Aeoliah - Rising In Love (video inspired by god of star)


(Wave means repeat of balance, unbalance and rebalance)

This article explains that three force which works in base of universe.
Three force are explained in documents of Heaven also.
Everything in this universe moves in form of wave.
Wave means repeat of balance, unbalance and rebalance.
Balance is equilibrium of two force base on field of flow forwarding force.
This is because full of Higgs particle flow in base of universe.

この論文は宇宙根底で働く三つの力を説明しています。
三つの力は天の文書で説明されています。
この宇宙のあらゆるものは波の形で運動しています。
波は、バランス、アンバランス、バランスの回復の繰り返しを意味します。
バランスとは、前方に進む流れの場の二つの力の均衡です。
これは、ヒッグズ粒子の充満が宇宙根底で流れているゆえです。




非集中民主主義経済への道

藤岡惇教授の
「学んでほしい「経済良識」,11のエッセンス
     社会の「良き船長」となるためにー
藤岡惇氏の103の論文が紹介されているページです。
http://research-db.ritsumei.ac.jp/Profiles/33/0003220/theses1.html
コメントした私の文章の中から
次の四つのテーマについて、紹介させてもらいます。

(1)福島原発事故は非集中民主主義経済の必要性を教えている
(2)マネーゲームに走りすぎるとコスモスの深部からのバランス回復の力が人類に災難をもたらすのではないか
(3)アダム・スミスの市場経済の四条件
(4)ソ連型社会主義と資本主義をどう見るか

(1)福島原発事故は非集中民主主義経済の必要性を教えている

「全体善指数から企業の業績や政府部門の業績を
評価していかないことには,
「よき政府」「よき企業」を識別したり,評価したりはできない」
との問題提起にもなるほどなあと思いました。

今回の災害の被災の状況を観るにつけ
何気なく使っている水道や電気、ガス、通信、道路などの
ありがたさを痛感しました。
その大切な電気を人々に供給し続けてくれている電力会社は
私たちの社会生活に不可欠の役割を果しているんだと
再認識しました。
これは「全体善」です。
いったん事故があるととりかえしがつかない
原発を採用するという方針の電力会社ですが
この場合はどのように評価すべきでしょう。

今回の事故は「全体善」が
中央集中の形centralized economyで提供されると
GOD(generation operation destruction、生成、展開、破局)という
コスモスの存在原理の中で破局の局面で悲惨になることを示していると
考えます。

非集中の経済decentralized economyでは
たとえば、発電が地域のすべての公共施設の屋根に太陽光発電
そしてそれぞれの地域に流水発電、すなわち
それぞれのところでの自家発電を基本として
それを補完するものとして電力会社の発電所が存在するという
非集中の経済構造となります。
現在、東日本での避難所の電力供給の不足で
寒さに震えています。
しかし、非集中の地域中心経済構造では、
それぞれの地域の発電力をもっていることで防げると思うのです。

この宇宙はすべての要素が絶えず変化し
バランスをくずしながら回復して均衡を取り戻すを
繰り返しています。
各地域の経済的回転を三方向の矢印にたとえて
考えます。
小さな三方向の力が絶えず
不均衡をひきおこしながら統一を回復してゆきます。
その運動プロセスは絶え間なく進みます。
不均衡と均衡回復というプロセスがこの宇宙の存在原理です。

可能なかぎり小さい三方向の力が各地域で回ってゆくよう
足りないもの、より規模の大きなものを必要すと事業が
より広い地域の三方向の力として組織されます。
さらに広範囲の三角が重層構造的に積み重なります。

これが非集中の地域経済構造です。

大きな三角の経済構造をつくることは
避けることができない不均衡の法則 destrucion(破壊)の
時期に破局が大きくなり、人々の苦悩は増します。

内部に重層的な小さな三方向の三角をもち
不均衡が生じたらたえず微調整で
三方向の力の均衡を回復するというプロセスを内包すると
destruction(破局)は、単なる調整で済みます。

TPPも巨大な三角構造をつくるのですが
このコスモスがGOD(生成、展開、破壊)のプロセスの中で
展開しているリアリティを観る必要があると思っています。
私たちは、プロセスは必ずdestruction(破局)の側面を
含むということを肝に命じて社会経済構造を構想してゆく
べきだと思うのです。

(2)マネーゲームに走りすぎると
コスモスの深部からのバランス回復の力が人類に災難をもたらすのではないか

藤岡さんはマルクスの『資本論』をベースに
それを「含んで超える」立場で、研究してされている方だと
思います。
「抽象的労働の質と量によって,価格の軸心は定まる」
の「抽象的人間労働」は「具体的有用労働」との対比で
サーカーの「一」と「多」と関係からも理解できるなあと思うのです。

一人の人間のエネルギーが、ある時は、掃除をし、
ある時は、料理をし、ある時は、パソコンをします。
掃除も料理もパソコンも具体的な形をとった活動です。
しかし、一つの同じ生命エネルギーの発動にすぎません。
一なるエネルギーが多なる形態として顕現しているのです。
一なる抽象的エネルギーは、それ自体としては見えません。
具体的な形に顕現する必要があります。
しかし、具体的な形として見えなくても、
顕現したものとしてそれが見えなくても
厳然として一なる抽象的人間エネルギーの支出はあるのだと
思います。

さて、私は、『資本論』を哲学の書として読んでいたような気がします。
以下に、マネーゲームがその一部となっている
現在の経済を、直観的に哲学的に描いてみました。
商品は、交換価値と使用価値の「対立物の統一」として理解できると
私は考えています。

「対立物の統一」というのは
ある生産物は、
自分にとっての(使用価値)であれば、゛交換価値(売る価値)ではなく
交換価値として売りにだせば、自分にとっての使用形ではなく
ということで、使用価値と交換価値は「対立関係」にあり
しかし、使用価値と交換価値の両方をそなえていてはじめて「商品」です。
すなわち商品は、使用価値と交換価値の対立物の統一だと思うのです。

「対立物の統一」の統一とはバランスのことで
バランスがくずれると必ず、その崩れたバランスを回復しようとする
コスモスの根源的な力が働きます。

交換価値の背景にあるものは、抽象的人間労働であり
使用価値の背景にあるものは、具体的人間労働です。

抽象的だから多様な具体的人間労働に
商品の価値として互いに交換するための値段を与えることができ
労働価値説が成立するのだと理解しています。

そして、貨幣とは交換価値の側面が実体化したものであり
今や貨幣は、物的実体化を離れて、電子信号の数字として
行き交い、「マネーゲーム」という言葉がぴったりの時代に
なっていると思います。

しかし、貨幣はその出自である交換価値と抽象的人間労働を
その本質としてそなえていると思います。

つまり、「使用価値と交換価値の対立物の統一」における
交換価値の具現化であり、使用価値の側面との対応関係を
根底においてもっている存在だと思います。

私の知るところ、立場を超えて
猫も杓子も
全地球規模のマネーゲームに参加し
莫大な貨幣額が流通しています。

しかし、それは実体経済における具体的有用労働による生産物としての
商品とサービスの交換を促進する貨幣の基本的役割から
よりかけ離れつつあることだと思います。

すなわち、全使用価値と全交換価値の
巨大な乖離(アンバランス)が生じているということは、
コスモスの深部からのバランス回復の力が経済の世界でも
人類に災難をもたらすだろうと思います。

ちょうど、プレート移動での深部の矛盾が
エネルギー蓄積してある日、巨大な震災をもたらすように
現在の経済システムは莫大な災難を私たちに
もたらす日がくるだろうと思います。

それを防ぐ道は、
小さい三角を「含んで超えて」中ぐらいの三角
そして中ぐらいの三角を「含んで超えて」大きな三角
そして大きな三角を「含んで超えて」巨大な三角としていうように
自立と連帯の重層構造の経済をつくってゆくことだ
思います。

巨大な三角の経済構造は、
変化・流転、瞬時たりとも静止していないという本質をもつ
このコスモスにおいて
深部から働くアンバランス回復力によって、
甚大な災難を私たちにもたらすことになります。

(3)アダム・スミスの市場経済の四条件

藤岡論文に次のようにあります。

(6)アダム・スミスの積極面を学ぶ

 一定の条件の備わった市場経済は
道徳律を破壊しないことを証明することで,
市場経済に批判的であったキリスト教会を説得すること・・

これが,アダム・スミスが『国富論』を書いた
重要な動機のひとつであった。

その一定の条件とは何か。
①独占がなく,企業には機会均等,公正な競争が保障されていること,
②資本の所有者と経営者とが一致しており,
資本家はコミュニティの発展に責任を負う意識をもっていること,
③市場外に及ぼしているコスト(外部不経済)は,すべて内部化され,
生産コストに算入されていること,
④人間の生存・発達に不可欠な「人権」財の分野は市場化しないこと,
だ。
このような条件があれば,平等互恵の商取引が行われ,
資本家は地域経済の発展にも責任を感じることになるし,
公害問題もおこりにくくなるであろう。

しかしその後,資本主義は巨大な発展を遂げた。
スミスの設けた条件を,
どのように創造的に復活させたらよいのかを考える必要がある。
先に紹介したカナダ映画「ザ・コーポレーション」は,
そのための貴重な一歩だ。この映画の描く世界を理論化していけば,
「21世紀の資本論」の骨格ができるだろう。

(私のコメント)

アダム・スミスのこの四つの条件を実現するには
今日的に考えると

遠隔の地域に住む人間が 財の力で、別の地域の経済を決定する権利をもっている
Centralized Economyという資本主義的集中経済を克服して
地元の人が自分たちの経済計画を決定する権利をもつ
システムに移行するしか道がないと感じます。
地元でみんなで協力してつくる協同組合企業は
巨大な財力をもつ巨人である他地域に住む人が決定権をもつ
大企業に太刀打ちできません。
相撲の土俵で、相撲取りと子どもが競争するようなものです。

「企業には機会均等,公正な競争が保障される」ためには
どうしても、資本主義的な中央集中経済、すなわち遠隔の地の人による
地域経済への介入については、地域の行政による規制の権限の
強化が必要です。
ところが、今日進行している新自由主義的経済改革は
どんどん、行政による経済規制を緩和する方向に動いています。
もちろんなんでもかんでも規制がいいわけではなく
地域循環型経済にむけてどのような規制が必要なのか
適切な経済規制にむけての議論と合意形成が必要なのだと思います。

「②資本の所有者と経営者とが一致しており,
資本家はコミュニティの発展に責任を負う意識をもっていること」
という項目は、まさしく協同組合型企業こそ
それを担えると思います。
その場合は資本の所有者と経営者は一致しており
その人々は全員、地域住民だからです。

「③市場外に及ぼしているコスト(外部不経済)は,すべて内部化され,
生産コストに算入されていること,」
は、具体的には、環境対策費用などだと理解しますが
地元住民による参加型民主主義経済である
協同組合型企業は、住民が同時に「資本」家でもありますから
環境対策のコストを生産コストにいれるのは
あたりまえという意識が発生します。

「④人間の生存・発達に不可欠な「人権」財の分野は市場化しないこと,
だ。」

この「人権」財とは、藤岡さんのこれまでにでてきた定義では
水などの生存不可欠財があげられています。

「きれいな空気づ青潔な水・食料・エネルギー源・文化財など,
人の生存と人権とを支える不可欠な財のことを生存不可欠財という。」

これについても、今日進む資本主義の経済自由化路線に対決して
生存不可欠財を市場化させないための合意形成と
地域行政による規制の復活が不可欠だと思います。

イメージとして次のように考えています。

地域行政の規制復活は
「地域住民の地域住民による地域住民のために民主主義経済づくり」
を目標したものとなります。
それは大衆操作によって
知事になった人によってではなく
参加型民主主義を推進する行政と企業から自立した
全国津々浦々に組織された地域経済文化委員会が
地域の人々に影響を及ぼす中で実現してゆきます。

(4)ソ連型社会主義と資本主義をどう見るか

当時、資本主義世界に対抗して存在していたソ連社会主義圏についてですが
マルクスが「否定の否定」として出現する資本主義を超えた社会は
『すなわち、自由な労働者の協業と、・・・
彼らの共同所有を基礎として再興するのである』と表現していましたから
マルクスが言う意味での「社会主義」なのかは疑問がありましたが
ソ連が健在であった時には、いつか本当の「社会主義」に改革されるだろうと
見ていました。

ところが、サーカーは、共産主義国を国家資本主義だと見ていました。
今、考えると適切な指摘だと思っています。
「共産主義は国家資本主義です。
だから、共産主義が資本主義の欠陥を免れることができないのです。
国家資本主義は、私的資本主義や集団資本主義のように工業をコントロールします。
国家資本主義は、国家が工業をコントロールすることを意味します。
言い換えれば、国家資本主義において工業は中央集権的です。
共産主義諸国は、国家資本主義を支持します。
それは中央集権的な生産を意味します。
共産主義は、大衆の解放の問題について資本主義とは異なっているように思えますが、
資本主義と共産主義は内部では同じです。
同じ種の果実は異なる色をしていますが、その種は同じです。
資本主義と共産主義は同じ種の果実なのです。
人間の社会的経済的解放を実現するためには、
社会経済的に最高度の分権化
(非集中decentralization)が必要不可欠です。」
Decentralized Economy2

資本主義を超えるためは、経済の徹底的な民主化(非集中)が必要であり
それを推進するために抵抗する反革命と闘う中央集権的に団結した政治勢力は
必要だというのがサーカーの考えです。
つまり鍵は、政治はcentralization 経済はdecentalizationせよ、
です。

藤岡さんの今回のところでも、中央集権の政治がちゃんと
経済をコントロールして、ヴァイシャの経済的自由に制約をかけたから
資本主義は修正資本主義として生命力を発揮して展開できたと
見ておられます。
問題は、ソ連がつぶれて、資本主義に敵対する勢力はなくなったと安心して
資本主義が本質的にもっている非人間的な側面がより前面にでてくるように
なったことで、今日、困ったことになっていると私は考えています。

サーカーの弟子のアメリカ人の
ダダ・マヘシュヴァラナンダは
これからロシア革命のようなシュードラ革命が進展してゆく時代に入り
人類社会の大サイクルの第二サイクル目に突入すると見ています。
ラテンアメリカの民衆覚醒を間のあたりにしている彼の実感だと思います。

「厳密に言えば、シュードラ社会は、
ヴァイシャの秩序の転覆による目覚めの中に登場します。
このシュードラ時代は(本質的にアナーキイですが)
、革命におけるクシャトリアのリーダー(ksattriya-dominated leadership)が、
権力を固めるまでしか続きません。
ロシアではじまった共産主義革命は、社会サイクルのこの段階を示しています。
すなわち、シュードラ革命によるヴァイシャの支配が終わり、
新しいクシャトリア支配の社会をもたらしました。
世界全体が、このプロセスを再現する運命にあります。
その中で、(大文字の)社会サイクルSocial Cycleの第二のスパイラルに入ります。」
ダダ・マヘシュヴァラナンダ著『資本主義を超えて』世界思想社143ページ
H.P. of socialist earth government (社会主義地球政府のH.P.)

appeal of gods of star

all H.P. of project of Heaven and gods

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