The Story of Seabiscuit - Trailer (video inspired by god of star)
The Story of Seabiscuit『シービスケット』
見なくてはならないほどではないが、馬の走る映像が美しい。
後半、次第におもしろくなり、おもわず、シービスケットとジョッキーを応援してしまう気持ちになる。
あらすじ
シービスケットとは、競走馬の名前であり、優秀な血統なのに、食べて寝てばかりというグータラだった。
調教師がその性質を治すために左腹にきびしくムチをあてた。
そのために今度はコントロールできないほどの荒馬になった。
ついに持ち主は、最低の値段で売りにだした。
そのシービスケットを購入したのが、事業主のハワードのもとに働く馬の心を理解しているトム・スミスだった。
そしてシービスケットと同じように心が荒れていたジャッキーのレッドだった。
シービスケットと心を通わせたレッドは、トムの指導のもとに、小馬ながら各種の競馬会で優勝し、1930年代の大恐慌に苦しむアメリカの人々を励ました。
感想(1)天性の素質をいかに引き出すか
この作品の中にこめられている作者のメッセージの一つは、『天性にそった対応でこそ、その人や馬の才能を引き出すことができる』というものであった。
シービスケットの最初の調教は、「自分の走らせたいところまで走らせろ」だった。
無理なしごきの調教で心にゆがみが生じているシービスケットの心のゆがみをまっすぐに矯正するものだった。
強制ではなく矯正である。
シービスケットは、横に並んで走るやる気と競争心がでてくるという競走馬の心性をもっていた。
その心を理解し、ジャッキーが巧みにシービスケットのやる気を引き出していた。
リードしすぎて、つかれてしまって追いつかれないように、「一定のところまで抑えて、二番手と並べて走らせ、そこで手綱をゆるめて、一機に加速するのだ。
そうするともっている以上の力ができる。
心をやる気にするんだ」とジャッキーは言う。
馬の心にそった見事な手綱さばきだ。
感想(2)四者の心が暖かく一つになる・・・ホロン的考察
競走馬一頭が走るということは、四者がチームを組んでいる。
馬、ジョッキー、調教師、事業主だ。
一つ一つがホロン(部分/全体)であり、その馬のチームは一つの上位ホロンを構成する。
すなわち馬だけでは走れない、ジョッキーだけでは走れない、調教師だけでは走れない、事業主だけでは競馬はできない。
四つの要素それぞれが、各「自立した存在」(=全体)でありながら、競馬チームを構成する「部分」である。
自立した全体であること(エイジェンシー)を尊重すること、そしてお互いの適切なかかわり(コミュニオン)の両面が必要である。
調教師トムは、足が折れた競馬馬が役に立たないから射殺されようとした時に「弾丸の代金が損しないだろ」といって、足の折れた馬を世話していた。
馬のエイジェンシー(全体性=自律性)を徹底的に尊重する心を持っていた。
その姿勢が気に入って事業主のハワードは、トムを雇った。
そして、ジョッキーのレッドが事故で骨折し、二度と馬に乗れないと宣告された時に、トムはもうレッドは役立たないと言ったが、トムが骨折した馬も役立つと言ったのと同じように骨折した調教師のレッドを解雇することはなかった。
不況の中で少年時代に仕事のなかった親元を離れて、すさんだ心になっていたレッドは、馬のシービスケットと心の波長があった。
レッドが骨折した時、シービスケットも骨折し、ともに回復して、二度と走れないし、優勝も夢だった両者が、ぴったりと息をあわせて復活をとげた。
つまり馬、ジョッキー、調教師、事業主が、一つの個別ホロンとして互いを尊重しながら、競馬チーム、すなわち上位ホロンとして最大限のパワーを発揮したと言える。
ここには、上位ホロンとしての「わたしたち」が最大限に力を発揮するための教訓が隠されている。
この上位ホロンの責任者は、事業主のハワードである。
ハワードと他の部下の関係はヒエラルヒー関係ではなくホラーキー構造であった。
上位ホロンの果たすことは「場を設定することで導きを与える」のである。
たとえば、わたしたちの職場のホロン構造を考える際にも役立つであろう。
感想(3)しかし、ギャンブル経済の中に未来はない
ただし、私の考え方ではテーマに限界がある。まず、「競馬」というギャンブルについてである。
この映画では、馬とジョッキーと調教師と事業主に焦点をあて、彼らが馬の力を最大限引き出したことを見事に描いていることは称賛に値する。
とりわけ、馬の演技は見事であり、どうしてあのような撮影が可能になったのだろうかと思うほど、美しく巧みに描かれていた。
しかし、その活躍の場は、ギャンブルとしての競馬である。
ギャンブル経済こそ1929年恐慌を引き起こした原因であった。
映画の中では、恐慌を克服したのはTVAなどのダム建設でなく、小さな馬のシービスケットが奇跡的な勝利を繰り返していることが人々を励ましたからだとナレーションをしていた。
この映画の文脈の中で、このナレーションはまったく問題がないが、1980年代からレーガン以来の新自由主義的改革が世界的に進み、世界経済がギャンブル経済に陥り、民衆が深刻な経済状況に陥りつつある現在、決してギャンブル経済の中に未来はないことを認識しなくてはならない。
ここでは、この物語がいかに感動的でも、競馬的ギャンブル経済の中に私たちの未来はないことを指摘しておこう。
感想(4) 文化レベルとこの映画の位置
この映画は、今日のアメリカ文化の質とそれが内包する新しい質の萌芽をあらわしている。
ドン・ベックという学者が、左下象限として文化の発達レベルの指標を提示している。その指標によってこの映画のレベルを考えてみよう。
この映画の場面である競馬ギャンブルは、努力、成功、消費、地位に象徴される文化レベルの第五段階のオレンジである。
権威主義的で伝統と規律を重んじる第四段階のブルーは完全に超えている。
したがってオレンジ段階であるが、その中に、消費、努力、競争原理だけで解けない第六段階に通じるものが見え隠れしている。
たとえば、骨折した馬を殺さず世話する心、骨折したジョッキーを抱える心は、市場原理にはみあわない。
この競馬チームの集合的心の示すところは、第六段階、第七段階への萌芽である。
そしてこの次のレベルへの萌芽の側面に焦点をあてたところにこの映画のアメリカにおける進歩的意義がある。
多数のアメリカ人は、オレンジの第五段階のギャンブル資本経済に対応する文化にどっぷりそまっている。
そこに依拠しながら、一歩、心を拡張させ、進歩させてゆくところにこの映画の意義がある。
この映画のもとになっている小説は長年のベストセラーらしいが、その理由もここにあると考える。
ドン・ベック教授の文化発達レベルの指標を以下に紹介する。
最高の第8 段階を、ターコイズTurquoise( トルコ青)として、 集合的が個人確立、宇宙的アイデンティティをもつスピリチュアリティに至り、地球変革をめざす文化に達する。
次が第7段階で、イエロウ(黄)として、エコロジー、心の奥のセルフ、多様性を大切にする文化段階である。
第6段階はグリーン(緑)である。この段階はまだ人間中心主義で、人類の平等性の認識にまで至り、共有、思いやりを大切にし、コミュニティを大切にする。
第5段階は、オレンジである。努力を第一に重んじ、物質的で、消費主義で、成功や地位、成長を最重視する。
第4段階、 ブルー(青)である。絶対真理を掲げ、権威的であることに、その特徴があり、伝統と道徳性を説き、規律を重視する。
第3段階は、レッド(赤)である。自我中心的で、虚栄、征服、行動、衝動に特徴がある。
第2段階は、パープル(紫)で、血縁集団を重視、アニミステイク で、儀式、作法を重んじ、タブー、迷信を信じる段階である。
第1段階は、ベージュであり、生存と本能を重視する。
本能的で、食べ物、水、生殖、保温、保護などの文化的特徴があり、生き抜くことが課題の段階の文化である。
すべての文化は、玉ねぎのように層になっており、より低位の古い層の上に新しい層が生じてくる形で進む。それぞれの層には対応する経済レベルがある。
ドン・ベック教授は,第七段階、第八段階に自分の心をおいて、それぞれの文化の中に、次の段階に進む萌芽を見いだし、それを激励しようという立場である。
(このような左下象限の文化(間主観的領域)の発達が、右下象限の社会経済的発達に対応して展開してきたことは事実であると考える。
そしてこの文化レベルの提起は、わたしたちがどのような方向に文化を発達させてゆけばいいのかを示してくれる。
この表の進歩の方向は、心の領域の拡張である。
アブラハミアン氏は、ケン・ウィルバーが「100%間違った人はいない」と言ったことに感銘した。
文化による導きが、誰一人も排除しないと言う心に向かわせるものでなくてはならない。
文化の創造者が、より進化した徹底した抱擁の精神の持ち主に発達してゆくが求められること、これが、文化レベルを設定する意味である)
This video is story of relationship of horse and human.
Mind of horse is ectoplasm of god of star.
In this point mind of horse is same to human being.
I consciousness of horse is as long as one life, but I consciousness of human being is born repeatedly from ectoplasm of god of star.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)後半、次第におもしろくなり、おもわず、シービスケットとジョッキーを応援してしまう気持ちになる。
あらすじ
シービスケットとは、競走馬の名前であり、優秀な血統なのに、食べて寝てばかりというグータラだった。
調教師がその性質を治すために左腹にきびしくムチをあてた。
そのために今度はコントロールできないほどの荒馬になった。
ついに持ち主は、最低の値段で売りにだした。
そのシービスケットを購入したのが、事業主のハワードのもとに働く馬の心を理解しているトム・スミスだった。
そしてシービスケットと同じように心が荒れていたジャッキーのレッドだった。
シービスケットと心を通わせたレッドは、トムの指導のもとに、小馬ながら各種の競馬会で優勝し、1930年代の大恐慌に苦しむアメリカの人々を励ました。
感想(1)天性の素質をいかに引き出すか
この作品の中にこめられている作者のメッセージの一つは、『天性にそった対応でこそ、その人や馬の才能を引き出すことができる』というものであった。
シービスケットの最初の調教は、「自分の走らせたいところまで走らせろ」だった。
無理なしごきの調教で心にゆがみが生じているシービスケットの心のゆがみをまっすぐに矯正するものだった。
強制ではなく矯正である。
シービスケットは、横に並んで走るやる気と競争心がでてくるという競走馬の心性をもっていた。
その心を理解し、ジャッキーが巧みにシービスケットのやる気を引き出していた。
リードしすぎて、つかれてしまって追いつかれないように、「一定のところまで抑えて、二番手と並べて走らせ、そこで手綱をゆるめて、一機に加速するのだ。
そうするともっている以上の力ができる。
心をやる気にするんだ」とジャッキーは言う。
馬の心にそった見事な手綱さばきだ。
感想(2)四者の心が暖かく一つになる・・・ホロン的考察
競走馬一頭が走るということは、四者がチームを組んでいる。
馬、ジョッキー、調教師、事業主だ。
一つ一つがホロン(部分/全体)であり、その馬のチームは一つの上位ホロンを構成する。
すなわち馬だけでは走れない、ジョッキーだけでは走れない、調教師だけでは走れない、事業主だけでは競馬はできない。
四つの要素それぞれが、各「自立した存在」(=全体)でありながら、競馬チームを構成する「部分」である。
自立した全体であること(エイジェンシー)を尊重すること、そしてお互いの適切なかかわり(コミュニオン)の両面が必要である。
調教師トムは、足が折れた競馬馬が役に立たないから射殺されようとした時に「弾丸の代金が損しないだろ」といって、足の折れた馬を世話していた。
馬のエイジェンシー(全体性=自律性)を徹底的に尊重する心を持っていた。
その姿勢が気に入って事業主のハワードは、トムを雇った。
そして、ジョッキーのレッドが事故で骨折し、二度と馬に乗れないと宣告された時に、トムはもうレッドは役立たないと言ったが、トムが骨折した馬も役立つと言ったのと同じように骨折した調教師のレッドを解雇することはなかった。
不況の中で少年時代に仕事のなかった親元を離れて、すさんだ心になっていたレッドは、馬のシービスケットと心の波長があった。
レッドが骨折した時、シービスケットも骨折し、ともに回復して、二度と走れないし、優勝も夢だった両者が、ぴったりと息をあわせて復活をとげた。
つまり馬、ジョッキー、調教師、事業主が、一つの個別ホロンとして互いを尊重しながら、競馬チーム、すなわち上位ホロンとして最大限のパワーを発揮したと言える。
ここには、上位ホロンとしての「わたしたち」が最大限に力を発揮するための教訓が隠されている。
この上位ホロンの責任者は、事業主のハワードである。
ハワードと他の部下の関係はヒエラルヒー関係ではなくホラーキー構造であった。
上位ホロンの果たすことは「場を設定することで導きを与える」のである。
たとえば、わたしたちの職場のホロン構造を考える際にも役立つであろう。
感想(3)しかし、ギャンブル経済の中に未来はない
ただし、私の考え方ではテーマに限界がある。まず、「競馬」というギャンブルについてである。
この映画では、馬とジョッキーと調教師と事業主に焦点をあて、彼らが馬の力を最大限引き出したことを見事に描いていることは称賛に値する。
とりわけ、馬の演技は見事であり、どうしてあのような撮影が可能になったのだろうかと思うほど、美しく巧みに描かれていた。
しかし、その活躍の場は、ギャンブルとしての競馬である。
ギャンブル経済こそ1929年恐慌を引き起こした原因であった。
映画の中では、恐慌を克服したのはTVAなどのダム建設でなく、小さな馬のシービスケットが奇跡的な勝利を繰り返していることが人々を励ましたからだとナレーションをしていた。
この映画の文脈の中で、このナレーションはまったく問題がないが、1980年代からレーガン以来の新自由主義的改革が世界的に進み、世界経済がギャンブル経済に陥り、民衆が深刻な経済状況に陥りつつある現在、決してギャンブル経済の中に未来はないことを認識しなくてはならない。
ここでは、この物語がいかに感動的でも、競馬的ギャンブル経済の中に私たちの未来はないことを指摘しておこう。
感想(4) 文化レベルとこの映画の位置
この映画は、今日のアメリカ文化の質とそれが内包する新しい質の萌芽をあらわしている。
ドン・ベックという学者が、左下象限として文化の発達レベルの指標を提示している。その指標によってこの映画のレベルを考えてみよう。
この映画の場面である競馬ギャンブルは、努力、成功、消費、地位に象徴される文化レベルの第五段階のオレンジである。
権威主義的で伝統と規律を重んじる第四段階のブルーは完全に超えている。
したがってオレンジ段階であるが、その中に、消費、努力、競争原理だけで解けない第六段階に通じるものが見え隠れしている。
たとえば、骨折した馬を殺さず世話する心、骨折したジョッキーを抱える心は、市場原理にはみあわない。
この競馬チームの集合的心の示すところは、第六段階、第七段階への萌芽である。
そしてこの次のレベルへの萌芽の側面に焦点をあてたところにこの映画のアメリカにおける進歩的意義がある。
多数のアメリカ人は、オレンジの第五段階のギャンブル資本経済に対応する文化にどっぷりそまっている。
そこに依拠しながら、一歩、心を拡張させ、進歩させてゆくところにこの映画の意義がある。
この映画のもとになっている小説は長年のベストセラーらしいが、その理由もここにあると考える。
ドン・ベック教授の文化発達レベルの指標を以下に紹介する。
最高の第8 段階を、ターコイズTurquoise( トルコ青)として、 集合的が個人確立、宇宙的アイデンティティをもつスピリチュアリティに至り、地球変革をめざす文化に達する。
次が第7段階で、イエロウ(黄)として、エコロジー、心の奥のセルフ、多様性を大切にする文化段階である。
第6段階はグリーン(緑)である。この段階はまだ人間中心主義で、人類の平等性の認識にまで至り、共有、思いやりを大切にし、コミュニティを大切にする。
第5段階は、オレンジである。努力を第一に重んじ、物質的で、消費主義で、成功や地位、成長を最重視する。
第4段階、 ブルー(青)である。絶対真理を掲げ、権威的であることに、その特徴があり、伝統と道徳性を説き、規律を重視する。
第3段階は、レッド(赤)である。自我中心的で、虚栄、征服、行動、衝動に特徴がある。
第2段階は、パープル(紫)で、血縁集団を重視、アニミステイク で、儀式、作法を重んじ、タブー、迷信を信じる段階である。
第1段階は、ベージュであり、生存と本能を重視する。
本能的で、食べ物、水、生殖、保温、保護などの文化的特徴があり、生き抜くことが課題の段階の文化である。
すべての文化は、玉ねぎのように層になっており、より低位の古い層の上に新しい層が生じてくる形で進む。それぞれの層には対応する経済レベルがある。
ドン・ベック教授は,第七段階、第八段階に自分の心をおいて、それぞれの文化の中に、次の段階に進む萌芽を見いだし、それを激励しようという立場である。
(このような左下象限の文化(間主観的領域)の発達が、右下象限の社会経済的発達に対応して展開してきたことは事実であると考える。
そしてこの文化レベルの提起は、わたしたちがどのような方向に文化を発達させてゆけばいいのかを示してくれる。
この表の進歩の方向は、心の領域の拡張である。
アブラハミアン氏は、ケン・ウィルバーが「100%間違った人はいない」と言ったことに感銘した。
文化による導きが、誰一人も排除しないと言う心に向かわせるものでなくてはならない。
文化の創造者が、より進化した徹底した抱擁の精神の持ち主に発達してゆくが求められること、これが、文化レベルを設定する意味である)
This video is story of relationship of horse and human.
Mind of horse is ectoplasm of god of star.
In this point mind of horse is same to human being.
I consciousness of horse is as long as one life, but I consciousness of human being is born repeatedly from ectoplasm of god of star.
appeal of gods of star
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