A River Runs Through It Trailer (video inspired by god of star)



A River Runs Through It『リバー・ランズ・スルー・イット』

その名前のとおりの作品だった。
イットって何をさしているだろうか。
頭の休まる作品で、雄大な自然は、きっと映画館でみたら満喫できただろうとおもいます。

あらすじ

アメリカ東部のモンタナ州の大自然が背景である。
シカゴ大学の老文学教授の思い出を描いた映画。
そのリアリティから本当の思い出を題材にしたものかもしれない。
1920年代に青春をすごしたノーマンとポールの兄弟の話。
スコットランドから移民した地域のプロタスタントの長老派の教会の牧師の家に生まれた。
宗教的に敬虔な家庭に育つが、弟の方は向こう見ずなところがあり、危険な急流のボート川下りを提案したりした。
新聞社で働くようになってから、ポールはロロという賭博場にでいりするようになった。
インディアンの恋人ができて、彼女をわるくいうロロの連中と暴力沙汰になり、なんども留置場にいれられる。
そして最後に腕をへしおられて死んでしまった。

ポールは、つりの腕がみごとだった。
そして死んだ後、父は、彼は美しかった(美男子)だったといった。
ポールは、ブラッド・ピットという「タイタニック」で主演した役者が演じた。


感想

1) わたしは世界史専門ですが、かなり前から世界史を教えておらず、忘れていましが、長老派は、スコットランドで勢力をもっていました。
映画では、スコットランド人の服装とおもえるものがでてきました。
「アメリカには1640年代に、イギリス人の移住者によってつたえられ、のちにスコットランド人や北アイルランド人によって多くの教会が設立された。
長老派はアメリカでもっとも有力なプロテスタント教会のひとつとなり、政治的にも影響力のある人物を多数だした」エンカル百科事典から

2) そして調べてみると長老派はプロテスタントの、とくにカルヴィン派でした。
カルビン派は、この世の富と繁栄は神の祝福であり、勤労と富の蓄積を神の栄光を讃える行為として肯定し、禁欲的によく働き、富の蓄積を促進した資本主義の形成に内面的に大きな役割を果たした教義とされて有名です。
(カトリックは金儲けを賤しいものとしたためにヨーロッパではユダヤ人が金貸しとかをになうことになりました。
アメリカ南部が奴隷制であるのは、アイルランドのカトリックの移住者が多いこと、カトリックの植民地であったラテン・アメリカが大地主制の奴隷制に近いものであったことは、わたしはカトリック教義と関連があるとおもっています。 それにたいして、アメリカの北部は、カルヴィン派が移住したために自ら働いて富を蓄積に豊かな社会を築いたのです。
アメリカ南部より南はカトリックであるために、自ら働かず、他人に働かせて、他人を搾取(利用)したのです。
その意味では、カトリックよりカルヴィンのプロテスタントの方が世界史的には進歩的な役割を演じました。

3) 雄大な自然を流れる川の中でのにじますつりが全体を流れる中心にあった。
この兄弟の年は、明治の生まれのわたしの父親と同じ世代だとおもった。
1920年代が青年期であるからまさしくわたしの父と同じ世代だった。
それにしても、その時代としてはその生活水準の高さにはおどろいた。
そしてつりの道具が、今はやりのリール巻であった。
雄大ではないが、わたしの少年時代には山の間を流れる川があり、はややふなをつった。
竹やぶで竹をきってさおにして、それに釣り糸をかってきて、針とうきをつけ、みみずをつけて、つった。
今も、そんな形でつりをしたいのに、今どき、たけざおでつったら、恥ずかしいような気がする時代になった。
ああ、ああいうふうにつるのにリールが必要なんだなとおもう。
日本でつりをするのにリールのついたさおなんかいらないのにとおもった。

4) わたしが魚つりをして、魚をもってかえったある日、明治生まれの父はいった。
「無益な殺生はするな」つまり、食べ物しないのに遊びで生き物を殺すなということだった。
「一寸の虫にも五分の魂」とは早くから父からきいてしっていた言葉だった。
サルカールは、一本の木の枝だって生きたいのですとネオ・ヒューマニズムの中であらゆるものへの愛をとく。
最近、その考えを知るようになってから、わたしは、魚つりをして魚をあそびで殺してしまうことにたいして注意した父の教えをみなおすようになった。
その時は、あほくさい考えだとおもっていた。
となりのおとうさんはよく魚つりをしていたのにとおもった。
(魚をたべたりしていいが、必要ないのには、魚、虫であれ、なるべく殺さないという考えはたぶん父が信じていた鎌倉時代の親鸞からきているとおもう)

5) 今、このネオ・ヒューマニズムの考えからみる時、この長老派教会の牧師一家は、にじますつりを遊びで(映画では弟は芸術の域まで達したことになっていたが)やっていた。
インディアンにとって貴重だったバッファローも、プロテスタントの開拓者の狩猟ゲームで絶滅寸前にまでなった。
インディアンはああいうふうににじますをつることはなかったろう。
食べるためにつかまえただろう。
わたしたちは、西洋からはじまった近代文明は、まさしく近代文明がプロテスタントのこの人々によって担うわれてきた。
この人々は豊かな物質文明を促進することに役だってきた。
しかし、スピリチュアルな深みを人生の目標にするところからはほどとおい地点に人類をみちびいてきた。
そしてすべての生命の尊重という心は育てなかった。
わたしたちは、可能なかぎりすべての生命を尊重し、必要ないのには無益に殺さないというネオ・ヒューマニズムの精神を受け継いで、新しい文明を切り開く必要があります。

6) またポールの恋人はインディアン女性であったが、彼ら先住民の排除を、プロテスタントの教義は止める力をもたなかった。
宗教的ドグマは、他の信念の人々に寛容ではない。
死んだポールだけは、そのドグマからはずれていて、インディアンの女性を愛し、戒律に反して、賭博に出入りしていた。
サルカールは、宗教的ドグマすなわち宗教の教義が、人間集団と人間集団の間に壁をつくるとして宗教的ドグマに反対します。
映画の主題とは無縁だけれども、ポールがインディアンの女性を愛したことは、宗教ドグマの限界を超える萌芽として評価できるとおもいます。
(主人公ノーマンの恋人の家庭はプロテスタントの別の宗派で、ノーマンが彼女の家におとずれた時、彼女のおかあさんから宗派の違いを論じ、「でもかわまわないわ」というセリフもでてきた。
こうした宗教ドグマによる壁は、わたしたちの社会にもあり、今日の世界では、発達した形でいろんな問題をひきおこしています)。

7) しかし、この映画は、たまたま家庭が牧師だったということで、宗教は後景にあり、二人の兄弟の成長と雄大な自然と川の流れ、にじます釣りが前面にあり、さわやかな共感の中でみることができました。


補足1)宗教とスピリチュアリティの違いについて

宗教は、動かせないドグマとしての教義があります。
そして神を拝みます。
スピリチュアリティは、神をおがみません。
ドグマとしての動かせない教義をもちません。
すべての存在の内側に大きなひとつのこころがあり、存在するものはその心の表現です。
人間の心がいちばん高度に発達し、心の奥が大きなひとつの心とつながっています。
その大きなひとつの心にちかづき、ひとつの大きな心の地点まで達する努力がスピリチュアリティです。
それは身体的バランスの向上、心のバランスの向上の上に、スピリチュアルなプラクティスによって達します。
スピリチュアルなプラクリティスには社会と自然を含めた万物への無私の奉仕も含まれます。

(この奉仕精神は、物的なあるいは出世による地位や名誉のような見返りをもとめません。
心はもとめる対象の形をとりますから、そのような世俗的な物的な報酬をもとめるように仕向けるならば、心は次第に堕落してゆきます。
教育実践において、たとえば、こんど何点とったらほうびあげるというような導きは、その子の質を低下させる根本的にまちがったアプローチです。

残念ながら、今、教育行政がすすめている「評価育成システム」と称して、管理職に教員の点数をつけさせるとか、そのうち導入をしようとしている給与に差をつけるとか、あるいは、上からの方針に迎合する動きをすることを、出世をえさにして教員を操作するとか、いろいろやられようとしていることは、物的な報酬や名誉をエサにしたもので、万物への普遍的奉仕精神を向上させるというスピリチュアリティにまったく逆行したものです。
教員の内面世界の低下しか導きません。
心は念じるものにちかづきます。
導く方向性がまったくまちがっており、きわめて残念なことです)

補足2)魚の命の尊重の意味

ケン・ウィルバーによれば、環境保護運動の理論は、その志を評価しつつ、理論的に弱点があるとします。
それは、人間を生態系の一員、生物界の一員とすることです。
それはその異に反して人間を一段低いホロンレベルにおとしめる議論だというのです。
大きくホロン構造をみるならば、物質圏、生物圏、心圏(人間圏)、(⇒神圏)となります。
このホラーキー構造の中で、物質圏を消すとすべてはきえます。
生物圏を消すと心圏は消えます。
生物圏を破壊すると人間界は存在できないのです。
逆に人間圏を消しても、生物圏、物質圏は存在できます。
その意味で、ウィルバーの理論体系では、人間を生物圏のホロンという一段低いレベルにおとしめることなく、環境保持の重要性を把握できるすぐれたものになっています。

しかし、ケン・ウィルバーの理論でも、人間は生物圏のバランスがくずれない範囲で、いくら魚をとっても、牛を殺して食ってもかまわないということになります。
サルカールのネオ・ヒューマニズムでは、魚も牛も豚も、そして木の一本の枝だって生きたいのだ、可能なかぎり彼らの存在する権利を尊重しようということになります。
わたしたちが生きるために食料としてどうしても必要な場合は「いただきます」といって感謝の気持ちをもって食べます。
これがスピリチュアリティです。

実は、ケン・ウィルバーのエロス・アガペー論は、その弱点、すなわち生物圏のバランスがくずれなければ、いくら魚や牛もくじらもとって食ってもいいという考えを克服できます。
アガペーとはホロン構造の上位にあるものの下位の存在への愛です。
エロスとはアガペー(下位への愛=慈悲)をもつ、上位ホロンに達しようとする衝動です。
すなわちより進化・発達した存在になりたいという気持ちです。

わたしたちは、実はずっと以前、海の中の魚でした。
わたしたちは魚を「含んで超えた」存在です。
つまり魚への愛は、アガペー(慈悲)です。
そこから、わたしたちは、無駄に魚を殺さず、かつ、わたしたちの命の維持のために食べる場合は、魚の命に対する感謝の気持ちがわきます。

サルカールのネオ・ヒューマニズム論は、ケン・ウィルバーのホロンとエロス・アガペー論をあわせて考える時、理論的なものとして人々に提起できるものになります。


This video intended to show lifelong human development.
Human beings continue to build up higher order ectoplasm structure in extended field of human relations which extending relation over lifetime.
High order ectoplasm structure is built up when human relation extend more than frame of relation of human beings.
This video draw that hero continue to grow getting higher order ectoplasm structure by extending field of human relations that extend beyond boundary of traditional human relations which have Indian lover.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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