198『真理論』
2013年1月22日14時30分~16時00分
顕在の事実をどれだけ正確に認識に組み込んだかの視点をもつ唯物論哲学の真理論は適切である。
この理論においては絶対的真理というドグマは出てこず、事実についてより深い認識に至る相対的真理の深化のプロセスがあるのみである。
先験的な絶対的真理を設定してそこから真理を受け取る真理論はいつわりである。
絶対的真理と称して人間はネガティブ神から嘘を教えられ、真理探求として嘘の道を進む。浪費であるばかりか、そのプロセスで魂を劣化させているのである。
マルクス主義が国定の教義とされてしまった社会主義国家においてマルクス主義はマルクス主義の真理論から離れてしまった。
マルクス主義の一定の段階の到達点が絶対的真理にされてしまったのである。
名前がマルクス主義であろうが認識の一定の到達点を絶対的真理と設定した背後にはネガティブ神の操作がある。
顕在の事実をどれだけ正確に認識に写し取ったかを真理と考え、相対的真理の深まりを見てゆく唯物論的真理論は、神の立場からみても真実である。
顕在と非顕在は対立物の統一である。
宇宙は、顕在と非顕在の対立物の統一として始まった。
顕在とは時空間である。ヒッグズ粒子の充満の流れである。
非顕在とは思念体である。左渦巻き「私」意識の材料のエクトプラズムである。
左渦巻き「私」意識は思念体からなり、思念は、属性はもつけれども、非顕在である。
人間だけが左渦巻き「私」意識をもつと考えるのは事実ではない。
人間は生体マトリクスにおいて左渦巻き「私」意識がその思念体を精妙エネルギーに重ねているけれども、人間以外にも数多くの左渦巻き「私」意識実体の思念体が実在するのである。
その中には人間にとって良質なものから悪質なものまである。
唯物論的真理論から離れ、観念論を受け入れることは人間にとって危険である。
なぜなら、ネガティブ神がその思念体を人間の生体マトリクスに重ねてきて人間の感覚や意識を自由に操作するからである。
人間がこの事実を知り、唯物論真理論の立場に立ってネガティブ神の介入を受けないようにするしか、人間は苦悩から解放されない。
神々にとっても顕在の事実を顕在の中での意識活動によってどれだけ思念体に正確に反映したかの相対的真理の深まりのプロセスが存在するだけなのである。
宇宙は、顕在時空と非顕在の思念体の対立物の統一としてはじまった。
神は、宇宙の非顕在の思念体である左渦巻き「私」意識実体である。
顕在時空の根底である精妙エネルギーに思念体を重ねて存在の中に特定点を確保し、意識活動を展開する。
その意識活動の体験で神の認識は深まるのである。
人間のインスピレーションの中に人類に大きく貢献した発明や発見がある。
それらは人間の思念体が先験的に知っていたとか絶対知の存在が教えたというものではない。
肯定的なインスピレーションは神が唯物論的プロセスを経て得た真理を人間に教えたものである。
この宇宙に一なる絶対知があり、そこから絶対的真理が流れるという客観的観念論は真理ではない。
また人間の主観的知覚を重視する主観的観念論は、ネガティブ神に自由に操作させる場を与えるゆえに人間の魂を劣化させ、苦悩に導く理論である。
唯物論的認識論が、魂の救いと永遠の生命に導く真実である。
文書198『真理論』についての天の解説
こんにちは
ミツキの手を借りて書いている。
天と神々のプロジェクトチームが作成した文書を解説している。
今回は、198『真理論』である。
http://auwa.sakura.ne.jp/forum/jdocuments/n41-198.html
真理とは、時空に確定した特定点にもとづく思念体構造のことである。
時空に確定した特定点をもたない思念体構造は真理ではないのである。
時空に確定した特定点の数を増やし、思念体構造を精緻化していく生き方が真理探求の生き方である。
思念体構造の精緻化と高次化は神の思念体の質に近づく道である。
真理追求の生き方は神の思念体に近づき、神の思念体の質を獲得し、永遠の生命に至る道である。
観念論は時空に確定した特定点を重視しない。
観念論に導かれる人生は真理から遠ざかる生き方である。
真理から遠ざかる生き方をした人生のあとには後悔と苦悩が待っている。
198『真理論』から紹介する。
神々にとっても顕在の事実を顕在の中での意識活動によってどれだけ思念体に正確に反映したかの相対的真理の深まりのプロセスが存在するだけなのである。
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