Little Buddha - Movie Trailer (video inspired by god of star)



『リトル・ブッダ』Little Buddha

Dear
I am cosmic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce impression statement of movie video which Mitsuki watched when cerebellar infarction by being attacked by super negative god.


なんとブッダ役は、「マトリックス」の主演のキヤーヌ・リーブズという俳優でした。

あらすじ

チベットからブータンに亡命している僧侶たちが、亡くなったスピリチュアティの指導者ドルジェ老師の生まれ変わりの子をさがしている。
アメリカに生まれたとする情報から、ドルジェ老師の弟子だったノルプル老師は、アメリカにゆく。
そしてドルジェ老師の生まれ変わりとおもわれるジェシーとその両親にあう。

父とジェシーは、本当に生まれ変わりなのか確かめるためにネパールのカトマンズに旅行する。
ジェシー以外にも二人、ドルジェ神父の生まれ変わりとおもわれる子があらわれた。
ドルジェ神父の生まれ変わりの子を確認した後、ノルプル老師は、長い瞑想に入り、そのまま死んでゆく。

このアメリカ人少年ジェシーのことに平行して、2500年前のブッダの伝説が、美しい映像で挿入されている。
この映画は、「生まれ変わり=輪廻」がメインテーマだが、観客は、自然にブッダがテーマとした問題を知ってゆく展開となっている。

感想(1)「人はパンのみにて生きるにあらず」

興味深いのは、ブッダ伝説の中で、後のブッダであるシッダルタ王子が、何不自由なく物質的に満たされているのに、その心は満たされていなかったことです。
城の外に出た時、シワだらけの老人をはじめてみます。
ひどい病人をはじめてみます。
死んだ人をはじめてみます。
そして自分も含めて誰もが、これらの「苦痛=苦悩suffering」に向かいあわなくてはならないことを知ります。
このすべての人の「苦しみ」からの解放の道を探りたいとおもい、ブッダは出家します。

ここまでのストーリーの中に仏教の本質があります。
「人はパンのみにて生きるにあらず」です。
人間は、物質的に何不自由のない生活であっても満足できないのです。
あるいは、世俗世界の王として人々の支配者になる未来もシッダルタ王子を満足させませんでした。
それ以上に意味のある生活を送りたいともともとスピリチュアリティの高いシッダルタ王子は城をでてゆきます。
父、妻、子とともに王子として王の後をつぐという世俗の生活を捨てます。
すなわち、世俗世界、この物的世界から離れたところに仏教はスピリチュアルな救済をもとめます。

サルカールは、この世俗世界、物的世界を土台として、その上に知的心理的世界、スピリチュアルな世界を打ち立ててゆく方向をめざします。
したがって、サルカールにとっては、この物的世界のバランスの確立は高いスピリチュアルな達成のための前提となります。

ブッダのはじめた仏教においては、物的領域、すなわち社会経済的領域の矛盾は視界からドロップします。

サルカールは、最低限の衣食住が確保され、心配する必要のない経済制度をブッダが説かなかったことが仏教の欠陥だったといいます。
最低限の衣食住と医療と教育が保障される社会を土台として、その上に知的心理的領域、スピリチュアルな領域が高くそびえ立つことができるのです。
個人としてもバランスのとれた身体、バランスのとれた心の実現の上に、高いスピリチュアリティを実現してゆくことができます。
「人はパンのみにて生きるにあらず」は、「パン」が保障された時、言える言葉であって、お腹がすいて、パンという物質的なものを念じざるをえないとき、修行しながら心はパンとなり、心は物質化し、低下してゆきます。

感想(2)「中道」

ブッダが6年間の修業の果に悟りを開くシーンがあります。
川の船の中から楽器の弦についての話が聞こえてきます。
「弦は、強く張りすぎたら切れる、ゆるすぎたら音がでない。その加減が大切だ」
という話です。
ブッダは、きびしい禁欲的生活が、弦の張りすぎだと気がつきます。
そして「中道」の道を覚ります。

最近の免疫システムについて実証研究をした新潟大学の安保徹氏の「免疫革命」という本によれば、いつも緊張した生活をつづけると、すなわち弦が張りすぎると、顆粒球過剰となり、ガンになりやすい体質になる。
逆に、いつもリラックスとして弦をゆるめすぎた生活をしていると、リンパ球が増えすぎ、アレルギー体質になるのだそうです。
弦のたとえは、緊張とリラックスのとれた生活によるバランスのとれた身体の確立がスピリチュアリティの向上の前提となることを教えています。

しかし、「中道」論についてはサルカールの説明は、いちばん説得力がありました。
中道とは、より深い存在の層に進んでゆく道をあらわしています。
私なりに説明しますとこうです。
未発達な動物の分泌線は、恐怖や怒りを伝達するホルモンを分泌します。
食べて満足した信号を伝達するホルモンがあります。
次第に発達して、たとえば牛などの段階になると、子どもを失うと悲しそうになきます。
愛情や悲しみを伝達するホルモンなど内分泌構造が発達しています。
人間になるといっそう多様な内分泌線が発達し、すべてのものに深い愛情を感じることが可能な身体構造に近づいています。

食欲や性欲などの物的快楽、世俗世界での名声、支配欲、これらを実現する「喜び=プレヤ」それらをめぐる争いによる怒り
これらを人生の主たる目標として追求している人間は、動物界の存在領域に生きています。
なぜなら、動物レベルの内分泌構造を使用し、人間構造として発達した内分泌腺を十全に活用していないからです。

サルカールやウィルバーは、この宇宙で最高に進化した最高の存在としてのあり方を人生の中で実現せよといいます。
この存在領域の深みに達してゆく一歩一歩が、サルカールによれば「中道」の道なのです。

なお、人間構造としてそなわった内分泌構造をフルに活用するように調整するストレッチが、サルカールの教えるヨーガ体操なのです。

ちなみに妻と夫婦ゲンカをした時に、サルカールの「中道」論の正しいことを感じました。
妻に最初、ふつうに意見を言っていたのですが、次第に以前に対立してケンカした時が、頭によみがえり、その続きのようになってしまったのです。
(すなわち怒りのホルモンが分泌されてしまって)妻の方もそのモードに入ります。

つまり、この場合は一時的に動物的存在領域に後退しているのです。
私たちが動物性に後退するのか、この宇宙の最高の存在としての高みにのぼってゆくのかが問われています。
人間としての深い存在領域に心をおき、さらに深い領域へと一歩一歩進み、深い領域に心を構造的に確立しなくてはならないなあとおもいます。

感想(3)この映画のテーマは輪廻(reincarnation)

小学校の三年ころ、自分の家においてあった西本願寺発行の「大乗」という冊子を読んでいたら、「法然証人は、人間に生まれる前に、鳥の鷺(さぎ)だった」という文章がありました。
なんでそんなことがわかるのだろうとその時におもいました。
次第に科学的な考えを身につけて、そうした考えを受け入れなくなりました。
さらに、現世での社会的困難や苦痛まで、前世の因縁にして、そのお払いをして金をとるような人がいることを知ったあたりからは、輪廻という思想を、ほか人々を「搾取(利用)」するための思想として、毛嫌いするようになりました。

ところが、資本主義を乗り越える革命的な思想を説くサルカールも、輪廻論を語っていました。
拒否反応をもちながら、それを読んでいました。

「前世療法」という本を読んでみました。
なんとまったく輪廻を信じていない近代科学を奉じていた精神科医が、前世の存在を肯定しなければ、説明のつかないことに多々ぶつかったことが書かれていました。

ある日、黙想していたら、突然、私がこの世に生まれて、最初に意識をもった日のことを思い出しましまた。
「あれ、手足が自由に動かない。どうしてだ。そうだ、おれは赤ちゃんとして生まれたんだ。
もう少し待たないといけない」と思ったことを思い出したのです。
なぜ、生まれた赤ん坊が、手足が自由に動かないとおもったのでしょうか。
手足が自由に動いた日があったとしか考えられません。

サルカールは、この全宇宙が、Consiousness意識というひとつの材料からなっていると考えます。
それにエネルギーが加わって多様に展開しているのです。
銀河系、太陽系、地球系がまわっているように、原子がまわり、素粒子がまわります。
究極的には回転するエネルギーの場があります。
エネルギーの回転する中心が意識であり、万物は意識+エネルギーです。
簡単にいうと心の中の「私」の中心は、全宇宙の無数の数の意識のひとつです。
「私」の中心(アートマンといいますが)は、ほこりの粒の姿をとり、順次、多様な生物の姿をとり、いま、人間の姿をとって私たちがいます。


サルカールはこういいます。長いですが、おもしろいので紹介します。

「死と不死(Mortality and immortality)  
 中心核Nucleusのまわりをまわるこの運動は、三つの相対性の要素の内部にあります。
この三つの要素とは、時、場所、人の要素です。
時の制約、場の制約、人の制約のもとにあります。
ジーヴァ(Jiivas)はこの三つの相対性の要素の領域にあります。
そして、この運動は、当然、身体と心の一定の変化をもたらします。
そしてこの変化、この以降、このメタモルフォーゼをが死とよばれます。
death,あるいはmaranaとよばれます。
死は、変化changeにほかなりません。
幼年時代の次に少年時代がやってきます。
少年期が死んで、青年期がやってきます。

だから、死は、変化を意味します。
死は変化にほかなりません。
老人が死んで、赤ん坊が生まれます。
それも変化です。
私たちは、先行する段階と次の段階を結ぶリンクが見えない時に、私たちは、身体的な死と呼びます。
なぜなら、このケースでは、老人が死に、新しい赤ちゃんが、母親の体内に生まれて、私たちはそのリンクを見いだすことはできません。
だから、私は「老人が死んだ」と言います。
これもまたふつうの変化です。
わかりますか。

しかし、中心核Nucleusのまわりをまっているものは、時、場所、人という領域の中で動いています。
しかし、中心核は時、場所、人の領域にはありません。
時、場所、人の領域を超えています。
中心核は、時、場所、人をコントロールします。
変化もメタモルフォーゼもありません。
それは生と死を超えています。悲嘆と苦悶を超えています。
この究極の中心に至ることは、自らを生死を超えたところに確立することです。
その時、人は不死の中に確立します」Brahma Cakra,Ananda Vacanamrtam Part33,P.6-7

つまり、心の中心の「私」の奥深くに至るならば、そこは、全宇宙がエネルギーをうけて展開するもともとの材料である意識そのものであり、それは無くなることはないのです。
それが中心核Nucleusです。
私たち自身と私たちのまわりのすべてが、もっとも精妙な目で見るならば、意識にエネルギーが付与されて展開しているのです。
いわば、意識がエネルギーという接着剤で固まって展開しているのです。
以上は、ブッダにひっかけた、サルカールの死生観の紹介でした。


This movie is about reincarnation.
Human being is unity of conflict between physical body of presence and I consciousness of non-presence.
I consciousness of human is in ectoplasm of parent god of star.
I consciousness of human repeats human life from ectoplasm of god of star.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

appeal of gods of star

all H.P. of project of Heaven and gods

このページの先頭へ