STAMATIS SPANOUDAKIS - Absences (video inspired by god of star)


(Mitsuki knows well how neo-liberal policy hurts mind of children)

This article is that education is worsen by policy of neo-liberalism.
Mitsuki was teacher of public school.
Mitsuki knows well how neo-liberal policy hurts mind of children.
Slogan of 'education is not for sale' of international student movement has attracted heart of Mitsuki strongly.

この論文は,教育は新自由主義政策によって悪化している,です。
ミツキは公立学校の教師でした。
いかに新自由主義の政策が子どもたちの心を傷つけているかよく知っています。
「教育は売り物ではない」という国際学生運動のスローガンはミツキの心を強く引きつけています。




子供たちの荒れの低年齢化の背景

(1)
公教育はその社会の構成メンバーの心を育てます。
私たちの社会の公教育を
本当に「パブリック=公共」のものとしての
まなざしをもって人々が見ているかどうかは
よりよい社会のための土台としてきわめて重要です。

言わば、水道設備などのように、公教育には
公共的な社会的インフラという側面があります。
すなわち、
教育システムが心がゆがんだ人
すなわち周囲に人に対して競争的な人を生み出すものとして
機能するか、それとも
連帯的な信条をもって日々を過ごす人を生み出すものとして
機能するかは、社会のあり方に大きな影響を及ぼします。

競争的でなく友好的で親切な人で
構成される集団や職場は心地よいものになります。

ブータンの国王が説いているような
「幸福は利他精神(周りの人にどれだけ親切にして
周りの人を幸福するかの中で感じられるものだ」
(ブータンを取材したテレビ番組情報より)
が社会全体の土台のスピリットとして定着するように
公教育が取り組まれるならば、よりよい社会の精神的な
共通のベースが生まれます。

良い人々を育てる社会全員への
共通教育(公教育)の充実が
よりよい社会のための不可欠の前提に
なります。

(水道などのインフラにたとえたのですが
もちろん、人間性の教育は、物質に
例えられるべきではなく
誰もが共通にもっている人間としての権利として
とらえられる必要があります)

(2)
マクロな視界で見ると
子供たちの荒れと日本の教育システムの変更は
対応しているように見えます。

公教育の公共的側面が次第に削られて
受益者負担の商業的観点と経済界の自由競争理念が
持ち込まれる中で公教育の世界は深刻な状況を
かかえるようになりました。そして
次第にそれが低年齢化してきました。

1970年代
荒れる職業高校や新設高校が多くありました。
教室の窓などが破壊され、机が壊されが
ありました。
そうした高校では徹底的に上意下達の
管理体制を強めるしかまともな教育が
できませんでした。

1980年代
中学校の荒れが目立ってきました。
生徒から話をきくと、
「この高校に入ってほっとした。
中学の時に掃除箱の中に閉じこめられたり
さんざんな目にあってきた」と
荒れた中学から来た子が言っていました。

1990年代、
小学校の高学年の学級崩壊が始まります。
中学校の荒れもひどくなりますが
その荒れを徹底的した管理体制強化で
普通の教育ができる体制に現場の先生方は
もってゆかざるをえません。
教育現場は、管理体制強化の文人派と
体罰系教師がリーダーシップを発揮せざるを
えない場になります。

(体罰は、社会の批判が強まる中で
上から強い指導が入るようになりました。
が、荒れる子供たちを鎮圧できない局面もありますから
橋下氏のように「体罰を認めよう」という
よくわかっていない政治家は、票をかすめようと
教育について好き勝手なことをいいます)

2000年代に入ると、
小学校の中学年まで学級崩壊がおりてきます。
授業時間に立ち歩いたりなど
小学校レベルにまで、子供たちの荒れが
おりてきました。

2010年代に入ると、
小学校の荒れが゜低学年までおりてきます。

(2)
1970年代、1980年代、1990年代、2000年代、2010年代と
公教育セクターでの子供たちの荒れが
低年齢化してきている背景に、マクロな立場から光をあてると、
そこには、教育行政が推進してきた多様化路線によって
学力でできる子できない子を選別する年齢の早期化が
平行していることがわかります。

この間、継続的に進められてきた
高等学校の多様化をさせる「多様化路線」は
入試制度をそのままにしたまま、
偏差値で学校をえらばさせる形を
崩すことなくすすめられてきました。
中学三年生はこの時期、とても荒れます。

今や中高一貫校として
橋本氏たちエリート教育推進主義者によって
選択はエリート校が造られ、中学段階まで
偏差値による差別化がおりて
小学校5,6年生で多くの子供たちは自分が
優秀ではないことを知ります。
小学校六年生が荒れます。

また小学校でも「習熟度別学級」として
算数などの時間に子供たちを
できる子できない子に分けることが
教育者の良心を踏みにじりながら
平然と教育行政が
政治の圧力のもとに押し進めています。
小学校3,4年レベルからおそろしいいじめの
現象を耳にしました。

マクロな目で見ると
1970年代、1980年代、1990年代、2000年代、2010年代と
子供たちの荒れが低年齢化してきたことと
子供たちに学力の差を見せて、お前は〇〇ちゃんより
劣っているという思わせ、未来への希望や
自分の能力への確信と夢を多数の子から奪うことを
せまる時期の低年齢化が対応しています。
そのことに気付いた子供たちは
荒れるのです。

「キャリア教育」の美名で自分がどの仕事に
むいているか考えようと、今や行政によって
小学校に下ろされています。
そんなことは高校でじっくり考えさせれば
いいことですが
こうしたことは選別を早期にしてゆく隠れ蓑に
なっていると思います。

背景には経済自由主義の原理である
関税を廃止して垣根を超えて
自由に商品を購入できるの同じ
発想が働いています。

(3)
その発想のもとで学区の制約をはずして
「学校選択の自由」を拡大し
学校間の「成績のよい子の奪い合い競争」を
させて、民間の経済活動と同じ原理を
人間教育の場に持ち込まれてきました。
学校間競争を激化させるのです。
まさしく府知事として橋本氏のやったことは
その極端な例でした。

教育を商業と同じ買い物のように見る
この時代の多くの人々に受け入れられ、
それが社会を劣悪化していることが
利己主義の目から見ている人々には
見えてこないのです。

また大学の授業料も少しずつ値上げされ
ひどい高額に達しています。

それは「受者負担」というこれまた
教育を投資的に見ることを
当然のものとして社会に
受け入れさせてきました。

社会に奉仕する学問研究という高い志を
持つものに将来の社会貢献のために
社会的に財政的にも保障するというのではなく
自分を労働力として高く売るための自分の
労働力商品価値のアップという
商業的な利己的な目的に高等教育が位置づけられます。

Education is not for Sale.
という国際学生運動のスローガンが
いかに適切かということです。


(参考と補足 )
(1)事例

以上は、マクロな文脈から公的教育に
光をあてたものです。
ミクロな目から見ると、もちろん
問題の出来事ごとにいろんな背景があります。

1980年代の高校での体験の一例を紹介します。

私がその時、生活指導部にいたので
知っているのですが、こうしたことは極秘です。
一見普通の仲良しグループに見える子供たちですが
一人、気の弱い子がいて、その子を強くしてあげるといって
二人の子がいじめをはじめます。
恐い場面に堪えるように根性をつけるわけです。
次第に増えて5~6人の一見普通の子が
その子のいじめに加わります。
ついに海岸の崖の上から逆さにしてつるします。
落ちたら死ぬような場所です。

反省の作文を読むと、新しくいじめにくわわった子が
最初は「ひどいことをしている」という認識があったそうです。
しかし、「ま、この子の根性つけているんだから、いいか」と
そのうち「ひどいことをしている」という認識は
まったくなくなったそうです。

(2)

私たちの社会全体もそうなっているように思えます。
「利己主義的な競争の発想によいことだ」という美名が
与えられて、次第に人々は意識を非人間的な
状況にあわせた「現実主義」という名前の
大勢の流れに押し流されてゆきます。

単なる荒れではなくその中には、おそろしい
出来事がたくさんおきていることを見なくてはなりません。
最近きいた小学校中学年でのおそろい出来事を
ほんとは紹介したいですが、
関係者の努力を無にしないためには
秘密にしなくてはなりません。
しかし、同時に
私たちの社会の子供たちの育ちのプロセスには
深刻な事態が深部で進行していることを
知ってもらいたいと思うわけです。

ニュースに発覚するのはごく氷山です。

もちろん、ニュースにでた方がいいというわけではありません。
人々は教育のことがわかっていませんから
金八先生の「腐ったみかん」のようにそうした子を
排除するか軍隊にいれて鍛練すればいいというふうに
短絡的に判断します。

その短絡的意識は、
競争原理と上意下達の強化を教育にもちこんで
教育をさらに悪化させている政治家たちに
利用され、さらに事態を悪化させます。

良心的な教師はたくさんいるはずですが、
彼らの力量を超えた「想定外」の高い波がたえずやってくるのです。
地面の下にもっと大きな問題があるのですが、人々の目には
映らないのだと思います。


(参考)フィンランドは国際テストで、何故そんなに優れているのか
杉田荘治氏
http://www.aba.ne.jp/~sugita/160j.htm

   国際テストPISAで成功した理由
   フィンランド政府自身はその理由を総合教育にありとして、    次のように説明している。
   ○ どんな処にすんでいても、また性別や経済的な事情、
     母国語の違いなどには関係なく
     平等な教育を受けている。
   ○ 生徒は近くの学校に通う。
   ○ 教育は全体として無料である。
   ○ "選んで教育する"という教育ではなく、平等な総合教育である。
   ○ 中央が大綱を決め、地方が実行するという弾力的な行政である。
   ○ すべてのレベルが相互に作用し合い、協力している。
     また共通な理念を持っている。
   ○ "一人一人が向上する"という方針に基づいて生徒を評価する。
     テスト主義(点数主義)でもなく、ランキング付けもしない。
   ○ 高い教員の資質、自主的な教員であることを基としている。
   ○ "皆で社会を築いていこう"という学習概念に拠っている。

(参考、フィンランドには高校入試がない)
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/imai(07-1-30)
フィンランドの教育制度
京都産業大学文化学部 国際文化学科 今井 利佳

基礎学校最終学年の9年生になると
学校ごとの教科担当教師によって教科に4~10点満点で評点がつけられる。
生徒たちはその成績を見ながら、進学希望の高校を第5希望まで書いて
志望校に提出して合否結果を待つ。
ヨーロッパの主要国で採り入れられている
義務教育修了段階での国家的な資格試験はフィンランドでは行われていない。
もし、出された評点の成績が不本意な場合や、
どの高校にも入学が許可されなかった生徒は、
本人の希望によりもう1年間、10年生として、無料で教育を受けることができる。
授業には特別カリキュラムが組まれ、教科書も専用のものが用意される。
その場合、「落ちこぼれ」といった考え方はされず、
むしろ「一年多く勉強した」と見なされる。
フィンランドでは、低学力の生徒への支援は徹底的に行っている。
10年生の制度は彼らに修了資格と基礎学校の成績を上げるチャンスを与えている。
10年生も卒業して、職業学校に入学した場合は、一年分飛び級もできる。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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