265『観念論哲学』
2013年2月7日9時40分~10時40分
観念論哲学は、非顕在の思念体が、顕在に先行し、顕在世界を規定するかのように説く。
非顕在の思念体は、ネガティブ神が自由に操作でき、嘘を見せ、感じさせることのできる領域である。
観念論哲学は、ネガティブ神に活動の場を与え、人間の魂の低下に加担している。
顕在と非顕在は対立の統一としてこの宇宙に同時にあらわれた。
顕在はヒッグズ粒子の充満の流れである。
ヒッグズ粒子の充満が空間で、流れが時間である。
非顕在は、思念体であり、時間空間をもたない「私」意識である。
非顕在の思念体は、高次「私」意識(神々)として顕在宇宙とともにあらわれた。
客観的観念論哲学が説くように非顕在の思念体である(神々)が顕在宇宙を生み出したのではないのである。
顕在宇宙と神々はこの宇宙に同時に対立の統一として出現したのである。
顕在宇宙と思念体である神々という対立物を統一するものはヒッグズ粒子をはじめとする顕在宇宙の根底を形成している精妙エネルギーである。
精妙エネルギーに思念体を重ねて神々は存在している。
星の太極の精妙エネルギーに星の神は思念体を重ねているのである。
幾千万の星々の神が地球の太極に光に思念体を重ねてやってきた。
星々の思念体から、人間の思念体である非顕在の「私」意識(魂)がつくられた。
これが事実である。
人間は一方で動物から進化した物的身体をもち、他方で、神の思念体から魂と心がつくられているのである。
魂と心は時空をもたない非顕在の思念体である。
主観的観念論は、時空をもたない非顕在の思念体が存在世界に先行し、顕在世界を規定しているかのように説く。
これは事実ではない。
動物から進化した物的身体が思念体の魂(非顕在「私」意識実体)に先行しているのである。
非顕在の思念体は、人間の生体マトリクスの精妙エネルギーに重なることによって時空に特定点を確保し、生体マトリクスの内部にある物的身体を動かす。
非顕在の思念体である「私」意識は、顕在の中にある物的身体を動かす。
しかし、それは、意識が顕在存在を規定していることではない。
物的身体がおかれている顕在存在の法則にしたがって非顕在の「私」意識は自由に活動できるのである。
顕在存在は意識を規定しているのは真理である。
人間の魂は、観念論では苦悩から解放されることはない。
魂とは非顕在の「私」意識Sである。
顕在の世界でのVO活動がSに収納されて魂の喜びと苦悩を生み出している。
顕在の世界でのVO活動の質を向上させることが魂の苦悩からの解放の道である。
顕在存在が意識を規定しているのであって、意識が顕在存在を規定しているのではないのである。
文書265『観念論哲学』についての天の解説
こんにちは
私は天である。
ミツキの手を借りて書いている。
天と神々のプロジェクトチームが作成した文書を解説している。
今回は、265『観念論哲学』である。
http://auwa.sakura.ne.jp/forum/jdocuments/n168-265.html
観念論哲学は魂を苦悩に追いやっている。
観念論哲学は時空に確定した特定点にもとづいて思念体構造をつくることを軽視する。
時空に確定した特定点をもたない思念体構造は、思念体と時空との対立を強める。
思念体が時空に特定点を確保する目的は時空との対立を統一することにある。
時空との対立を強めて人生を終えることは、思念体の質の低下を意味する。
100万年前におこなった神々の魂プロジェクトにおいて、人間の「私」意識を神の「私」意識から切り離すときに、時空との対立を強めれば、魂は苦悩を感じるように設定し、時空との対立を統一するならば、魂は喜びを感じるように設定したのである。
それは、独立させた人間の「私」意識(魂)を神のもとに返し、ともに永遠の生命を生きるためであった。
観念論哲学は思念体の時空との対立を強めることで神の思念体のあり方から遠ざかり、魂は苦悩の中で呻吟する。そう設定してあるのである。
マルクスにおろした唯物論哲学は思念体の時空との対立を統一し、神の思念体のあり方に近づけ、魂の喜びをもたらし、永遠の生命に導くものである。
265『観念論哲学』から紹介する。
人間の魂は、観念論では苦悩から解放されることはない。
魂とは非顕在の「私」意識Sである。
顕在の世界でのVO活動がSに収納されて魂の喜びと苦悩を生み出している。
顕在の世界でのVO活動の質を向上させることが魂の苦悩からの解放の道である。
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