Cinema Paradiso (1988) - Official Trailer  (video inspired by god of star)



Nuovo Cinema Paradiso『ニュー・シネマ・パラダイス』

最初は、もう一つかなとおもって見はじめたのですが、主人公が青年になって恋するあたりからおもしろくなって、最後は心が暖かくなっておわった映画で、いちばん、気にいった映画の一つとなりました。
いい作品の紹介ありがとうございました。

イタリア映画は、学生時代に映画館でみた『わが青春のフロレンスMetlello』、最近みた「Nino Rota 道」  「I Girasoli (ひまわり/Sunflower)」、そして今回の「ニュー・シネマ・パラダイス」で四本目です。
いずれも気に入りましたから、私はイタリア映画と相性がいいのかもしれません。
アメリカ映画よりも引き付けられるものがあります。


あらすじ

イタリアのいちばん南にあるシチリア島という田舎、(厳密にはシチリア人はイタリア人といいがたいところがありますが)の映画館で、無声映画の時代から映写の仕事をしていたアレスティーという年配の撮影技師(といっても無学で小学校の学力がない)と子どものサルヴァティーノ(トト)とのかかわりとその中で成長してゆくサルヴァティーノの話だった。
舞台は「シネマ・パライダイス」という映画館だが、火事になり、『ニュー・シネマ・パラダイス』として再建され、火事でアレスティーが、目が見えなくなったので、彼を助けだしたサルヴァティーノが引き継いで映画の撮影をする。
高校生になり、青い目のお金持ちの子の美少女に恋をし、恋愛する。
途中で彼女と関係がとだえた。
たぶん、親のいいつけで、別の金持ちと結婚したのだろう。
トトは彼女を失う。
ローマにでても、たぶん、彼女の幻影をもとめて、相手の女性をどんどんかえている。
しかし、ローマにでて37年、アレスティーの葬式にシチリア島の村にもどる。
『ニュー・シネマ・パライダイス』は、テレビ、ビデオの発達で、客がこなくなり、とりこわされ、駐車場にかわる。
島の人々のパラダイスだった映画館は、その生涯を終えた。


感想

1) 最後のあたりから、哲学的になってきた。
アレスティーは、サルヴァティーノにローマにいったら、絶対に村にもどってくるな。
その言いつけをまもって母親にもあわず37年間もどらなかった。
なぜ、アレスティーはもどるなといったのだろうか。
映画の中に解答はなかった。
無学のサルヴァティーノが最後の方でやたら、なぞめいた人生哲学的なことをしゃべっていた。
解答を与えないところに深みがある。
イタリア映画の特徴なのだろうか。
「道」や「ひまわり」でもそんな感じがした。

2) 甘く哀愁を帯びた切なさが漂う。
「道」「ひまわり」もそうかんじた。

3) 恋する彼女がやってきた時、彼女をすぐ抱きしめしていた。
イタリア人はあけっぴろげで開放的である。
「冬のソナタ」とま反対であるが、まったくいやらしく感じないのは、それまでのシーンで、毎日、彼女の家の前で自分をおもってくれまで、待つといういじらしいシーンがつづいた後ということがあるとおもう。

4) それとあわせて、この映画は、アレスティーが映画館の責任者に指示されて、性的な場面のフィルムをカットするところからはじまり、最後に大人になったサルヴァティーノがその性的な場面ばかりをつなぎあわせたフィルムを見るところで映画は終わった。
サルカールは文学も論じています。
私も妥当な考えだとおもいます。

「「詩、小説、映画、演劇などの領域で、現代の芸術家たちの一群が、人々の粗野な肉欲をあおりたてることに彼らの芸術的才能のすべてを使っていることは、非常に残念なことです。
私は、保守主義を容認するものではありませんが、そのような芸術家は社会を汚していると考えます」

しかし、同時にサーカーは現代文学が安っぽいエロチックな愛ばかりを描いているという批判に同調しません。

「多くの人々が、大部分の現代文学は安っぽいエロチックな愛のささやきにのみ満ちているだけだと不平を言います。
しかし、私はその不満に同意できません」

それは、文学が、人生の悲しみ、喜び、希望、願望、衝動を描くことを使命としている以上、肉体的な愛をも描かざるをえないからです。
哲学的な意味での真実の愛、超越的な愛だけを伝えようとしても一般の人々の心には伝わらないからです。
芸術表現において無限の愛に向かう流れの中で肉体的な愛まで含めて描くことをサーカーは肯定します。

「 まったくの肉体的な愛は、哲学の見地からはまったく愛ではありません。
 しかし、芸術家は、人生の幸せや悲しみを描写することが使命であり、人間の悲しみや痛み、希望や願望の衝動に表現形式を与えることを誓わされた存在であり、どうしてこの肉体的愛を否定できるでしょうか」

5) もう一つ感想としては、大人になった人間でないとこの映画の良さはわからないだろうけど、そうした人々の心の質をアップさせる教育的価値があるとおもいます。どういうことかというと

[状態と構造の違いについて]

心の質の発達に、ケン・ウィルバーは、「状態」と「構造」という言葉をつかいます。
一時的によい作品をなどに接して、「暖かい心」の状態になります。
これは「状態」です。
一時的なものです。
「構造」とは、その「暖かい心」が半永久的に持続することをいいます。
構造はその心の基本的ありようで、状態は一時的です。
それは区別する必要があります。
たとえは、怒らない穏やかな子が一時的に怒った場合は、「状態」です。
たえず、怒った状態になったら「構造」です。
すなわちその子の本質になっているのです。
心は低下してしまいます。
心の成長はより高次の状態を経験し、それが心地よい状態であることを知ります。
たとえば、いい作品や音楽に接したりして、暖かい心の状態を一時的につくります。
それは一時的ですが、恒常的な心の構造となった時に、本質的に前進しています。
もちろん一時的に後退することもあるでしょうが、心の基本構造がアップしているのです。
常にそうした心の状態の中に生きてゆきたい、すなわち心の基本構造をアップさせたいという願いが生じた時、それがスピリチュアルな願いです。
次はどのようにその願いを実現するかということになります。
その実現方法を、サルカールはサーダナー(スピリチュアル・プラクティス)といいます。
たとえば、私は美しい暖かい音楽を聞きつづけています。
いやなことがあっても、心の暖かい基本構造を維持できます。
これは美しく暖かい音楽なので聞きつづけたら、暖かい心を維持できますよという音楽を知っておられたらおしえてください。

ということで、この映画は、心を美しく暖かい心の状態にアップさせる力があるということです。
ほのぼのとしたところがあるとおっしゃったのはこういうことだとおもうのです。
こうした作品は、頭の健康にもいいので、また、あったら、ぜひ、教えてください。


This video is life of cinema.
Cinema also has birth and death like human.
It is not forever.
Existence of cinema is born at certain stage of human society and disappears at certain stage.
All existence of universe is generation in certain stage, deployment and collapse by change for higher order of existence.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

appeal of gods of star

all H.P. of project of Heaven and gods

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