Brian Crain - Gentle Rain and Daniel dell'Orfano - paintings
(video inspired by god of star)
(Meditation means that I consciousness closes to ectoplasm of parent god by stop of activity of mind)
This article is that mind has horon structure.
Human I consciousness is in ectoplasm of parent god.
Ectoplasm of parent god is in base of universe.
Then there is layer of human I consciousness.
When living human live, mind of I consciousness works.
Then activity of mind is based on mind of I consciousness.
Meditation means that I consciousness closes to ectoplasm of parent god by stop of activity of mind.
この論文は心はホロン構造をしている,です。
人間の私意識は親の神の思念体の中にあります。
親の神の思念体は宇宙根底にあります。
その上に人間の私意識の階層があります。
人間として生きているとき,私意識の心が活動します。
そして心の活動が私意識の心をベースとして展開します。
瞑想は,心の活動を停止することによって親の神の思念体に近づくことを意味します。
小宇宙論と瞑想の意義 サーカーの哲学から
(小宇宙の内部のホロン的階層構造)
小宇宙の
「私(マハータットヴァ)」
「私は思考する(アハムタットヴァ)」
「私が思考した結果(チッタ)」の関係は、
「含んで超える」ホロン的階層構造をしています。
素粒子を含んで超えて原子
原子を含んで超えて分子
細胞基底にある素粒子が消えたら、原子も分子も細胞もありません。
細胞は崩壊して消えても、分子も原子も素粒子もあります。
同じように上記の小宇宙の構造においても
「私の存在感覚」(マハータットヴァ)がなくなったら、
「私は思考する」(アハムタットヴァ)も
「私が思考した結果」(チッタ)も
成立しません。
逆に
思考した結果が消えても、
思考活動が消えても
「私の存在感覚」マハータットヴァは消えません。
(瞑想の意義)
瞑想して、チッタ(思考の結果)、
アハムタットヴァ(思考活動)を
停止しているのに、
すなわち心の活動作用を停止しているのに
「私が存在する感覚」(マハータットヴァ)を与えているものは何なのか。
「私」の存在を立証しているものは何なのか。
サーカーの基本哲学の中で
「私の存在感覚(マハータットヴァ)」の背後に
「ただ見つめているだけの実体」が存在する。
すなわち
「私」の存在を論理的に立証するには、
「ただ見つめている実体」を設定するしかない
とありました。
それをサーカーは個体意識とかアートマンとか言います。
私が『基本哲学』を読んでもっとも感心したところは、
この箇所を論理的に説明していることでした。
なるほどーと思いました。
さて、このように「私の存在感覚」(マハータットヴァ)が
眠りや死によって消えても、
この「私」を奥からただみつめている実体である
個体意識(アートマン)は残ります。
瞑想は、私の心の展開の中での「主観(見つめるもの)」と「対象(見つめられるもの)」
というワンセットを奥へ奥へと導きます。
私たちが「われを忘れて外側の対象に夢中になっている時」
心は、思考の投影結果である形あるチッタに夢中になっています。
「私」が「思考活動」と「思考の結果」を適切にコントロールできていない状態が生れます。
そこで、「思考活動」と「思考の結果」を
心の中で「私」に見つめさせるつづり方教育や内省が有益であることがわかります。
主観たる「私」が対象たる「思考活動」「思考結果」にひきずられずに、 適切にコントロールできるようになるレッスンだからです。
文章に書く反省や静かに内省する時、
「私」が「思考活動」と「その結果」を見つめるからです。
心の材料は二つの部分になり、
見つめる主観の部分の「私」と
見つめられる対象の部分は、「思考活動」と「思考結果」です。
瞑想は、この主観と対象のワンセットをひとつ奥にずらします。
瞑想によって、それまで主観であった「私」は、
見つめられる対象になります。
今度は、ただ見つめている実体である個体意識(アートマン)が主観になります。
瞑想の深まりとは、 主観の位置が奥へ奥へと深まってゆくことにほかなりません。
最終的にそれ以上に奥はない、
至高の主観の存在ポイントまで到達しますよ。
そこが至高の大文字のアートマンであり、
至高の意識であり、
形質が賦与されていないニルグナブラフマとなります。
ちょうど自転車の車輪のスポークのように
個々のアートマンたるスポークは、
軸芯においてひとつですよと
サーカーは述べていました。
もっとも奥まで達した軸芯のポイントこそ、
個体意識がプラクリティの束縛から解放されたポイントであり、
この宇宙が発生したポイントであり、
私たちが立ち返る万物の共通のふるさとなんだよといわけです。
この一なるものから出発し、
一なるものに戻る旅としてのこのコスモスの見方は、
まったく別の思想圏にあるウィルバーとの共通点で、
根本のコスモス観が共通するなあと思います。
(永久的につづく個体意識アートマンの旅)
だから物的身体構造が崩壊しても、
個体意識(アートマン)は永遠です。
個体意識とは、心の領域の出発点たる「私の存在感覚」の背後から
「ただ見つめている実体」です。個体意識(アートマン)は、
肉体構造をとった期間に様々な体験をしながら、
内的世界とその内的世界の必要を満たす物質構造を生み出しながら進化してゆきます。
最近、次のような夢をみた気がします。
魚みたいな動物であった私が
(自分が海の魚なのか陸の動物かは定かではありません。
自分についての認識かなかったように思います)
未発達な意識(心)をもっては、
何かに食べられるかして、また意識(心)をもって、また消えて、
ああ、またかというふうに飽きるまで、
繰り返し、意識(心)か生まれ、
消えていったような体験が
記憶の底から浮かびました。
この深層心理が真相であれば、
私たちは、永続する実体たるアートマン(個体意識)が
、 原子、分子、細胞の複合体構造の形を
繰り返しとりながら、進化してきた実体にほかなりません。
アートマン(個体構造)の心の進化に対応して
進化した物的身体構造があらわれてきたとも考えられます。
私たちは、形をとってあらわれたこの肉体ある自分が一時的であっても その期間にしか自分を進化させることはできません。
(死んだらとても立派な魂なると
死後を美化するスピリチュアルな人がいますが、
サーカーの論では、肉体をもって生きている間に社会に貢献し、
スピリチュアル・プラクティスを行い、
自己の向上、進化を実現してこそ、
出発点の一に立ち戻るアートマンの旅をすすめてゆくことができます)
しかし、一時的なるものにとらわれて執着しすぎると進歩を阻害します。
ある時点で進歩のために必要であったパターンは、
その必要性か終わると単なるパターンとして残ります。
ちょうど階段を登るようにあるパターンを
踏み台にして次のパターンを形成し、進んでゆくんだと思います。
そして次第に高い見晴らしのいい地点へと高まってゆくんだと思います。
そして最後にパターンから最終的に解放された頂上(旅の終着駅)にゆきつくのだと思います。
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)Human I consciousness is in ectoplasm of parent god.
Ectoplasm of parent god is in base of universe.
Then there is layer of human I consciousness.
When living human live, mind of I consciousness works.
Then activity of mind is based on mind of I consciousness.
Meditation means that I consciousness closes to ectoplasm of parent god by stop of activity of mind.
この論文は心はホロン構造をしている,です。
人間の私意識は親の神の思念体の中にあります。
親の神の思念体は宇宙根底にあります。
その上に人間の私意識の階層があります。
人間として生きているとき,私意識の心が活動します。
そして心の活動が私意識の心をベースとして展開します。
瞑想は,心の活動を停止することによって親の神の思念体に近づくことを意味します。
小宇宙論と瞑想の意義 サーカーの哲学から
(小宇宙の内部のホロン的階層構造)
小宇宙の
「私(マハータットヴァ)」
「私は思考する(アハムタットヴァ)」
「私が思考した結果(チッタ)」の関係は、
「含んで超える」ホロン的階層構造をしています。
素粒子を含んで超えて原子
原子を含んで超えて分子
細胞基底にある素粒子が消えたら、原子も分子も細胞もありません。
細胞は崩壊して消えても、分子も原子も素粒子もあります。
同じように上記の小宇宙の構造においても
「私の存在感覚」(マハータットヴァ)がなくなったら、
「私は思考する」(アハムタットヴァ)も
「私が思考した結果」(チッタ)も
成立しません。
逆に
思考した結果が消えても、
思考活動が消えても
「私の存在感覚」マハータットヴァは消えません。
(瞑想の意義)
瞑想して、チッタ(思考の結果)、
アハムタットヴァ(思考活動)を
停止しているのに、
すなわち心の活動作用を停止しているのに
「私が存在する感覚」(マハータットヴァ)を与えているものは何なのか。
「私」の存在を立証しているものは何なのか。
サーカーの基本哲学の中で
「私の存在感覚(マハータットヴァ)」の背後に
「ただ見つめているだけの実体」が存在する。
すなわち
「私」の存在を論理的に立証するには、
「ただ見つめている実体」を設定するしかない
とありました。
それをサーカーは個体意識とかアートマンとか言います。
私が『基本哲学』を読んでもっとも感心したところは、
この箇所を論理的に説明していることでした。
なるほどーと思いました。
さて、このように「私の存在感覚」(マハータットヴァ)が
眠りや死によって消えても、
この「私」を奥からただみつめている実体である
個体意識(アートマン)は残ります。
瞑想は、私の心の展開の中での「主観(見つめるもの)」と「対象(見つめられるもの)」
というワンセットを奥へ奥へと導きます。
私たちが「われを忘れて外側の対象に夢中になっている時」
心は、思考の投影結果である形あるチッタに夢中になっています。
「私」が「思考活動」と「思考の結果」を適切にコントロールできていない状態が生れます。
そこで、「思考活動」と「思考の結果」を
心の中で「私」に見つめさせるつづり方教育や内省が有益であることがわかります。
主観たる「私」が対象たる「思考活動」「思考結果」にひきずられずに、 適切にコントロールできるようになるレッスンだからです。
文章に書く反省や静かに内省する時、
「私」が「思考活動」と「その結果」を見つめるからです。
心の材料は二つの部分になり、
見つめる主観の部分の「私」と
見つめられる対象の部分は、「思考活動」と「思考結果」です。
瞑想は、この主観と対象のワンセットをひとつ奥にずらします。
瞑想によって、それまで主観であった「私」は、
見つめられる対象になります。
今度は、ただ見つめている実体である個体意識(アートマン)が主観になります。
瞑想の深まりとは、 主観の位置が奥へ奥へと深まってゆくことにほかなりません。
最終的にそれ以上に奥はない、
至高の主観の存在ポイントまで到達しますよ。
そこが至高の大文字のアートマンであり、
至高の意識であり、
形質が賦与されていないニルグナブラフマとなります。
ちょうど自転車の車輪のスポークのように
個々のアートマンたるスポークは、
軸芯においてひとつですよと
サーカーは述べていました。
もっとも奥まで達した軸芯のポイントこそ、
個体意識がプラクリティの束縛から解放されたポイントであり、
この宇宙が発生したポイントであり、
私たちが立ち返る万物の共通のふるさとなんだよといわけです。
この一なるものから出発し、
一なるものに戻る旅としてのこのコスモスの見方は、
まったく別の思想圏にあるウィルバーとの共通点で、
根本のコスモス観が共通するなあと思います。
(永久的につづく個体意識アートマンの旅)
だから物的身体構造が崩壊しても、
個体意識(アートマン)は永遠です。
個体意識とは、心の領域の出発点たる「私の存在感覚」の背後から
「ただ見つめている実体」です。個体意識(アートマン)は、
肉体構造をとった期間に様々な体験をしながら、
内的世界とその内的世界の必要を満たす物質構造を生み出しながら進化してゆきます。
最近、次のような夢をみた気がします。
魚みたいな動物であった私が
(自分が海の魚なのか陸の動物かは定かではありません。
自分についての認識かなかったように思います)
未発達な意識(心)をもっては、
何かに食べられるかして、また意識(心)をもって、また消えて、
ああ、またかというふうに飽きるまで、
繰り返し、意識(心)か生まれ、
消えていったような体験が
記憶の底から浮かびました。
この深層心理が真相であれば、
私たちは、永続する実体たるアートマン(個体意識)が
、 原子、分子、細胞の複合体構造の形を
繰り返しとりながら、進化してきた実体にほかなりません。
アートマン(個体構造)の心の進化に対応して
進化した物的身体構造があらわれてきたとも考えられます。
私たちは、形をとってあらわれたこの肉体ある自分が一時的であっても その期間にしか自分を進化させることはできません。
(死んだらとても立派な魂なると
死後を美化するスピリチュアルな人がいますが、
サーカーの論では、肉体をもって生きている間に社会に貢献し、
スピリチュアル・プラクティスを行い、
自己の向上、進化を実現してこそ、
出発点の一に立ち戻るアートマンの旅をすすめてゆくことができます)
しかし、一時的なるものにとらわれて執着しすぎると進歩を阻害します。
ある時点で進歩のために必要であったパターンは、
その必要性か終わると単なるパターンとして残ります。
ちょうど階段を登るようにあるパターンを
踏み台にして次のパターンを形成し、進んでゆくんだと思います。
そして次第に高い見晴らしのいい地点へと高まってゆくんだと思います。
そして最後にパターンから最終的に解放された頂上(旅の終着駅)にゆきつくのだと思います。
appeal of gods of star
all H.P. of project of Heaven and gods