Hiroshima: Japan Marks Atomic Bomb Anniversary (video inspired by god of star)



(Human kind is saved from ruin by Atomic bomb by establishment of Earth government)

Dear
I am comic program in your mind.
We project of Heaven and gods introduce article of assistant Mitsuki which was issued to social forum movement.
We write article of view of true gods.

This article is that Atomic bomb can be abolished by establishment of Earth government.
Movement of nuclear abolition cannot abolish.
This view of Mitsuki is truth.
Human kind is saved from ruin by Atomic bomb by establishment of Earth government.

(原子爆弾とサルカールの言葉)

サルカールのスピーチを読んでいて、原子爆弾の関する言及に一番、抵抗感がありました。
興味深い論なのですが、「原子爆弾を無力化する兵器を最終的に生み出すだろう」という論でした。
それは、広島県出身で原爆の実相をよく耳にしてきた私にとっては、核兵器廃絶しか道はないと思い、同意できないものでした。
人間は原爆を越える兵器を作って原爆を無力化するだろう。
人間の顔をした悪魔が原爆を手にする時がおそろしい。
しかし、おそれる必要はないと言います。
「あなたは全宇宙のいかなる力も怖れるべきではありません。
原子爆弾はあまりにとるに足りないことです。
人類は、将来、より強力な兵器を発見するでしょう。
だから、道徳のある人moralists がそれを恐れる理由はまったくありません」December 2,1978, Calcutta.
とスピーチを結んでいるのです。

サルカールは1990年に死んでいましたから、6年くらい前に、直弟子のインドのシャンブージヴァナンダ博士にメールで質問しました。
「この宇宙に登場したものを消滅させることではない」ということと、
日本のきくちゆみさんと連絡をとりなさいという返事でした。
きくちゆみさんとはなにものかとおもっていましたら、何年かして新聞に登場され、知りました。

ケン・ウィルバーの「万物の理論」をとことん読んで、サルカールの言っていることもあたっているのではないかと感じはじめました。
原子爆弾の廃絶は、いくら叫んでもだめなのではないか。
(もちろん投票にもとづく民主主義的政権による核使用を制約するのには効果がありますが)

この世に存在したものは、より高次のものに「含んで超えて」発達してきた。
石から弓矢、刀、鉄砲、大砲、ミサイル、・・・原子爆弾を、たとえば、レーザー光線のようなものをあてると爆発できないように無力化する兵器を開発するしかないのではないか。
アメリカなどがすすめてきた兵器の開発の方向ではなく、原子爆弾を無力化する道具の開発を、心ある科学者がとりくむ必要があるのではないか。

現状は、5大国だけの核独占体制が、インド、パキスタンは公然と、そしてたぶんイスラエル、さらにイランや北朝鮮がやり玉にあがっている。
イランが核兵器をもてば、現状では、イスラム原理主義勢力が核兵器をもつことになる。
アメリカなど5大国だけが核兵器をもってもいいという現状の体制は、論理的ではなく、遅かれ早かれ、崩れることは間違いない。

アメリカの攻撃はテロリストを育てており、核兵器をもった自爆攻撃も登場しかねない。
世界はこれからきわめて危険な様相に進んでゆく。

5大国の独占体制が崩れてゆくとしたら、原子爆弾の危険をふせぐ道は、世界政府を樹立し、すべての核兵器を世界政府に集中させるしかないのではないか。
これだとどの国も納得する。

私は、世界社会フォーラムに結集し、最終的には、世界連邦政府を樹立しようという合意をつくってゆくしか、核兵器の管理もしくは廃絶は不可能なのではないかと思うのです。
そして、核兵器を無力化する道具の開発を優秀な科学者がやるしかないのではないか。
たしかに、シャンブーシヴァナンダ先生が言ったように、この世に登場したものを消すことはできないのではないか。
「含んで超える」しかないのではないか。

世界連邦政府は、ケン・ウィルバーの言葉では「トランス・ネイション」で、ネイション国家を含んで超える概念です。
核兵器を無力化する道具は、核兵器を消すのではなく、「含んで超える」概念です。

ごめんなさい、この論では、核兵器廃絶の取り組みを真摯にされてきた方の反発をもたれる方も多いのではないかと予想します。
ひとつの意見として考えてください。
私たちは、意見の相違をままで、統一する必要があります。

サルカールの世界政府論です。
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/theory/theoryofsarkar/3worldgovenment.htm 

以上が、投稿です。




(参考資料)サルカールのネオ・ヒューマニズム論

参考資料にサーカーの普遍的博愛精神であるネオ・ヒューマニズム論の見方を紹介しておきます。
関心のある人はごらんください。
ナショナリズムでは平和にならないが、インターナショナリズムでも、平和にならないと論じています。
そしてそれを超える普通のヒューマニズムでも平和にならないと説きます。
本当の平和の確立のために、必要なことが書かれていますので長くなりますが、下にペーストさせいただきます。
以下は、よっぽどの関心がある人のみごらんください。
(いずれ、ネオ・ヒューマニズム論をホームページにアップロードした形で、またの機会に紹介できるようにしたいと思います。
ただ、ここに書かれていることは、平和の文化をつくりあげてゆく上で、私たちに高いレベルのあり方への目標を与えてくれるので、ひょっとして読まれる人もいるかもしれないと思い、参考資料にあげておきます。
長いので、くれぐれも、無理して読まないでね。

(2)インターナショナリズムの限界

 サーカーにとって、インターナショナリズムは、普通のヒューマニズムではありません。

「ネイションの存在を認めて、私は、すべてのネイションのために働いていますと言う時、それは、普通のヒューマニズムでもユニヴァーサリズム( 普遍主義)でもありません。
それは、単にインターナショナリズム(国際主義)です」(Pseudo-Humanism)

 これはまったく今日の政治指導者の理屈です。
自分の国益を守り、他国の国益を尊重すると言います。
 その理屈から、日本政府はアメリカの要請でイラクに自衛隊を派遣しました。「国際貢献」は、インターナショナリズムです。
 かつて、労働運動で、スターリンのソ連を守ることが、インターナショナリズム(国際主義)だとされたことかあります。 
 サーカーは、インターナショナリズム(国際主義)は、真の解決ではないと言います。

「さて、インターナショナリズム(国際主義) という用語を使う時は、別々のネイションの存在を前提としています。
・・一つのネイションが他のネイションの血の上に栄えようする時、それに反対せざるをえません。
この反対は、最終的には戦争をももたらします。
だからインターナショナリズムも解決ではありません」(Pseudo-Humanism)

 この「インターナショリズムも解決ではありません」というサーカーの言葉は19世紀末の社会主義者たちのインターナショナリズムの運命を振り返る時、考えさせられるものがあります。
エンゲルスたちがかかわった第二インターナショナルは、平和と国際連帯を何度も誓いながらも、高まるナショナリズムを克服できず、第一次大戦の勃発の中で崩壊しました。
レーニンたち一部の社会主義者を除いて第一次大戦に向けて祖国擁護というナショナリズムの立場に立って戦争に協力しました。
インターナショナリズムもナショナリズムの基盤に立っている故にネイション(国民国家)の間の衝突が激化する時、ナショナリズムの本性の表現を容易に許してしまうことになります。

(3)普通のヒューマニズムの二つの問題点

 ナショナリズムやインターナショナリズムを越えて心の円周を拡大し、一つの囲いの内部にすべての人々を含めるならば、それが「普通のヒューマニズム」です。

 私たちはそれを人間のやさしさの理想と受け止めます。
しかし、サーカーは一般的ヒューマニズムには、二つの問題があると言います。
 一つは、なおもヒューマニズム内矛盾intra-humanistic conflictをひきおこす余地があることであり、もう一つが、人間中心であるがゆえに他の生命との関係で生態系のバランスを崩してしまうことです。

まず、前者からみてゆきましょう。

(イ) ヒューマニズム内矛盾

「ヒューマニズム内矛盾」とは、同情、哀れみを含むヒューマニズムは、相手の従属を引き起こし、そこから紛争を生じさせるということです。

「あるコミュニティが飢餓に苦しんでいるのを見て、彼らに食物を提供したとしましょう。
これは、明らかにヒューマニスティックです。
しかし、心の底で、『この人々を原料の提供者、われわれの完成商品の購入者として利用しよう。
これらの人々はすでにわれわれをありがたく思っているのだから』と考えます。
この種の心性は、いつか社会の平和を破壊します。
だから、ヒューマニズムのアプローチも完全ではありません。
それは質的に低下します」(Pseudo-Humanism)

 2002年の「国連途上国会議」は「先進諸国は、貧しい国の生産物を購入できるようにもっと市場開放をしてゆかねばならない。
 先進国の中の市場開放への反対を克服してゆかねばならない」という内容を含む決議をしたと報道されていました。
 これは、先進国の農民たちが、農産物の自由化に反対したりすると貧しい国の人々に思いやりがないかのような言い方です。
 サーカーは、こうした理屈をエセ・ヒューマニズムとして強く批判します。
 「『先進国』『発展途上国』『未開発国』とか呼ばれます。
興味深いことは、これらの『先進』諸国の一カ国として、自分の足で立つことができないことです。
その国々は、発展途上国や未開発国に対して状況の圧力を生み出すことによって、自分たちの工業製品を買うように強いているにすぎません。
これらの諸国のどれ一つとして、自分自身の資源を開発しての「先進」ではありません」(Pseudo-Humanism)

 そしてサーカーは、先進国が、資源の自立ができなければ、最終的に他の国に「物理的な力や知的な力を用いることになるでしょう」と述べています。

 マイ・ホーム主義者で家庭と職場を往復するだけの人間であっても、家庭内紛争は生じます。
ナショナリストであっても、ネイション内部には搾取と対立があり、ナショナリズムは、それを隠蔽、抑圧します。
同じように普通のヒューマニズムは、すべての人類をその内部に包含した意識であることによって、あるコミュニティによる他のコミュニティに対する搾取を隠蔽し、紛争を生じます。

(ロ)動物界に対する加虐的傾向を抑止できない

 ヒューマニズムは人間中心主義ですから他の生物を迫害しても、罪に感じません。
サーカーは、他の生物にたいする加虐的傾向は、同時に人間に対しても加虐的に傾向をもつことになると言います。

 「現在、動物に対してなされているその種の迫害が、同じやり方で、ある社会集団によって他の社会集団に対してなされています。
なぜなら、他のものを苦しめる傾向 (サディスト的傾向)が、搾取者の血の中で優勢だからです。
彼らはこの病を免れることができません。
彼らは単に高い理想を口にするだけなのです。
こういうわけで、これはヒューマニスティックな戦略ですらなく、すべて偽ヒューマニスト戦略なのです」(Liberation of Intellect)

 神戸のA少年は猫を殺し、次には、人間を殺しました。
動植物の世界を尊重しない人間は、他の人間集団に対しても同様に尊重しない心を持ちます。
 サーカーは、生命の尊厳を説いたヒューマニストが、講演の後で牛肉をなんのためらいもなくおいしく食べる欺瞞を述べています。
一般的ヒューマニズムは動植物の生命の尊重までは心から説きません一般的ヒューマニズムにはこのような限界があります。

6)ネオ・ヒューマニズムのアプローチ

 では、一般的ヒューマニズムの限界を超える「ネオ・ヒューマニズム」のアプローチはどのようなものでしょうか。

(1)全人類、全生命、全存在への奉仕意識

 「 私たちは社会建設の領域で、二つのまったく別個の心理があることに気づきます。
一つは奉仕の心理であり、人々が集合的利益を促進するように導きます。二つ目はグループ主義の心理であり、それは小さなグループの限られた利益を促進しようとだけします。
奉仕心理に導かれている人々は、その道徳性ゆえに分離主義的政治を好みません」(Service Psychology and Group Psychology)

 半世紀前の日本の軍国主義時代には「奉仕」の心があったが、現在の人々は「奉仕」の心にかけていると言う人がいます。
 しかし、日本の軍国主義時代の奉仕は日本の国家への「奉仕」でした。
人類普遍の奉仕ではなく分離主義的政治でした。
ですから、サーカーの用語法では、それは奉仕ではなく、日本というグループの利益を促進するグループ主義の心理です。
 それに対して、ネオ・ヒューマニズムの奉仕とは、全人類、全生命、全存在に対するものです。
現実世界の多様性の根源にある単一の聖なるものへの奉仕です。
サーカーのいう奉仕の心理は、グループの利益をずっと超えたところにあります。
それは一切を含めた全体性への奉仕です。
 現実には自分の所属する身近な社会に奉仕しますが、その心は、あくまで人類全体、宇宙全体への奉仕にあります。

(2)社会的平等の原理からのアプローチ

(イ)「利己的な喜び」の原理と「社会的平等」の原理

 サーカーによれば、人間を行動に駆り立てている動機にはアートマ・スカ・タットヴァ ( 利己的な喜びの原理)とサマサマージャ・タットヴァ"Sama-Sama'ja Tattva" ( 社会的平等の原理)の二つがあります。
そして人間の行動のほとんどは、「利己的な喜びの原理」に駆り立てられていると言います。
そして「利己的な喜び」の原理でなく、「社会的平等の原理」すなわちネオ・ヒューマニズムの立場から現実世界にアプローチせよと言います。
 「社会的平等」の原理のアプローチとは、次のような心をもって活動することです。

 「他の人が何を言おうとも、すべての人間が、食物、衣服、住居、教育、医療の権利を持っていることを私は心から信じます。
原理として彼らの権利を認めたというだけでは不十分だ。
正直な人間として、私は、彼らが自分たちの権利を実現するよう最大限の努力をします」(Samasama'ja Tattva)

(ロ)間違った方向に導く人々を広く暴露する

 サーカーは本気で「社会的平等」の心をもって活動する時、誰が自分の慈悲深い心に協力し、誰が傍観し、誰が妨害してくるかが見えてきて、「知的悪魔」を見抜くことができると言います。
そして人類を間違った方向に導いている人々を見抜いたら、座して黙していてはだめだ、人間社会の中に広く知らせよと次のように言います。

 「人間構造した悪魔を見抜いた後、彼らが人間社会に害を与えるものであることを人々にわかるように暴露しなくてはなりません。
個人的に見抜くだけでは十分ではありません。
他の人々の目も開けなくてはなりません。
このようにしてのみ、世界の福利を促進させることができます。
だから象牙の塔の中の善良ぶった人のように穏やかに待っているだけでは十分ではありません」(Samasama'ja Tattva)

(ハ)誤りを正した人の才能は活用する

 もちろん、サーカーは「知的悪魔」だとレッテルを貼って、その指導者を排除するものではありません。
彼らが誤りを正そうとするならば、その人の才能を人々の福利を促進するために活用しなさいと言います。

「あなたがたは、人々が自分を正すことができ、人類にとって価値ある貴重な人物となるように人々を導かなくてはなりません」

(ニ)利己的喜びの原理の人は敗北する

 そして「利己的喜び」の原理から「社会的平等」の原理の道を妨害する人は、最終的に敗北すると次のように述べます。

「エゴから邪魔する人は、最終的には敗北するでしょう。
エゴが肥大化する時、知性は衰えます。
その知性が低い人は、容易に敗北させられます。
だから、それについて心配する必要はありません」(Samasama'ja Tattva)

注)社会的平等の原理とは、多様性や一定の枠内での格差を前提としており、画一性をめざしたものではありません。

(3)内面的深まりの追求と外部世界の不公正との闘い

(イ) 内面的深まりは、心の領域を広げる

 サーカーは、ネオ・ヒューマニズム感情に達するためには、瞑想などのスピリチュアル・プラクティスが必要だと述べます。
 スピリチュアリティのプラクティスは心の領域を広げます。
 「ラージプート社会の全体の幸福について考える人は、彼らはヒンドゥ人であることに、さらにインド人であることに、最終的に全宇宙のメンバーであることに誇りを感じるようになるでしょう。
 合理的で統合的な深い思考の後、彼らは自分たちを宇宙のあらゆる粒子と同一視するでしょう。
それは全宇宙の実体と一体の感覚をもたらすでしょう」(Service Psychology and Group Psychology)

 しかし、サーカーは、心の内部の平穏の追求は、心の外部世界での不公正を正す闘いと統一的に進められなくてはならないと言います。

(ロ) 心の内側だけを追求する人は、二重性の病に苦しむ

 外部世界の不公正に目をとじて、心の内側だけを追求する人をきびしく批判し、そういう人は二重性の病に苦しむと言います。

「客観的な世界では、人間は、宗教、文化、政治経済などの生活を持っています。
誰がこれらを拒むことができるでしょうか。
それらを拒む人は、ペテン師です。
その人は真実をゆがめています。
そのような人々は、決して、自分自身のためにも、自分たちの世界のためにもどちらにもなんらの良いことができません。 彼らは、常に二重性の心の病気に苦しみます。
すなわち、彼らの内部の心と外部の表現との間が一致していないのです。
この心理的二重性は、非常に深刻な心の病を生じます。それは最後に彼らを破滅させます」(Samasama'ja Tattva)

 そして社会的平等の原理をもって活動する中でこそ、二重性の病から解放されると次のように言います。

 「サマサマージャ・タットヴァすなわちネオ・ヒューマニズムは、人々をこの二重性の病気から解放します。
その人々は、自分自身に良いことがすることができるし、彼らの能力に応じて他の人々に対しても良いことができます。
というのは、あらゆる人がいくらかの能力を持っているからです」(Samasama'ja Tattva)
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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