"Edelweiss" - Andre Rieu (video inspired by god of star)


(Only relative truth exists)

This article is that there is no complete thought in this world.
Thought is ectoplasm structure.
Ectoplasm structure is based on field of specific points of time-space. Field of specific point of time-space is flowing.
Ectoplasm structure cannot keep specific form.
Only relative truth exists.

この論文は,この世界に完全な思想はない,です。
思想は思念体構造です。
思念体構造は時空の特定点の場にもとづいています。
時空の特定点の場は流れています。
思念体構造は特定の形を維持できません。
相対的真理だけが存在するのです。




不完全なる私たちと完全なるもの

(1)

私は、この形ある世界に思想は、完全ではありえないし どのような天才も聖者も、
100%ではありえないと考えています。
時、人、場所の影響を受けるからです。

私は、若いころ日教組の教育研究集会で社会科分科会で報告し、
「同じことを教えても、子どもの受け止め方は乱反射する」
ということを論じたことがありました。
授業で示した一つの資料に対して
このように子どもは
一人一人違った受け止め方をする
と具体的に紹介しました。
つまりに伝えようとする意図とは別に
多様に受け止められることに留意する必要がある
ということです。
(私のその報告の「乱反射」を
別のところで紹介してくれた教師もありましたから
たぶん多くの人の実感だろうと思います)

ケン・ウィルバーの『進化の構造』のⅠ、Ⅱ巻を読んで
(大著なので暇な人しかすすめられませんが)
乱反射の理由がわかりました。
彼は思想家をコスモスの山の地図をえがき、
それぞれをコスモスの山に置いて
それぞれを正当に位置づけ
そこに妥当性を評価し
すべての思想家について
限界を指摘する程度にとどめています。
子どもたちも一人一人が、
コスモスの山の立ち位置が異なるから
異なる反応をしているのです。
完全なる純粋な思想を設定し
「その俗流化はけしからん」と
いうことはないと思います。
問題は、受け止めた人が、
完全なるものとして
ドグマとして凍った固まりの教義としてしまうところに
人間のマインドの最大の問題があるのだと
思います。
固まりを溶かすには、相手をそのまま認めて
心を自由に拡張することを援助してゆくことが
スピリチュアリストの任務になります。
(サーカーの「知性の解放」論によれば)

ですので
「エンゲルス、レーニンを経て、
スターリンへと至ったマルクス主義の俗流化」
という発想は、そこに純粋マルクスとして完全なるものが
設定されているように思えるのです。
マルクスをエンゲルスは「俗流化」した。
それはそれでいいと思います。
20才のころ私は、エンゲルスの「フォイエルバッハ」論と
出会い、その弁証法的唯物論を深く学んだことが
その後の私の哲学的思考のベースになっているように
思えます。
マルクスも読もうとしてみましたが
とても理解困難だったことを覚えています。
しかも、エンゲルスの「フォイエルバッハ」論は
いい解説書があって
やっと「なるほど」と思った次第です。
私は、長年、それほど学力が高くない高校で働いています。
少しでも、高い質の内容を与えたい思って努力しますが
大胆にカットしたり、デフォルメして「俗流化」しないと
実際に生徒の理解するものとなりません。
どんなに賢い人も、結局のところ
その人がコスモスの山をのぼる歩みの途中に
すぎません。
高い人が純粋で
低い人が俗流ではありません。
高い人も自分のマインドを拡張してゆく
無限のプロセスがあるのだと思います。
問題は、完全なるものを設定して
拡張をとどめてしまう
「ドグマ化」だと思います。
だから
絶えず「含んで超える」という姿勢をもつことが
大切だと思います。
無限に心を拡張するためには
学んできた思想や思想家は
梯子の段だとして役立てばいいと思うのです。
だからエンゲルスがマルクスを俗流化したと
論じる学者たちは私にとっては縁がないのです。
私には、エンゲルスの弁証法的唯物論は
二十歳の時に学んだ梯子の段として
しっかり、今も役立っているからです。
(そしてその哲学と同じものをサーカーにもラズロにも
ウィルバーにも見るのです。)
そこにマルクス、あるいはマルクス主義の
完全なるものはないと私は思うのです。
マルクスの思想がエンゲルスからゆがんだと
論じるのは暗黙の前提として
完全なるものを設定されているように
感じるのです。
あるのは各人の心です。
その拡張がテーマなんだと思います。

(そして、一般論ですが
私は平和と民主主義を深めようとする社会運動を支持しますが
その表現が、本当に日々仕事で忙しい
一般の人々の心とどくものになっているか
たえず検討が必要だと思います。
心ある知識人の議論がとどかないことで
一般大衆の心は
枝葉末節な論や
日々にセンセーショナルなニュースや
ある場合には右翼的排外思想が
容易に入り込む余地を生み出して
しまいます。
私はこれは日本の思想状況の
早急に克服されるべき課題だと思っています。
つまり、大衆にわかるように俗流化はかまわない
たえず、得た知識を踏み台にして
さらに高まってゆくことが大切なんだと思います。
どんな偉い人も偉くないひとも、
不完全なたえず進歩してゆく存在だという
理解が必要だと思います)

(2)
では完全なるものはどのようなものとして
設定すべきなのでしょうか。
完全なるものは、唯一、「非二元」としてのみ設定できます。
サーカーの究極の意識についての説明です。
「ブッダの弟子が、彼Heが存在するかどうか聞きました。
ブッダは無言でした。弟子が彼に
『その時、彼Heは存在しなかったですか』と聞いた時、
ブッダは言葉を失ったままでした。
 その結果、何人かの人々は、
ブッダは、神が存在しないと言いたいのだ思い込みました。
その時、何人かは神の存在を推論しました。
 しかし、本当の直観主義者である人々は、
彼が心の領域を超えた実体、
すなわち「ある」か「ない」かの領域を超えた実体であることを理解していました。
心の活動範囲にやってくるものは相対的真実にほかなりません。
永遠の真実ではありません。
だからそれは、移り変わってゆきます。
経典や神話は、積み重なったレンガの山のようなものです。
それらは、層をなして積んであるだけであり、
本質的な価値はありません。
どうして、それが心の領域を超えている
究極の実体を描き、説明することができるでしょうか」
P.R.Sarkar
(SUPREME BENEVOLENCE AND MUNDANE PLEASURE (SHREYA ANDと PREYA) [初期の編集ではBLISS AND PLEASURE]
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