗と日蓮宗の経典である「法華経」だったから、賢治はそれにひかれて、父親にも勧めたのではなかろうか。
(緒方直人主演のように日蓮に強烈にこだわる賢治を描いていなかった。
実際、宮沢賢治の作品の「十力の金剛石」「雪渡り」を見ると宗教色を脱したスピリチュアルな世界を描いている)

賢治は父親の大きな愛と影響のもとにあったことが描かれていた。
死ぬときに「賢治はたいしたやつだ」と父からほめられたことをたいへん喜んでいた。
私は父の浄土真宗のスピリチュアリティがあったればこそ、賢治のネオ・ヒューマニズムのスピリットが生まれたと感じる。


感想(3)

賢治のスピリチュアリティは、イーハトーブが岩手県であるように、自分の村にラスチ人協会をつくり、一人の農民として地域の農民たちと協同と連帯の場をつくろうとしたように、自分の生活する現実の場に根ざしたものであった。
その上に知的世界をつくり、スピリチュアルな世界をつくろうとした。

この方向性は、サルカールの人間存在の三層に対応したものである。
物的領域、知的心理的領域、スピリチュアルな領域である。
宮沢賢治は、経済的土台の協力・共同化の上に協同の知と文化の花を咲かせ、そこにスピリチュアリティという心棒を一本とおそうとしていた。

宮沢賢治のこの三領域の方向性を継承・発展させてゆきたい。



作品を読んでのスピリチュアリスト宮沢賢治の発見(付録)

宮沢賢治作品「雪渡り」のあらすじ

雪が昼の日光で少し融けて、夕方、寒くなって、雪の表面がコチコチになり、どこにでも歩いてゆける状態になる。
その時、二人の子どもが、森のキツネの幻灯会に招待されて参加する。
「キツネは人間をだます」という通念に対して、この作品では、キツネが出してくれたまんじゅうを二人の子どもがとてもおいしく食べたので、キツネたちは本当によろこんだ。
キツネはウサギの糞をまんじゅうですといって人間をだましたりしないのだ。

キツネたちがおどりながら、「たとえからだをさかれても、キツネの生徒はウソを言うな」「たとえこごえて倒れても、キツネの生徒は盗まない」「たとえからだがちぎれてもキツネの生徒はそねまない」と自分たちのモットーを叫んでいた。

人間よりもキツネたちの方が、宮沢賢治の世界ではモラルが高いのだ。
幻灯会の中では、足がわなにかかり苦しんでいるキツネがいた。


「雪渡り」の感想

ここには、人間だけを愛するヒューマニズムを超えた賢治の心の拡張があり、サルカールの提唱するネオ・ヒューマニズムの精神が流れている。

(イギリスでは貴族たちの伝統スポーツにキツネ狩りがあった。
映画『スカーレット』に、主人公がイギリス人領主といっしょにキツネ狩りに参加するシーンがある。
最近、イギリスのブレヤ首相は、キツネ狩り禁止法案を国会に出した。
保守勢力からの大きな反対デモがおきていた。
「イラク人の命よりもキツネの方が大切なのか」というプラカードもあった。
私は、キツネ狩り禁止ではブレヤ首相を支持する。
しかし、たしかに、ブッシュととともにイラク戦争に踏み切ったことは、キツネ狩りよりももっと大きな悪だとおもう)


宮沢賢治の作品「十力の金剛石」の感想

ひとことでいうと大文字のスピリット(ブラフマ)が万物として顕現しているというスピリチュアリティ哲学そのものを紹介しようとしたものだった。

「十力の金剛石」とは、大文字のスピリットです。
「十力の金剛石」を「大文字のスピリット」というケン・ウィルバーの言葉に置き換えて紹介します。
まったくケン・ウィルバーの世界になります。

「Spiritは、野ばらの赤い実の中のいみじい細胞のひとつひとつにみちわたりました。
そのSpiritこそは露でした。
ああ、Spiritは露ばかりではありませんでした。
あおい空、かがやく太陽、丘をかけて行く風、花園のかんばしい花びらやしべ、草のしなやかなからだ、・・・
丘や野原、びろうどの上着、涙にかがやく瞳、すべてすべてSpiritでした」

これは、ケン・ウィルバーの「観想の目=スピリットの目」から描いた世界にほかなりません。
宮沢賢治はスピリチュアリストだったのです。


「風の又三郎」

宮沢賢治を論じるなら、彼の作品を読まないといけないといわれ、前に「風の又三郎」を読んだが、まず言葉がよくわからず、まったくいわんとすることがわからなかった。
もともとの文章にマンガのある「風の又三郎」(ますむらひろし著、扶葉社文庫)を買ってよんでみた。
それでも、私には宮崎駿の方がよっぽどよくわかった。
たぶん、小学生の転校生の話を小説にしたのは宮沢賢治のこの作品がはじめてなんかなーというくらいにしか受け止めることができなかった。
もちろん想像力の豊かさは、普通のそうした小説の比ではないけれども。

「風の又三郎」が宮沢賢治の代表作とされているのは、スピリチュアリストでない人が評価するから、それが代表作となるのだとおもう。
もし、宮沢賢治が自分の代表作になにを押すかというと、「風の又三郎」より「雪渡り」「十力の金剛石」などの方を選ぶとおもう。

「雪渡り」「十力の金剛石」は、私にも理解でき、とてもよかった。
まさしくネオ・ヒューマニズムとスピリチュアリティの作品であった。

「風の又三郎」は、私には、プレヤ30点、シュレヤ30点だけれども、「雪渡り」はプレヤ70点、シュレヤ80点、「十力の金剛石」は、プレヤ60点、シュレヤ80点だった。


This video depicts life of human being to pursue spirituality.
To pursue spirituality is way of life to become eternal life.
Eternal life means return to parent god of star and to live with gods of star.
Project of Heaven and gods intends to lead humankind to eternal life.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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