Come See The Paradise - Love Theme (video inspired by god of star)



Come See The Paradise『愛と哀しみの旅路』

あらすじ

1948年、リリー川村が、戦場からもどる夫のジャックを駅で待ちながら、娘にこれまでのことをお話しながら、回想シーンが展開するという形でドラマは進む。

リリー川村は、カリフォルニアに住む日系二世である。
父母は、日本の和歌山県からアメリカン・ドリームを信じて移住していた。
しかし、一世は、市民権をもつことができず、自分の経営する映画館を購入することもできなかった。

その映画館の映写係にジャック・マックガーンが雇われた。
ジャックは、正義感が強く、労働組合法などの法律に通じていて、労働組合の闘争にかかわって仕事を失っていた。

ジャックとリリーは、恋愛関係になったが、父は結婚を認めなかった。
カリフォルニアは日本人とアメリカ人の結婚は許されていなかった。
二人は、日本人とアメリカ人の結婚が許されている〇〇州にいって結婚生活をし、娘をもうけた。

夫は労働組合にかかわり、弾圧され、投獄された。
そこでリリーは、カリフォルニアの親元に娘とともにもどった。

ところが、一世の父は収容所にいれられていた。
つづいてルーズベルト大統領は、日系人11万人すべてを(キャンプ)強制収容所に入れる大統領令を発した。

一家は、まず二カ月間、競馬場の馬小屋で生活し、次に砂漠の収容所に入れられた。

弟のチャーリーは、不当な扱いに反発して、天皇原理主義的な立場から抵抗運動をはじめた。
そのために特別収容所に送られた。
そしてチャーリーは日本語もできないのに、日本の米人捕虜と交換のために捕虜の日本人として日本に送られた。

17才以上のものは合衆国に忠誠を誓って兵士になるか、特別収容所ゆきのどちらかだった。
兄のハリーは、日本との戦争に出兵した。
そして戦死した。

父は、収容所の日本人からFBIに仲間を売ったとまったく根拠のないうわさが流れたため、迫害され、部屋に閉じこもり、死んだも同然の生活をしていた。

そして最高裁が、日系人を強制収容所にいれた大統領令が違憲であると判断を下し、強制収容所から解放された時には父は亡くなっていた。

リリーは、母のいとこの農園で、夫のジャックを待った。


感想(1)

レンタルの使いふるしの払い下げのビデオ・テープだったので、雑音が多かった。
それでも、内容に引き付けられて最後まで見てしまった。
日系人が太平洋戦争中に収容されたことだけは知っていたが、その実態に対するイメージはなかった。
はじめて知る、その内容は驚きだった。

アメリカで人権感覚が一般化するのは1964年の公民権法を待たなくてはならない。
有色人種の日本人に対する差別は予想できたが、その内容を知ることができた。


感想(2)

この間、たくさんの映画(ビデオ)をみて、
①シナリオの面白さ(プレヤ)と深い喜び(シュレヤ)だけでなく、
②映像の美しさ、
③バック・音楽の美しさ
の音響効果の三つが、いい時に、いい作品になるなあと感じていた。
ところが、この映画は、
「④新しい知見を広げる」という評価の視点を広げてくれた。
まさしくこの映画は、わたしに新しい知見を広げてくれた。


感想(3)

日本の真珠湾攻撃による日米戦争の開始から、一般大衆の在米日本人への迫害がはじまった。
その世論を背景に日本人の強制収容所送りの大統領令がでた。

さまざまな形で民族紛争(エスニック紛争)が今日、世界各地で噴出している。
この解決は、日本に生活するマイノリティの人々に対する処遇をめぐる私たちの問題でもある。

この作品においては、日本人妻リリー川村を愛するアメリカ人(アイルランド人)青年を描くことによって、その愛に人種、民族の壁を破る力を表現し、どんな立場からも共感をもって見ることの映画に仕上げている。
人種や民族、国家の壁を打ち破る友愛の感情の発達とその広がりの中に私たちは展望を見出すことができる。

日系人の強制収容が不当だと考えるジャックのような人々が裁判に持ち込み、最高裁で、収容が不当だという判決を出させたとおもう。


感想(3)

日本語もできない日系二世のチャーリーが、天皇制ナショナリストに変貌する背景に、日系人に対する不当な処遇への反発がある。
私たちは作用・反作用を引き起こすような対応でなく、作用・反作用をいかに乗り越えていくかを考えなくてはならない。

ケン・ウィルバーの論によれば、このような迫害とそれに対するチャーリーのような反発は、社会中心思考にもとづく慣習的道徳段階の心のレベルにあることを示している。
乗り越える道は、自分たちがおかれた自他の状況と自分の心を、さらに心の奥底から見つめることにある。
そして心の中心点をさらに奥底にすすめて、世界中心思考に至り、民族や人種や国家を超えて、人類の同胞性を感じることができるようにならなくてはならない。

そのような文化レベルに導くことが、社会の教師たる映画人に求められている。

その意味で、この映画をつくったアラン・パーカー監督は非常にすぐれている。
『正しかろうと間違っていようと我が祖国』ではなく『我が祖国は本当に正しいのだろうか』と問う社会中心思考を乗り越えたメンタリティの持ち主である。

わたしがこれまでに見てきたアメリカ映画、とりわけ政府に批判的なアメリカ映画も、こと対外政策においては批判的言辞がでてくるものはいっさい無かった。
この映画だけが、主役のリリーに「広島原爆で20万人が一瞬のうち亡くなった」ことを嘆かせている。

その意味で、わたしはこの映画のメンタリティが、どのアメリカ映画よりも上にあると考える。


This video is story of man and woman who love mutually beyond nation frame in war.
Human beings is not essentially national presence.
To live with conscience of nation is to live life with false consciousness.
To live life with false consciousness cannot never get closer to true god.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

appeal of gods of star

all H.P. of project of Heaven and gods

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