Evanthia Reboutsika ~ Carousel (video inspired by god of star)


(Dialectical materialism was down by gods of heaven in order to lead life to eternal life)

This article is philosophy of dialectical materialism.
Mitsuki argues that dialectical materialism is important to make clear way of life which have significance.
Dialectical materialism was down by gods of heaven in order to lead life to eternal life.
Only dialectical materialism of Marx, Engels leads eternal life.
Understanding of dialectical materialism of Mitsuki is true.

この論文は弁証法的唯物論の哲学についてです。
ミツキは弁証法的唯物論の哲学は意義ある生き方を明らかにするために重要であると論じています。
弁証法的唯物論は永遠の生命に導くために星の神々によっておろされました。
マルクス、エンゲルスの弁証法的唯物論だけが、永遠の生命に導きます。
ミツキの弁証法的唯物論の理解は真実です。




エンゲルスの弁証法的唯物論とそれを「含んで超える」サーカー哲学

(1)
重要なことは完全な人間、完全な思想家はこのコスモスに
存在しえないことです。
エンゲルスに「唯物論」的弱点のあるという
ご指摘はそのとおりだとおもいます。
しかし、
欠点をみつけて「あなたはこれが足りない」と言えば
一人残らずどんな聖人、賢者も足りないところをもっています。
なぜなら、形をとって展開するこのコスモスに完全なるものは
ありえないからです。

私たちは夜空を見上げて同じ星々をみているかもしれませんが
地上で見る木々や山や建物は、
各人が別のものを見ています。
それぞれ正しいのです。
同じ建物を見ても、別の角度から見ています。
俺がみている建物の像が正しくて、
あなたが見ている建物の像が間違いなのではなく
みんな自分の真実を生きているだと思います。
私はそれでいいのだと思います。
みんなが見ている像、
みんなが見ている真実を
足しあわせて、新しい人類文明をつくってゆこう!
それが私の提案です。

(2)
私はエンゲルスの弁証法的唯物論は適切に受け取るなら
すぐれた世界観であると思っています。
スターリンが国教化して人間のマインドの抑圧に利用したことは
別の問題として考える必要があると思っています。
同じことはイエス・キリストの教えが、中世のカトリック・キリスト教会の
野蛮な魔女刈りにつながっているからとイエス・キリストが否定できないのと
同じだと考えています。

およそすべての理論的な思想は知的構築物であり
優れた理論はすべてドグマ、すなわち超えてはならない枠をもったものに
転化する可能性が大です。
すべての優れた思想体系が大衆化する時
免れることができないものだと思います。
後継者によってドグマ化される危険性をもった思想は
それだけ、すぐれた思想であることの証明でもあります。

エンゲルスの弁証法的唯物論の世界観も
あらゆる知的構築物として
他のすべての世界観の人々を尊重するように
対処すべきであり、
キリスト教徒に向って、キリスト教は間違いだと
言ってもはじまらないように
エンゲルスの弁証法的唯物論という世界観の人も
同じように一つの世界観として敬意をもって
対処すべきだと思います。

(3)
エンゲルスの弁証法的唯物論は
その思想の中にドグマを超えるものを
含んでいる世界観です。
それをドグマという教義にしてしまった人は
エンゲルスの弁証法的唯物論の世界観を
理解していない人だと言わざるをえません。
ドグマ化した弁証法的唯物論を批判している人も
それはドグマ化した人も
エンゲルスの弁証法的唯物論の神髄を
理解していないといわざるをえません。

エンゲルス自身の言葉をみましょう。

「われわれわが自然、人間の歴史、
ないしいはわれわれ自身の精神活動を考察する場合、
まず第一にわれわれの前にあらわれるのは、
もろもろの連関と相互作用の絡み合った姿である。
このからみあいの中でもどんなものも、
もとのままのものではなくもとのままのところ、
もとままの状態にとどまってはいないで
すべてのものが運動し、変化し、生成し、消滅している。」
「だから、世界全体とその発展、人類の発展、
そしてまた人間の頭のなかでのこの発展の映像を
正確にあらわすことは、ただ弁証法的な道によってのみ
すなわち生成と消滅、前進的または後退的変化の
全般的相互作用にたえず、注目することよってのみ
達成できるのである」
エンゲルス『空想から科学への社会主義の発展』

このコスモスのすべてがつながりあっており
そしてたえず生成・発展・消滅のプロセスである
という見方は、ワンネス哲学そのものにほかなりません。

このプロセスは知的構築物たるヘーゲルの体系が
崩壊し、次の段階に進まざるをえないように
マルクスとエンゲルスの知的構築物も
この弁証法的唯物論の法則から逃れることは
できず、やがてより高次なものと
とってかわられる日がくる。
今、その日が来つつあるのだと思います。
(実際、エンゲルスの文章の中に
そのようなものを見たことがあります)

そして私たちの認識はたえず変化し、
このコスモスの中では相対的真理でしかありえず
より認識が進化していくプロセスが
そこにあるだけであると
エンゲルスが述べているのを見たとがあります。

これはこの世のあらゆる知的構造物を
絶対的真理とする愚を厳に戒める思想であると
理解しています。

(3)
私は20才の時にエンゲルスの『フォイエルバッハ論』という本を
読んだのが、始まりです。その後、何度も読みました。
そして体験した人生の中からそのことが真実であることを感じます。

「つきづきとつづいてあらわれてくるすべての歴史的状態は
低いものから高いものへとすすんでゆく
人間社会のかぎりない発展途上における経過的段階にすぎない」
「この弁証法哲学は、究極的な絶対真理や
それに対応する人類の絶対的状態という考えを
すべて解体してしまう。・・
そのまえでは生成と消滅とその不断の過程
低いものから高いものへかぎりない
上昇の不断の過程のほかにはなにも存在しない。・・・
この哲学も、もちろん、保守的な面をもってはいる。
それは一定の認識の段階と社会の段階とが
それぞれの時代と事情とにたいしては
正当なものだと認めることである。
しかし、それ以上ではない。
この見方の保守性は相対的なことであり、
この見方の革命的性格は絶対的である。」

「以前には現実的であったものすべてが
発展のすすみゆくなかで、非現実的となり
その必然性を失い、その存在の権利をうしない
その合理性をうしなうのであって
死んでゆく現実的なもののかわりに
新しい生活力ある現実性があらわれてくる」
エンゲルス『フォエイルバッハ論』

若い時に身につけたこの世界観は
自分の根底に今もずっと流れつづけています。
私の人生を支え続けてくれています。
世界観というのはそういうものではないでしょうか。

(3)
存在しているものはすべて存在理由があって
存在している。
あなたも、このメールグループも
このコスモスに意味があって生まれた。

この弁証法的唯物論の哲学も含めて
あらゆる存在がそうである。
そして一定の歴史的役割を演じて
生成、発展、消滅のプロセスをたどり
より高次の現実に存在をゆずってゆく。

完全なものはなかったし、これからもない。
あるのは永遠のプロセスだけである。

ワンネス・スピリチュアルな世界観は
これと同じことを述べます。

(3)
エンゲルスがコスモスの運動法則を
「ここまで解明してくれた」と感謝して読むのか
弁証法的唯物論として物的レベルを中心にした議論を
していることでもって
「ここまでしか解明していないではないか」と批判的に読むのかで
大きな違いがでてきます。

私は「ここまで解明してくれた」と感謝して読む側です。

サーカーは、ここでエンゲルスが弁証法と述べている見方を
いろいろなところで論じています。

「この宇宙のすべてのものobjectが動いています。
粗大なもの、精妙なもの、物的なもの、心理的なもの、
は常に動きの中にあります。
それは固有の動性(ダイナミズム)の中にあります。
この世界のあらゆるものが動いており、
あらゆるものが動きの中にあります。
停止しているものはありえません。
それゆえ、時、場所、人の相対的要素の中にある
実体にとって、静止は絶滅を意味します。
それゆえ、動き、動くことは不可欠です。
動きが宇宙の特質ですから、
できるかぎり動いている人は勝利者となります。」
Dhuva and Adhruva

この文章はこの宇宙が動きの中にあることの説明ですが
別の箇所では、サーカーは生成、発展、消滅を繰り返していると
エンゲルスと同じことを述べています。
生成、generation 発展operation、消滅destruction なので
エンゲルスの唯物弁証法はサーカーにとってはGODの法則といいます。

(4)
さて、サーカーはエンゲルスの弁証法的唯物論を「含んで超えて」います。

それをDhuva「不変のもの」 と Adhruva「変化するもの」という
サンスクリット語で論じます。

「この宇宙のあらゆるものは休みなく動いているので
あらゆるものは Adhruva「変化するもの」です。

「この全宇宙はAdhruva(変化するもの)です。
Dhuva「(不変のもの)である唯一の実体は、
パラマ・プルシャ(普遍意識)です。・・・
あなたがこの世界で見ているものは、
時、場所、人の相対的要素の領域の内部にある
創造されたものcreationの側面です。

時、場所、人を超えてある唯一の実体が
非人格的実体のパラマ・プルシャ(普遍意識)です。

私たちが見る時はいつでも
あらゆるものの外的ダイナミズムを見ています。
この外的ダイナミズムの中で
私たちは何かを得て喜び
何かを失い気落ちします。

私たちが究極のリアリティを発見するなら
この世俗世界での獲得した時の瞬間的な「喜びPleasure」や
喪失した時の気落ちを感じないでしょう。
(注、ここで言う喜びは表面的な喜びです)
獲得しようが失おうが
至高の実体は、常に私たちとともにあります。
私たちは至高の実体とともにある永遠の至福の中にあります。」
サーカー『Dhuva and Adhruva』

(5)
どういうことかというと
純粋意識の海があるとしましょう。
その海の表面の波からこのコスモスが作り上げられています。
したがって、このたえず動いている物的宇宙が
意識の海の波だとすると
この宇宙のすべてはパラマ・プルシャ(普遍意識)に
ほかならないわけです。

存在の表から見たら多様な物質ですが
存在の裏から観たらただ一つの普遍意識なのです。
至高の実体とはただ一つの普遍意識です。

多様性とダイナミズム(=生成・変化・消滅を繰り返す)
をもったこの世界の「多」に「一」を見なさいというのが
サーカーの教えです。

水蒸気も水も氷も雪も
H2Oがたえず変化する表面の姿にほかなりません。
弁証法的唯物論は存在の表面から見ます。

ワンネス哲学は、多であり、相対的である
存在の表面のたえず運動している諸実体の中に
一なる普遍意識を見るわけです。

この普遍意識は私たちの個人の自己selfの奥底にある
人類共通の自己Selfでもあります。

すなわちこれは瞑想において自己selfを自己Selfに
溶け込ませる時、世界はこのように見えるという
直観知にほかなりません。

(6)
興味深いことは
中沢新一が『はじまりのレーニン』の中に
詳しく紹介していることですが
レーニンは『哲学ノート』の中で
ヘーゲルを研究しながら
ヘーゲルの言う「精神」は「物質」に
ほかならないことに気づきます。
「精神」と「物質」と入れ換え可能なのです。

ヘーゲルの言うのは個別精神のことではなく
宇宙全体の絶対精神のことだと思います。
ヘーゲルの絶対精神とはサーカーの言う「普遍意識」と
考えられます。

レーニンが気づいたことが
サーカー哲学においては出発点になっています。
物質の材料は意識であり、
物質は意識からできているのです。

なぜ、エンゲルスもレーニンの弁証法も
物質世界の深部に達することができなかったのか
それは、心という観測装置を研く方法としての
瞑想レッスン(直観的実践)の実践論がなかったからです。
物質の深部、存在の裏側をさぐるには
ガリレオ・ガリレイがレンズを磨いたように
「心」という観測装置を研く必要があります。

H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

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