218『共有』
2013年1月26日8時15分~9時10分
共有の思想は太古からあった。
長い間、人類は共有のもとで生活してきた。
狩猟採取経済において弓や釣り針は、共有の中での占有であった。
占有とは、所有は共有であるが、管理と使用をまかされていているという意味である。
自分にまかされた弓や釣り針は大切に手入れして有効に活用していた。
共有であって公有ではなかった。
構成メンバーから切り離された集団の所有ということはなかった。
個人は集団とともに、集団は個人とともにあったのである。
これが共有社会であった。
個人は集団とともにあったのであり、個人は集団のためにあったのではなかった。
公有ではなく、共有なのである。
公有がでてきたのは、農耕が始まり、少数者が多数者を支配する階級社会の発生からであった。
ムラの土地、穀物倉庫は公有となった。
公有は、共有ではない。
経済運営の決定権は、ムラの少数の幹部に集中した。
民主主義経済の核心部分は、生産手段の共有であって、公有ではないのである。
20世紀の社会主義は、名前は、社会主義であるが、生産手段の公有であって、生産手段の共有ではなかった。
21世紀の社会主義は、生産手段の共有である。
太古の生産手段の共有社会の高次復活である。
二本足の直立歩行の人類の歴史は100万年であるが、現生人類の歴史は10万年である。
現生人類10万年の歴史の中で、生産手段の共有の時代は9万5千年である。生産手段の私有と公有の時代は5千年である。
この私有と公有の時代の5千年は、地球の長い人類の歴史の過度期にすぎない。
これから何百万年と続く人類の本史への短い過度期なのである。
今、その過度期を終わろうとしている。
人類は、太古の生産手段の共有社会と戦争のない社会を高次復活させる段階にきている。
地球規模でおきる社会主義と地球政府を実現する人民革命が歴史の日程にのぼりつつある。
Ninety nine Percent Unite!One World One Struggle!の叫びが広がり始めた。
マルクスが『資本論』で資本主義の未来に見た社会主義社会は、生産手段の共有社会であった。
生産手段の公有社会は、資本主義を超える社会主義ではなかった。
生産手段を失った働くものが、再び生産手段を所有するようになると論じたのがマルクスであった。
21世紀の社会主義革命は、マルクスの本来の思想を復活したものになる。
文書218『共有』についての天の解説
こんにちは
私は天である。
ミツキの手を借りて書いている。
天と神々のプロジェクトチームが作成した文書を解説している。
今回は、218『共有』である。
http://auwa.sakura.ne.jp/forum/jdocuments/n81-218.html
共有と公有の違いを理解することが大切である。
天の神々がマルクスにおろした社会主義は共有であって公有ではなかった。
マルクスは公有に反対していた。
20世紀の社会主義は生産手段の公有をもって社会主義と宣言した。
それはマルクスが論じた社会主義ではなく社会を代表する少数者が決定権をもつ階級社会であった。
生産手段を関係者が共有することは経済決定権を社会を代表する少数者がもつのではなく、すべての人の合意で経済を進めていくことを意味する。
生産手段の共有は徹底した民主主義社会を生み出すのである。
生産手段の共有社会は、協力して働き、分かち合って生きるという摂理にそって生きることのできる労働現場をもたらす。
資本主義は、成果を独り占めするように働くものを競わせている摂理に反する人間関係を労働現場に強いている。
資本主義からの解放は、摂理にそって働くことのできる生産手段の共有であって、社会を代表する少数者が決定権をもつ生産手段の公有ではない。
生産手段を共有するときは、下から合意を積み上げる計画経済となるが、生産手段を公有するならば、上から決定をおろす計画経済になるのである。
生産手段の公有は資本主義を超えることにはならないのである。
生産手段の共有社会を実現してはじめて資本主義を超えた社会となるのである。
218『共有』から紹介する。
マルクスが『資本論』で資本主義の未来に見た社会主義社会は、生産手段の共有社会であった。
生産手段の公有社会は、資本主義を超える社会主義ではなかった。
生産手段を失った働くものが、再び生産手段を所有するようになると論じたのがマルクスであった。
21世紀の社会主義革命は、マルクスの本来の思想を復活したものになる。
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