Me and small birds and tin
Poet has highest intuitional ability

金子みすゞ 私と小鳥と鈴と / 作編曲 のんた / 歌 中川芳郎
(video inspired by god of star)



金子みすゞの詩をシリーズで紹介しています。
わかってもらえるかな、声にだしてよんでもらえるとそのよさがわかるとおもう。

わたしと ことりと すずと

わたしが りょうてを ひろげても、
おそらは ちっとも  とべないが、
とべる ことりは わたしのように、
じべたを はやくは はしれない。

わたしが  からだを ゆすっても、
きれいな おとは でないけど、
あの なる すずは わたしのように
たくさんな うたは しらないよ。

すずと ことりと それから わたし、
みんな ちがって、みんな いい。


「最後のところの『みんな ちがって、みんな いい』」というメッセージはつたわりましたか。
誰もがちがっています。
そもそものこの世界には似たものはあっても同じものはひとつもないのです。
同じように見えるさくらの花だってひとつひとつみんな違うのです。
いじめとかは、自分たちはちがったタイプの人に対しておきますね。
むかしから転校してきた生徒は最初いじめられました。
言葉のなまりがちがうから、自分たちとはちがうとおもわれるからです。
今では外国人の労働者の子も言葉や文化や雰囲気がちがうから、たぶん「はみご」になったりするとおもいます。
ちがった人をみた時、この金子みすゞの『みんな ちがって、みんな いい』という言葉をおもいだしてください。

大人向けのコメント
これは、多様性を大事にする詩ですが、こんなことはあたりまえだとおもわれるかもしれません。
しかし、金子みすゞは、昭和5年(1930)年に亡くなっています。
1931年が満州事変で中国に対する15年間の侵略戦争のはじまった年です。
日本では、天皇を絶対のものとしてあがめる画一的教育がなされていました。
『みんな ちがって みんな いい』というメッセージが受け入れられる時代ではありませんでした。
この詩は、金子みすゞの手帳の中に書きとめられていたものでした。
金子みすゞが時代の雰囲気に正反対の考えをしていた人であることがわかります。
この詩にこめられた願いは私たちが受け継いでゆくべきではないでしょうか。

(さらにむずかしい説明をつけくわえます)
なお、サルカールは、大は星雲から小は分子、原子にいたるまで同一のものはこのコスモスには存在しないといいます。
たしかに原子は小さいから同じとおもうけど、星の大きさに拡大すれば、一つ一つちがうだろうなとおもいます。
この世界には同一のものは何ひとつない。「多」なのです。
しかし、それは根源のもっとも精妙なる「一」の顕現なのです。
意識深く沈潜すれば、私たちは、「一」なのです。 
顕現において「多」、根源において「一」です。 
「多様性における統一」です。ケン・ウィルバーは、「色即是空、空即是色」という言葉を、「色」を形にあらわれた「多」、「空」を根源の「一」と解釈しています。
私たちは、「一」にして「多」であり、「多」にして「一」なのです。


This poem is that there are various which has different role.
Having difference is important in this universe.
Poet has highest intuitional ability.
Her feeling is same to gods.

(dog  Event of non-presence has act and react also)

金子みすゞSMC No.89 犬 (video inspired by god of star)



金子みすゞの詩のシリ-ズです。

いぬ

うちの だりあの さいた ひに
さかやの クロは しにました。

おもて あそぶ わたしらを、
いつでも、おこる おばさんが、
おろおろ ないて おりました。

その ひ、がっこで その ことを
おもしろそうに はなしてて、

ふっと さみしく なりました。


コメント
なぜ、「ふっと さみしく」なったのか、わかりますか。
酒屋さんのおばさんの飼っていたクロという犬が死んで、いつももおこりっぽいおばさんは泣いていたんですね。
学校で、友だちにそのおばさんが泣いていたことをおもしそうに話している自分に気づいて、「ふっと さみしく」なったんですね。
おこりっぽいおばさんは、愛する犬の死に涙するやさしさをもっている人だったんですね。
そんなおばさんの悲しみを物笑いの種に友だちにしゃべっている自分にきづいて、そんな自分の心に対して、さみしくなった。
わたしは、この詩をこのように読み取りました。
ここには人の心の痛みを自分のものとして感じる人間に成長する瞬間が描(えが)かれています。

わたしは、みなさんに、日記をかくことをすすめます。
こんな詩の形でもいいし、短くてもいいとおもいます。
自分の心の動きを観察して書くのです。
自分の心の動きがわかるようになることは、他の人の心の動きが理解できるようになる一歩だとおもいます。

大人用コメント 
この詩を書いた時点で、金子みすゞはもちろん20才はすぎています。
小学生の気持ちになって詩をかいています。
はたして、このレベルまで心が発達した小学生がいるかは疑問ですが、この詩も大切なことをおしえています。
自分の心をみつめる、より奥底の自己が成立していることです。
この間、紹介した心の発達論をおもいだしてください。
身体的自己の「私1」、情動的自己の「私2」、言語的自己の発生期の「私3」。
ここまでが自己中心思考の段階です。
そして順調に進めば、小学校の3年くらい(9才、10才の壁)の時期に社会的自己の「私4」が発生します。
この段階に達することができた子はルールを守る良い子であり、先生のいうことをきく子です。
社会中心思考の段階です。
しかし、この段階を超えることなく自分の属する社会(グループ)中心思考のまま「良い子」のまま大人になってしまったら、「良かれ、悪しかれ、我が祖国」という、「新しい教科書をつくる会」のような自国中心思考、あるいは小泉首相のように侵略の責任者をまつり、戦争を正当化している靖国信者におまいり、アジアの人々の感情を傷つけても平気な人になってしまいます。
そして社会の指導者が戦争の必要をとけばそれに従う人になってしまいます。

この「私4」の社会中心思考(=グループ中心思考)からより普遍的な世界中心思考に発達させるためにどうしても必要なことは、自分の心を観察する習慣をつけることです。
「私4」の人々は、より深い心の奥から自分の心を客観的に観察することができません。
つまり「私4」の段階は、主観=私の心、客観=自分が属する社会の自分に対する期待を理解できます。
しかし、自分が属さない社会は、「私」の領域に入らないのです。
この段階では、自己は社会的なアイデンティティをもち、社会に組み込まれています。
心理学で青年期のアイデンティティの危機といわれるものは、実は、青年期に自分の心を観察できる地点まで私の深みが増したことから生じます。
より深い地点に達したので「自分は何者か」がわからなくなるのです。
それを突破した人間(すなわち社会にはめこれまれた自己から、さらに深い地点に自己を到達させた人間)が、「私5」に達します。
自分の属する社会も属さない社会も、同じ人間のつくっている社会だと感じるようになりますから、「我が祖国は本当に正しいのだろうか」と問うことができるようになります。

最近、教育で重視されないのではないかとおもいますが、小学校、中学校と日記を書く習慣を身につけさせ、出来事だけでなく、自分の心を記録させるならば、青年期に至り、より容易に「私5」に達することができます。自分の心をみつめることのできる「私5」に飛躍させ、「私5」に達した人間をふやしてゆく必要があります。
そして、私たちは、「私6」「私7」をめざしましましょう。

あっ、いちばんいいたいことは、この詩が「ふっとさみしく」なったと自分の心の動きを観察できていることです。

なお、「私」の発達も、次のようにホロン的に「含んで超え」ながら発達します。
たまねぎのイメージです。

① 私1・・・身体的
② 私1+2・・・身体+情動
③ 私1+2+3・・・身体+情動+言葉(言葉で身体、情動をコントロールできる出発点)
④ 私1+2+3+4・・・身体+情動+言葉+社会(社会の一員としてアイデンティティをもちます)
⑤私1+2+3+4+5です。身体+情動+言葉+社会+世界(自分の属する社会を超えて自己同一化できる)
④にとどまる自国中心主義者たちは、他の国の人をまったく同じ人間としては感じることができない。
小泉首相の靖国神社参拝の姿勢を支持する48%の人々は、④の意識レベルにあると考えられます。
しかし、⑤の段階に達した人々も、①から④を心の内部に「含んでいる」という自覚をもって、④の人々にアプローチすることが必要です。
でないと反発を買うでしょう。


This poem is blaming in mind telling story being depressed person who is depressed because that loving dog was dead.
This poem teaches truth of human.
Human being is unity of conflict between presence and non-presence.
Event of non-presence has act and react also.

( little cows  Animals should be respected as gods)

金子みすゞの世界 - 仔牛(べえこ) - 詩の朗読とギター (video inspired by god of star)



金子みすゞの詩をシリーズです。
今回は、子牛(べえこ)の詩を紹介します。
金子みすゞは山口県です。
子牛のことを「べえこ」といっていたようですが、私はとなりの広島県出身で「べっちこ」といっていました。
私が小さいころたいていの家は牛を飼っていました。
和牛といって黒い牛で、主に田んぼを耕すのにスキをひかせていました。
小学校の3年ころだったとおもいます。
家の牛が「べっちこ」をうみました。  世話していた兄は、その「べっちこ」を「もんこう」と名付けてかわいがりました。
ある日、「もんこう」は市場に売られてゆきました。
おかあさんの「もー、もー、もー」という悲しい声が、ずっととぎれることなくつづきました。
今も私の耳にのこっています。
次の金子みすゞの詩は、売られていった子牛だけが貨物列車にのせられていて、母さん牛がいないことをうたっています。
この子牛たちのおかあさんは、「もー、もー、もー」と悲しい声で泣いているのです。


べえこ(こうし)

ひい、ふう、みい、よ、ふみきりで
みんなして、かしゃを かぞえてた
いつ、むう、七つ、八つめの
かしゃに、べえこ(こうし)が のっていた

うられて どこへ ゆくんだろ、
こうし ばかりで のっていた

夕風つめたい ふみきりで
みんなして かしゃを みおくった

晩には、どうして ねるんだろ
母さん牛は、いなかった

どこへ べえこ(こうし)は ゆくんだろ、
ほんとに どこへ ゆくんだろ。


コメント
列車の中にのっていた子牛たちの中に、母さん牛がいないことに気づいているのですね。
子牛はお母さんと離れているだけでさびしいですね。
実際には、もし、この子牛たちが、オス(オスは、「こってい」といっていました)ならば、恐怖の中に銃で撃ち殺され (?たぶん、どんなふうに殺すのか私は知らないのですが、要するに殺され)
みなさんの食べるお肉になります。
よっぽど毛並みのいい牛だけが種牛として精子をとるためにいかしてもらえます。
しかし、貨物列車にたくさん子牛がいたわけですから、オス(こってい)なら処刑場ゆきです。
そしてメスなら、市場で、セリにかけられて、牛がほしい農家の人がかってゆくのです。
でも、そのメスの「べっちこ」は、二度とお母さんに会うことはできません。


サ-カ-の言葉です。

「ネオ・ヒューマニストは、第一に人類に奉仕し、次に動物に奉仕し、 次に植物に、そしてその次に生命無きものに奉仕すべきです。
人類は、動物を殺すべきではありません。
もし、ある人が、生きるために牛を殺すとするならば、なぜ、その人のために牛が死ぬべきなのでしょうか。
もし、牛を母とイメージするならば、牛のミルクを飲む人類は子牛です。
バッファローや山羊も人間の飲むミルクを提供します。
だから彼らも人々の母です。
しかし、人類は、母を尊重する感情からではなく、生命のより高い形態に対する尊敬から牛を殺すことを止めるべきです。
バッファローや山羊の屠殺も、同じ理由からすぐに止めるべきです」

「人類は、他の人間の痛みや苦悩を感じることができます。
しかし、犬が悲痛にくれている時、誰もそれに注意を払いません。
あたかも犬が痛みに苦しまないと考えているかのようです。
動物も喜びと苦しみを経験するということを人類が理解するようになるなら、人類は新しい次元の賢明さを持つことになります。
それは、すべての生命に対して同情的であるべきだという私たち人間の義務感とより高い知力のためです」

「森の中には、多くのライオン、虎、ヘビなどがいます。
しかし、そのような生物は彼らの自然の環境の中においては殺されるべきではありません。
なぜなら、彼らは人間の生命を脅かしていないからです。
人間を攻撃するのは、虎の特質ですが、すべての虎がその理由から簡単に殺されるべきではありません。
瀕死の動物と危険にさらされている動植物のために聖域を作ることが人間の義務でもあることを忘れてはいけません」

「一般的な原則として、私たちはいかなる状況のもとでも、動物を殺すべきではありません。
この原則の例外は、人間の生命が危険である時です。
たとえば、もし、あなたが、自分の生命を脅かす虎に直面するならば、虎が攻撃する前にあなたは虎を殺さざるをえないでしょう。
同様に、もし、ライオン、ヘビ、象などが、あなたの居住地にやってきたら、その時、最後の手段として人間の安全を確保するために彼らを殺さざるをえません。
しかし、直接に人間の生命を危険にさらす時だけ動物を殺するべきです。
したがって、彼らの自然の生息場所の中の動物は殺すべきではありません」


This poem is thinking about child cows on train that they are sold.
Poet can think in stance of cows.
Life of cows should be respected.
I consciousness of human is child of god.
Mind of mammals and birds is ectoplasm of gpds.
Animals should be respected as gods.

(Lotus and chicken  She noticed deep force which cause moving of whole universe)

蓮と鶏 (video inspired by god of star)



金子みすゞの詩をシリ-ズで紹介しています。わからない人は質問ください。

ハスとにわとり

どろのなかから
ハスがさく

それをするのは
ハスじゃない

卵の中から
にわとりがでる

それをするのは
にわとりじゃない

それに私は
気がついた

それも私の
せいじゃない


コメント
この詩は、とても深いことをいっているのです。
短い詩ですが、むずかしいとおもいます。
とても20才くらいの女の子がつくったとはおもえません。
泥水の中からハスの花が咲きます。
ハスだけの力で咲いているのではありませんね。
ハスの花を咲かせる力はどこからきているのでしょうか。
卵がわれて、ひよこがでてきます。
卵の中でひよこを大きくして卵を割る力はどこから来ているのでしょうか。
あなたは、息をしています。
心臓が動いています。
あなたの心臓を動かしている力はどこからきているのでしょうか。
あなたが心臓をうごかしているのでしょうか。
いえ、いえ、あなたが心臓をうごかそうとおもっても、人生の最後の日に動かしたくても心臓はとまってしまいます。
あなたの心臓をうごかしている力はどこからきているのでしょうか。
あなたの心臓を動かす力も、ハスの花を咲かせる力も、ヒナが卵を割る力も、風をふかせている力も、照りつける太陽の力も、すべて同じ一つの無限の力からきています。
私たちは、その同じ一つの力によって生かされている兄弟であり、仲間です。

大人向けコメント
P.R.サルカールの哲学では、この世界は、根源にあるプルシャ(意識)にプラクリティ(エネルギー)が結合して展開しています。
根源にあるプルシャ+プラクリティ=ブラフマです。
ケン・ウィルバーの言葉では、ブラフマは、大文字のスピリットです。
くわしくは、また別の機会に紹介します。


This poem has deep meaning.
She noticed deep force which cause moving of whole universe.
This is true gods in base of universe.
Base of universe is unity of conflict between ectoplasm of gods and time-space of Higgs particle.

(soil and grass  In capitalist society human value is measured by money)

金子みすゞの世界 - 土と草 / 木 - 詩の朗読とギター
(video inspired by god of star)



金子みすゞの詩をシリ-ズで紹介しています。

土と草

母さん知らぬ
草の子を
なん千万の
草の子を
土はひとりで
育てます。

草があおあおしげったら
土はかくれてしまうのに


コメント
草に注目する詩は見たことがあるけど、草を育む土に注目した詩をみるのははじめてです。
目立たないけど、隠れているけど、とっても大切なものにちゃんと目を向ける人間になることです。
みんな目立つものだけに憧れます。
みんな目立ちたいと思っています。
でも本当は、目立たないことをちゃんとできる人間にならないと中身のないうすっぺらな人間になります。
目立たなくても、大切な役割を果たせる人にならなくてはなりません。
そして目立たなくても大切な役割を果たしている人がちゃんと見える人になる必要があります。
クラスの中で目立つところだけ、がんばって、掃除とか目立たぬところはさぼりまくる人はいませんか。
いいことをして目立つのはいいけれど、実は目立たぬことの中にほんとうに大事なことがあるんだよ。
そしてその中にも満足と幸せがあるんだよ。
そんなことをこの詩は教えてくれる気がします。

大人向けコメント
今の世の中は、ゴルフの○○ちゃん、野茂、松井、彼らが活躍しているのはすばらしいことですが、私はお金をあそこまでたくさん支払うべきではないとおもう。
もちろん彼らがいっぱんのすぐれた人よりももっと多くの財を手にすることには賛成ですが、現在の金額はあきらかに天地のバランスをくずしています。
華やかな草とするならば、それを育てている土壌にまわすものとバランスがとれている必要があると考えます。
今日の資本主義の考えがゆきつくところまでいって、スポンサーになる人々が自分が莫大な額を手にしているので、金銭感覚が狂い、天地のバランスをくずしているのだとおもいます。
サーカーは、社会に対する貢献度に応じて、貢献度の高い人がより多くの収入を得るようにすべきだといっていますが、バランスがくずれないように収入に上限を設けるべきだといっています。
この詩は土に目を向けています。
今の社会の指導者が土に目をむけるのをわすれて、華やかな目にうつる面だけをみているからだとおもいます。
私たちは目立たぬ土に目をむけましょう。


This poem teaches very important for human society.
In capitalist society human value is measured by money.
Real human value is not possible to measure by money.
Capitalist society makes human mad.

( candy  This poet expressed deep truth about human)

金子みすゞの世界 - 露 / お菓子 - 詩の朗読とギター(video inspired by god of star)



金子みすゞの詩をシリ-ズで紹介しています。わからない人は質問ください。

お菓子

いたずらに一つかくした
弟のお菓子
たべるもんかとおもってて
たべてしまった
一つのお菓子

かあさんが、二つっていったら、
どうしよう。
おいてみて、
とってみて、またおいてみて、
それでも弟が来ないから
食べてしまった
一つ目のお菓子

にがいお菓子
かなしいお菓子。

高校生用コメント その1
この詩を味わうには、目をとじて、この子が二つのお菓子の弟の分を食べてしまった様子をイメージしてください。
これは、サンスカーラ(反作用の潜在力)の詩です。
反作用というのは、壁をこぶしでなぐったら、壁にあたえた力だけ自分の手にもどってくることです。
つまり強く壁をうつほど、自分が痛みます。
潜在力というのは、ひそんでいる力という意味です。
壁の場合は、自分の方に壁にあたえた力がすぐにもどっていますが、すぐにはもどってこず、あとから痛みがでてきますよということです。
心をボールとしましょう。
だれかの心を傷つけた場合は、自分の心にへこみが生じます。
そのへこみがもどる時に、相手にあたえた痛みの分だけ、かならずもどってきますよとうことです。
逆にいえば、相手に喜びをあたえれば、自分に同じだけの喜びがもどってきます。
相手を笑わせることができたら、自分も同じだけ楽しいですね。
でも、自分が、もどってくる喜びを味わうために相手を喜ばせても、それは、本当に相手のためではなく、自分のためだから、自分に喜びはもどってきません。
見返りをもとめずに、相手にとっていいことをすること、とくに、見返りをもとめずに困っている人を助けると、自分にもどってきます。
困ってない人は助ける必要がありません。
たとえば、お金持ちにお金をあげても意味がありません。
そして見返りをもとめず、自分はいいことをしているとおもわずにいいことをしないといけません。
聖書には、人がみている前で、乞食の人にお金をめぐんでも神はあなたを救いません。
誰もみていないところでお金をめぐみなさいとあります。
しかし、この世の中には、自分の宣伝のために寄付した施設に名前がついています。売名はだめです。
誰もみていないところで、いいことをするのです。
そうするとそれが人にあたえた幸せの分だけあなたにもどってきます。

高校生用コメント、その2
金子みすゞの詩は、お菓子でした。
しかし、多くの生徒が似た体験をしています。
小学校の低学年の時に、20円の友達のカードをとってしまったこと
苦いカードの思い出です。
カードの詩ができますね。
この子の気持ちは、まったく金子みすゞの弟のお菓子をとったのと同じ気持ちです。
シュタイナーという人は「歯の生えかえる7才くらいから、性的に成熟してゆく14、15才くらいまでに、こういう心の体験をもつことが、すなわちわるいことをしたら心が気持ちわるい、よいことをしたら心が気持ちいいという体験もつことが、将来、道徳的な人生をおくる上で大切だとのべています。
みなさんは、こういう体験がありますか。
えっ、わるいことをしても感じない!
わるいことをしても感じない人は、あとでまとめてもどってくるのでおそろしいことになりますよ。

次は高校2年生の文章です。

もしかしたらと思い、よく考えてみると、やっぱりそんな体験がありました。
 僕が小学校の低学年ぐらいの時、一枚20円で売っているカードで、その中がキラキラ光るカードを集めるのが流行っていて、よく交換したりしていました。
ある日、友達の家に行って、カードを見せあっている時、その友達が少し目を離しているうちに、何枚かポケットに入れてしまいました。
次の日、その友達がカードを失った話をしている時、自分が持っていないカードが欲しいがためにした行為によって、なんとも言えない罪悪感がみるみる湧いてきました。
 しばらしくしてもなかなかその気持ちが消えませんでした。
友達が忘れた頃に返して謝ると元に戻りました。
 授業で学んだ、心の奥にボールがあって、相手に与えた分のへこみが生じ、それを解決すれば、たいてい、そのへこみが戻るという説に僕は賛成です。

大人用の解説・・・サーカーの言葉から紹介します。

(反作用の経験は避けることができない)
「反作用の経験を避けてとおることはできません。
ある人の行いの帰結あるいは反作用はその人によって体験されなくはなりません。
しかし、心の苦しみの量は変化させることができませんし、取り除くこともできません。苦しみは長期間にわたる数多くの小さな事件に分散させることができます。
たとえば、彼の手にひっかき傷ができて、のちに病気になるかもしれません。
彼は腕を骨折する運命での心の苦しみと同じだけの苦しみの量まで分割して苦しむことになります。
運命や行為の帰結の体験量は変化しませんし、避けることもできません。
他の人に幸福を与えるある人の行為は、心の尺度で同じ程度の幸福がその人に生じるとすでに説明しました。
この幸福と喜びの体験量は変化させることはできません。
悪い行いのために集積した結果は、良い行いを蓄えることによって埋め合わせたり、洗い流したりできると信じている人がいます。
彼らによれば、悪い行いも良い行いが同じ量であれば、バランスがとれて、経験されるべきことは何も残りません。
このようなことはおきませんし、ありえないことです。
すべての行い、すなわちそれが良い行いか悪い行いかに関係なく、心に変形を引き起こします。
心が、通常の形を取り戻そうとする過程の中で、その変形は、同じだけの逆の反作用によって取り払われます。
それゆえ、悪い行いによって引き起こされた変形は、良い行いによって取り払うことは出来ません。
それは心をより変形させるだけでしょう。
あらゆる行いに対して独立した同じだけの逆の反作用があります。
あらゆる変形が独立した反作用によって取り除かれる時、良い行い、悪い行いの帰結は、それぞれ別に経験することになるでしょう。
悪い行いの帰結と良い行いの帰結は、それぞれに別々に経験することになるはずです。
行為を遂行した人は反作用も持たざるをえません。
火に手を突っ込むと確実に火傷します。
その手の火傷に対して神を責めることは、無知で愚かなことにほかなりません。
燃やすことは火の性質です。
火にふれるものは何でも燃えます。
同様にあらゆる行いが反作用持つというのは、プラクリティとその性質の自明の法則です。
行った人に責任があります。
行った人が反作用の責任を負います。
行為とその行為の帰結も人間に責任があります。
反作用(Karmaphala) の体験は避けることができません。

(別の文章から反作用について)
 なぜなら、行為は心とともにあるからです。
それゆえ、反作用が覚醒するのは心のかたまり body の中です。
もし、わたしたちが他人について無慈悲に考えるならば、私たちは、心の反作用もしくはそこからの報復に耐えねばなりません。
それが何であれ、心の中のふるまいにも反作用がおきるはずです。
反作用はもともとのふるまいの性質にそっておこります。
だから私たちは、行為の結果についてではなく常にわたしたちのふるまいに注意深くある必要があります。
これに言及して ギート Giit は言います。
Karma ev dhik raste m phale kad cana; M karmaphalaheturbhurm tesaungo'stva karma.

(あなたは、行為への権利rightを持っています。
しかし、行為の果実に権利をもっていません。
あなたを縛るだろう行為をすべきではありません。
しかし、あなたは行為を嫌ってもいけません。)

 行いがなされたが、 カルマプハラ・ブホガkarmaphala-bhoga( 反作用) をもたない時、その行いへの反作用は種子の形で留まります。
それはsa(ク・ラk ra)と呼ばれます、すなわちその潜在的可能性における反作用です。
反作用がすぐにある行いの遂行に続く時、人は、どれそれの 行為の結果を経験していると言います。


This poem is that behavior contrary to providence cause feeling of regret.
This poet expressed deep truth about human.
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

appeal of gods of star

all H.P. of project of Heaven and gods

このページの先頭へ