Ennio Morricone 映画「マレーナ」 Malena (video inspired by god of star)



Malena『マレーナ』

あらすじ

1940年、イタリア半島の南にある島、シチリア島のある町。町いちばんの美人のマレーナは戦争未亡人、夫はアフリカ戦線で亡くなった。
イタリアではファシスト党が政権を握って力をもっていた。
戦争が激しくなり、ラテン語を教えていた耳のよく聞こえないマレーナの父親も連合軍の爆撃でなくなった。

美しいマレーナは男たちのあこがれの的で、女たちの嫉妬の的だった。
マレーナは、食べ物をもってきた軍人さんと関係をもつ。
その時の夜、歯医者がマレーナの家にいこうとしてその軍人と喧嘩になる。
それで、マレーナの不倫ということになって、歯医者の妻が嫉妬から裁判に訴える。
弁護士にたのんで、マレーナは無罪になるが、その弁護士によって、マレーナは、家で強姦される。
そのあと、マレーナは売春婦の派手なかっこうで生きてゆくことになる。
そして町にドイツ軍がやってきた時、マレーナともうひとりの売春婦がドイツ兵を相手にした。
シチリア島が連合軍によって解放された時、マレーナは町の女たちから、ひきずりだされ、なぐられ、けられ、髪をそられた。
町からおいだされた。

そして死んだとおもわれたマレーナの夫が、片腕をうしなって生きてもどってきた。
誰も夫に本当のことをおしえてくれなかった。

マレーナにあこがれて、ずっとマレーナの家をのぞきつづけきた少年レナートが夫に紙切れに書いてわたす。

「奥さんは、ずっとあなただけを想っていました。
奥さんは、生きるためにしかたがなかったんです。・・・」
と教えてあげた。

夫は、マレーナを探し出し、シチリアのその町にもどってきた。


感想

1)
マレーナについての描き方は見事でした。
マレーナが売春にいたる流れ、その反作用、またその反作用を乗り越えてゆく彼女を少年の目を通じて因果を描いています。
知らず知らずのうちにマレーナに共感をよせていることに気づきます。
サルカールの言葉です。「
原因(カーラナ)の結末は, 特定の時、場、人物に作用(カールヤ)します。
このことを瞬時たりとも忘れてはいけません。
なぜなら、そのように原因と結果の間をつなぐことによって人々は親密な気持ちで作家の目的に触れることができるからです」
この『マレーナ』はここに成功しています。
したがって、次のサルカールの提起に完全に応えた作品となっています。
「すぐれたプレゼンテーションは、作家が純粋な人間的感情を欠いていたら不可能です。
善人であっても悪人であっても、友であっても敵であっても、清純なレディであっても、淫らな女性であっても、すべて作家にとっては人間です。
作家は、彼らの心の熱望へ敏感でなくてはなりません。
そして彼らの内なる思考と感情に適切な表現を与えるようにしなくてはなりません。
作家は、彼らの幸せや悲しみ、希望や願いに描写を与えようとするでしょう。・・・
どのような状況のもとでも芸術家や作家は人間性を憎しみとあざけりの対象として見てはなりません。
淫らな女性やどろぼうの性格すら深い苦悩のせいにし、彼らへの共感を読者の心に残さねばなりません」


2) 12才のマスターベーション少年

(ア)
この作品は、町いちばんの美女のマレーナにあこがれる12才の少年レナートの目を通じて描かれます。
この12才の少年の描き方をどう考えるかで、おそらくこの映画への評価が異なってきます。
①パロディ的にですが、少年のマスターベーションを本格的に描いている、私がはじめて出会った作品です。
ある時は、はげしくやるので家がゆれて、父親が「やりすぎだ」といいます。
②そしてマレーナの家をのぞきます。
③マレーナの衣服の一部を盗みます。
それをみつけた家族はおおさわぎします。
これらは、明らかに犯罪行為です。
④最後に父親はレナートを売春につれて、性を経験させます。
⑤しかし、最後にレナートが、マレーナの夫にたいして、「マレーナが戦争の犠牲者であること、彼女は夫だけを愛していたことを証言します」とする紙を渡したことで、観客としては、これらの犯罪行為すべてを許せるという気持ちになります。
ただし、12才の少年をこう描いてもいいものだろうか、他に方法がなかったのだろうかとはおもいます。

(イ)
サルカールは、心は、精妙な心の材料からなっていると考えます。
そして見るもの考えるものの形をとります。
12才の少年は、エッチなことを連想し、マスターベーションばかりしています。
他に前向きなことを考えたり、おこなったりしているわけではありません。
もし、本当に12才の少年が、レナートのように、エッチなことばかり連想し、マスターベーションばかりしていたら、サルカールの論でゆけば本当にストーカーになってしまいます。
サルカールは、精液は、生命エネルギーであり、可能なかぎり大切にすべきであると考えます。
彼の論を拡大解釈したら次のようになります。
エッチなことばかり連想していたら、生命エネルギーのシュクラが下腹部にまわって精液に転化します。
(女性も精液かあるとサルカールはいいます)
そして生命エネルギーのシュクラのうち、脳にまわって理性的なコントロールの栄養となる部分が少なくなってしまいます。
そして自分をコントロールしにくくなります。それがストーカーになる理由でもあります。12才ははやすぎますが、いずれ成長して性的なことに関心をもつことは自然の流れで、悪いことではありません。
しかし、この少年のようにそこにのみ関心がゆくことは、実際のリアリティとしては、この映画以上に最終的には人間的に低下してゆくでしょう。

(ウ)
東京都では、性教育に政治的な介入がありました。
石原都政は、議会での政党の攻撃と歩調をあわせて、現場での自由な性教育の探求を干渉し、抑圧しました。
中絶をする子どもたちを減らすためのコンドームの使い方を障害児教育でおこなったことなどを激しく攻撃したのです。
しかし、現場の教師たちは、この時代の子どもたちの現実から、性教育の必要を感じ取り、一般からみるとゆきすぎのようなコンドームの使い方までふみこんだのでした。
私は、現場の決定権を重視するものですから、東京都のように政治的に上から、現場教師の工夫に干渉することには反対です。

(エ)
しかし、私は、コンドームの使い方まで教えるというのは障害児学校ではありうるとはおもいますが、その性教育の理論には批判的見地をもっています。
それは基本的にマスターベーションにブレーキをかける観点かないことです。
この映画は本格的にマスターベーションを描きました。
しかし、最終的に父親が売春宿につれてゆくことで解決するということになっていました。
下手をすると若者の性的エネルギーのはけぐちのために売春が必要だという議論になりかねなません。

(ア)
私はサルカールを研究してみて、彼は実質的にマスターベーションにブレーキをかける論点をのべており、実感的にあたっているとおもいました。
このホームページの青年と高校生と語るコーナーがあります。
そこにいろいろ恋愛論などがあり、下の方に「マスターベーション論」をのせています。
そのマスターベーション論をホームページでみて九州の中学生からメールをもらいました。
いちばん説得力があったそうです。

(イ)
結論としては、12才のストーカー少年をつうじてマレーナを描いたのはすばらしいのだけども、またストーカー少年を登場させないとこの映画はなりたたないのだけども、わたしたちは、このストーカー少年を導く正しい観点をもたないといけないとおもいます。
このような少年は、俗悪ビデオがでまわる中で、ふえているからです。
しかし、この映画のいい点は、そのようなストーカー少年を排除の視点ではなく、人間の成長の一段階として、暖かい目でとらえていることにもでています。


This video draws life of hardship during war that woman was alive from boy's eyes.
It succeeds to depict to draw through eyes of boy for viewers to understand what cause behavior of women.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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